三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十年 1140年
三月
- 韓世忠・張俊・岳飛が朝廷に参内した。
- 永興軍路経略安撫使の張中孚とその弟・張中彦が、陝西より行在に参内した。両者を詠んだ郭奕の詩が世に伝わった。
- 礼部侍郎蘇符が金国への使者を務め、京師(開封)に至って帰還した。
四月
- 徽猷閣直学士で環慶等路経略使の趙賔が参内した。
- 十七日辛酉、張中孚は検校少傅・醴泉観使、張中彦は龍神衛四廂都指揮使・佑神観提挙、趙彬は兵部侍郎・鄜延路経略安撫使、郭浩は永興軍路経略安撫使、楊政は興元府知事、田晟は涇原路経略安撫使・金州知事、范綜は環慶路経略安撫使にそれぞれ任じられた。王彦(潞州の人、才知はあるが奢りと佞智で評判が悪かった)が鄜延路経略安撫使司公事を主管した。
- 劉綱(劉位の子)が応天府路兵馬副総兵に任じられた。かつて南京総管に赴く途上、泗州で司法参軍孫守信と交わした問答(守信は劉綱の郷里である泗州を南京の斥候拠点にできると助言)が語り継がれた。劉綱は後に宿州知事となったが、金の敗盟により招信へ戻った。
五月
- 李綱に少師が贈られ「忠定」の諡が与えられた。諡議の要旨は次の通り。李綱は起居郎として都城の火災を厳しく論じたために奸党とされたが、金軍侵入時には強硬な抗戦論を唱えて都を防衛させ、河北・河東の堅守を進言するなど功績があった。しかし僅か七十五日で罷免され、以後不遇のまま世を去った。当時から毀誉相半ばしたが、死後五十年を経てもなお定論は定まらないとし、孔子が管仲を評した故事に比してその功績を惜しんだ。
- 庚辰、敷文閣官属の設置を命じる詔が出された。徽宗の文治・学芸を顕彰するため、学士・直学士・待制・直閣の職を新設するというもの。
- 金が盟約を破棄した。烏珠(兀朮)は李成・孔彦舟・酈瓊・趙栄らを率いて劉豫の偽斉政権を再興しようとし、金は河南を宋に返還したことを悔いて再侵攻を決定、烏珠を大将として渡河させた。
- 先立って兵部侍郎張燾は永安の陵墓参拝からの帰途、金の不穏な動きを報告して防備を進言したが、宰相秦檜はこれを取り上げず張燾を成都知事に転任させた。張燾は陝西・関中経由で赴任する道中、金の敗盟の兆候を確認し、宣撫使胡世将に和尚原など蜀口防備の急務を進言。朝廷はこれを容れて陝右の兵を蜀口に戻し、緊急費用も許可した結果、蜀の地は守られた。
- 十一日甲申、金軍が京師を包囲し、留守孟庾が金に降伏した。統制王滋は孟庾を守って脱出させようとしたが、孟庾は城を明け渡し、世人はこれを恥じた。
- 偽斉の劉豫のもとで屯田策を進言した郁臻という吏員のことも語られる。劉豫は科挙出身者を軽んじ実務家を重用したが、豫の滅亡後、郁臻は秦檜に冷遇された。金の河南再占領後は転運判官に登用された。
- 西京留守李利用が城を捨てて逃走した。河南府兵馬鈐轄李興は金軍侵攻の情報を得て忠義の民を集め防備を固めようとしたが、総管孫暉の妨害に遭った。金軍侵攻の報せで李利用は逃亡、李興は天津橋で金の鉄騎を迎撃して撃退したが重傷を負った。金は西京を占領し、李成を偽の河南尹に立てた。
- 十三日丙戌、金軍が拱州を陥落させた。
- 十四日丁亥、金軍が応天府(南京)を包囲した。留守路允廸は金将完顔裒(かんがん)に会見を強いられ、最終的に捕らえられて烏珠のもとへ送られた。世人は允廸が捕囚中に七日間絶食して死んだと聞き、応天府の城中で死ななかったことを惜しんだ。
- 十八日辛卯、李寳が渤海廟で金軍を破った。無頼の出身であった李寳が忠義を志し、金の支配下から脱して岳飛の軍に加わった経緯、その後紹興十年の敗盟に際し夜襲で渤海廟の金軍陣地を撃破した戦功が詳述される。
- 二十日癸巳、亳州知事王彦充が金に降伏した。金の敗盟の報が行在に届いた。秦檜の親戚である鄭億年は偽斉から帰還して和議の永続を保証していたが、敗盟によって立場が悪化。工部尚書廖剛が都堂で鄭億年を面詰したため、秦檜の怒りを買って罷免された。
- 二十五日戊戌、諸路の大将に忠節を尽くすよう命じる詔が出された。金軍の敗盟を非難し将士を激励する高宗の詔書、烏珠を討った者への破格の恩賞規定、中原の忠義の士を激励し功に応じた任用を約束する詔がそれぞれ発せられた。
- 給事中兼侍読馮檝が罷免された。馮檝は秦檜に張浚の登用を進言したが高宗に拒絶され失脚。かつて僧圜浄との交遊を疑われた経緯もあった。
- 劉綱が宿州知事に任じられた。
- 劉錡が順昌府に駐屯し、知府陳規らと協議して籠城策を採った。
- 二十六日己亥、劉錡が順昌府で金の龍虎大王・韓将軍・翟将軍の軍を破った。沈晦が朝廷に召還された。
- 二十八日辛丑、呉璘配下の劉海・曹清が鳳翔府石壁寨で金軍を破った。
六月
- 劉光世が太保に昇進し三京等路招撫処置使となり、李顕忠・李貴・歩諒の軍がこれに隷属した。王徳がかつて精鋭部隊「鋭勝軍」を率いて劉光世軍への再編入を拒んだ経緯にも触れる。劉光世は江西路副総管劉紹先を中軍統制に任じ河池州に配置した。
- 韓世忠が太保・河南北諸路招討使・英国公、張浚が少師・河南北諸路招討使・済国公、岳飛が少保・河南諸路招討使に任じられた。
- 張浚が廬州に駐軍した。劉錡は昌州観察使・枢密副都承旨・沿淮制置使となり、李村で金軍を破った。
- 六日己酉、金軍が鳳翔府扶風県を攻撃したが、呉璘配下の李永琪・楊従儀・尚起がこれを撃破した。