呼延慶の復命と趙良嗣の再派遣(二月〜三月)
- 二月二十六日、呼延慶が帰京し、女真が契丹との和議に失敗し既に上京への攻撃を開始したことを報告した。
- 三月六日、趙良嗣を正使、王瓌を副使として登州から渡海させ、契丹への夾攻と燕地・歳幣の条件を協議させることが決まった。童貫は密旨を受け、宋の外征の名目を借りて燕地回復を図り、買馬を名目に夾攻を約する方針を取った。
趙良嗣の使行記録(燕雲奉使録)
- 三月二十六日、趙良嗣は登州を発ち海路で蘇州関に至り、女真がすでに三路に分かれ上京を攻めていることを知った。上京陥落後、趙良嗣はアグダと龍岡で会見し、燕京一帯(旧漢地)は宋が取り、女真は中京を取るとの夾攻案を協議した。
- アグダは「契丹はすでに我が勢力下にあるが、南朝の誠意に免じ燕雲を譲る」と述べつつ、契丹との和議を禁じる条件を付した。歳幣は当初三十万を提示したが、遼の旧例(五十万)に基づき従来通りとすることで決着した。
- 西京(大同方面)の帰属をめぐっては、アグダは「天祚(阿古)を捕らえるまでは留保する」と述べ、平州・営州・灤州の帰属についても議論が残った。夾攻の進軍路(女真は平州・松林から古北口へ、宋は雄州から白溝へ)を約し、良嗣は帰国した。
- 帰路、アグダは西京での合流が疫病により遅れる旨を伝え、来年の再挙を約した。良嗣は楊朴・尼堪らと国境画定・和議禁止・西京近隣三州(蔚・応・朔)の先取・銀絹の扱いなど六か条を協議し、概ね合意を得た。良嗣は上京陥落時に捕虜となった塩鉄使の蘇寿吉らを伴い帰朝した。
金国書の到来と宋の返書(七月〜九月)
- 七月十八日、金は実喇実魯・大迪烏らを使者とし、国書を携えさせた。国書は契丹の敗走・上京陥落を告げ、燕京一帯の漢地を宋に許す意向を示しつつ、宋が夾攻を怠れば約束を履行できない旨を釘刺した。
- 九月、趙良嗣は実喇実魯らを引見させ、朝廷は歓待の宴を重ねた上で返書を託した。返書は契丹討伐への同心を確認し、燕薊等の旧漢地と居庸・古北・松亭・榆関の回復、歳幣の据え置き、榷場の設置などを約した。馬政・馬拡父子が随行して国書と協議事項を携え、再び女真へ赴いた。
馬政の再訪と西京問題の紛糾(十一月〜)
- 十一月二十九日、馬政は女真に国書を渡したが、アグダは西京割譲の約束を認めず、平・灤・営三州も燕京の管轄外だと主張し、協議は一月余り膠着した。金側は宋の軍備不足を見透かし、燕地を得ても対価を出し渋る宋への不信を強めた。
- この間、馬政の子・馬拡はアグダの狩猟に同行し、弓術を披露して称賛され、「善射の人」の名を賜るなど交流を深めた。金側の生活・軍陣の様子(狩りを兼ねた軍事訓練、簡素な住居、宴席の作法)も記録されている。
- 年末、アグダは新年の朝賀の席で馬拡らを迎え、夫人とともに酒宴を催し、南朝との友好を確認したうえで国書を作成させ、馬政に託して帰国させた。