三朝北盟會編政宣上帙 宣和五年 1123年

張覚の帰順(六月五日)

  • 六月五日、張覚は上表して営平州を宋に献じた。上表は、金の侵攻と燕城陥落の混乱の中で燕民の東遷(強制移住)に抗しきれず、やむなく金に応じたものの、民の怨嗟の声に堪えかね、金軍が居庸関を越えて西へ去った隙に独自の判断で挙兵し、燕民を故郷に戻したことを述べ、正式に宋への帰順を願い出るものであった。
  • 詹度はこの上表を独断で受理できず密奏したが、朝廷は張覚の帰順を歓迎し、泰寧軍節度使・平州世襲を許し、部下の衛甫・趙仁彦・張鈞らにも官職を与えた。史愿『亡遼録』によれば、張覚は表向き宋・遼両属を装いつつ、天祚帝の肖像を掲げて事の可否を伺うなど、遼への忠義を演出していたとされる。また燕出身の李安弼(李石)・高党(高履)らが王安中に働きかけ、張覚の帰順を強く後押ししたことも記されており、趙良嗣はこれに強く反対し「金の侵攻を招く」として李安弼の処刑まで求めたが、聞き入れられなかった。

論功行賞(六月九日)

  • 六月九日、燕地回復に功のあった宣撫司の官吏・将士に恩賞が与えられ、劉韐・蔡術・馮舒・宇文黄中らが昇進した。

金の太祖アグダの死去

  • この頃、金の太祖アグダが軍中で崩じた。『神麓記』などの史料は、女真の始祖・堪布(函普)が新羅から逃れて完顔の姓を得た由来から、代々の系譜(烏嚕・雅哈・呼蘭・和哩布・阿固達)を詳細に伝える。アグダは天慶三年(1113年)に即位を宣言し、収国から天輔と改元、在位九年で燕京入城後まもなく病を得て、五十五歳で崩じ、阿勒楚喀の泰陵に葬られた。子は十数人あり、次子の斡里雅布(二太子)らがその後の政局を担うことになる。
  • アグダの死を受け、尼堪らはその弟・烏竒邁(後の太宗)を遠く推戴して即位させ、天輔六年を天会元年と改めた。

平州をめぐる緊張(六月二十一日〜)

  • 六月二十一日、金は朔・武・蔚の三州の交割を予定していたが、皇帝の崩御によりこれを果たさぬまま撤退した。金の棟摩国王が二千騎で平州を問罪に訪れたが、張覚がこれを迎撃すると兵力不足を理由に撤退し、「夏は暑いので去るが秋には再来する」と記して立ち去った。張覚はこれを大勝と偽って宣撫司に報告し、宋は銀絹で将兵を賞した。

王安中・童貫の昇進と平州陥落(七月)

  • 七月七日、王安中は太尉・武信軍節度使に、譚稹も昇進した。七月十日、童貫は致仕を経て太尉・武信軍節度使となり、譚稹が河北燕山府路宣撫使となった。
  • この間、金の斡里雅布(二太子)が平州を包囲し、張覚に対する詔書がすべて金の手に落ちた。宣撫司から銀絹数万を犒賞として送り、李安弼と張覚の弟が詔勅を携えて向かったが、金の間諜に察知され、千騎による急襲を受けた張覚は入城できずに敗走し、母・妻は金に殺害された。金は御筆の詔書を得たことで宋への疑念と憤りを強めた。張覚は燕山に逃れ、郭薬師に匿われ「趙秀才」と変名して常勝軍に潜伏した。平州は副将の衛甫・趙仁彦・張鈞らが官庫の財宝を持ち出して離散する中、辛うじて防衛が続けられた。

峰山の戦いと蕭幹の敗退(八月十五日)

  • 蕭后の東走後、燕地に留まった蕭幹は奚王府で「大奚国神聖皇帝」を自称し「天阜」と改元したが、食糧不足から盧龍嶺を経て景州を攻め、常勝軍の張令徽・劉舜仁を破って薊州を陥落させ、燕京にも迫る勢いを見せた。燕地では動揺が広がり、一時は放棄論も出たが、童貫の督励を受けた王安中・郭薬師が反撃し、八月十五日に峰山で蕭幹軍を大破、耶律徳光の尊号宝検や契丹の塗金印を鹵獲した。この勝報を受け、王黼らは上尊号(皇帝への尊称奉呈)を提案する動きを見せた。

燕山府の人事調整(九月六日)

  • 九月六日、蔡靖が知河間府から同知燕山府に転じ、詹度と入れ替わった。郭薬師が節鉞を理由に詹度の上位に立とうとする専横があり、常勝軍の増長を抑えきれない詹度の限界が朝廷の懸念となっていたための人事であった。

張覚の処刑(金の圧力による)

  • 斡里雅布は平州攻略後、常勝軍に匿われていた張覚の引き渡しを執拗に求めた。当初宋は「発見できない」と偽っていたが、金は「別人の首を送ってきた」と見破り、なお強く追及した。金の圧力に屈した朝廷は密旨を下し、王安中は張覚を処刑せざるを得なくなった。張覚は死に際して不遜な言葉を残しつつ処刑され、その首級は水銀漬けにされて金へ送られた。
  • 『亡遼録』『北征紀実』『謀夏録』などの史料は、この一件を厳しく批判する。張覚は燕地の豪傑として遼への義理を尽くしつつ宋に帰順した人物であったが、宋は当初これを歓迎し泰寧軍節度使の勅書まで与えながら、金の圧力に屈してあっさり見捨てたことで、常勝軍・燕人の宋への信頼を大きく損ねたと総括される。郭薬師も「もし自分が同じ立場になったら」と暗に不満を漏らしたと伝えられ、金はこの一件を「盟約違反」の口実として、以後の南侵の大義名分に利用したという。

その他の措置

  • 十月六日、天祚帝(耶律延禧)の僭称する尊号「天祚」の使用が禁じられた。
  • 十一月十八日、王安中・郭薬師がさらに昇進した。十二月三日、趙良嗣に節度使相当の俸給が特別に支給された。