宋昭の上書(開戦反対論)
- 相州の宋昭は、王黼・童貫の開戦を厳しく批判する長文の上書を奉った。要旨は次の通り。
- 澶淵の盟以来、真宗以降の歴代皇帝が和議を守り続けたことで百年余りの平和が保たれてきた。神宗も北伐を準備しつつ結局は祖宗の地を騒がすことを憚って実行しなかった。現在の徽宗の代も外交は上策を得ていたにもかかわらず、王黼・童貫が李良嗣・董才ら(元は北朝の叛臣で私怨から事を煽った者たち)を重用して辺事を興し、国庫と兵民の命を無為に浪費したと弾劾した。
- 宋昭は「この数人の首を刎ねて天下に謝すべきだ」と主張し、女真は必ず先に盟を破る国であり、弱国(遼)を滅ぼして強国(女真)と国境を接することは中国の福ではないと説いた。むしろ遼を援助し外敵を防がせる藩屏として活用すべきだと論じ、自ら遼への使者として赴き、和議の維持を説きたいと申し出た。
- この上書は童貫らの出師直後、批判を禁じる詔が出ていた中で提出されたため、王黼の怒りを買い、宋昭は除名のうえ連州へ編管(流罪)となった。靖康元年(1126年)になって、この上書の的確さが再評価され登用が検討されたという。
馬拡と王介儒の往復(六月六日〜)
- 六月六日、宣撫司は王介儒らを厚遇して帰した。馬拡の自叙によれば、帰路の涿州で南軍から奪った武器を持つ兵を目撃するなど戦乱の実情を見聞きした。王介儒は「太平の世に慣れた燕の民が突然の戦乱に見舞われるのは痛ましい」と述べ、馬拡は「燕人が宋を慕っているというのは、必ずしも実情に即さない。人情は撫でられれば従い、虐げられれば仇となるのみだ」と応じた。
- 新城で四軍大王(蕭幹)が使者一行を留めようとし、達実林牙が「南北通好百年、なぜ今兵を挙げて地を奪うのか」と詰問した。馬拡は「女真がしばしば燕地を宋に返還すると申し出ていたが、宋は温言でこれを退けてきた。しかし女真がすでに山後を制した以上、宋が動かねば女真が自ら燕を取ってしまう」と説明した。林牙は「西夏もかつて夾攻を持ちかけてきたが宋は相手にしなかったのに、女真の一言で挙兵するのか」と反論、馬拡は「女真の言には実効性があるが西夏にはなかった」と応酬した。
- 帰路、种師道の陣を訪ねた馬拡は、陣地の立地(林を背にした低地)が不利であると進言し、师道は営を移した。雄州に戻った馬拡は童貫の幕僚に燕の内情(燕の精鋭兵は千騎に満たず、内部が動揺していること)を報告したが、直前に种師道・楊可世が白溝で敗れていたこともあり、幕僚たちは「軽々しい発言だ」「斬るべきだ」と激しく反発した。童貫は表向き取り繕い、馬拡に「事はまだ流動的だ、他言するな」と告げた。
- その後、宣撫司は种師道に雄州への撤退を命じたが、师道は「敵は近く、退けば必ず襲われる」と反対しつつも押し切られ、撤退中に燕軍の追撃を受け大きな損害を被った。雄州城内では、劉韐・賈評ら宣撫司の官が燕使一行と旧交を温めつつ、和議の可能性を探ったが、王介儒は「燕人は久しく契丹に属し、宋の武力による威圧に対しては死力を尽くして抵抗するだろう」と述べ、決裂は避けられぬ情勢を示した。
蔡攸の到着と流言(史料:北征紀実)
- 蔡攸が雄州に到着した頃、河北の民の間では「童貫は裏切って寝返った」との流言が広まり、沿道で香を焚いて童貫を呪う者もいたという。蔡攸は童貫と一体で事に当たっていたため、これを正すことができなかった。
撤退の詔と李処温への内応工作(十二日)
- 六月十二日、宣撫司に撤退の詔が届いた。上(徽宗)もこの事態を憂慮したため、諸将を分散して駐屯させることとした。
- 童貫は馬拡に燕での首席重臣を尋ね、李処温の名が挙がると、趙良嗣が喜色を浮かべた。良嗣は「かつて処温と莫逆の交わりを結び、天祚帝失徳の折に共に南朝へ奔ることを誓い、北極廟で誓約した」と述べ、この縁を頼って処温に内応を促す書簡を送ることを提案した。処温の子・李奭からの返書は、内応の準備が進んでいること、燕の兵力不足と女真の脅威、遼の五京のうち四京がすでに陥落した窮状を伝え、時機を見て呼応する意志を示すものであった。
- 良嗣の書簡は、遼がもはや存続し得ないことを説き、処温に対し「燕の地を挙げて宋に献じれば富貴を保てる」と勧誘し、義士を集めて開門迎降するよう促した。処温・李奭の返書はこれに応じる姿勢を見せつつ、事の機密保持と時機の見極めを求める内容であった。