三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十年 1140年
閏六月
- 二十日壬辰、張憲が潁昌府を攻略した。趙鼎は朝議大夫に落とされ南京分司・邵武軍居住を命じられた。趙鼎は金の敗盟を受け上書して時政を論じたが、秦檜はその再登用を恐れ、御史中丞王次翁に罪を誣告させて処分させた。かつて趙鼎が宰相を退き紹興府に赴任した際、秦檜が餞別の宴を催しながら見送らなかった経緯もあり、両者の確執は根深かった。劉光世は太平州へ帰還した。
- 二十四日丙申、張憲が陳州で金軍と戦い攻略した。岳飛は統制趙秉淵を陳州の知軍州事とした。
- 二十五日丁酉、岳飛配下の楊成が鄭州で金軍を破り攻略した。韓世忠配下の都統制王勝が統制王権・王升らを率いて海州を攻略し、偽知州王山を捕らえた。城攻めの様子として、夜襲による城門突破、住民への略奪禁止と食糧の受納にとどめた軍紀の厳正さが詳しく語られる。
- 二十六日戊戌、張俊が亳州を攻略した。金は酈瓊を亳州知事としていたが、劉光世・張俊がそれぞれ使者を送って投降を促した。使者の一人・趙立は捕らえられ投獄されたが、酈瓊は三路都統に「夜襲が迫っている」と告げて退却させ、自らも逃走した。張俊軍が入城すると、百姓は酒食で迎えた。
- 前知濠州楊珪が処刑された経緯も記される。楊珪は偽斉に仕えて官を得た後、宋に帰順していたが、金への内通が発覚し逃亡中に処刑された。
- 趙鼎はさらに清遠軍節度副使・潮州安置に落とされた。秦檜が王次翁に命じ、趙鼎が金の敗盟を知りながら怨言を発したとする罪を作らせたためである。
- 七月二日癸卯、岳飛配下の張応・韓清が西京を攻略した。
- 六日丁未、李興が河南府知事兼本路安撫司公事に任じられ、右武大夫・忠州団練使に転じた。李興は金の侵攻を受けて伊陽など八県を回復し、河清県で金軍を破って太祖の御容を奪還するなど功があった。
- 八日己酉、岳飛が郾城県で烏珠の軍を破った。楊再興は単騎で敵陣に突入し烏珠を捕らえようとしたが果たせず、数百人を斬って重傷を負って帰還した。
- 十日辛亥、岳飛が郾城県で金軍を破り、金将鄂爾多貝勒を討った。
- 十四日乙卯、岳飛配下の王貴・姚政が潁昌府で烏珠を破ったが、楊再興・王蘭・髙林が戦死した。楊再興・王蘭は五百騎で敵陣に突入し数千人を討ち取ったが討ち死にした。楊再興の遺骸を火葬すると、鏃が大量に出てきたという。
- 十九日、順昌府の官吏軍民に対し、防戦の労をねぎらう詔が下され、罪人の減刑や租税の減免、被災者への救済などが指示された。
- 二十一日壬戌、岳飛が郾城から軍を返した。将士は撤退を惜しみ、旗も乱れたまま南を向いたといい、岳飛はこれを見て天を仰ぎ嘆息したという。
- 八月、楊沂中が泗州に駐軍した。
- 四日乙亥、韓世忠が淮陽軍を包囲した。成閔・許世安ら将兵の奮戦が語られる。
- 岳飛軍が金軍の攻勢に苦しんだ際、劉錡が牽制のため出兵して太康に至り、金軍を退かせた。その後、劉錡は殿帥楊存忠の下で判官となり、泗州方面で戦うも敗れて渡江、鎮江に駐屯した。
淮西の役をめぐる従軍者の記録(紹興十一年正月~二月)
- 本巻の末尾に、著者が実見に基づいて記したとする淮西方面の一連の戦いの記録が収められている(時期としては翌紹興十一年正月から二月に及ぶが、紹興十年の巻に付記される)。
- 金が両河の兵数十万を徴発して南下を図ったのに対し、朝廷は劉錡を廬州守備に命じた。寿春府では守臣孫暉・統制雷仲が城を捨てて逃れ、金が寿春に入って渡淮した。
- 劉錡は廬州に至るも守備の乏しさを見て一旦撤退し、追撃してきた金の軽騎を西山口・東関で迎え撃って持ちこたえた。その後、張俊・楊存中(楊沂中)の軍と合流し、三軍で柘皋において金軍を撃破、金は廬州へ退いた後、烏珠は北へ兵を引いた。
- しかし三軍の足並みは揃わず、指揮系統も張俊・楊存中に偏っていたため、劉錡は作戦決定に関与できないことが多かった。濠州が金の急襲を受けて陥落し、太守王進が殺され州民が捕らえられる事態となった。
- 張俊・楊存中は濠州奪還のため軍を進めたが、劉錡は「利あって制のない軍は御しやすいが、鋭くとも制のない軍は御し難い」と慎重論を説いた。楊存中が先行して濠州近くまで進んだところ、金の伏兵に遭って大敗し、諸軍は総崩れとなって撤退した。
- 最終的に楊存中・張俊は先に渡江し、劉錡は殿(しんがり)を務めて隊列を保ったまま徐々に退いた。劉錡は二月十八日の勅命を得て当塗に帰還した。著者は「淮西の事の大略はこの通りであり、士大夫の伝聞には食い違いも多いが、自分は終始この戦役に従軍していたので、実情に基づいて記した」と結んでいる。