改元と使者派遣の紆余曲折(三月)
- 三月一日、年号を宣和と改めた。三月十八日、朝廷は帰朝官の趙有開・王瓌を女真への使者とし、詔書・礼物を携えて李善慶らとともに渡海させることを決めた。
- 趙良嗣と趙有開の間で国書の形式(信礼か詔書か)をめぐり議論があったが、有開が「女真の首領は節度使に過ぎず詔書で十分」と主張し、李善慶に諮ったところ「いずれでも可」との回答を得た。しかし登州で出発準備中に趙有開が病死し、さらに契丹が遼東の地を割いて女真を「東懐国王」に封じたとの諜報(後に虚報と判明)が入ったため、使者の派遣は中止され、代わりに呼延慶が李善慶らを送り返す任にあたった。
呼延慶の抑留と帰還
- 六月三日、呼延慶が女真軍前に至ると、国主アグダらは使者派遣が中断したことを詰問し、登州の文書のみで正式な使者を欠くことを非礼として呼延慶を抑留した。
- 十二月二十五日、女真は数度の議論を経て呼延慶を釈放した。国主は「海を越えての通好はこちらの本意ではなく、夾攻を求めたのはそちらだ。既に遼の数郡を得た今、他州は捨て置いてもよい。国書ではなく詔書を送ってきたことも非礼で、契丹が我を『東懐国王』に冊立しようとした際にも礼が整わぬとして使者を鞭打って追い返した」と述べ、正式な国書による通好の意志を示すよう求めて呼延慶を帰らせた。