三朝北盟會編政宣上帙 宣和七年 1125年

童貫の燕山慰撫と論功行賞(三月~六月)

  • 三月、童貫は燕に入り常勝軍を慰労。王安中を罷免し蔡靖を宣撫使兼知燕山府とした。河北路に四総管(中山・真定・河間・大名)を置き、逃亡軍人や遊手を募って備辺の軍とした。
  • 五月五日、童貫は燕山府等州回復と高託山らの平定の功により広陽郡王に封ぜられた。
  • 六月六日、童貫は太師・領枢密院事・河北河東陝西宣撫使のまま広陽郡王に進封する制書が下された。
  • 馬拡は宣撫使司に対し、尼堪(ニェンハン)が飛狐・霊丘の両県を修治していることを警戒し、陝西兵を中山・真定に屯すべきと進言したが童貫・蔡靖には取り上げられなかった。

金の告慶使と辺境の緊張(七月~十月)

  • 七月、金は天祚帝捕縛を告げる告慶使(渤海の李孝和・王永福)を派遣、馬拡・李子竒が接伴使副となった。
  • 八月十四日、宋は賀金国正旦国信使に王観・呉安国を任命。
  • 九月二十四日、金の使者入国。宇文虚中・高世則が館伴となった。この日、河東からは尼堪(ニェンハン)が南伐を準備しているとの報が入り、馬拡は童貫に西軍十万を辺境に出すよう勧めたが聞き入れられなかった。
  • 十月、宋は金国賀正旦使の接伴に傅察・蒋噩を任命。

金軍の集結と偵察情報(五月~十一月)

  • 五月壬寅、中山府は女真の国相と伊都(イト)副統が兵を率いて蔚州柳甸に集結しているとの探報を上奏。
  • 十八日、中山府は女真が正軍・渤海軍・奚軍・鉄離軍計約二万を平州・雲中府路に配備していると報告。
  • 二十一日、中山府は金が正軍・漢児軍を漸次雲中府方面に集めており、蔚州・飛狐県に屯泊して軍馬・糧草を集めていると報告。侵犯の企図が明らかとなった。
  • 二十四日、童貫は辺境の安肅・永寧・保定の三軍を廃して県に改めるよう奏請、許可された(すでに燕山が撫定され旧辺が内地となったため)。

蔚応二州をめぐる交渉(十一月)

  • 十一月三日、中山府は金の国相司が雲中府所轄県令に軍需の徴発を命じたとの探報を上奏。
  • 十七日、中山府は平州都統が丁口を徴発し奉聖州へ集めているとの報告。
  • 十九日、宣撫司は馬拡・辛興宗を使副として尼堪(ニェンハン)軍前に派遣し、蔚州・応州二州の交割と南侵の意図を探らせた。
  • 茅斎自叙によれば、馬拡は尼堪に対し、金の先皇帝と宋との旧約(海上の盟)を守り燕地を割還した経緯を説き、山後の地は蔚応二州のみを交割し他は返還するよう提案したが、尼堪は「南朝の言葉は空言が多い」と難詰し、要求を拒んだ。
  • 尼堪は金国内で舊臣の劉彦宗・伊都・蕭慶らの進言により南下を決意しつつあり、隆慶府の義勝軍の叛乱や易州常勝軍の首領韓民義の内応が、その決断を後押しした。
  • 二十一日、金の斡里雅布(オリヤブ)は清州境で接伴の賀正旦使傅察・副使蒋噩一行を捕らえた。

傅察の殉節

  • 封氏記年によれば、斡里雅布は薊州を破り玉田県に布陣、傅察に脅して拝礼させようとしたが傅察は「国の恩を受けた身、太子に膝を屈することはできない」と拒み続け、副使蒋噩らが羅拝する中ただ一人屈せず、ついに殺された。
  • 李邴の墓誌によれば、傅察は「命を承けて出た以上、君命をどうして違えられようか」と出発、韓城鎮で敵に囲まれ、二太子斡里雅布に面会。拝礼を拒み「主上は仁聖にして海内安泰、太子が盟を犯すのに何の失徳があろうか」と抗弁し、脅されても屈せず「死あるのみ」と言い放って殺害された。従者の侯彦らがのちにその最期を朝廷に報告し、淵聖皇帝(欽宗)は詔して徽猷閣待制を追贈し、その節義を称えた。
  • 靖康小雅によれば、傅察は死に臨んでも従容として動じず、「忠義の倡」として世に称えられた。李邴は、同時期に殉節した李若水・劉韐と並べ、事情は異なれど義において軽重なしと論じた。

斡里雅布の南下続く

  • 斡里雅布は清化県の塩場を攻め、燕山府一帯で刧掠を行った。宣撫司の蔡靖・運使呂頤浩・李与権は城隍を修葺し守備を固めたが、朝廷は郊祀の礼を控え推恩・奏薦に支障が出ることを恐れて奏報を握りつぶし、辺境の軍務に朝廷の関心が向かなかった。
  • 二十六日、斡里雅布(オリヤブ)は檀州を陥落させた。