薊州陥落と武漢英の投降
- 十一月二十八日、斡里雅布(オリヤブ)は薊州を陥とし、奉使の賀允中を捕らえて鎖につなぎ、副使武漢英を脅して降させた。
- 北征紀実によれば、金は遼を滅ぼした後も従来通り代州経由で文書を交わす旧例を守っていたが、清州で賀允中・武漢英を捕らえた。武漢英は降って斡里雅布に重用され、金軍に「南朝の人は降せば殺されない」と流布させ、諸郡を降伏に誘う文榜を出させて回った。武漢英は後に隙をみて朝廷へ逃れ、金の南北二路侵攻策(尼堪は太原から洛陽を狙い西軍を遮断、斡里雅布は燕山から真定を経て東京を衝く)を報告した。
河北防備の混乱
- 蔡攸は安肅・保信の二軍(旧梁門・遂城)を廃して県に戻すことを主張。この地は澶淵の役以来「銅梁門鉄遂城」と称された要害であったが、蔡攸は世情を憚って十一月に廃止を強行し、まもなく斡里雅布の大軍が侵入したため防備が崩れた。
太原での動揺(十二月)
- 十二月一日、馬拡が太原に帰還し、金軍の動きを童貫に報告。童貫は当初侮っていたが、馬拡は繰り返し備えの必要を説き、童貫も膽勇軍を各路に配置させるなど一定の対応を取った。
- 三日、尼堪(ニェンハン)の使者察勒瑪・王介儒が宣撫司に来て、張覚の受け入れなど宋の盟約違反を詰り、開戦の意を示した。馬拡・宋彦通が応答したが、金側は強硬な姿勢を崩さなかった。同日、尼堪は雲中府から兵を起こし忻州・代州方面へ侵入した。
- 七日、童貫は参謀宇文虚中・機宜范訥・王雲・宋彦通らと共に朝廷へ帰還すべく協議。太原留守の張孝純は「大王が去れば河東は棄てられたも同然」と強く諫めたが、童貫は聞かず出発を決めた。馬拡もまた童貫に太原ないし真定への駐留を進言する上書をしたが、童貫は聞き入れず遁走同然に離れた。
- (原文には「八月乙巳」とあるが文脈上「十二月八日乙巳」の誤記と見られる。)童貫は太原から逃げ帰った。金の使者は先に張孝純へ「雲中の地を交割したい」と偽り歓心を得ていたが、実際は開戦の意志を隠すためのものであった。
- 馬拡は童貫と別れ真定へ向かい、道すがら甲冑の補修、戦馬の徴発、忠勇の士の招集、陝西五路の精鋭の急派、万一の際の車駕入蜀策など七か条を上申し、童貫はこれを容れた。
朔州・代州の陥落
- 尼堪(ニェンハン)は朔州を攻め、漢人が城門を開いて降った。武州でも漢人が内応し陥落。長駆して代州に至り、漢人はまた李嗣本を捕らえて降伏した。
- 河東に置かれた義勝軍(山後の漢人からなる)は兵糧の不公平な扱いに不満を募らせ、金軍の南下を機に離反する土壌となっていた。
- 李鄴は金の強盛を説いて講和・奉使を上書し、朝廷はこれを容れて金三万両を持たせ講和交渉に向かわせた。
太原包囲の始まり
- 十二月九日、尼堪の軍が忻州に至ると知府賀権は城門を開いて楽を奏し出迎え、尼堪は喜んで兵の入城を禁じた。
- 尼堪が石嶺関に迫ると、義勝軍将耿守忠が関を挙げて降り、太原は包囲された。太原帥張孝純が守将を選ぶ際、冀景・王宗尹・耿守忠らの間で指揮が乱れ、耿守忠が離反して関を敵に開いたため冀景も逃走した。
- 秀水閑居録によれば、契丹滅亡の際に雲中・代州で暴れた劇寇童龎児は帰順して河東に居を得たが、蔵糧を食い尽くし、金の侵攻を機に晋州でまず叛乱を起こし、河東の失陥を早めた一因となった。
燕山陥落と郭薬師の叛降
- 斡里雅布(オリヤブ)は金山を犯し、郭薬師は常勝軍を率いて出迎え降った。許採「陥燕記」によれば、十一月二十六日檀州陥落、二十八日薊州陥落と続き、郭薬師は東郊に屯していたが動揺の色を見せていた。
- 十二月初め、郭薬師は白河で斡里雅布軍と交戦。当初優勢だったが、張令徽・劉舜仁が先に敗走し、郭薬師も引き返した。城内では常勝軍の離反の噂が広がり、運使呂頤浩は燕山放棄を蔡靖に勧めたが、著者(許採)は死守を説いて思いとどまらせた。
- 十二月八日、郭薬師は蔡靖・呂頤浩らを召し出して事実上拘束し、「自分は諸公と最後まで運命を共にできない」と涙ながらに述べた。その夜、常勝軍が城内で略奪を働き、蔡靖の防備体制も崩れた。