三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十年 六月十一日甲寅 1140年

順昌の戦い(楊汝翼「順昌戰勝破敵録」)

  • 楊汝翼が記した「順昌戦勝破敵録」の要旨を掲げる。紹興十年三月、劉錡は東京副留守として本部軍馬を率いて赴任の途上、順昌府に至った。五月十五日、順昌府に到着し知府陳規・通判汪若海らに迎えられ、羅漢院に本営を置いた。
  • 城内の陣立てを整え、諸軍を左右前後中軍に分けて配置した。十八日、敵騎が陳州に迫ったとの報が入り、城内は動揺したが、劉錡は籠城を決断。通判汪若海は行在への出立を口実に離脱した。
  • 十九日、諸将との評議で撤退論も出たが、劉錡は忠義を説いて籠城を主張し、諸将も同意した。城壁の補修や偽斉軍の廃車輪を利用した城壁補強、住民の門戸を集めての防備などを急ぎ整えた。
  • 亳州からの投降者の情報や、金軍が陳州・蔡州・項城・泰和へと迫る報が相次いだが、劉錡は動じず防備を固めた。住民は城内へ避難し、太守以下の官吏の家族はかえって城外へ逃れる中、劉錡は昼夜城上で指揮を執った。
  • 二十五日、金の遊撃騎兵が城下に現れ、伏兵で千戸を生け捕りにするなど緒戦で勝利。二十六日には夜襲・翌朝の交戦でも金軍に大きな損害を与え、鹵獲品を得た。
  • 六月一日以降、金軍は増援を待ちつつ包囲を続けたが、宋軍は夜襲を重ねて戦果を挙げた。六日、劉錡は退路の舟をすべて沈め、決死の覚悟を諸将に誓わせた。
  • 七日、金の四太子(烏珠)自ら大軍を率いて到着し、包囲を完成させた。攻城戦具や食糧が続々と運ばれ、金軍は「城壁は靴先で蹴り倒せる」と豪語し、婦女・財貨の分捕りと成人男子の殺害を誓う残虐な号令を発した。
  • 九日、烏珠は龍虎大王らと合流し十余万の兵で城を包囲。宋軍は東門から出撃して激戦となり、金の精鋭「鉄浮屠」「拐子馬」も大きな損害を受けた。西風による砂塵の中でも激戦は続き、双方に多数の死傷者が出た。
  • 以後数日、金軍は攻城具を並べて威嚇するも大雨や潁河の増水により攻勢が停滞し、十三・十四日には金軍が包囲を解いて撤退した。四太子は敗戦の責任を三路都統・韓将軍・翟将軍らに問い、杖罰を科した。
  • 撤退の背景には、王徳率いる宋の援軍の接近や、劉錡の巧みな籠城指揮があったとされる。
  • 戦後、順昌府知府陳規は住民への配慮や防備の措置に尽力し、劉錡は将士への公正な賞罰を徹底し、略奪を固く禁じて民心を得た。戦死者は手厚く葬られ、生け捕りにした金人・契丹人らは朝廷へ献上された。
  • 劉錡の兵力はもとより二万に満たず、実際に出撃した兵は五千程度であったが、十万を超える金の大軍を退けたとし、著者はこれを韓愈が裴度の淮西平定を称えた故事に比している。
  • 著者(楊汝翼)は自らこの戦役に随従して見聞したことを記した旨を記し、詳しい功業の顕彰は後の大手筆に譲るとして結んでいる。