左傳紀事本末秦の穆公、西戎に覇たり(秦穆公伯西戒)
秦が芮・梁を取って東に出ようとし、晉と交わりながらついに西戎に覇となるまでを、桓公三年(前709年)から文公六年(前621年)まで扱う篇。穆公は惠公を納れ、飢饉には汎舟の役で粟を輸し、韓原で捕らえた晉侯もついに帰した。重耳を送り返して文公を立て、王を納れようとして河上に軍した。僖公三十二年(前628年)、蹇叔の諫めを退けて鄭を襲わせ、弦高に阻まれ、殽で三帥を捕らえられた。穆公は素服で郊に哭して「孤の罪である」と言い、孟明を替えなかった。文公三年(前624年)、王官と郊を取って殽の屍を封じ、そのまま西戎に覇となる。文公六年(前621年)に卒し、子車氏の三子を殉として黄鳥を賦された。
年表(25件)
- 桓公三年前709年芮姜が芮伯萬を追い出し、芮伯が魏に居する
- 桓公四年前708年秦が芮を小さく見て敗れ、王の師とともに魏を囲んで芮伯を捕らえる
- 桓公十年前702年秦人が芮伯萬を芮に納れる
- 僖公九年前651年郤芮の策で夷吾が重く賄い、秦の師が晉の惠公を納れる
- 僖公十年前650年㔻豹が晉討伐を請うが、穆公が禍に違うとして退ける
- 僖公十三年前647年晉の飢饉に粟を輸し、雍から絳まで続く汎舟の役となる
- 僖公十四年前646年秦が飢えて糧を乞うが、晉人が与えない
- 僖公十五年前645年韓原で晉侯を捕らえ、穆姫の訴えと呂甥の対によって帰す
- 僖公十七年前643年太子圉が人質となり、秦が河東を返して娘を娶らせる
- 僖公二十二年前638年太子圉が嬴氏を残して晉へ逃げ帰る
- 僖公十八年前642年梁伯が新里を広げながら実たせず、秦がこれを取る
- 僖公十九年前641年梁伯が民を疲れさせて潰え、秦がそのまま梁を取る
- 僖公二十三年前637年重耳が諸国を巡って秦に至り、懷嬴の一件を経て礼を受ける
- 僖公二十四年前636年秦伯が重耳を納れ、子犯が璧を返して河で誓う
- 僖公二十五年前635年秦伯が王を納れようとし、晉侯が断って自ら王を迎える
- 僖公二十五年(鄀の役)前635年秦が偽の盟で商密を降し、申公子儀と息公子邊を捕らえる
- 僖公三十年前630年鄭を囲むが、燭之武の説に秦伯が応じて師を引く
- 僖公三十二年前628年蹇叔の諫めを退けて鄭を襲わせ、蹇叔が殽での敗を予言する
- 僖公三十三年前627年弦高に阻まれて滑を滅ぼし、殽で三帥を捕らえられる
- 文公元年前626年穆公が敗を自らの貪りとし、孟明を改めて政に当たらせる
- 文公二年前625年彭衙で敗れるが孟明を用い続け、孟明が徳を修めて備える
- 文公三年前624年王官と郊を取って殽の屍を封じ、そのまま西戎に覇となる
- 文公四年前623年晉が王官の役に報い、穆公が江の滅亡に服を降して憐れむ
- 文公五年前622年楚に二心を抱いた鄀に秦人が入る
- 文公六年前621年穆公が卒し、子車氏の三子を殉として国人が黄鳥を賦する
桓公三年(前709年)
- 芮伯萬の母の芮姜は、芮伯に寵する者が多いのを憎み、それゆえ追い出した。芮伯は出て魏に居した。
桓公四年(前708年)
- 秋、秦の師が芮を侵して敗れた。これを小さく見たからである。
- 冬、王の師と秦の師が魏を囲み、芮伯を捕らえて帰った。
桓公十年(前702年)
- 秋、秦人が芮伯萬を芮に納れた。
僖公九年(前651年)
- 晉の郤芮は夷吾に重く秦に賄って入国を求めさせ、「人がまことに国を有つのだ。我らが何を惜しもう。入って民を得られれば、土地が何ほどのものか」と言った。従った。齊の隰朋が師を率いて秦の師と会し、晉の惠公を納れた。
僖公十年(前650年)
- 㔻鄭が殺され、㔻豹が秦へ亡命し、秦伯に言った。「晉侯は大きな主に背いて小さな怨みを忌む。民は与しません。討てば必ず出るでしょう」。公は「衆を失ったなら、どうして人を殺せよう。禍に違うようで、誰が君を出せよう」と言った。
僖公十三年(前647年)
- 冬、晉が重ねて飢饉となり、秦に糧を乞わせた。秦伯が子桑に「与えるか」と言うと、「重ねて施して報いれば、君は何を求められましょう。重ねて施して報いなければ、その民は必ず離れる。離れてから討てば、衆がなくて必ず敗れます」と答えた。
- 百里に「与えるか」と言うと、「天災の流行は国家が代わる代わる被るもの。災いを救い隣を憐れむのは道です。道を行えば福があります」と答えた。
- 㔻鄭の子の豹が秦にいて、晉を討つことを請うた。秦伯は「その君こそ憎いが、その民に何の罪があろう」と言った。
- 秦はここにおいて粟を晉に輸した。雍から絳まで相い継いだ。これを汎舟の役と名づけた。
僖公十四年(前646年)
- 冬、秦が飢えて晉に糧を乞わせたが、晉人は与えなかった。
僖公十五年(前645年)
- 冬、秦伯が晉を討ち、韓原で戦った。晉の戎馬が泥にはまって止まった。公が慶鄭を呼んだ。慶鄭は「諫めに逆らい卜に違い、もとより敗れることを求められた。またどうして逃げられよう」と言い、そのまま去った。
- 梁由靡が御し、韓簡が車右、虢射が輅となって秦伯を止めようとしたが、慶鄭が公を救おうとして誤らせ、そのまま秦伯を取り逃がした。秦が晉侯を捕らえて帰った。
- 晉の大夫は髪を乱し、草を敷いて宿って従った。秦伯は断らせて「諸君はなぜそう憂えるのか。寡人が君に従って西するのも、晉の妖しい夢を踏むだけのこと。どうして極端なことをあえてしよう」と言った。晉の大夫は三たび拝して稽首し、「君は后土を履み皇天を戴かれる。皇天后土がまことに君の言を聞かれた。群臣はあえて下風に在ります」と言った。
- 穆姫は晉侯が至ろうとしていると聞き、太子罃・弘と娘の簡璧とともに臺に登って薪を踏み、喪服姿の使いを出して迎えさせ、あわせて告げた。「上天が災いを降し、我が二人の君に玉帛をもって相見えず戎を興させました。もし晉君が朝に入られれば婢子は夕に死に、夕に入られれば朝に死にます。ただ君が裁かれよ」。そこで靈臺に置いた。
- 大夫が入れることを請うた。公は言った。「晉侯を捕らえて厚く帰ったのに、やがて喪となって帰る。何に用いよう。大夫たちに何の得があろう。しかも晉人は憂え戚しんで我らを重んじ、天地をもって我らに要める。晉の憂いを図らねばその怒りを重くする。私が我が言を食むのは天地に背くこと。重い怒りは担いがたく、天に背くのは不祥。必ず晉君を帰す」。
- 公子縶は「殺すに如かず。慝を集めさせるな」と言った。子桑は「帰してその太子を人質とすれば、必ず大きな和睦を得られる。晉はまだ滅ぼせぬのに、その君を殺せば、ただ悪を成すだけ。しかも史佚の言に『禍を始めるな、乱を恃むな、怒りを重ねるな。重い怒りは担いがたく、人を凌ぐのは不祥』とある」と言った。そこで晉と和睦することを許した。
- 晉侯は郤乞に瑕呂飴甥に告げさせ、あわせて召した。子金(呂甥)が言葉を教えた。「国人を朝に集め、君命として賞を与え、あわせて『孤は帰れても社稷を辱めた。太子圉を副に立てることを卜え』と告げよ」。衆はみな哭した。晉はここにおいて爰田を作った。
- 呂甥は「君は自らの亡命を憐れまず群臣を憂えられる。惠の至りである。君をどうするのか」と言った。衆は「どうすればよいか」と言った。答えて「税を徴し武具を繕って孺子を輔ける。諸侯がこれを聞けば、君を喪ってなお君があり、群臣は睦み和して甲兵はいよいよ多い。我らを好む者は勧め、我らを悪む者は懼れる。益があろう」と言った。衆は喜んだ。晉はここにおいて州兵を作った。
- はじめ晉の獻公が伯姫を秦に嫁がせることを筮い、歸妹の睽を得た。史蘇が占って「不吉です。その繇に『士は羊を刲くも血なし、女は筐を承くるも貺なし。西隣の責言、償うべからず。歸妹の睽は、なお相なきがごとし』とあります。震の離であり、また離の震です。雷となり火となり、嬴が姫を敗る。車はその輹を脱し、火はその旗を焚く。行師に利あらず、宗丘に敗る。歸妹睽孤、寇はその弧を張る。姪はその姑に従い、六年でその逋げ帰り、その国に帰ってその家を棄て、明年に高梁の墟で死ぬ」と言った。
- 惠公が秦にあって「先君がもし史蘇の占に従われていたら、私はここまで至らなかった」と言った。韓簡が侍って言った。「亀は象であり、筮は数です。物が生じてから象があり、象があってから滋え、滋えてから数がある。先君の徳を敗ることは数え得ましょうか。史蘇のこの占も、従わずして何の益がありましょう。詩に『下民の孽は天より降るにあらず。僔り沓り背き憎むは、職として競うこと人による』とあります」。
- 十月、晉の陰飴甥が秦伯と会して王城で盟った。秦伯が「晉国は和しているか」と言うと、こう答えた。「和しておりません。小人はその君を失ったことを恥じ、その親を喪ったことを悼み、税を徴し武具を繕うことを憚らず圉を立てて『必ず讐に報いる。むしろ戎狄に仕えよう』と言います。君子はその君を愛しながらその罪を知り、税を徴し武具を繕うことを憚らず秦の命を待って『必ず徳に報いる。死んでも二心はない』と言います。それゆえ和しません」。
- 秦伯が「国は君のことを何と言うか」と言うと、こう答えた。「小人は憂えて免れぬと言い、君子は恕して必ず帰ると言います。小人は『我らは秦を毒した。秦がどうして君を帰そう』と言い、君子は『我らは罪を知った。秦は必ず君を帰す』と言います。二心を抱けば捕らえ、服せば措く。これ以上厚い徳はなく、これ以上威ある刑はない。服する者は徳を懐き、二心の者は刑を畏れる。この一役で秦は覇たり得ます。納れて定めず、廃して立てず、徳を怨みに換える。秦はそうされますまい」。
- 秦伯は「それが私の心だ」と言い、晉侯の館を改め、七牢を饋った。
- 蛾析が慶鄭に「行かれてはどうか」と言った。答えて「君を敗に陥れ、敗れて死なず、そのうえ刑を失わせるのは人臣ではない。臣でありながら臣たらぬのだから、行ってどこへ入れよう」と言った。十一月、晉侯が帰った。丁丑、慶鄭を殺してから入った。
- この年、晉はまた飢えた。秦伯はまた粟を饋って「私はその君を怨むがその民を憐れむ。しかも私は聞いている、唐叔が封ぜられたとき箕子は『その後は必ず大きくなる』と言った。晉をどうして望めよう。ひとまず徳を樹てて能ある者を待とう」と言った。ここにおいて秦は初めて晉の河東に税を徴し、官司を置いた。
僖公十七年(前643年)
- 夏、晉の太子圉が秦の人質となった。秦は河東を返して娘を娶らせた。
- 惠公が梁にいたとき、梁伯が娘を娶らせた。梁嬴が身重となって期を過ぎた。卜招父とその子が卜った。その子は「男一人と女一人が生まれよう」と言った。招は「そのとおり。男は人の臣となり、女は人の妾となる」と言った。それゆえ男を圉、女を妾と名づけた。子圉が西で人質となると、妾は宦女となった。
僖公二十二年(前638年)
- 晉の太子圉が秦の人質となっていて逃げ帰ろうとし、嬴氏に「あなたと帰ろうか」と言った。答えて「あなたは晉の太子でありながら秦で辱められている。あなたが帰りたいのも当然ではありませんか。寡君が婢子に巾櫛を執って侍らせたのは、あなたを繋ぎ止めるためです。あなたに従って帰れば君命を棄てることになる。あえて従いませんが、あえて口外もしません」と言った。そのまま逃げ帰った。
僖公十八年(前642年)
- 梁伯はその国を広げながら実たすことができなかった。新里と名づけたが、秦がこれを取った。
僖公十九年(前641年)
- 春、そのまま城を築いて居した。梁が亡んだ。経にその主を書かないのは、自ら取ったからである。
- はじめ梁伯は土木を好み、しきりに城を築いても住まなかった。民は疲れて堪えられなかった。そこで「某の寇がまさに至る」と言って公宮に濠を掘り、「秦がまさに我らを襲う」と言った。民は懼れて潰え、秦はそのまま梁を取った。
僖公二十三年(前637年)
- 晉の公子重耳が難に及んだとき、晉人は蒲城でこれを討った。蒲城の人は戦おうとしたが、重耳は承知せず、「君父の命を保ってその生の禄を享けている。ここにおいて人を得た。人を得ておいて争うのは、これ以上の罪はない。私は逃げよう」と言い、そのまま狄へ亡命した。従う者は狐偃・趙衰・顛頡・魏武子・司空季子であった。
- 狄人が廧咎如を討ち、その二人の娘の叔隗・季隗を得て公子に納れた。公子は季隗を娶って伯鯈・叔劉を生み、叔隗を趙衰に嫁がせて盾を生んだ。
- 齊へ行こうとして季隗に「私を二十五年待って、来なければ嫁げ」と言った。答えて「私は二十五歳です。またそれだけたって嫁いだら棺に入ります。あなたを待つことを請います」と言った。狄に居ること十二年で行った。
- 衞を通ったが、衞の文公は礼遇しなかった。五鹿を出て野人に食を乞うと、野人は土塊を与えた。公子は怒って鞭打とうとした。子犯は「天の賜物です」と言った。稽首して受け、車に載せた。
- 齊に至ると、齊の桓公が娘を娶らせ、馬二十乗があった。公子はこれに安んじた。従者は不可とし、行こうとして桑の下で謀った。蚕を飼う侍女がその上にいて姜氏に告げた。姜氏はこれを殺し、公子に「あなたには四方の志がある。それを聞いた者を私が殺しました」と言った。公子は「そんなものはない」と言った。姜は「行かれよ。懐かしみと安逸はまことに名を敗る」と言った。公子は承知しなかった。姜は子犯と謀って酔わせて送り出した。醒めて戈で子犯を追った。
- 曹に至ると、曹の共公はその肋骨が一枚になっていると聞き、裸で浴びるのを見ようとして、簾越しに見た。僖負羈の妻は言った。「私が晉の公子の従者を見るに、みな国の相となるに足ります。もしあの方を輔ければ必ずその国に返る。国に返れば必ず諸侯に志を得る。諸侯に志を得て無礼を誅すれば、曹がその筆頭でしょう。あなたはなぜ早く自ら別に立たれぬのか」。そこで盤に食事を饋り、璧を入れた。公子は食事を受けて璧を返した。
- 宋に至ると、宋の襄公は馬二十乗を贈った。
- 鄭に至ると、鄭の文公は礼遇しなかった。叔詹が諫めて言った。「臣は聞いております、天の啓くところは人が及ばぬと。晉の公子には三つあります。天はあるいはこれを建てようとするのかもしれません。君は礼せられよ。男女同姓なればその生は蕃えぬのに、晉の公子は姫姓の出でありながら今日まで至った。これが一つ。外の患いに離れながら天は晉国を靖んじない。おそらくこれを啓こうとしている。これが二つ。三人の士があって人の上に立つに足りるのに従っている。これが三つ。晉と鄭は同輩です。その子弟が通っただけでももとより礼すべきです。まして天の啓くところではありませんか」。聴かなかった。
- 楚に至ると、楚子が饗して「公子がもし晉国に返られたら、何をもって不穀に報いられるか」と言った。答えて「子女や玉帛は君が持っておられる。羽毛歯革は君の地に生ずる。晉国に及ぶものは君の余りです。何をもって君に報いましょう」と言った。「そうであっても、何をもって私に報いるか」と言うと、こう答えた。「もし君の霊によって晉国に返り得て、晉と楚が兵を治めて中原で遇えば、君を避けること三舎。それでも命を得られねば、左に鞭と弭を執り右に櫜と鞬を属けて君と周旋いたしましょう」。
- 子玉が殺すことを請うた。楚子は言った。「晉の公子は広くして倹しく、文があって礼がある。その従者は粛やかで寛やか、忠にしてよく力める。晉侯には親しむ者なく、内外がこれを悪む。私は聞いている、姫姓では唐叔の後が最後に衰えると。それは晉の公子によるのではないか。天がこれを興そうとしている。誰がよく廃せよう。天に違えば必ず大きな咎がある」。そこで秦へ送った。
- 秦伯は女五人を納れ、懷嬴もその中にいた。匜を奉じて手を洗わせ、やがて手を振って水を払った。怒って「秦と晉は匹敵する。なぜ私を卑しめるのか」と言った。公子は懼れ、服を脱いで囚人の姿となった。
- 後日、公が饗した。子犯は「私は衰の文には及ばぬ。衰を従わせられよ」と言った。公子は河水を賦した。公は六月を賦した。趙衰は「重耳よ、賜物に拝せよ」と言った。公子は降りて拝し稽首した。公は一段降りて辞した。衰は「君は天子を佐ける道をもって重耳に命じられた。重耳があえて拝せずにおれましょうか」と言った。
僖公二十四年(前636年)
- 春王正月、秦伯がこれを納れた。経に書かないのは入国を告げなかったからである。
- 河に至って、子犯が璧を公子に授けて言った。「臣は羈絏を負って君に従い天下を巡りました。臣の罪は甚だ多い。臣ですら知っている。まして君においてをや。ここから亡命することを請います」。公子は「舅氏と心を同じくせぬことがあれば、この白水のごとくあれ」と言い、その璧を河に投じた。
僖公二十五年(前635年)
- 秦伯が河上に軍して王を納れようとした。狐偃は晉侯に「諸侯を求めるには王に勤めるに如きません。諸侯はこれを信じ、しかも大義です。文侯の業を継いで信を諸侯に宣べるのは、いまこそできます」と言った。
- 卜偃に卜わせると「吉です。黄帝が阪泉で戦った兆しを得ました」と言った。公は「私はそれに堪えぬ」と言った。答えて「周の礼はまだ改まっておりません。いまの王は古の帝です」と言った。公は「筮え」と言った。筮って大有の睽を得た。「吉です。『公もって天子に享せらる』の卦を得ました。戦って克ち王が饗する。これ以上大きな吉がありましょうか。しかもこの卦は、天が沢となって日に当たる。天子が心を降して迎える。公もまたよいではありませんか。大有が睽を去ってまた復るのも、その所を得ることです」と言った。
- 晉侯は秦の師を断って下り、三月甲辰、陽樊に駐屯し、右師が溫を囲み、左師が王を迎えた。夏四月丁巳、王が王城に入った。大叔を溫で捕らえ、隰城で殺した。
- 戊午、晉侯が王に朝した。王は醴を饗して宥を命じた。隧道の葬礼を請うたが許されず、「王の章である。まだ徳に代わる者もないのに二人の王があるのは、叔父の悪まれるところでもある」と言った。陽樊・溫・原・欑茅の田を与えた。晉はここにおいて初めて南陽を啓いた。
- 陽樊が服さないので囲んだ。倉葛が呼ばわって「徳は中国を柔らげ、刑は四夷を威す。我らがあえて服さぬのも当然。ここに誰が王の親姻でない者があろう。それを俘にするのか」と言った。そこでその民を出した。
僖公二十五年(前635年)(鄀の役)
- 秋、秦と晉が鄀を討った。楚は申と息の師で商密を守った。秦人は析の隈を通り、入って輿夫を縛って商密を囲み、日暮れに城に迫った。夜、穴を掘って血を流し盟書を加え、子儀・子邊と盟った振りをした。商密の人は懼れて「秦は析を取った。守備兵は寝返った」と言い、そこで降った。秦の師は申公子儀と息公子邊を捕らえて帰った。
僖公三十年(前630年)
- 九月甲午、晉侯と秦伯が鄭を囲んだ。鄭が晉に無礼で、しかも楚に二心を抱いたからである。晉は函陵に、秦は汜の南に軍した。
- 佚之狐が鄭伯に「国は危うい。もし燭之武を秦君に会わせれば、師は必ず退きましょう」と言った。公は従った。辞して「臣が壮んなころですら人に及びませんでした。いま老いて、なし得ることはありません」と言った。公は「私が早くあなたを用いられず、いま急になってあなたを求める。これは寡人の過ちだ。しかし鄭が亡べばあなたにも不利がある」と言った。承知した。
- 夜、縄で吊り降ろされて出、秦伯に会って言った。「秦と晉が鄭を囲み、鄭はもう亡ぶと知っております。もし鄭を亡ぼして君に益があるなら、あえて執事を煩わせましょう。国を越えて遠くを鄙とするのは、君もその難しさをご存じ。どうして鄭を亡ぼして隣を陪くしましょう。隣が厚くなるのは君が薄くなること。もし鄭を措いて東道の主とされれば、行李の往来にその欠乏を供え、君にも害はありません。
- しかも君はかつて晉君に賜物をされた。君に焦と瑕を許しながら、朝に河を済って夕に版を設けた。君のご存じのとおりです。そもそも晉に何の飽きることがありましょう。すでに東に鄭を封じ、またその西の封を広げようとする。秦を欠かずしてどこから取りましょう。秦を欠いて晉を利する。ただ君が図られよ」。
- 秦伯は喜び、鄭人と盟い、杞子・逢孫・揚孫にこれを守らせて帰った。
- 子犯が撃つことを請うた。公は言った。「なりません。あの人の力がなければここまで至れなかった。人の力に因ってこれを敝るのは不仁、その与するところを失うのは不知、乱をもって整に易えるのは不武である。私は帰ろう」。そこで去った。
僖公三十二年(前628年)
- 冬、晉の文公が卒した。杞子が鄭から秦に告げさせて「鄭人は私にその北門の鍵を掌らせている。もしひそかに師を出して来られれば、国を得られます」と言った。
- 穆公は蹇叔に諮った。蹇叔は言った。「師を労して遠くを襲うのは聞いたことがありません。師は労れて力は竭き、遠くの主は備える。いけないのではありませんか。師のなすことを知れば、鄭は必ず知りましょう。勤めて得るところなければ必ず悖る心が生ずる。しかも千里を行けば、誰が知らずにおりましょう」。
- 公は断り、孟明・西乞・白乙を召して東門の外で師を出させた。蹇叔はこれを哭して「孟子よ、私は師の出るのを見ても、その入るのを見まい」と言った。公は人に「お前に何が分かる。中寿で死んでいれば、お前の墓の木はもう両手で抱えるほどだ」と言わせた。
- 蹇叔の子が師に加わった。哭して送り、「晉人が師を防ぐのは必ず殽であろう。殽には二つの陵がある。その南の陵は夏后臯の墓、その北の陵は文王が風雨を避けたところ。必ずその間で死ぬ。余はお前の骨をそこで収めよう」と言った。秦の師はそのまま東した。
僖公三十三年(前627年)
- 春、秦の師が周の北門を通った。左右の兵は胄を脱いで下りたが、車に飛び乗った者が三百乗であった。王孫滿はまだ幼かったが、これを見て王に言った。「秦の師は軽々しくて礼がない。必ず敗れましょう。軽ければ謀が少なく、礼がなければ脱ぐ。険しいところに入って脱ぎ、そのうえ謀れぬのでは、敗れずにおれましょうか」。
- 滑に及んで、鄭の商人弦高が周へ商いに行こうとして遇った。四枚の韋を先にし牛十二頭で師を犒って言った。「寡君はあなたが師を進めて敝邑を出られると聞き、あえて従者を犒います。腆からぬ敝邑ですが、従者が逗留されるなら一日の蓄えを整え、行かれるなら一夕の護衛を備えましょう」。あわせて早馬で鄭に告げた。
- 鄭の穆公が客館を見させると、荷を束ね兵を厲ぎ馬に秣していた。皇武子に断らせて「あなたは敝邑に久しく逗留された。ただこの脯や糧、生きた牛は尽きました。あなたが行かれようとしているので、鄭に原圃があるのは秦に具囿があるようなもの。あなたはその麋鹿を取って敝邑を休ませてはいかがか」と言った。杞子は齊へ、逢孫と揚孫は宋へ亡命した。
- 孟明は「鄭には備えがある。望みは持てぬ。攻めても克てず、囲んでも後続がない。我らは帰ろう」と言い、滑を滅ぼして帰った。
- 夏四月辛巳、晉人と姜戎が殽で秦の師を破り、百里孟明視・西乞術・白乙丙を捕らえて帰った。
- 文嬴が三人の帥を請うて言った。「彼らはまことに我が二人の君を構えたのです。寡君がもし得て食らっても飽き足りますまい。君がどうして辱く討たれるのか。帰って秦で戮に就かせ、寡君の志を遂げさせられてはいかがか」。公は許した。
- 先軫が朝して秦の囚を問うた。公は「夫人が請うたので、私は措いた」と言った。先軫は怒って「武夫が力で原野に拘えたものを、婦人がしばし言って国で免れさせた。軍の実りを堕して寇讐を長ずる。亡ぶ日も遠くない」と言い、顧みもせずに唾した。
- 公は陽處父に追わせた。河に及ぶと、もう舟の中にいた。左の驂馬を解き、公の命として孟明に贈った。孟明は稽首して「君の恵みで、纍臣を釁鼓とせず、帰って秦で戮に就かせてくださる。寡君がこれを戮とされれば、死んでも朽ちません。もし君の恵みに従って免ぜられれば、三年して君の賜物に拝しましょう」と言った。
- 秦伯は素服で郊に宿り、師に向かって哭し、「孤は蹇叔に違って諸君を辱めた。孤の罪である」と言い、孟明を替えず、「孤の過ちである。大夫に何の罪があろう。しかも私は一つの過失で大きな徳を掩わぬ」と言った。
文公元年(前626年)
- 殽の役で晉人が秦の帥を帰してから、秦の大夫と左右はみな秦伯に「この敗北は孟明の罪です。必ず殺されよ」と言った。
- 秦伯は言った。「これは孤の罪である。周の芮良夫の詩に『大風に隧あり、貪人は類を敗る。言を聴けば対え、誦言には酔えるがごとし。その良を用いず、かえって我をして悖らしむ』とある。これは貪るゆえである。孤のことをいうのだ。孤がまことに貪ってあの方に禍した。あの方に何の罪があろう」。改めて政に当たらせた。
文公二年(前625年)
- 春王二月甲子、晉侯と秦の師が彭衙で戦い、秦の師は大敗した。
- 秦伯はなお孟明を用いた。孟明は国政を増し修め、重ねて民に施した。趙成子が諸大夫に言った。「秦の師がまた至れば、必ず避けねばなるまい。懼れて徳を増している。当たれるものではない。詩に『爾の祖を念うことなかれとせず、その徳を修めん』とある。孟明はこれを念っている。徳を念って怠らぬのだから、敵し得ようか」。
- 冬、晉の先且居・宋の公子成・陳の轅選・鄭の公子歸生が秦を討ち、汪と彭衙を取って帰った。彭衙の役に報いたのである。卿を書かないのは穆公のゆえ、秦を尊んだのである。これを崇徳という。
文公三年(前624年)
- 秦伯が晉を討った。河を済って舟を焚き、王官と郊を取った。晉人は出なかった。そのまま茅津から済り、殽の屍を封じて帰った。そのまま西戎に覇たった。孟明を用いたからである。
- 君子はこれによって秦の穆公が君たるゆえんを知った。人を挙げることの周きこと、人に与することの一なること。孟明が臣たるゆえん、その懈らぬこと、よく懼れて思うこと。子桑が忠なるゆえん、その人を知ること、よく善を挙げること。詩に「ここに蘩を采る、沼にか沚にか。ここにこれを用う、公侯の事」とある。秦の穆公にはそれがあった。「夙夜懈らず、もって一人に事う」とある。孟明にはそれがあった。「厥の孫謀を詒して、もって子を燕び翼く」とある。子桑にはそれがあった。
文公四年(前623年)
- 秋、晉侯が秦を討ち、邧と新城を囲んで王官の役に報いた。
- 楚人が江を滅ぼした。秦伯はそのために服を降し、宿を出て、盛膳をやめること定めを過ぎた。大夫が諫めた。公は「同盟が滅んだ。救えなくとも、あえて憐れまずにおれようか。私は自ら懼れているのだ」と言った。君子は言う。「詩に『かの二国、その政は獲られず。この四国、ここに究めここに度る』とある。秦の穆公のことであろう」。
文公五年(前622年)
- はじめ鄀が楚に叛いて秦についたが、また楚に二心を抱いた。夏、秦人が鄀に入った。
文公六年(前621年)
- 秦伯任好が卒した。子車氏の三人の子、奄息・仲行・鍼虎を殉とした。みな秦の良き者であった。国人は哀しんで、そのために黄鳥を賦した。
- 君子は言う。「秦の穆公が盟主とならなかったのも当然である。死んで民を棄てた。先王は世を去るときですらなお法を遺した。まして善人を奪うとは。詩に『人の亡ぶるとき、邦国は殄瘁す』とある。善人なきをいうのに、どうしてこれを奪うのか。
- 古の王者は命の長からぬことを知り、それゆえ並びに聖哲を建て、これに風声を樹て、采物を分かち、話言を著し、律度を作り、藝極を陳べ、表儀で導き、法制を与え、訓典を告げ、防利を教え、常秩を委ね、礼で導き、その土地に宜しきを失わせず、衆隷がこれに頼るようにしてから命に即いた。聖王はこれを同じくした。
- いま縦い法を後嗣に遺すことがなくとも、そのうえその良き者を収めて死なせる。上に在ることは難しい」。君子はこれによって秦が二度と東征せぬことを知った。
史論(士竒)
- 秦の穆公は春秋の賢い諸侯である。驪姫の乱で晉の君はしばしば弑され国はほとんど亡びかけたが、穆公が夷吾を立てた。夷吾が徳に背いて韓原の戦いがあり、晉侯を捕らえて帰りながら、ついにこれを返した。晉が飢えるとまた粟を輸して「私はその君を怨むがその民を憐れむ」と言った。惠公と懷公に親しむ者なく内外が棄てると、また文公を置いてその難を定めた。襄王がまだ入らぬとき、秦伯は河上に軍して王を納れようとし、晉の文公が納れたのでやめた。その天資の仁厚、挙動の光り偉なること、人より一等優れている。
- 生涯の失は、ただ燭之武の「東道の主」の言を貪って晉に背いたこと、杞子・逢孫・揚孫の説に惑わされて鄭を襲ったこと。どちらも利が智を昏ませた致すところにすぎぬ。
- しかし殽に敗れてからは、素服で郊に宿り、深く自ら怨み悔い、過ちを悔いる誓いを作った。聖人が書を序するとき、ことに百篇の末に列した。日月の更まるさまは、一つの過失で掩いがたい。
- その恨みに報いて王官を取り屍を封じ、殽の坻を成し、河を済って舟を焚いた功に至っては、人を挙げることの周く、人に与することの一なることを天下が称えた。
- 孟明が初めて敗れたとき「孤がまことに貪ってあの方に禍した。あの方に何の罪があろう」と言い、彭衙で再び敗れ、汪を取られて三たび敗れても、なお孟明を替えず、それによって国政を増し修めさせた。趙成子は声を聞いて懼れを知り、子桑は人を知ってついに信じられた。楚が得臣を殺して晉人がひそかに喜んだこと、魯が曹沬を用いて齊の桓公が地を返したことに照らせば、その得失は深切著明ではないか。
- 百里奚は虞の俘囚であり、牛の口の下から挙げた。蹇叔は賢くて世に知られなかったが、五羖大夫がこれを薦め達し、迎えて上大夫とした。由余は戎の賢臣であり、その来り帰るに及んで客の礼で遇した。ここにおいて国を益すこと十二、地を開くこと千里、そのまま西戎に覇たり、天子は召公を遣わして金鼓で賀した。
- このとき秦国の強さは齊・晉・荊楚と並んだ。とすればまた、過ちを改めるに吝かならず、人を用いて己に囚われなかったことの致すところである。
- ただその辺鄙に西陲にあって礼がまだ中国と同じでなく、子車氏の三子を殉に用いたので黄鳥の詩が作られた。秦はこれから二度と東征できなくなった。君子はそれゆえ、その盛徳の累となったことを惜しむのである。