三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十年 1140年
汪若海の剳子(順昌の戦況分析)
- 通判汪若海が朝廷に提出した剳子の要旨。金は藍公佐の使節往来をきっかけに和議を翻し、劉錡が東京副留守として順昌に至った直後、烏珠率いる金軍が国を挙げて三方面から侵攻を開始した経緯を述べる。
- 順昌における劉錡の緒戦の勝利、金の三路都統軍を夜襲で撃破した戦い、烏珠自身が大軍で来襲した際の攻防戦を詳しく記す。烏珠は連敗し気疾(黄疸・下血)を発症、諸将に厳しい杖罰を科すなど軍中の乱れが伝えられた。
- 汪若海は、劉錡の順昌籠城戦の勝因を分析し、金の兵力を各方面から包囲するのではなく、淮西を固めつつ京西・淮東・陝西の兵で不意を突く戦略(「四難をもって一易を攻める」策)を提言。淮西軍が早々に撤兵したことを憂え、朝廷に順昌戦の実情を正しく伝えるべく、実地に赴いて確かめた見聞を上申したと結ぶ。
六月
- 十三日丙辰、岳飛配下の統制牛臯が京西で金軍を破った。
- 十六日己未、永興軍路経略使郭浩配下の統制趙建元が醴州で金軍を攻め、これを破って醴州を回復した。王徳が順昌府に至った(劉錡籠城中に朝廷が援軍を命じたが、王徳到着の頃には金軍はすでに退いていた)。劉光世は和州に駐軍した。
- 二十一日甲子、呉璘配下の姚仲・尚起・鄭師正が郭浩の援軍として鳳翔府で金の薩里罕と戦い大破した。
- 二十二日乙丑、司農少卿李若虚が岳飛と軍議した。朝廷は金の敗盟を受け李若虚を岳飛の鄂州軍へ、周聿を建康府軍へ、周矼を楚州軍へそれぞれ派遣し軍議させたが、李若虚が鄂州に着いた時には岳飛はすでに進発していた。李若虚は撤退を勧めたが岳飛は従わず、李若虚は「矯詔の罪は自分が負う」として進軍を許した。
- 二十三日丙寅、岳飛配下の統領孫顕が陳州・蔡州の境で金の排蛮千戸を大破した。
- 二十六日己巳、劉錡が武泰軍節度使・侍衛軍馬都虞候・沿淮制置使に任じられた。韓世忠配下の統制王勝が淮陽軍で金の周太師・呼拉貝勒を破った。
- 閏六月一日癸酉朔、張俊配下の統制宋超が永城県朱家村で金軍を破った。
- 五日丁丑、涇原路経略使田晟が涇州で金軍と戦い、怯懦の態度を見せて撤退した。郭浩・楊政・呉璘がそれぞれ節度使に昇進した。
- 十三日乙酉、陝西を回復した地への赦を諭す詔が発せられた。金軍の侵攻で被害を受けた陝右の民を慰撫し、将士の労をねぎらう内容。
王之道の上皇帝書
- 閏六月十八日庚寅、王之道が皇帝に上書した。兵法の「廟算」の重要性を説き、義兵・応兵は勝ち、貪兵・驕兵は滅びるとする理を挙げ、宋の対金戦は義・応の兵であり金は貪・驕の兵であるとして、宋に道・徳・仁・義・計の「五勝」があると論じる。
- 一方で、諸軍の指揮系統が統一されず、賞罰が徹底されず、諸将が互いに功を争って協調しないことを挙げ、「未だ必勝と言えない三つの理由」として指摘。歴史上の唐・粛宗の九節度使の失敗や、司馬穰苴・韓信らの信賞必罰の故事、陸贄の四節度不和の奏を引いて、統帥を立て信賞必罰を徹底すべきことを説く。
- 結びに、かつて紹興八年・九年にも同様の意見を魏矼・曽統に寄せたことを述べ、現在の情勢が自らの意見と符合してきたとして、改めて上聞を求めた。