左傳紀事本末勾踐、呉を滅ぼす(勾踐滅呉)

呉と越の抗争から、越王勾踐が呉を滅ぼすまでを、昭公三十二年(前510年)から哀公二十二年(前473年)まで追う篇。定公十四年(前496年)、檇李で勾踐が罪人に自ら頸を刎ねさせて呉の目を奪い、闔廬は傷ついて陘で卒した。夫差は庭に人を立たせて父の仇を忘れぬよう言わせ、三年で夫椒に報いた。会稽に籠った勾踐の和睦を、伍員は「越は心腹の疾」と諫めたが容れられず、後に属鏤の剣を賜って死に、「三年で弱まりが始まる」と言い残した。夫差が黄池で晉と長を争っている間に越が呉に入り、笠澤の戦いを経て、哀公二十二年(前473年)に越が呉を滅ぼし、夫差は甬東を辞して縊れた。

年表(16件)

昭公三十二年(前510年)

  • 夏、呉が越を討った。初めて越に師を用いたのである。史墨は「四十年たたぬうちに越は呉を有つのではないか。越が歳星を得ているのに呉が討った。必ずその凶を受けよう」と言った。

定公五年(前505年)

  • 越が呉に入った。呉が楚にいたからである。

定公十四年(前496年)

  • 呉が越を討った。越子勾踐が防ぎ、檇李に陣した。勾踐は呉の整っているのを患え、決死の士に二度襲わせたが動かなかった。
  • そこで罪人を三列に並べ、剣を頸に当てて言わせた。「二軍が事を構えるとき、臣は旗鼓を犯し、君の陣前で不敏でありました。あえて刑を逃れず、あえて死に帰します」。そのまま自ら頸を刎ねた。呉の師がそれに目を奪われた隙に、越子は討って大敗させた。
  • 靈姑浮が戈で闔廬を撃ち、闔廬は足の親指を傷つけられ、その履の片方を取られた。引き返して陘で卒した。檇李から七里の所であった。
  • 夫差は人を庭に立たせ、自分が出入りするたびに必ず「夫差よ、越王がお前の父を殺したことを忘れたか」と言わせ、「あえて忘れません」と答えた。三年してついに越に報いた。

哀公元年(前494年)

  • 春、呉王夫差が夫椒で越を破った。檇李に報いたのである。そのまま越に入った。越子は甲楯五千で会稽に籠り、大夫の種に呉の太宰嚭を通じて和睦を求めさせた。呉子は許そうとした。
  • 伍員は言った。「なりません。臣は聞いております、徳を樹てるには増すに如かず、疾を去るには尽くすに如かずと。
  • 昔、有過の澆が斟灌を殺して斟鄩を討ち、夏后相を滅ぼした。后緡は身重で、穴から逃げ出して有仍に帰り、少康を生みました。仍の牧正となり、澆を憎んでよく戒めた。澆が椒に捜させると、有虞へ逃げて庖正となり、その害を除いた。虞思はそこで二人の姚を妻とし、綸に邑を与えた。田は一成、衆は一旅。よくその徳を布き、その謀を兆し、夏の衆を収めてその官職を撫し、女艾に澆を偵察させ、季杼に豷を誘わせ、そのまま過と戈を滅ぼして禹の績を復し、夏を祀って天に配し、旧の物を失いませんでした。
  • いま呉は過に及ばず、越は少康より大きい。あるいはこれを豊かにしようというのでは、難しいのではありませんか。勾踐はよく親しんで施すことに務め、施しては人を失わず、親しんでは労を棄てぬ。我らと壌を同じくして代々仇讐である。ここにおいて克ちながら取らず、そのうえ存続させる。天に違い寇讐を長ずるものです。後に悔いても、もはや取り返せません。
  • 姫姓の衰えるのは日を待って知れましょう。蛮夷の間に介在しながら寇讐を長じ、それで覇を求めても必ず行われますまい」。
  • 聴かなかった。退いて人に告げて言った。「越は十年生み集めて十年教え訓える。二十年の後、呉は沼となるのではないか」。
  • 三月、越と呉が和睦した。呉が越に入ったことを経に書かないのは、呉が慶事を告げず越が敗北を告げなかったからである。
  • 八月、呉が陳を侵した。旧怨を修めたのである。
  • 呉の師が陳にあり、楚の大夫はみな懼れて「闔廬はただよくその民を用いて柏舉で我らを破った。いまその嗣はさらに甚だしいと聞く。どうしたものか」と言った。
  • 子西は言った。「諸君は睦まじくないことを憂えよ。呉を患えるには及ばぬ。昔、闔廬は食に二つの味を用いず、居るのに席を重ねず、室は壇を高くせず、器は彩り彫らず、宮室に観台を作らず、舟車を飾らず、衣服や財用は択んで費えを取らなかった。国にあって天が災いや疫を下せば、自ら孤寡を巡ってその欠乏を供えた。軍にあっては、煮炊きした食は分けてから敢えて食べ、その味わうものは卒や乗の者も与った。勤めてその民を憐れみ、ともに労苦と安逸を分けた。それゆえ民は疲れ労れず、死んでも知は空しくならなかった。我が先大夫の子常はこれを易えた。それが我らを敗った所以である。
  • いま夫差は宿るごとに台榭と池を設け、泊まるごとに妃嬙嬪御を置き、一日の行いに欲するところは必ず成し、玩び好むものは必ず従え、珍しいものをこれ集め、観楽をこれ務め、民を仇のように見て日々新たに使う。それは自ら敗れているのだ。どうして我らを敗れよう」。

哀公六年(前489年)

  • 春、呉が陳を討った。改めて旧怨を修めたのである。

哀公七年(前488年)

  • 夏、公が鄫で呉と会した。呉は百牢を徴した。子服景伯が答えて「先王にそのような例はありません」と言った。呉人は「宋は百牢であった。我が魯が宋に後れるわけにいかぬ。しかも魯の牢は晉の大夫に十を過ぎた。呉王に百牢もよいではないか」と言った。
  • 景伯は言った。「晉の范鞅は貪って礼を棄て、大国をもって敝邑を懼れさせた。だから敝邑は十一牢としました。君がもし礼によって諸侯に命ぜられるなら数があります。もしまた礼を棄てられるなら淫らな者となります。周が王たるや礼を制し、上の物も十二を過ぎませんでした。天の大数としたのです。いま周礼を棄てて必ず百牢というのは、ただ執事のお心次第です」。
  • 呉人は聴かなかった。景伯は「呉は亡ぶだろう。天を棄てて本に背いている。与えなければ必ず我らに疾を棄てよう」と言い、そこで与えた。

哀公八年(前487年)

  • 三月、呉が我が国を討ち、泗上に駐屯した。
  • 六月、齊侯が呉へ使いを遣わして師を請い、我が国を討とうとした。

哀公九年(前486年)

  • 春、齊侯が公孟綽を遣わして呉に師を断った。呉子は「昨年、寡人は命を聞いた。いままたこれを改める。従うところが分からぬ。進んで君のもとで命を受けよう」と言った。
  • 秋、呉が邗溝に城を築き、江と淮を通じた。
  • 冬、呉子が使いを寄越して師を警め、齊を討とうとした。

哀公十年(前485年)

  • 公が呉子・邾子・郯子と会して齊の南の辺境を討ち、鎴に軍した。齊人が悼公を弑し、師に訃報した。呉子は軍門の外で三日哭した。
  • 徐承が舟師を率いて海から齊に入ろうとしたが、齊人が破った。呉の師はそこで帰った。
  • 秋、呉子が使いを寄越して改めて師を警めた。

哀公十一年(前484年)

  • 郊の戦いのゆえに、公が呉子と会して齊を討った。五月、博に克ち、壬申、嬴に至った。
  • 中軍は王に従い、胥門巢が上軍を、王子姑曹が下軍を、展如が右軍を率いた。齊の國書が中軍を、高無㔻が上軍を、宗樓が下軍を率いた。
  • 陳僖子はその弟の書に「お前が死ねば、私は必ず志を得る」と言った。宗子陽と閭丘明は互いに励まし合った。桑掩胥が國子(國書)の御をした。公孫夏は「二人は必ず死ぬ」と言った。
  • 戦おうとして、公孫夏はその徒に虞殯(挽歌)を歌わせ、陳子行はその徒に含玉を用意させ、公孫揮はその徒に「一人一尋の縄を持て。呉人は髪が短い」と命じた。東郭書は「三たび戦えば必ず死ぬ。ここで三たびめだ」と言い、弦多に琴を届けさせて「私はもうあなたに会えぬ」と言った。陳書は「この行きでは、私は鼓を聞くだけで金(退却の鉦)は聞かぬ」と言った。
  • 甲戌、艾陵で戦った。展如が高子を破り、國子が胥門巢を破った。王の親兵が助けて齊の師を大敗させ、國書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書、革車八百乗、甲首三千を捕らえて公に献じた。
  • 戦おうとするとき、呉子は叔孫を呼んで「お前の職は何か」と言った。「司馬に従います」と答えた。王は甲・剣・鈹を賜って「お前の君の事を奉じ、敬んで命を廃するな」と言った。叔孫は答えられなかった。衞の賜(子貢)が進み出て「州仇は甲を奉じて君に従います」と言い、拝した。
  • 公は太史固に國子の首を返させ、新しい箱に入れ、玄纁を敷き、組紐の帯を加え、書を上に置いて「天がもし正しからざるを識らねば、どうして下国にこのようなことをさせよう」と記した。
  • 秋、季孫は守備を修めるよう命じ、「小が大に勝つのは禍である。齊が至る日も遠くない」と言った。
  • 呉が齊を討とうとしたとき、越子はその衆を率いて朝した。王および列士にみな贈り物があった。呉人はみな喜んだが、ただ子胥だけが懼れて「これは呉を肥え太らせるものだ」と言い、諫めた。
  • 「越は我らにとって心腹の疾です。壌地を同じくして我らに欲を持っている。その柔らかな服従はその欲を遂げるためです。早く事に取りかかるに如きません。齊に志を得ても石ころの田を得るようなもの、用いるところがありません。越が沼とならねば、呉は滅びます。医者に疾を除かせて『必ず種を残せ』という者はありません。盤庚の誥に『顛越して共せぬ者があれば、劓ち殄して育つを遺すなかれ。この邑に種を易えさせるなかれ』とある。これが商の興った所以です。いま君はこれを易え、大を求めようとされる。難しいのではありませんか」。
  • 聴かなかった。齊に使いし、その子を鮑氏に託して王孫氏とした。役から返ると、王はこれを聞いて属鏤の剣を賜って死なせた。死のうとして「我が墓に檟を植えよ。檟は材とできる。呉は亡ぶだろう。三年でその弱まりが始まる。満ちれば必ず毀れるのが天の道である」と言った。

哀公十二年(前483年)

  • 公が橐臯で呉と会した。
  • 秋、衞侯が鄖で呉と会した。公と衞侯・宋の皇瑗は盟ったが、呉の盟はついに断った。

哀公十三年(前482年)

  • 公が單平公・晉の定公・呉の夫差と黄池で会した。
  • 夏六月丙子、越子が呉を討った。二隊に分け、疇無餘と謳陽が南方から先に郊に及んだ。呉の太子友・王子地・王孫彌庸・壽於姚が泓のほとりからこれを望んだ。彌庸は姑蔑の旗を見て「我が父の旗だ。仇を見て殺さぬわけにいかぬ」と言った。太子は「戦って克たねば国を亡ぼす。待つことを請う」と言った。彌庸は承知せず、徒五千を集め、王子地が助けた。
  • 乙酉、戦って彌庸が疇無餘を捕らえ、地が謳陽を捕らえた。越子が至り、王子地が守った。丙戌、また戦って呉の師を大敗させ、太子友・王孫彌庸・壽於姚を捕らえた。丁亥、呉に入った。呉人が王に敗北を告げた。王はそれが漏れることを憎んで、幕の下で七人を自ら刎ねた。
  • 秋七月辛丑、盟った。呉と晉が先を争った。呉人は「周室において我らが長である」と言い、晉人は「姫姓において我らが伯である」と言った。
  • 趙鞅は司馬寅を呼んで「日が傾いた。大事が成らぬのは二人の臣の罪だ。鼓を建て列を整えれば、二人の臣は死ぬ。長幼は必ず知れよう」と言った。答えて「ひとまず様子を見ることを請う」と言い、返って「肉食の者に黒ずみはない。いま呉王には黒ずみがある。国が破られたか、太子が死んだか。しかも夷の性は軽く、久しくは忍べぬ。少し待つことを請う」と言った。そこで晉人に先んじさせた。
  • 呉人は公を晉侯に会わせようとした。子服景伯が使者に答えた。「王が諸侯を合わせれば、伯が侯や牧を率いて王に見え、伯が諸侯を合わせれば、侯が子男を率いて伯に見えます。王より下、朝聘の玉帛は同じでありません。だから敝邑の呉への職貢は晉より豊かで及ばぬことはない。伯としてのことです。いま諸侯が会して君が寡君を晉君に会わせられれば、晉が伯となります。敝邑は職貢を改めましょう。魯は呉に八百乗の賦をしております。もし子男とされるなら、邾の半ばをもって呉に属し、邾のように晉に仕えることになりましょう。しかも執事は伯として諸侯を召しながら侯で終わられる。何の利がありましょう」。
  • 呉人はそこでやめたが、やがて悔い、景伯を囚えようとした。景伯は「何のことか。魯にはもう後継がある。二乗と六人を従えるだけだ。遅い早いはご命令のままに」と言った。そのまま囚えて帰った。
  • 户牖に至って大宰に言った。「魯はまさに十月の上の辛の日に上帝と先王を祀り、季の辛の日に終えます。代々職としております。襄公以来これを改めておりません。もし会せなければ、祝宗はやがて『呉がまことにそうさせた』と言いましょう。しかも魯が供せぬといってその賤しい者七人を捕らえられても、何の損がありましょう」。大宰嚭は王に「魯に損はなく、ただ悪名になるだけです。帰すに如きません」と言った。そこで景伯を帰した。
  • 呉の申叔儀が公孫有山氏に糧を乞うて「佩玉は蕊のように垂れるが、余には繋ぐものがない。旨い酒一盛、余と褐の父はそれを横目に見るだけだ」と言った。答えて「粱ならないが、粗いものならある。首山に登って『庚か、癸か』と呼ばわれば承知しよう」と言った。
  • 王は宋を討ってその丈夫を殺し婦人を囚えようとした。大宰嚭は「克てても居られません」と言った。そこで帰った。
  • 冬、呉と越が和睦した。

哀公十七年(前478年)

  • 三月、越子が呉を討った。呉子は笠澤で防ぎ、水を挟んで陣した。越子は左右の勾卒を編み、夜に左になり右になって鼓を打ち鬨を作って進ませた。呉の師は分かれて防いだ。越子は三軍でひそかに渡り、呉の中軍に当たって鼓を打った。呉の師は大いに乱れ、そのまま破られた。

哀公十九年(前476年)

  • 春、越人が楚を侵した。呉を誤らせるためである。

哀公二十年(前475年)

  • 秋、呉の公子慶忌がしきりに呉子に諫めて「改められねば必ず亡びます」と言った。聴かれず、出て艾に居り、そのまま楚へ行った。越が呉を討とうとしていると聞き、冬、帰って越と和すことを請うた。そのまま帰り、不忠の者を除いて越に言い訳しようとしたが、呉人が殺した。
  • 十一月、越が呉を囲んだ。趙孟は喪の食を減らした。楚隆が「三年の喪は親しみの極みです。主がさらに減らされるのは、わけがおありか」と言った。趙孟は「黄池の役で先主は呉王と誓約して『好悪を同じくする』と言った。いま越が呉を囲み、嗣子は旧業を廃さずにこれに敵する。晉の及ぶところではない。私はそれゆえ減らすのだ」と言った。
  • 楚隆が「もし呉王に知らせればどうでしょう」と言った。趙孟が「できるか」と言うと、隆は「試みることを請う」と言い、そこで行った。
  • まず越の軍に赴いて「呉が上国を犯し間したことは多い。君が自ら討たれると聞いて、諸夏の人で欣び喜ばぬ者はない。ただ君の志が遂げられぬことを恐れる。入って見ることを請う」と言い、許された。
  • 呉王に告げた。「寡君の老の無恤は、陪臣の隆にあえてその共せぬことを謝させます。黄池の役で君の先臣志父は盟に与って『好悪を同じくする』と申しました。いま君が難におられ、無恤はあえて労を憚りませんが、晉国の及ぶところではありません。陪臣にあえてこれを申し述べさせます」。
  • 王は拝して稽首し、「寡人は不才で越に仕えられず、大夫の憂いとなった。命の辱めに拝す」と言い、簞の珠を与えて趙孟に問わせ、「勾踐はまさに寡人を生かして憂えさせよう。寡人は死ぬこともできぬ」と言った。
  • 王は「溺れる人は必ず笑うという。私は問いたいことがある。史黯はどうして君子となれたのか」と言った。答えて「黯は進んでは憎まれず、退いては謗る言葉がありませんでした」と言った。王は「もっともだ」と言った。

哀公二十二年(前473年)

  • 冬十一月丁卯、越が呉を滅ぼした。呉王に甬東に居るよう請うたが、辞して「孤は老いた。どうして君に仕えられよう」と言い、そこで縊れた。越人は伴って帰った。

史論(士竒)

  • 越王勾踐は会稽に籠り、垢を含み恥を忍んで呉を肥やして臣従し、石室に繋がれた囚となって命は掌股に懸かった。それでもついに艱を出て険を済り、重ねて越の山を見ることができた。
  • 国に帰ってからは死者を弔い孤児を問い、生み集め教え訓え、夏にはなお火を抱き冬には氷を握り、目が倦めば蓼で刺し、胆を戸に懸けて出入りに必ず嘗めた。刻苦して淬ぎ厲ますこと、人世の堪えられぬところを極めた。
  • そのうえ范蠡・文種・計倪ら諸賢が佐け、あるいは内を撫しあるいは外を営んだ。勾踐は心を危くし慮りを深くして、言は入らぬものなく、計は従わぬものなかった。ついに呉の疆を沼に環らせ、快く宿怨を償った。堅忍の志士のなすところではないか。
  • 闔閭が檇李で死んだとき、夫差は人を庭に立たせて訓えさせ、「夫差よ、越王がお前の父を殺したことを忘れたか」と言わせ、「あえて忘れません」と答えた。三年でついに越に報い、その君を降して夫人ともども僕妾とした。孝でないとはいえぬ。勾踐を赦して殺さなかったのは、仁でないとはいえぬ。
  • ところがその器は小さくて満ちやすかった。楚を破って以来、雄心はいよいよ恣となり、上国に兵を称して齊や魯と釁を結び、戦勝と攻克がその内を驕らせ、台池と嬪御がその外を蠱した。これによって忠言を棄てて納れず、心腹の疾を疥や瘍のように忽せにした。
  • そもそも呉と越は勢いとして並び存し得ぬ。勾踐は辱めを忍び苦を習い、小さな忠と曲がった謹みを呉を釣る餌とした。下では其の糞を嘗めて上ではその心を食らった。その隠れた憂い、近い患いは、東門の目を抉るまでもなく見えていたはずである。
  • それを夫差はまさしく宰嚭の讒を信じ、黄池の長を争い、淫らに奢って無道であった。自ら敗亡を取り、身は餘杭に死んで天下の笑いものとなった。前後を概観すれば、賢と不肖のなんと大きく懸け隔たることか。
  • 子胥は呉の老臣で、涙を灑ぎ肝を披き、忠は日月を貫いた。少伯(范蠡)は勾踐の寗武子であり、相い従って羈絏の身となり、ついに故君を返した。文種はまことに留まる者となり、九術のうち三つを用いて呉を沼とした。この三人はみな呉と越が存亡を頼んだ者であり、没しても百世祀られるべき者である。
  • ところが一人は鴟夷に沈められることを免れず、一人はついに属盧の誅に就いた。もし少伯が幾を見て遠く引かなかったら、やはり弓を蔵し狗を烹る類となったであろう。
  • 夫差はもとより荒み盲いて深く責めるに足りぬ。勾踐に至っては、まことに長頸烏喙である。
  • しかも檇李の戦いで闔閭は足の親指を傷つけられて陘で卒した。とすれば勾踐は夫差にとって天を共にせぬ仇讐である。夫椒の報復は理としてまことに当然であった。すでに土を納れ命を帰したのを、死なせずに遇し、そのうえ縦してそのうえ封じた。勾踐に大いに造すところがあったのではないか。
  • 幸いに故国に返り、「一言は再びせず」の信を守って生涯呉に仕えていたなら、夫差が貪り子胥が忌んだとしても、必ずしもすぐ刈り取って東封を恣にしたとは限らぬ。それを虚に乗じ釁を伺い、その太子を俘にしてその都を襲った。何の義があろう。
  • 再び呉の師を破り、夫差が和睦を請うたのを許さなかったのは、天が与えるのに取らなかった覆轍に懲りたとしても、なお委曲を尽くしてよく全うすべきであった。それをどうして自殺を迫り、ついに至徳の裔(泰伯の後)を忽ち祀られぬようにしたのか。報い施す道が、はたしてこのようであってよいのか。
  • 少伯が微を覩てすみやかに去ったのも、思うにここに見るところがあったのである。
  • 夫差が甬東の辱めに忍びなかったのは、項王が再び江を渡らなかったのと事はほぼ同じである。それを烏喙(勾踐)に比べれば、なお烈士の風があるではないか。