三朝北盟會編政宣上帙 重和二年 1119年

金使李善慶らの入京と処遇(正月十日)

  • 正月十日、金の使者・李善慶らが京師に到着し、迎賓の宝相院に入った。上は蔡京・童貫・鄧文誥に接待と協議を命じ、李善慶を修武郎、小薩多を従義郎、布達を秉義郎に補し、それぞれ全俸を給した。

女真の来歴と地理

  • 女真はもと古の粛慎国で、朱理真の訛りとされ、黒水靺鞨・渤海の別族・辰韓の後裔とも言われる。混同江の東、長白山・鴨緑水を発源とする地に居住し、三国志の挹婁、元魏の勿吉、隋唐の黒水靺鞨に相当する。七十二の部落が各首領のもとに分立していたが、隋唐にはたびたび朝貢し、開元中には黒水府が置かれ部長が都督・刺史に任じられた。五代以降「女真」と称され、契丹の耶律阿保機(安巴堅)の代に強宗大姓が遼陽近辺へ移され統制を受けた(熟女真)。一方、粟末江以北の広大な地域には遼の統制外の生女真が散居し、部族ごとに雄長を推戴していた。
  • 地は林木・麻穀に富み、名馬・砂金・大珠・人参・松実・鷹(海東青)などを産する。寒冷厳しく、住居は木を組んだ簡素な小屋で、暖房に炕(オンドル)を用いる。仏を篤く敬い、客をもてなす際は主人が立って給仕するなど独特の礼俗を持つ。婚礼・音楽・言語・姓氏(完顔氏など)・官職名(万戸・千戸・百人長など)・軍制(伍長・什長・百長の連座制、密議の作法、戦の陣立てなど)も詳しく記録され、統治には文字を用いず刻木を契約や徴発の符とし、刑罰は柳条での笞打ちを基本とするなど独自の慣習法があった。

遼・宋との関係の推移

  • 遼はかつて女真を覊縻し、東京・咸州などに軍政機関を置いて統制した。宋には建隆二年(961年)以来朝貢が始まり、雍熙年間には契丹の妨害を訴えて出兵を求めたが、真宗は詔で慰撫するに留めた。仁宗朝以降は交流が絶えていたが、元豊年間に一時、高麗経由での通交再開が図られたものの実現しなかった。
  • 女真の首領は新羅系の完顔氏を称し、数代を経て阿固達(アグダ)に至った。阿固達は体躯雄偉で寡黙・大志を持ち、周辺部族を懐柔・武力の両面で併合し、勢力を蓄えた。道宗末年、宴席で遼の貴人と諍いを起こし刺傷事件を起こしたが、道宗は「遠人への信を示すべし」として殺さず帰した。

遼との対立と金の建国

  • 天祚帝の代、宮中で北珠(真珠)を珍重するあまり、その採取のため女真に過酷な負担を課し(海東青の献上を含む)、諸部族の怨みが募った。天慶二年、混同江の釣魚の宴で天祚が阿固達の態度を怪しみ誅殺を検討したが側近の諫めで止まった。これを機に阿固達は離反を決意し、周辺部族を糾合して軍備を整えた。
  • 天慶四年、女真は挙兵して遼の寧江州を攻略し、以後、蕭嗣先・遼の四路都統らを次々破って鉄騎十万余を有するに至った。天祚は親征を試みたが大敗し、東京黄龍府をはじめ遼東の諸州を失った。
  • 楊朴(もと宋の進士)の進言により、阿固達は皇帝を称し、国号を「大金」、元号を「収国」と定めた。その後、遼へ十か条の要求(尊号・国号・玉輅・衮冕・御璽・兄弟の礼・歳幣半減の割譲など)を出したが、遼が冊封した称号「東懷国」を不服として使者を鞭打ち追い返すなど、両国関係は破綻に向かった。
  • 政和七年(1117年)、蘇復州の民百余戸が乱を避けて渡海し文登に漂着したのを機に、宋は蔡京・童貫の議により女真との通好を進め、以後、夾攻して燕雲旧地を回復する計画へと発展し、これが後の戦乱の萌芽となった。