三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十一年 1141年
四月
- 参知政事孫近が罷免され資政殿学士・提挙臨安府洞霄宮となった。孫近はかつて張俊を都督に招くよう建議したが、秦檜の怒りを買い御史中丞何鋳に罪を弾劾させられた。韓世忠・張俊・岳飛が朝廷に参内した。王湛が節制陝西諸路軍馬兼措置河東忠義参議官に任じられた。王湛は商州で邵隆に取り入り、河南に関する策を横取りして秦檜に取り入り出世した経緯が語られる。
- 二十四日壬辰、韓世忠・張俊が枢密使に、岳飛が枢密副使に任じられた。范同が秦檜に「三大帥が長く重兵を握るのは制御しにくい」と献策し、三帥を枢密使副に任じて兵権を解いた。韓世忠・岳飛は秦檜に警戒され、張俊のみは自然体を装って深く疑われなかった。
- 二十七日乙未、淮東西・湖北・京西の宣撫司の諸軍が廃止され、「御前諸軍」として統制がこれを統率することとなった。
- 五月七日甲辰、諸軍に対し兵権の再編を諭す詔が出された。
- 二十三日庚申、楊沂中が検校少保・開府儀同三司・殿前副都指揮使に加えられた。
- 二十七日甲子、王徳が清遠軍節度使に加えられた。柘皋の功による。田師中も定江軍節度使に加えられた。田師中は張俊の子の未亡人を娶り、張俊に阿諛して重用された経緯が語られ、世人は柘皋の功を王徳のものとし田師中には懐疑的だったという。
- 二十九日丙寅、汪伯彦が検校少傅・開府儀同三司の位のまま薨じた。かつて宰相として敗戦の責を負い流されたが、秦檜の引き立てで復権を重ねた経歴が語られる。劉光世が参内した。張俊・岳飛が淮東へ赴き韓世忠の軍を慰撫した。劉錡は淮北宣撫判官を罷免された。張俊・楊沂中がその怯懦を訴えたためだが、岳飛は劉錡の留任を求めた。
六月
- 十六日癸未、建康府留守葉夢得が観文殿学士に加えられた。和州の役で渡江を渋る張俊を促した功による。張俊・岳飛が楚州に至った際の逸話(王勝の甲軍、韓世忠の兵力の実態など)、飛が泗州知事劉綱と交わした地名当てのやり取りなどが記される。李寳が登州・文登県を焼いて帰還した。
- 十七日甲申、李興が白馬山から鄂州へ帰還した。金の圧力で撤退したもので、朝廷は糧餉の続かないことを理由に班師を命じた。李興軍は途中金軍を撃破して鄂州に至った。海州の民が鎮江府へ移された。金の再侵攻を恐れた張俊の判断による。三京等路招撫処置使劉光世が万寿観使に罷免され、以後温州に居住した。
- 七月、張俊に沿江視師を命じる詔が出た。岳飛は張俊と意見が合わず、以後兵権を離れることを願い出た。
- 八月二日戊辰、張中孚・張中彦がそれぞれ喪に服したまま起復して地方軍職に任じられた。
- 八日甲戌、岳飛が枢密副使を罷免され少保・武勝定国軍節度使・醴泉観使となった。金の元帥(烏珠)からの書状(第一書)が届き、朝廷が返書を送った。宋の敗盟に対する非難と、和議への応答を求める内容であった。
- 九日、鶚州軍統制張憲が反乱を企てたとされ、都統制王貴に捕らえられて枢密行府に送られた。張憲は岳飛の子・岳雲の書状を受け取り、岳飛の復権を求める軍中の動きに関与したとされる。張俊が視師のため鎮江にいる中で取り調べが行われた。
- 九月九日甲辰、呉璘が秦州を攻略した。姚仲との軍議で「原の上で戦えば勝つ」との策を採り、夜襲によって金軍を大敗させた戦いの詳細が語られる。
- 三十日乙丑、邵隆が虢州で偽知州賈潭を破り、虢州を回復した。
- 十月、金が泗州・楚州を陥落させた。張俊は敵の意図を見抜き交戦を避けさせ、金は自ら退いた。
- 十日乙亥、金の元帥からの第二書が届き、朝廷が返書した。使者の交換や使節の格を巡るやり取りが続く。
- 十三日戊寅、張憲が樞密行府へ護送され、岳飛も大理寺に送られて謀反の取り調べを受けることとなった。秦檜が岳飛を反状ありとして取り調べを求め、獄に下された。宗正司の士㒟が救済を図ったが露見し処断された。
- 十一月七日辛丑、金の元帥烏珠からの第三書が届いた。淮南唐鄧二州の割譲や歳貢などの和議条件が示された。何鋳が端明殿学士・簽書樞密院事として金への使者となった。
- 二十八日壬戌、韓世忠が太傅・横海武寧安化軍節度使・醴泉観使となった。臣僚が韓世忠の罪をたびたび言上したが、実は秦檜の陰謀であったとされる。世忠は以後門を閉ざし兵事に一切関わらなかった。張俊も福建路安撫大使を罷免された。
十二月
- 淮北宣撫使楊沂中が行在に戻った。呼延通が淮陰県の運河に身を投げて死んだ逸話が記される。韓世忠の酒宴での不用心を諫めようとした呼延通が誤解から罰せられ、恨みのあまり入水したという。
- 金軍が再び淮南諸州県に迫り、朝廷は淮南州県の権宜退保を許した。宿州で王滋・蕭保が金軍に敗れ、金は城を屠った。
- 二十一日壬辰、永興軍路経略安撫使王俊が盩厔県南で金の鶻眼郎君を破った。
- 二十三日甲午、楊政配下の邵俊が隴州汧陽県牧羊鎮で金軍を破り、河東統制王忠植が石州を攻略した。
- 楊沂中・劉錡が鎮江府に退軍した。
- 李興が白馬山に治所を移した。李成が河南府に大軍を送ってきたため、李興は永寧・白馬山へ後退したが、防備を固めて持ちこたえ、最終的に李成軍を撃退した経緯が詳しく語られる(水源が涸れた際、李興が香を焚いて祈ると雪が降り水が湧いたという奇瑞の逸話も付される)。
- 十二月、淮北宣撫使楊沂中が行在に戻った。呼延通が淮陰県の運河に身を投げて死んだ逸話が記される。韓世忠の酒宴での不用心を諫めようとした呼延通が誤解から罰せられ、恨みのあまり入水したという。
- 金軍が再び淮南諸州県に迫り、朝廷は淮南州県の権宜退保を許した。宿州で王滋・蕭保が金軍に敗れ、金は城を屠った。
- 二十一日壬辰、永興軍路経略安撫使王俊が盩厔県南で金の鶻眼郎君を破った。
- 二十三日甲午、楊政配下の邵俊が隴州汧陽県牧羊鎮で金軍を破り、河東統制王忠植が石州を攻略した。
- 楊沂中・劉錡が鎮江府に退軍した。
- 李興が白馬山に治所を移した。李成が河南府に大軍を送ってきたため、李興は永寧・白馬山へ後退したが、防備を固めて持ちこたえ、最終的に李成軍を撃退した経緯が詳しく語られる(水源が涸れた際、李興が香を焚いて祈ると雪が降り水が湧いたという奇瑞の逸話も付される)。