三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十一年 正月 1141年
正月
- 張俊が朝廷に参内した。
- 十五日乙卯、金が寿春府を攻め、これを陥落させた。淮西宣撫使張俊は流星馬(急使)を配して警戒に当たらせたが、警報が飛び交い淮甸の民は動揺した。金の哲爾格貝勒が歩騎五万で商州を攻め、知州邵隆は倉庫を焼き城を放棄して退いた。
- 二十九日己巳、邵隆が芍薬陂・鴻門で金軍を破り、阿穆爾貝勒を捕らえて商州を奪還した。邵隆は撤退後も間道から出て民を招き寄せ、伏兵の策で金の精鋭五千を大破するなど活躍し、右武大夫・栄州防禦使に加えられた。
二月
- 三日壬申、金が廬州を陥落させた。劉錡は入城後、防備が不十分と見て「守るに足らず」と判断し、統制関師古とともに大雨の中撤退した。金は廬州で大いに殺戮を行った。
- 六日己亥、金が含山県を攻めた。金の斥候騎兵が和州の様子を探ったが宋軍を見出せず退いた。韓世忠・岳飛が淮西の援軍に向かった。
- 十日己卯、張俊配下の王徳が渡江して和州に先入りした。安撫使葉夢得の進言で張俊は諸軍に進発を命じ、王徳が先鋒として和州を奪還した。高宗は王徳の功を親書で称賛した。
- 十八日丁亥、張俊・楊沂中・劉錡が柘皋鎮で金軍と戦い大破した。王徳が敵の右翼の勁騎を撃破する活躍を見せ、金は拐子馬(左右両翼の騎兵)を投入したが宋軍に敗れ紫金山へ退いた。劉錡は王徳の武勇に感嘆し、兄事を申し出た。張俊の愛妾張穠が家事より報国を勧めた書簡が高宗を喜ばせた逸話も付される。
- 十九日戊子、李顕忠配下の統制崔臯が舒城県で金軍を破った。
- 二十日己丑、張俊が廬州を奪還した。金は紫金山に退き、張俊は楊沂中・劉錡とともに廬州に駐屯した。高宗は親書で王徳らの労をねぎらい、内侍を遣わして戦地を視察させた。
三月
- 四日癸卯、金が濠州を攻めた。知州王進は籠城を主張したが、かつて偽知州であった趙栄が退避を勧告する場面もあった。王進は聴かず、金軍は東門外に布陣した。
- 八日丁未、濠州兵馬鈐轄邵免が金に投降し、金が濠州を陥落させた。知軍州事王進は捕らえられ、金軍は大いに焼き討ちと略奪を行った。攻城戦の様子として、宋軍の砲の不発や、王進が民兵の活用を拒んだこと、東南の敵楼が火矢で焼け落ちて陥落に至った経緯が記される。城内は徹底的に破壊され、廨舎・寺観・民家がことごとく焼失した。
- 九日戊申、楊沂中が濠州奪還を試みたが失敗した。城内は既に空になっており、伏兵に遭って敗走、周梁橋まで追撃を受けた。張俊が救援に出て金軍をようやく退けた。
- 韓世忠が舟師で赤龍洲に至り濠州救援を図ったが、金軍の計略で誘導され、辛くも脱した。
- 張俊・楊沂中・韓世忠・劉錡がそれぞれ班師した。糧食の輸送を巡る混乱(提挙一行事務辛永宗の怠慢など)も語られる。劉錡は朝廷の指揮を待って渡江するなど、張俊・楊沂中との間に軋轢があったとされる。
- 「淮西従軍記」を引き、紹興九年の河南返還から十年の敗盟、劉錡の順昌大捷、韓世忠・張俊・岳飛による海州・亳州・宿州・蔡州・陳州の奪還と、その後の相次ぐ撤退までの経過が総括される。李寳が金の捕虜七十余人を得て韓世忠のもとへ帰参した逸話も付される。
- 劉錡が朝廷に参内した。