賀登位使の派遣
- 正月二十日、朝廷は尚書司封員外郎の許亢宗を金国皇帝即位祝賀の国信使に任じ、武義大夫童緒を副使、鍾邦直を礼物官とした。
- 随行の三節人は朝廷差遣と本所辟召を合わせて約八十名。医官・指使・書表司・職員・親属・虞候・将校・楽人など職掌ごとに人数が定められた。
- 携行の礼物は御馬三頭(金銀装鞍轡付)、象牙・玳瑁の鞭、金塗の銀酒器一式、金塗銀香炉、綉衣三襲、菓子・蜜煎など。
使節派遣の経緯
- 金は契丹を滅ぼした後、宋と講和して毎年正旦・生辰の使者を交換する旧例を保っていた。
- 前年(甲辰年)、金の初代皇帝阿固達(アグダ)が没し、弟の烏奇邁(呉乞買)が即位したため、許亢宗が即位祝賀使に選ばれた。
- 出発は乙巳年正月戊戌の翌日、帰着は同年八月甲辰。国内行程は千百五十里(二十二程)、白溝の契丹旧境から金の都までは三千百二十里(三十九程)。
燕山府までの道程
- 涿州は古の黄帝・蚩尤古戦場の地。契丹の南寨として栄えたが郭薬師の来降後は兵火を免れ繁栄していた。
- 良郷県は兵火で荒廃していたが徐々に復興しつつあった。盧溝河には浮橋が新造されていた。
- 燕山府(旧幽州)は膏腴の地で物産豊か、互市も盛んで仏寺も多かったが、金人の攻略以降は大飢饉となり人が人を食う惨状で、常勝軍の軍糧確保のため宣撫使王安中が朝廷に太倉米五十万石の輸送を求めた。
- 薊州・玉田県では金人・奚人の侵掠が繰り返され、王安中は「事を起こすな」と自重策をとったが被害が絶えなかった。
燕京から金国境まで
- 涇州(清州)の金国境では、両国が定めた儀礼(門状のやりとり、揖礼など)に従って接伴・館伴の引き継ぎが行われた。
- 営州・閏州(榆関)を経て、五関(居庸・松亭・金坡・古北口ほか)の険要が論じられ、燕雲十六州のうち平・営・灤三州が交渉で金側に残った経緯が語られる。
- 錦州・顕州(医巫閭山)を経て遼河流域の梁魚務、興州(旧遼東の地)、咸州に至る。咸州では契丹旧教坊の音楽・百戯による盛大な歓待を受けた。
- 同州・黄龍府(契丹の按巴堅が渤海を破った地)、托蘇貝勒寨(諸国雑居の地)を経て混同江畔の呼勒希貝勒寨、契丹・金の旧国境である矩古貝勒寨に至る。
金の皇城での朝見
- 金の皇城に近づくと氈帳での接待、国書の進呈、拝舞の礼、女真首領との対面が行われた。
- 皇城内には桃源洞・紫極洞などと名付けた築山や「翠微宮」と称する仮設殿舎があり、皇帝は頭巾・玉帯姿で謁見した。
- 宴では金・玉・玳瑁の食器を用い、契丹伝来の教坊楽・百戯(獅子舞・綱渡り・角抵など)が披露された。
- 宴席で金の貴臣が宋の弱さを揶揄すると、使者は宋の国力・兵力を挙げて堂々と反論し、金側を黙らせた。
- 謝表の文言「祗造鄰邦」の「邦」の字を巡り金の中使が難癖をつけたが、使者は経書を引いて反論し押し通した。
- 帰国の宴(換衣灯宴)を経て回程につき、両国境で使者同士が別れの礼を交わした。
帰路の情勢
- 帰路、金軍がすでに糧秣を運び兵を進めて南辺に迫っている様子を目撃し、漢人からも金の挙兵が近いとの情報が寄せられた。
- 帰国後、朝廷は辺事を妄言する者を流罪三千里に処す御筆を出しており、辺境の情報が封じられていたため、誰も敢えて言上しなかった。
- 一行は八月五日に都に帰着した。