燕山府陥落と蔡靖の抑留
- 十日、斡里雅布(オリヤブ)は燕山府に旗を立て陥落を告げた。十二日、蔡靖ら宋の官吏を毬場に呼び出し、太子への拝礼の礼を巡って交渉。宋の臣礼と同じ「旅拝・答拝」の形で決着した。
- 棟摩国王・王芮らは蔡靖に「太子は賢臣として汝を用いたい」と持ちかけ、百里奚が虞で愚かでも秦で智者となった故事を引いたが、蔡靖は「虞に用いられなかったから愚とされたのだ、自分は天子に用いられていながら燕山を失った、まさに愚人である」と切り返し、金国に用いられることを拒み続けた。
- 十四日、棟摩国王は郭薬師に命じ呂頤浩・李与権・沈琯・杜時亮・陳傑を軍中に連行させようとしたが、蔡靖については扱いが難しいとして見送られた。
- 十五日、斡里雅布(オリヤブ)の大軍は南下を開始。涇州・景州・薊州・檀州・順州・涿州・易州の守臣らは相次いで逃亡・自害するなど、燕地の守備は総崩れとなった。
燕地喪失の原因分析(北征紀実)
- 著者は燕人の心を失った理由を三つ挙げる。①換官(官職の付け替え)が士人の心を失わせた、②授田(常勝軍への土地給付)が百姓の心を失わせた、③塩法(不当な高値と役人の不正利得)が士人・百姓双方の心を失わせた。
- 金人の侮りを招いた理由も三つ。①張覚の一件、②燕中戸口(金への引き渡しを巡る不履行)、③歳幣(契丹への歳幣より質量とも劣ること)。これらはいずれも詹度・王安中・童貫・譚稹らの失政に起因する。
- 著者は、燕地経営における童貫・蔡攸らの慢心と、現地の実情を無視した奏上(祥瑞の奏上など)が朝廷を欺き、大患を招いたと批判する。
燕山陥落の背景(北征紀実続)
- 宣和末、金の挙兵の兆候は再三報告されていたが、朝廷は郭薬師の常勝軍を頼みとして防備を怠っていた。斡里雅布(オリヤブ)の侵攻に際し張令徽がまず降り、郭薬師も続いて降伏、蔡靖らを捕らえて金に投降を働きかけた。
沈琯の南帰と燕山陥落の実見(沈琯南帰録)
- 沈琯は経制平貨の職務で河間府にいたが、燕山府の鹽場が金軍に脅かされているとの報を受け北上、檀州・薊州の陥落を目撃しながらも燕山府に至り、蔡靖・呂頤浩・沈与権・梁競らと守禦の準備を共にした。
- 郭薬師・張令徽・劉舜仁が白河で交戦し当初優勢だったが、令徽が先に退却、藥師軍も総崩れとなった。頤浩・梁競らは脱出を主張したが、蔡靖・沈琯は死守を貫いた。
- 郭薬師は蔡靖に降伏を迫ったが、蔡靖は自刃しようとして周囲に止められた。九日、太子(斡里雅布)は「南朝の官は殺さぬ、城を出て降れ」と伝え、十一日には使者蕭三宝奴・王芮・張愿恭が訪れ、蔡靖と問答(百里奚の故事など)を重ねた。
- 十二日、蔡靖ら宋官は太子に対する拝礼の礼式を巡って交渉し、東北を望み拝礼する形で決着。十四日、蔡靖は燕山に留め置かれ、呂頤浩・沈与権・杜時亮・陳傑らは各営に分配して連行された。沈琯自身は都統営に留め置かれた。
燕地情勢の総括(北征紀実続)
- 蔡靖は密奏百七十余章を朝廷に送り金の動静を伝えたが、朝廷は取り合わなかった。十一月の冬至祭の後、辺境急報が相次いだが宰相白時中・李邦彦はこれを隠し、十二月九日にようやく上奏、詔を下すこととなった。
- 十二月十四日、郭薬師降伏の報が届き、羣小はこれを隠したが、既に燕王・張令徽を郡王に封じ燕地を与える詔が準備されるほど後手に回っていた。
- 秀水閑居録によれば、郭薬師はもと兇狡の将で、常勝軍が河北諸郡の物資を独占して民を疲弊させ、叛意の兆しは以前から明らかであったが、燕帥王安中・副帥蔡靖らはこれを覆い隠していた。金の侵攻で郭薬師は張令徽と分かれて戦い、令徽が旗を倒して降ったことで大軍が潰え、郭薬師は城僚を捕らえて降った。