賀正旦使の入見
- 正月二十三日、王昂は接伴使としての職務怠慢により罷免された。
- 二十四日、金国の賀正旦使貝勒高居慶・副使楊意が紫宸殿で謁見した。金の尼堪(ニェンハン)がかつて雲中で天祚帝を捕らえ海濱王に封じ、遼国はここに滅亡した。
遼滅亡の経緯(亡遼録)
- 天祚帝は禽荒に耽り諸部の離反を招き、女真の阿固達(アグダ)に攻められた。天慶四年、女真軍がまず寧江州を破り、渤海軍・契丹奚軍を次々に撃破した。
- 天祚帝は宰相張琳・呉庸に東征を委ね二十万の漢軍を四路に分けて進めたが悉く女真に敗れた。
- 天慶五年、天祚帝自ら親征したが女真軍に三面から急襲され大敗し、長春州に逃走した。
- 燕王(耶律淳)に諸路兵馬都元帥を授け「怨軍」を募ったが天慶八年に潰走。以後上京・中京・雲中と次々に陥落し、天祚帝は夾山に逃げ込んだ。
- 保大二年、天祚帝は雲中から更に逃走を重ね、諸子・諸王ら三百余騎で夾山に籠った。達実林牙は再挙に反対したが聞き入れられず、宣和六年冬に五万の兵で南下するも、烏舎(ウーシャ)の伏兵に大敗。
- 最終的に朔州・武州の境で捕らえられ、金に降り海濱王に封ぜられた。遼は太祖按巴堅の建国から二百三十余年で滅亡した。
遼滅亡をめぐる異説
- 茅斎自叙・松漠記聞・北征紀寔・范仲熊北記など諸書は、天祚帝捕縛の経緯を異なる形で伝える。天祚帝が宋への亡命を図ったが叶わず、女真の羅索(ロオソオ)に捕らえられ海濱王に封ぜられたという点はおおむね一致する。
- 天祚帝の降表(耶律延禧謹伏斧鉞…)が伝えられ、自らの不徳を悔いる文言が記される。
- 范仲熊北記によれば、天祚帝(耶律延禧)は道宗洪基の孫、昭懐太子濬の子。乙邜年生まれで、辛巳年正月に即位。奢侈と讒言による国政の乱れが滅亡を招いたとする。
契丹の世系
- 契丹は東方の国で、唐貞観年間に松漠府を置き、会昌年間に契丹の印を賜った。按巴堅(耶律阿保機)が帝を称し太祖大聖大明皇帝となり、子の徳光(太宗)が石晋を助けて燕雲十六州を得た。
- 以後、世宗・穆宗・景宗・聖宗・興宗・道宗と継承し、道宗の孫延禧(天祚帝)に至り、契丹第九代・二百三十余年で滅亡した。
金軍の献捷と歳幣要求
- 正月三十日、金の尼堪(ニェンハン)は天祚帝を擒えたことを宣撫司に報じ、歳幣に加え銀絹二十万を軍賞として借用することを求め、宣撫司はこれに応じた。
童貫の賀表と対金外交
- 二月、童貫は「賀耶律氏滅亡表」を上奏し、河東での対応と天祚帝討滅の功を誇った。有識者はこの表を「典籍に光り神人歓通す」と評しつつも、実態を糊塗するものと見た(表文は中書舎人王雲、あるいは翰林学士宇文虚中の起草と伝わる)。
- 金は遼主捕獲を機に南侵を計画し、通好・告慶・賀天寧節の使者を相次いで宋に送り、道路の様子を探らせていた。
- 送伴使の陳桷は金軍がすでに大挙進発の気配を見せていることを燕帥蔡靖に報告したが、蔡靖は取り合わず、陳桷は外任を求めて去った。