三朝北盟會編政宣上帙 宣和四年 1122年

蔡攸の出征と蔡京の送別詩(五月十八日)

  • 五月十八日、河東河北路宣撫副使の蔡攸が出陣した。父の蔡京は「百年の信誓を深く念ずべし、三伏の道中はよく休め」との詩を贈ったが、上(徽宗)はこれを読み「六月の王師は早々に帰るべし」と一句を改めさせた。

史料(呉曾『漫録』による蔡京批判)

  • 宣和四年、金が遼を攻め王緯を遣わして宋に援軍を求めた際、宰相王黼(将明)が議を主導し童貫を宣撫使、蔡攸を副使とした。蔡京は送別の詩で「百年の信誓は堅く守るべし」と詠んだが、これは後日の失敗に備えた予防線に過ぎず、実際には政和年間に燕地攻略を最初に主導したのは蔡京自身であったと指摘される。蔡京はかつて妖術士の王仔昔を大将軍にしようと図ったが誅殺され頓挫した経緯もあり、王黼の策は蔡京の意を継いだものに過ぎないと評される。

出師の凶兆(史料:北征紀実)

  • 四月十五日の童貫出師の日、白虹が太陽を貫く異変があり、牙旗の竿が折れた。五月十八日の再出師でも旗が失われるなど不吉な兆しが続いた。出師後は連夜、大流星が南へ流れる現象が観測されたが、太史はこれを奏上しなかった。雄州では地震が起き、真武廟に祀った亀と蛇が翌日死んでいるなど、識者は西晋の故事になぞらえて不吉と見た。

金の通問使の来訪と抗議(五月)

  • 金は図克坦烏舎・高慶裔を通問使として派遣し、国書を送った。金軍は中京・興中府を陥落させ、天祚帝を追って山西まで迫ったが取り逃がし、西京・応州・朔州など諸州を平定したこと、燕京の耶律淳が自立を称し帰順を申し出ていることなどを述べた。宋が夾攻の約束の期日を報せず、また童貫の軍が代北に迫っているにもかかわらず連携がないことを指摘し、真意を質した。

蘭溝甸・白溝の緒戦(五月二十六日〜二十九日)

  • 五月二十六日、种師道配下の楊可世は、燕人が宋への内応を望んでいると聞き軽騎数千で急進したが、耶律達実(林牙)の伏兵に遭い蘭溝甸で大敗した。燕王耶律淳はさらに三万余の兵を白溝に渡らせ宋軍を挑発した。
  • 当初、雄州知事の和詵は出師に大義名分がないとして慎重論を唱えていたが、童貫が到着すると殺戮を禁じる招諭の旗榜を掲げつつも進軍を継続した。
  • 五月二十九日、种師道は白溝へ進軍したが耶律達実・蕭幹の奇襲を受けた。楊可世は招諭の旗榜を掲げて交渉を試みたが、達実はこれを引き裂いて罵り、矢石が降り注ぎ交戦となった。楊可世は自ら奮戦し、鉄蒺藜矢を受け血まみれになりながら数十人を斬るなど激闘の末、辛くも撃退した。西路でも辛興宗の軍が蕭幹の攻撃を受けたが、王淵・楊可世の援軍により何とか持ちこたえた。和詵は種師道に「軍律違反」として楊可世の処罰を求めたが、种師道は愛将であるとして退けた。これが本格的な交戦の始まりとなった。

燕王からの使者と交渉の試み(三十日)

  • 燕王耶律淳は秘書郎の王介儒・都官員外郎の王仲孫を遣わし、馬拡とともに雄州へ送った。先に童貫が遣わした張憲・趙忠は燕王に斬られ、易州の土豪・史成を内応させようとした譚九殿直らの計略も露見して史成が処刑されるなど、調略は失敗続きであった。种師道が進軍して圧力をかけたことで、燕王はやむなく王介儒を派遣する決断をした。

種師道の敗退と処罰(六月三日)

  • 六月三日、种師道は雄州へ撤退する際に再び敵の奇襲を受けた。西路の辛興宗軍も苦戦しており、诸将は一旦兵を引いて再議することを決めたが、和詵は撤退が敵に付け入る隙を与えると反対した。种師道はやむなく撤退の議を宣撫司に上申した。
  • 楊可世は「今退けば敵に背後を突かれる」と夜間の撤退を進言したが种師道は聞き入れず、翌朝堂々と撤退したところ、敵の追撃を受けて古城で激戦となり危うく難を逃れた。雄州に迫ると、風雨・雹に見舞われる悪天候の中、楊可世・楊惟忠らが城外で防戦し、宋軍は総崩れとなって雄州から莫州にかけて多くの死者を出した。招撫を名目に殺戮を禁じていたため、味方は敵の攻撃に十分応戦できなかったことも将士の憤りを招いた。
  • 童貫はこの敗因を种師道の責に帰し、「殺戮を好み陣中で怠慢だった」と弾劾し、种師道は右衛将軍に降格され致仕(辞職)となった。和詵も亳州団練副使に左遷され、侯益も情報の誤りを咎められ知濠州に転じた。种師道の謝表には、老齢での失策を悔い恩赦に感謝する言葉が記されている。

史料(康随の跋文による西路軍の混乱)

  • 康随(保静公)の記録によれば、四月に河北河東陜西路宣撫司都統制に任じられた際、招撫策の拙速さを童貫に諫めたが、「聖旨により殺戮は禁じられており、王師が渡河すれば燕人は歓迎するはずだ」と押し切られた。実際には燕人の抵抗に遭い、楊可世らの部隊も多くの死傷者を出し、六月三日払暁の撤退時には風雨で兵士が将棋倒しとなり、武器を投げ捨てて敗走する惨状となった。康隨は、この一件の指揮系統の混乱と責任の所在について、後年のために書き残したと記している。