金の訃報と新帝の即位(正月)
- 正月六日、金からアグダの訃報が届き、朝廷は五日間廃朝して喪に服した。金は奚人の富謨古を正使、漢人の李簡を副使として謝礼の使者を送った。馬拡がこれに随行して燕山・薊州へ赴いた。
- 河間府の詹度は、峰山の敗戦で部下の恨みを買い部将の白得哥に殺された蕭幹の首級を得て朝廷に献上した。
峰山の戦捷奏告と大赦(正月十四日)
- 正月十四日、耶律氏の宝検・金印と蕭幹(古爾班)の首級が宗廟社稷に奏告され、上は紫宸殿で祝賀を受けた。詔は、蕭幹が盧溝・燕城・広陽で再三宋に抗し、僭称して「神聖皇帝」と号し天嗣と改元して遼の正統を僭称したが、ついに峰山で大敗し首級を京師に送られたことを述べ、その功を宗廟に感謝するとした。
馬拡と王安中の燕地統治策議(正月二十九日)
- 馬拡は燕山で王安中と燕地統治のあり方を論じた。籬(防柵)の修復、流民の招撫、弓箭手の設置、常勝軍への田地授与という優先順位を提言し、拙速な常勝軍への給田や急な俸給削減の危険性を説いたが、王安中は「すでに常勝軍に田を与えてしまい、民地侵奪の弊害が生じている、今さらどうしようもない」と嘆いたという。
義勝軍の設置(三月)
- 譚稹は燕山赴任後、常勝軍の横暴を憂慮し、河東で新たに「義勝軍」(雲朔出身者五万を核とする部隊)を編成し、李嗣本・耿守忠を統率者として要衝に配し、常勝軍を牽制させることを朝廷に上奏し許可された。しかし義勝軍の待遇(月糧・夜賜)が常勝軍より優遇されたため、常勝軍の兵が密かに義勝軍へ投じる動きが生じ、郭薬師らは離反を恐れて兵士の顔に刺青を施すなどの対応を取り、常勝軍の不満と反乱の火種を深めた。
慶暦誓書の秘府収蔵(閏三月)
- 閏三月、王黼は捕獲した契丹の玉檢や偽印を秘書省に納めるよう上奏し、あわせて仁宗朝の慶暦年間に契丹の圧力で結ばれた屈辱的な誓書を宝文閣に保管し、燕雲回復の偉業を末永く顕彰するよう求め、許可された。
金軍の食糧要求と拒否(四月)
- 金の斡里雅布(二太子)は張覚討伐の陣中から粟二十万石の借与を宣撫司に求めた。譚稹は「宣撫司からそのような約束をした文書は一切ない、趙良嗣の口約束に過ぎない」として拒絶し、使者を送り返した。
金による蔚州再占領(八月)
- 八月、金は蔚州を再攻略し守臣の陳翊を殺害、飛狐・霊丘の両県も陥落させた。天祚帝を夾山に追い、雲中府一帯を制圧した金軍が燕山に転じた隙に、朔州の韓正・応州の蘇京・蔚州の陳翊らは金から離反して宋に帰順していたが、金の尼堪・斡里雅布はこれを討伐し、山後の交割の約定を事実上反故にした。金はさらに、張覚を匿ったこと、逃亡した官戸・職官を収容していること、約束の借用糧二十万石が届いていないことを非難する牒文を送りつけてきた。朝廷はこの状況を受け、譚稹の罷免を決めた。
譚稹の罷免と童貫の再任(九月)
- 九月、譚稹は太尉の位を落とされ宣撫使を罷免、順昌軍節度副使に左遷された。童貫は致仕を取り消され、河北燕山府路宣撫使に再任された。『北征紀実』は、譚稹が無能な宦官で、山後の要地の経略に失敗し金の不信を招いた経緯を厳しく批判している。
史料(洪中孚のかつての諫言)
- この機に、政和年間に譚稹が河東の諸将に燕雲攻略の可否を諮った際の、真定府路安撫使・洪中孚による反対意見の全文が引用される。洪中孚は、燕雲攻略の好機はすでに過ぎており、燕地の漢人が必ずしも宋への帰順を望んでいない実情(燕の科挙官僚は既に契丹での栄達を得ており、南帰を望む理由がない)、財政的な限界、驕った将兵による戦の危険性を説き、「もし燕雲回復を強行するなら、私を誅殺してからにせよ」とまで直言していた。『北征紀実』はこの諫言が正しかったことを事後的に確認し、開戦を煽った薛嗣昌・侯益らの責任を改めて指弾している。
大赦(九月十八日)
- 九月十八日、天下に大赦が布告された。詔は燕雲回復の大義を改めて讃え、太祖・神宗以来の悲願が成就したことを述べた。
王黼の致仕(十一月三日)
- 十一月三日、太傅・楚国公の王黼が致仕した。蔡京の先例に倣った待遇が与えられた。
雲中交割交渉の停滞(十一月〜十二月)
- 童貫は保州廉訪使者の馬拡・辛興宗を雲中へ派遣し、金の尼堪と交割の協議をさせようとした。出発に際し童貫は諸将を集め、山後統治の人選や必要兵力(馬拡は三万を提言、童貫は二万で対応可能かと問う)について議論した。
- 十一月三十日、馬拡が雲中に至ると、尼堪は既に帰国しており、代行の烏舎は面会自体を拒み、高慶裔を通じて「山後の逃亡官戸・職官の未返還、張覚を匿った件で宋がすでに盟約に違反している」として交割を渋る姿勢を示した。馬拡は「張覚の罪はすでに処断済みで、逃亡者は捜索して送還中だ」と反論したが、交渉は平行線をたどった。
- 十二月、馬拡は太原に戻り、童貫に現地情勢(金が漢人郷兵を編成し飛狐・霊丘に増兵していること、張覚の一件を執拗に持ち出していることなど)を報告し、辺境防備の強化と陝右の兵の増派を進言した。童貫は「金国内もまだ人心が服していないはずで、そう簡単には動くまい」と楽観視しつつも、自ら燕山に赴いて常勝軍の統制と河北諸軍の配置を見直すと応じた。
- 十二月十七日、盧益の子・盧久が金の賀正旦使の接待にあたった。