燕山での耶律淳の即位(三月)
- 三月十七日、遼の秦晋国王耶律淳(道宗の甥筋にあたる)が燕山で自立し帝位に就いた。天祚帝が夾山に入って音信不通となる中、宰相李処温が怨軍の将・蕭幹と結び擁立を進めたもので、耶律淳は燕を十二年守り人望を得ていた。即位して「天錫皇帝」を称し、建福と改元、怨軍を常勝軍と改称し、大赦を行った。
- 耶律淳は詔で、天祚帝の失政(諫言を退け、徳を捨て、乱行を重ねたこと)を理由に廃立を正当化し、天祚帝を湘陰王に降格する詔も併せて出した。宋への使者を送り即位を告げたが、宋は天祚帝がなお存命であるとして耶律淳の即位を認めず、使者を送り返した。
- 『北征紀実』によれば、この冬、天祚帝が十万の兵を率い燕京に駐屯し雄州・覇州方面を窺っているとの情報に朝廷は動揺したが、翌春には天祚帝が敗走し行方不明となったとの報が入り、宋はここに至って出師を決めたという。
趙遹の上奏(遼の後継擁立を勧める議)
- 真定府路安撫使の趙遹は、遼の混乱に乗じるのではなく、天祚帝の一族から新君を立てて存続を助け、宋への恩義を負わせるべきだと上奏した。澶淵の盟以来の長年の友好関係を踏まえ、遼が滅べば女真という新たな強敵と直接国境を接することになる危険を説き、拙速な増兵よりも遼の存続を助けることで長期的な利益を得るべきだと論じた。
- 三月、代州は金の応州からの牒文を得た。白水濼で天祚帝の陣が撃破され、天祚帝は北へ逃走し、金軍はすでに山後の州県を占領したとの内容で、宋側の辺境守備兵に逃亡者を保護しないよう求めるものであった。
童貫の出師と燕京への詔(四月十日)
- 四月十日、太師・領枢密院事の童貫が陝西・河東・河北路宣撫使として十万の兵を率い辺境を巡視し、燕京管内の官吏・軍民に向けて詔を発した。詔は、幽燕の地がもと中国の故地であり五代の乱で契丹に奪われたこと、遼の天祚帝が失政で国を傾け、金の侵攻を招いたことを述べ、宋がその地を回復し民を塗炭の苦しみから救う正義の軍であると説いた。
- 詔はまた、耶律淳が帰順すれば厚遇し王爵を世襲させること、城を挙げて降伏すれば市を乱さず民を害さないこと、逆らう者は軍法に処すことなどを布告し、恩賞・免税などの優遇策も示した。
- 童貫は環衛軍を中軍とし、劉韐を行軍参謀、种師道を都統制、王禀・楊可世を副将として出陣した。上は童貫の出師に際し御筆で三策を授けた。上策は燕人が悦んで帰順し旧疆を回復すること、中策は耶律淳が帰順を申し出て藩臣となること、下策は燕人が服さぬ場合は兵を巡らせるのみで全軍を退くことであった。