童貫の招諭榜文(四月二十三日)
- 童貫は高陽関に駐軍し、幽燕の民に向けて招諭の榜文を掲げた。幽燕は本来の宋の領土であり、二百年契丹に奪われていたこと、旧主(天祚帝)はなお存命でありながら新君(耶律淳)が簒奪したことを非難し、投降・帰順すれば官職や田地を復すること、州県を挙げて帰順すれば厚遇し、燕京を献じた者には節度使と銭十万貫・大宅を与えること、契丹への従来の苛斂誅求は全て廃止し、二年間の税賦を免除することなどを布告した。
史料(使北録が伝える陶悦の使行と童貫批判)
- 政和七年(1117年)に童貫が北伐を建議し出兵の準備を進めていた頃、正使として遼へ赴いた陶悦は、帰国後童貫の府で尋問を受けた。童貫は「遼に賊が起きている、流民が多い、易州が既に陥落した」などと主張したが、陶悦は自らの見聞に基づき「道中に流民や異変は見られなかった」ときっぱり否定し、童貫の主張が虚偽であることを暴いた。
- この報告を受けた道君皇帝(徽宗)は北伐計画を一時撤回させたが、陶悦の死後、童貫が再び議を立てて実行に移し、今日の禍乱を招いたと評される。建炎年間、陶悦の功績を追賞する詔が下され、秘閣修撰を追贈された。
童貫の軍事準備と進軍態勢(五月)
- 五月十三日、童貫は軍需の遅滞を憂える上奏をした。正月に金が中京を陥落させた好機を逃したこと、四月に高陽関に到着したものの、河北の将兵が長らく実戦を経験しておらず訓練不足であること、軍糧・武器・攻城具の備えが著しく不足していることを訴え、朝廷に督励と迅速な補給を求めた。
- 童貫は河間府で軍を東西二路に分け、种師道を東路総帥として白溝に屯し、王禀・楊惟忠・种師中・王坪・趙明・楊志らを各軍の将とし、辛興宗を西路総帥として范村に屯し、楊可世・王淵・焦安節・劉光国・冀景・曲奇・王亯・呉子厚・劉光世らを各軍の将とし、劉延慶の節制のもとに置いた。
雄州での軍議と将帥の対立
- 雄州で种師道は「隣家に盗人が入ったのに助けもせず、逆に乗じてその家財を分け取るようなものだ。大義名分のない挙兵は成功しない」と進軍に異を唱えたが、童貫は御筆を示して反論を封じた。楊可世も「事の起こりに関与しておらず、拙速に事を誤れば国の恥となる」と慎重論を述べたところ、同席していた和詵が「臆病者だ」と楊可世を面罵し、童貫は和詵を副将、楊可世を前軍統制に配置し直した。
童貫の耶律淳への降伏勧告書
- 童貫は趙良嗣に書を起草させ、燕王耶律淳に降伏を勧める書を送った。内容は、耶律淳が天祚帝の甥でありながら自立したことを「逆天の簒奪」と非難しつつ、宋への帰順を勧め、五代十国の呉越銭氏の例のように王爵を保ったまま子孫に伝えられると説き、拒めば進軍もやむを得ないと警告するものであった。
馬拡の燕京潜入と交渉(五月十八日以降)
- 燕への使者として派遣された張憲・趙忠は燕王に処刑され、交渉は失敗した。宣撫司はさらに馬拡(茆齋自叙による記録)を密使として派遣した。馬拡は「将士に略奪を禁じ軍律を厳しくすること」「降伏者を妄りに殺さぬこと」「機を見て断行し使者の身を顧みぬこと」の三事を童貫に進言し、決死の覚悟で出発した。
- 五月十八日、新城県に至った際、契丹の漢人官吏である劉宗吉が密かに接触し、燕京の守備が手薄であること(四軍大王・蕭幹の部曲三百余騎のみが実戦経験を持ち、他は油断している)を告げ、宋軍が夜襲すれば容易に崩れると進言し、内応の意志を示した。馬拡はこれを童貫への密書にまとめ、宗吉に託した。
- 燕京では蕭奥・張覚が接待し、姚璠・蕭夔らが馬拡の携えた勅榜の内容を検分した。榜文の文言が「大段狂悖」であるとして態度を硬化させたが、馬拡は「宋が問罪の兵を挙げたのは、天祚帝がなお存命であるにもかかわらず燕王が簒奪したためであり、大義名分がある」と論陣を張った。蕭夔は「唐の玄宗・粛宗の故事に等しく、正当な継承である」と反論したが、馬拡は「粛宗は玄宗を太上皇として迎えたが、耶律淳は天祚帝を湘陰王に貶めた点が異なる」と切り返した。
- 交渉の過程で、劉宗吉の内応工作が露見し、蕭夔らは馬拡を詰問したが、馬拡は「己の命を賭して両国の破局を防ごうとしているのであり、間諜ではない」と述べ、燕側の軍事力が宋に遠く及ばないことを指摘して押し返した。
- 燕王は馬拡を朝見させ、景徳の澶淵の盟(真宗代)と仁宗代の誓書を読み上げさせた。誓書には歳幣(絹二十万匹・銀十万両)による和約の条項、国境不可侵の取り決めなどが記されていた。誓書を聞いた蕭夔は「宋はなぜこの盟約を破るのか」と問い、馬拡は「燕王が廃立を専断したことこそ問罪の名分である」と応じた。
- 燕王は宰相の李処温らを召し、宋の勅榜への対応を協議した。処温はかつて趙良嗣と莫逆の友であり、共に南朝への帰順を誓ったことがあったが、良嗣が先に南へ奔った後、天祚帝の逃亡を受けて燕王擁立に転じていた。今、童貫の大軍が迫る中、燕王(天錫皇帝=耶律淳)は李処温らに向かい「金軍が西京を奪い返す気配もなく、宋が大金と夾攻に及ぶ以上、天与人事に鑑みて帝位を保つことはできない。宋に臣下として服属し、宗廟を保つべきではないか」と涙ながらに語り、処温もともに涙を流した。ここに至り、燕京側は宋への使者派遣を協議することとなった。