左傳紀事本末闔閭、郢に入る(闔閭入郢)

呉の闔閭が郢を落とすまでの経緯を、昭公十三年(前529年)から定公四年(前506年)まで追う篇。費無極の讒によって太子建は追われ、伍奢と伍尚は殺され、伍員は呉へ逃れて鱄設諸を公子光に引き合わせた。光は僚を弑して闔閭となり、伍員の三師交侵の策を用いて楚を疲れさせた。令尹の囊瓦(子常)は賄を好み、蔡侯と唐侯の佩玉と馬を欲しがって三年引き留め、二国を晉と呉へ走らせた。定公四年(前506年)、蔡・呉・唐が漢水を挟んで楚と対峙し、柏舉で子常の卒が崩れ、五たび戦って庚辰に呉が郢に入った。昭王は雲中・鄖を経て隨へ逃れ、隨人が呉の求めを断った。

年表(17件)

昭公十三年(前529年)

  • 呉が州來を滅ぼした。令尹の子旗が呉を討つことを請うたが、王は許さず、「私はまだ民人を撫せず、鬼神に仕えず、守りの備えを修めず、国家を定めていない。それで民の力を用いれば、敗れても悔いきれぬ。州來が呉にあるのは楚にあるのと同じだ。あなたはひとまず待たれよ」と言った。

昭公十四年(前528年)

  • 楚の令尹子旗は王に徳があったが、程度を知らず、養氏と結んで飽くことなく求めた。王はこれを患えた。九月甲午、楚子は鬭成然を殺して養氏の族を滅ぼし、鬭辛を鄖に居らせて旧勲を忘れぬこととした。

昭公十五年(前527年)

  • 楚の費無極は朝吳が蔡にいることを害と考え、除こうとして、朝吳に言った。「王はただあなたを信じておられるから蔡に置かれたのだ。あなたも年配になったのに下位にある。辱められている。必ず求められよ。私が請うのを助けよう」。またその上位の者たちに言った。「王はただ吳を信じておられるから蔡に置かれたのだ。諸君は誰も彼に及ばぬのに、その上に居る。難しいのではないか。図らねば必ず難に及ぼう」。
  • 夏、蔡人が朝吳を追い、朝吳は鄭へ亡命した。王は怒って「余はただ吳を信じたから蔡に置いたのだ。しかも吳がなければ私はここまで来られなかった。お前たちはなぜ彼を除いたのか」と言った。無極は「臣がどうして吳を望まぬことがありましょう。しかしかねてその人となりが並でないと知っておりました。吳が蔡にあれば蔡は必ず速く飛びます。吳を除いたのはその翼を切る所以です」と答えた。

昭公十七年(前525年)

  • 冬、呉が楚を討った。陽匄が令尹となり、戦いを卜って不吉と出た。司馬の子魚は「我らは上流を得ている。なぜ不吉なのか。しかも楚の旧例では司馬が亀に命ずる。私が改めて卜うことを請う」と言い、命じて「魴(子魚)はその配下とともに死ぬ。楚の師が続いて大いに克たんことを」と言うと、吉と出た。
  • 長岸で戦い、子魚が先に死に、楚の師が続いて呉の師を大敗させ、その乗る舟の餘皇を捕らえた。隨人と後から来た者に守らせ、周りに濠を掘って泉まで達し、掘った土に炭を混ぜて埋め、隊を並べて命を待った。
  • 呉の公子光はその衆に請うて言った。「先王の乗る舟を失ったのは、どうして光の罪だけか。衆にも責めがある。これを頼みに取り返して死を免れることを請う」。衆は許した。
  • 髭の長い者三人を舟の側にひそかに伏せさせ、「私が餘皇と呼んだら応えよ」と言った。師は夜これに従った。三たび呼ぶとみな代わる代わる応えた。楚人はそれを追って殺した。楚の師は乱れ、呉人は大いに破って餘皇を取って帰った。

昭公十九年(前523年)

  • 春、楚の工尹赤が陰を下陰へ遷し、令尹の子瑕が郟に城を築いた。叔孫昭子は「楚はもう諸侯のことにない。ただ自らを全うしてその代を保つだけだ」と言った。
  • 楚子が蔡にいたころ、郹陽の封人の娘が身を寄せて太子建を生んだ。即位して伍奢を師とし、費無極を少師としたが、寵がなかった。王に讒言しようとして「建は妻を娶ってよい年です」と言った。王はそのために秦から娶らせた。無極が迎えに加わり、王にその女を取るよう勧めた。正月、楚の夫人嬴氏が秦から至った。
  • 夏、楚子が舟師で濮を討った。費無極は楚子に言った。「晉が覇となったのは諸夏に近いからで、楚は辺鄙です。それで争えません。もし城父に大城を築いて太子を置き、北方に通じさせ、王が南方を収められれば、天下を得られます」。王は喜んで従った。それゆえ太子建は城父に居た。令尹の子瑕が秦に聘問した。夫人のことに拝謝したのである。
  • 冬、楚人が州來に城を築いた。沈尹戌は言った。「楚人は必ず敗れる。昔、呉が州來を滅ぼしたとき子旗が討つことを請うと、王は『私はまだ我が民を撫していない』と言われた。いまも同じなのに州來に城を築いて呉を挑発する。敗れずにおれようか」。
  • 侍者が「王は施し与えて倦まず、民を休めること五年。撫したといえましょう」と言った。戌は「私は聞いている、民を撫する者は内で用を節し外で徳を樹てる。民はその生を楽しんで寇讐がない。いま宮室に限りがなく、民人は日ごとに驚き、労れ疲れて死んでも移され、寝食を忘れる。撫しているのではない」と言った。

昭公二十年(前522年)

  • 春、費無極が楚子に言った。「建と伍奢が方城の外をもって叛こうとしております。自ら宋や鄭と同じだと思い、齊と晉がまた交々輔ける。楚を害しようとしている。その事は整っております」。
  • 王は信じて伍奢に問うた。伍奢は「君は一つの過ちですら多すぎる。どうして讒言を信じられるのか」と答えた。王は伍奢を捕らえ、城父の司馬奮揚に太子を殺させた。まだ着かぬうちに使いをやって逃がした。三月、太子建は宋へ亡命した。
  • 王が奮揚を召すと、城父の人に自分を捕らえさせて至った。王が「言葉は余の口から出てお前の耳に入った。誰が建に告げたのか」と言うと、こう答えた。「臣が告げました。君王は臣に『建に仕えること余に仕えるがごとくせよ』と命じられました。臣は不才で、いい加減に二心を抱けません。初めの命を奉じて動いており、後の命は忍びませんでした。だから逃がしたのです。やがて悔いましたが、及びませんでした」。
  • 王が「それでよくあえて来たな」と言うと、「使いをして命を失い、召されて来ぬのでは、二度犯すことになります。逃げてもどこにも入れません」と答えた。王は「帰って以前どおり政に従え」と言った。
  • 無極は「奢の子は才があります。もし呉にあれば必ず楚国の憂いとなる。父を免ずるといって召されてはどうか。彼らは仁ですから必ず来る。でなければ患いとなりましょう」と言った。王は召させて「来い。お前の父を免ずる」と言わせた。
  • 棠君の尚はその弟の員に言った。「お前は呉へ行け。私は帰って死のう。私の知は及ばぬが、私は死ぬことができる。お前は報いることができる。父を免ずる命を聞いて、駆けつけぬわけにいかぬ。親戚が戮せられて、報いぬわけにいかぬ。駆けつけて死んで父を免ずるのは孝である。功を度って行うのは仁である。任を択ぶのは知である。死を知って避けぬのは勇である。父は棄てられず、名は廃せられぬ。お前は励め。互いに従うのがよい」。
  • 伍尚は帰った。奢は員が来ぬと聞いて「楚の君と大夫は日が傾いてから食事する(多忙になる)だろう」と言った。楚人はみな殺した。
  • 員は呉へ行き、楚を討つ利を州于(王僚)に説いた。公子光は「これは一族が戮せられてその仇を返そうとしているのだ。従えぬ」と言った。員は「彼には他の志がある。余はひとまず彼のために士を求め、辺鄙に居て待とう」と言い、そこで鱄設諸を引き合わせ、自らは辺鄙で耕した。

昭公二十一年(前521年)

  • 三月、蔡の平公を葬った。蔡の太子朱は位を失い、位は下位の大夫にあった。葬送の者が帰り、昭子に会った。昭子が蔡のことを問うと告げた。昭子は嘆じて言った。「蔡は亡ぶか。もし亡びなくても、この君は必ず全うすまい。詩に『位に解らず、民の塈んずる攸』とある。いま蔡侯は即位したばかりで卑しきに就いた。身もそれに従おう」。
  • 冬、蔡侯朱が楚へ亡命した。費無極は東國から財貨を取り、蔡人に「朱は楚に命を用いぬ。君王は東國を立てようとされる。もし王の意に先んじて従わねば、楚は必ず蔡を囲もう」と言った。蔡人は懼れて朱を出し東國を立てた。
  • 朱が楚に訴え、楚子は蔡を討とうとした。無極は「平侯は楚と盟があったので、その子を封じた。二心があったので廃した。靈王が隱太子を殺し、その子(東國)は君と悪を同じくする。君を徳とすること必ず甚だしい。またこれを立てさせるのもよいではありませんか。しかも廃立は君にある。蔡には他意はありません」と言った。

昭公二十三年(前519年)

  • 秋、呉人が州來を討った。楚の薳越が師を率い、諸侯の師とともに奔命して州來を救った。呉人は鍾離で防いだ。子瑕が卒し、楚の師は気力を失った。
  • 呉の公子光は言った。「楚に従う諸侯は多いが、みな小国で、楚を畏れてやむを得ず来ている。私は聞いている、事をなすには威が愛に克てば、小さくとも必ず成ると。胡と沈の君は幼くて狂い、陳の大夫齧は壮んでも頑なで、頓と許と蔡は楚の政を嫌っている。楚の令尹は死んでその師は気力を失い、帥は身分低く寵臣が多く、政令は一つでない。七国が役を同じくしても心を同じくせず、帥は身分低くて整えられず、大いなる威と命がない。楚は破れる。
  • もし師を分けてまず胡・沈・陳を犯せば、必ずこの三国が先に逃げる。三国が敗れれば諸侯の師は心が揺らぐ。諸侯が乖き乱れれば楚は必ず大いに逃げる。先手の者は備えを去って威を薄くし、後の者は陣を厚くして旅を整えることを請う」。
  • 呉子は従った。戊辰晦、雞父で戦った。呉子は罪人三千でまず胡・沈・陳を犯した。三国はこれを争った。呉は三軍として後ろから撃った。中軍は王に従い、光が右を、掩餘が左を率いた。呉の罪人は逃げる者も止まる者もあり、三国は乱れた。呉の師が撃つと三国は敗れ、胡と沈の君および陳の大夫夏齧を捕らえた。
  • 胡と沈の囚を放して許・蔡・頓へ走らせ、「我が君は死んだ」と言わせた。師は鬨を作って追った。三国は逃げ、楚の師は大いに逃げた。
  • 経に「胡子髠・沈子逞、滅ぶ。陳の夏齧を獲たり」と書いたのは、君と臣の言葉遣いを分けたのである。戦うと言わぬのは、楚がまだ陣を布いていなかったからである。
  • 楚の太子建の母が郹にいて、呉人を招き入れた。冬十月甲申、呉の太子諸樊が郹に入り、楚の夫人とその宝器を取って帰った。楚の司馬薳越が追ったが及ばなかった。死のうとすると、衆は「そのまま呉を討って挽回することを請う」と言った。薳越は「再び君の師を敗れば、死んだうえに罪がある。君の夫人を失って、誰も死なぬわけにいかぬ」と言い、そこで薳澨で縊れた。
  • 楚の囊瓦が令尹となり、郢に城を築いた。沈尹戌は言った。
  • 「子常は必ず郢を亡ぼす。まことに衞れなければ、城は益がない。古は天子の守りは四夷にあり、天子が卑しくなれば守りは諸侯にあり、諸侯の守りは四隣にあり、諸侯が卑しくなれば守りは四境にある。その四境を慎み、その四方の援けを結び、民は野に慣れ親しみ、三時の務めが功を成す。民に内の憂いがなく、また外の懼れもなければ、国が城を何に用いよう。
  • いま呉を懼れて郢に城を築く。守りはもう小さい。卑しくなって得られぬのでは、亡びずにおれようか。昔、梁伯はその公宮に濠を掘って民が潰えた。民がその上を棄てて、亡びずして何を待とう。
  • そもそもその疆場を正し、その土田を修め、その要害を険しくし、その民人に親しみ、その伍と斥候を明らかにし、その隣国と信を結び、その官の守りを慎み、その交わりの礼を守り、僭らず貪らず、懦弱でなく耽らず、その守備を全うして不慮に備える。また何を畏れよう。詩に『爾の祖を念うなかれとせず、その徳を修めん』とある。鑑みぬわけにいかぬ。
  • 若敖・蚡冒から武王・文王に至るまで、土地は一同を過ぎなかったが、その四境を慎んで、なお郢に城を築かなかった。いま土地は数圻あって郢に城を築く。難しいのではないか」。

昭公二十四年(前518年)

  • 楚子が舟師で呉の疆を略した。沈尹戌は言った。「この行きで楚は必ず邑を失う。民を撫せずに労し、呉が動かぬのにこれを速める。呉が楚の跡を踏むのに疆場に備えがない。邑が失われずにおれようか」。
  • 越の大夫胥犴が豫章の汭で王を労い、越の公子倉が王に舟を贈った。倉と壽夢が師を率いて王に従った。王は圉陽に至って引き返した。呉人は楚の跡を踏み、辺人が備えていなかったので、そのまま巢と鍾離を滅ぼして帰った。
  • 沈尹戌は「郢を亡ぼす始めがここにある。王がひとたび動いて二つの姓の帥を失った。これが幾たびもあって郢に及ばずにおれようか。詩に『誰が厲しき階を生じて、今に至って梗となす』とあるのは、王のことか」と言った。

昭公二十五年(前517年)

  • 十二月、楚子は薳射に州屈に城を築かせて茄の人を復し、丘皇に城を築いて訾の人を遷し、熊相禖に巢の郭を、季然に卷の郭を築かせた。
  • 子太叔はこれを聞いて「楚王はやがて死のう。民にその土地で安んじさせず、民は必ず憂える。憂えはやがて王に及ぼう。久しくおれまい」と言った。

昭公二十六年(前516年)

  • 九月、楚の平王が卒した。令尹の子常は子西を立てようとして言った。「太子壬は幼く、その母は正妻でない。王子建がまことにこれを聘したのだ。子西は年長で善を好む。長を立てれば順であり、建(子西)は善だから治まる。王が順で国が治まる。務めずにおれようか」。
  • 子西は怒って言った。「それは国を乱して君王を悪しざまにするものだ。国には外の援けがある。汚してはならぬ。王には正しい嗣がある。乱してはならぬ。親しみを敗って仇を速め、嗣を乱すのは不祥である。私はその名を受ける。天下をもって私を賄っても、私はますます従わぬ。楚国はどうなるのか。必ず令尹を殺す」。令尹は懼れ、そこで昭王を立てた。

昭公二十七年(前515年)

  • 呉子が楚の喪に乗じて討とうとし、公子掩餘と公子燭庸に師を率いて潛を囲ませ、延州來季子を上国に聘問させ、そのまま晉に聘問させて諸侯の様子を観させた。
  • 楚の莠尹然と工尹麇が師を率いて潛を救い、左司馬沈尹戌が都の君子と王馬の属を率いて師を渡し、窮で呉の師と遭遇した。令尹の子常は舟師で沙汭に至って引き返した。左尹の郤宛と工尹の壽が師を率いて潛に至った。呉の師は退けなくなった。
  • 呉の公子光は「いまだ。逃してはならぬ」と言い、鱄設諸に告げた。「上国の言葉に『索めずして何を獲ん』とある。私は王の嗣だ。私はこれを求めたい。事がもし成れば、季子が至っても私を廃すまい」。鱄設諸は「王は弑せます。母は老い子は幼い。私はどうにもなりません」と言った。光は「私がお前の身代わりだ」と言った。
  • 夏四月、光は地下室に甲士を伏せて王を饗した。王は甲士を道に並べて座らせた。その門から門・階・戸・席に至るまでみな王の親族であった。鈹を持って挟み、料理を運ぶ者は門外で身を検められて服を改め、料理を執る者は膝行して入り、鈹を執る者が挟んで受け渡し、体に触れながら手渡した。
  • 光は足の病を装って地下室に入った。鱄設諸は剣を魚の中に入れて進み、剣を抜いて王を刺した。鈹が胸で交わったが、そのまま王を弑した。闔廬はその子を卿とした。
  • 呉の公子掩餘は徐へ、公子燭庸は鍾吾へ亡命した。楚の師は呉の乱を聞いて引き上げた。
  • 郤宛は直にして和やかで、国人が喜んだ。鄢將師は右領となり、費無極と結んでこれを憎んだ。令尹の子常は賄を好み讒を信じた。
  • 無極は郤宛を讒言した。子常に「子惡(郤宛)があなたに酒を飲ませたがっている」と言い、また子惡に「令尹があなたの家で酒を飲みたがっている」と言った。子惡は「私は賤しい者です。令尹を辱めるに足りません。令尹が必ず来て辱められるのは、恵みが過ぎます。私は酬いようがありません。どうしましょう」と言った。
  • 無極は「令尹は甲兵を好まれる。あなたが出されれば私が択びましょう」と言い、甲五領と兵器五種を取って「門に置け。令尹が至れば必ず見られる。それに従って酬いられよ」と言った。
  • 饗の日になって門の左に帷を張った。無極は令尹に言った。「私はあやうくあなたに禍するところでした。子惡があなたに不利をなそうとしています。甲が門にあります。あなたは必ず行かれるな。しかもこの度の役で呉に志を得られたのに、子惡は賄を取って引き上げ、そのうえ諸将を誤らせてその師を退かせ、『乱に乗ずるのは不祥だ』と言った。呉は我らの喪に乗じたのだから、我らがその乱に乗ってよいではありませんか」。
  • 令尹が郤氏を見させると、果たして甲があった。行かず、鄢將師を召して告げた。將師は退いてそのまま郤氏を攻めさせ、あわせて焼こうとした。子惡は聞いてそのまま自殺した。
  • 国人は焼かなかった。「焼かぬ者は郤氏と同罪」と令すると、ある者は菅一束を取り、ある者は藁一把を取り、国人はそれを投げ捨てて、ついに焼かなかった。令尹は火を放って郤氏の族党をことごとく滅ぼし、陽令終とその弟の完および佗、晉陳とその子弟を殺した。
  • 晉陳の一族は国中に叫んで言った。「鄢氏と費氏が自ら王のようにふるまい、禍を専らにして楚国を弱くし、王室を寡なくし、王と令尹を欺いて自ら利している。令尹はことごとくこれを信じてしまった。国はどうなるのか」。令尹はこれを患えた。
  • 楚の郤宛の難で国中の言がやまず、祭肉を進める者はみな令尹を謗った。沈尹戌は子常に言った。
  • 「そもそも左尹(郤宛)と中廐尹はその罪を誰も知らぬのに、あなたが殺して謗りを興し、今日までやまぬ。戌は惑います。仁者は人を殺して謗りを掩うことすらせぬ。いまあなたは人を殺して謗りを興しながら図らぬ。異なことではありませんか。
  • そもそも無極は楚の讒人です。民で知らぬ者はない。朝吳を去らせ、蔡侯朱を出し、太子建を喪い、連尹奢を殺し、王の耳目を塞いで聡明でなくさせた。でなければ平王の温惠恭倹は成王・莊王に過ぎるところあって及ばぬところはなかった。諸侯を得られなかったのは、無極が近くにいたからです。
  • いままた三人の無辜を殺して大きな謗りを興し、ほとんどあなたに及ぼうとしている。あなたが図らねば、何に用いましょう。そもそも鄢將師はあなたの命を偽って三族を滅ぼした。国の良き者であって、位に過ちもなかった。呉は新たに君を得、疆場は日ごとに驚く。楚国にもし大事があれば、あなたは危ういぞ。
  • 知者は讒を除いて自ら安んずる。いまあなたは讒を愛して自ら危うくする。惑いも甚だしい」。
  • 子常は「これは瓦(子常)の罪だ。あえてよく図らずにおれようか」と言い、九月己未、費無極と鄢將師を殺し、その族をことごとく滅ぼして国に言い訳とした。謗りの言はそこでやんだ。

昭公三十年(前512年)

  • 秋、呉子が徐人に掩餘を、鍾吾人に燭庸を捕らえさせた。二人の公子は楚へ亡命した。楚子は大いに封じてその移住を定め、監馬尹大心に呉の公子を迎えさせ、養に居らせた。莠尹然と左司馬沈尹戌に城を築かせ、城父と胡の田を取って与えた。呉を害するためであった。
  • 子西が諫めた。「呉の光は新たに国を得てその民に親しみ、民を子のように見、辛苦をともにしている。やがて用いるためです。もし呉の辺境と好誼を結んで柔らかに服させても、なおその来ることを懼れる。我らがまたその仇を強くして重ねて怒らせる。いけないのではありませんか。
  • 呉は周の後裔でありながら海浜に棄て置かれ、姫姓と通じなかった。いま初めて大きくなり、諸夏に並んだ。光はまた甚だ文があり、自ら先王に等しくなろうとしている。天がやがて虐をなして呉国を刈り喪ぼし、大いに異姓を封ずるのか、それともやはりついに呉に祚するのか、分からぬ。その終わりは遠くありません。我らはひとまず我が鬼神を安んじ我が族姓を寧んじてその帰するところを待つに如かず。どうして自ら播き広げましょう」。
  • 王は聴かなかった。呉子は怒った。冬十二月、呉子は鍾吾子を捕らえ、そのまま徐を討ち、山を塞き止めて水攻めにした。己卯、徐を滅ぼした。徐子章禹は髪を断ち、その夫人を携えて呉子を迎えた。呉子は弔って送り、その近臣を従わせた。そのまま楚へ亡命した。楚の沈尹戌が師を率いて徐を救ったが及ばず、そのまま夷に城を築いて徐子を居らせた。
  • 呉子が伍員に問うた。「はじめお前が楚を討つと言ったとき、余はそれが可能だと知っていたが、余を行かせることを恐れ、また人が余の功を持つことを憎んだ。いま余はまさに自らこれを持とうとしている。楚を討つのはどうか」。
  • 答えて言った。「楚の執政は多くて乖いており、誰も憂患の任に当たりません。もし三つの師を作って代わる代わる侵せば、一つの師が至れば彼は必ずみな出る。彼が出れば帰り、彼が帰れば出る。楚は必ず道中で疲れる。しきりに侵して疲れさせ、多方面から誤らせ、疲れきってから三軍で続けば、必ず大いに克てます」。闔廬は従った。楚はここにおいて初めて病んだ。

昭公三十一年(前511年)

  • 秋、呉人が楚を侵し、夷を討ち、潛と六を侵した。楚の沈尹戌が師を率いて潛を救い、呉の師は帰った。楚の師は潛を南岡へ遷して帰った。呉の師が弦を囲むと、左司馬戌と右司馬稽が師を率いて弦を救い、豫章に至った。呉の師は帰った。初めて子胥の謀を用いたのである。
  • 十二月辛亥朔、日食があった。この夜、趙簡子は童子が裸で転がって歌う夢を見た。朝、史墨に占わせて「私の夢がこうで、今日は日食だ。どういうことか」と言った。答えて「六年してこの月に、呉は郢に入るのではありませんか。しかし最後には全うできますまい。郢に入るのは必ず庚辰の日でしょう。日月は辰尾にあり、庚午の日に日が初めて欠け始めた。火が金に勝つので、全うできません」と言った。

定公二年(前508年)

  • 桐が楚に叛いた。呉子は舒鳩氏に楚人を誘わせて、「師をもって我らに臨まれよ。我らが桐を討つのは、我らが憚らせぬためとされたい」と言わせた。
  • 秋、楚の囊瓦が呉を討って豫章に軍した。呉人は舟を豫章に見せておいて、ひそかに師を巢に置いた。冬十月、呉が豫章で楚の師を撃って破り、そのまま巢を囲んで克ち、楚の公子繁を捕らえた。

定公三年(前507年)

  • 冬、蔡の昭侯は二つの佩玉と二つの裘を作って楚へ行き、一つの佩と一つの裘を昭王に献じた。昭王はそれを着けて蔡侯を饗し、蔡侯もまたその一つを着けていた。子常が欲しがったが与えず、三年引き留められた。
  • 唐の成公が楚へ行った。二頭の肅爽の馬があり、子常が欲しがったが与えず、やはり三年引き留められた。唐人のある者が相談し、先の従者に代わることを請うて許され、先の従者に酒を飲ませて酔わせ、馬を盗んで子常に献じた。
  • 子常は唐侯を帰した。唐侯は自ら司敗のもとに拘えられて「君は馬を弄ぶゆえに君の身を隠し国家を棄てられた。群臣は夫人を輔けて馬を償うことを請う。必ずそうさせられよ」と言った。唐侯は「寡人の過ちだ。諸君は辱められるな」と言い、みなに賞を与えた。
  • 蔡人はこれを聞き、固く請うて佩を子常に献じた。子常は朝して蔡侯の従者を見、有司に命じて「蔡君の逗留が長いのは、官が供せぬからだ。明日、礼が整わなければ死罪とする」と言った。
  • 蔡侯は帰って漢水に至り、玉を執って沈め、「余がこれから漢水を渡って南する者は、この大川のごとくあれ(誓って行かぬ)」と言った。蔡侯は晉へ行き、その子の元と大夫の子を人質として楚を討つことを請うた。

定公四年(前506年)

  • 春三月、劉文公が召陵で諸侯を合わせた。楚を討つことを謀ったのである。晉の荀寅が蔡侯に財貨を求めて得られず、そこで蔡侯を断った。
  • 沈人が召陵に会さなかった。晉人は蔡にこれを討たせた。夏、蔡が沈を滅ぼした。秋、楚は沈のゆえに蔡を囲んだ。
  • 伍員は呉の行人となって楚を謀った。楚が郤宛を殺したとき、伯氏の一族が出た。伯州犂の孫の嚭が呉の大宰となって楚を謀った。楚は昭王の即位以来、呉の師のない年がなかった。蔡侯はこれによって、その子の乾と大夫の子を呉に人質とした。
  • 冬、蔡侯・呉子・唐侯が楚を討ち、舟を淮汭に置き、豫章から楚と漢水を挟んで対峙した。
  • 左司馬戌は子常に言った。「あなたは漢水に沿って上下し、私が方城の外をことごとく率いてその舟を毀ち、帰って大隧・直轅・冥阨を塞ぐ。あなたが漢水を渡って討ち、私が後ろから撃てば、必ず大いに破れます」。
  • 謀って出発した。武城黑が子常に「呉は木を用い、我らは革を用いる。長くは保てぬ。速やかに戦うに如かず」と言った。史皇は子常に「楚人はあなたを憎んで司馬を好んでいる。もし司馬が呉の舟を淮で毀ち、城口を塞いで入れば、それは独りで呉に克ったことになる。あなたは必ず速やかに戦われよ。でなければ免れぬ」と言った。
  • そこで漢水を渡って陣し、小別から大別まで三たび戦った。子常はできぬと知って逃げようとした。史皇は「安らかなときにはその事を求め、難しくなると逃げる。どこへ入るつもりか。あなたは必ずここで死なれよ。初めの罪はみな消えよう」と言った。
  • 十一月庚午、二軍が柏舉に陣した。闔廬の弟の夫槩王が明け方に闔廬に請うて言った。「楚の瓦は不仁で、その臣に死ぬ志がありません。先に討てばその卒は必ず逃げる。その後で大軍が続けば必ず克てます」。許さなかった。夫槩王は「いわゆる臣は義によって行い命を待たぬというのは、これをいうのだ。今日、私が死ねば楚に入れる」と言い、その配下五千で先に子常の卒を撃った。
  • 子常の卒は逃げ、楚の師は乱れ、呉の師は大いに破った。子常は鄭へ亡命し、史皇はその乗広とともに死んだ。
  • 呉は楚の師を追って清発に至り、撃とうとした。夫槩王は「窮した獣ですら闘う。まして人では。もし免れぬと知って死力を尽くせば必ず我らを破る。もし先に渡った者に免れると知らせれば、後の者はそれを羨んで闘う心がなくなる。半ば渡ってから撃つのがよい」と言った。従い、また破った。
  • 楚人が食事を作っていると呉人が至り、食事を捨てて逃げた。追って雍澨で破った。五たび戦って郢に至った。
  • 己卯、楚子はその妹の季芈畀我を連れて出、睢水を渡った。鍼尹固が王と同じ舟に乗り、王は象に火をつけて呉の師へ走らせた。
  • 庚辰、呉が郢に入り、序列に従って宮に居った。子山が令尹の宮に居ると、夫槩王が攻めようとし、懼れて去った。夫槩王が入った。
  • 左司馬戌は息に至って引き返し、雍澨で呉の師を破ったが傷ついた。はじめ司馬は闔廬に臣事したことがあり、それゆえ捕らわれるのを恥じた。その臣に「誰か私の首を逃してくれるか」と言った。呉句卑が「臣は賤しいですが、よろしいでしょうか」と言った。司馬は「私はまことにお前を見損なっていた。よかろう」と言った。三たび戦ってみな傷つき、「私はもう使いものにならぬ」と言った。句卑は裳を敷き、首を刎ねて包み、その体を隠して首だけを逃した。
  • 楚子は睢水を渡り長江を渡って雲中に入った。王が寝ていると盗が攻め、戈で王を撃った。王孫由于が背で受け、肩に中った。王は鄖へ逃げた。鍾建が季芈を背負って従った。由于は次第に息を吹き返して従った。
  • 鄖公辛の弟の懷が王を弑そうとして「平王は我が父を殺した。私がその子を殺すのもよいではないか」と言った。辛は言った。「君が臣を討つのを、誰があえて仇とするか。君命は天である。もし天命で死んだのなら、誰を仇とするのか。詩に『柔らかくても呑まず、剛くても吐かず、矜寡を侮らず、彊禦を畏れず』とある。ただ仁者だけがこれをよくする。強きに背いて弱きを凌ぐのは勇ではない。人の窮したのに乗ずるのは仁ではない。宗を滅ぼし祀を廃するのは孝ではない。動いて令名のないのは知ではない。必ずこれを犯すなら、余はお前を殺す」。
  • 鬭辛はその弟の巢とともに王を伴って隨へ亡命した。呉人が追い、隨人に言った。「周の子孫で漢川にいる者を、楚がまことにことごとく滅ぼした。天がその心を誘い、楚に罰を致した。それを君はまた匿われる。周室に何の罪がありましょう。君がもし周室に報いることを顧み、寡人にも及ぼして天の心を助けられるなら、君の恵みです。漢陽の田は君がまことに有されよ」。
  • 楚子は公宮の北にいて、呉人はその南にいた。子期は王に似ていた。王を逃がして自分が王となろうとし、「私を彼らに与えよ。王は必ず免れる」と言った。
  • 隨人は与えることを卜って不吉と出た。そこで呉に断って言った。「隨は辺鄙で小さく、楚に密着しております。楚がまことに存続させてくれました。代々盟誓があり、今日まで改めておりません。もし難があってこれを棄てれば、何をもって君に仕えられましょう。執事の患いはただ一人(昭王)だけではありますまい。もし楚の境を鎮められるなら、あえて命を聴かぬはずがありません」。呉人はそこで退いた。
  • 鑪金がはじめ子期氏に仕えていて、まことに隨人と密約を交わしていた。王が会おうとすると辞して「あえて約を利としません」と言った。王は子期の胸を割いて(血をとって)隨人と盟った。

史論(士竒)

  • 楚は熊通以来、王を僭かに称して坐して大きくなり、諸々の姫姓を次々に食らった。齊の桓公と晉の文公はかろうじて斥け攘うことができただけで、その国都に迫って大いに傷めつけたことはなかった。
  • 闔閭は蔡侯の請いに従って江淮を越え、五たび戦ってついに郢に至り、高府の粟を焼き、九龍の鐘を破った。昭王は逃げ出し、ほとんどその国が定まるところであった。
  • しかし仁義を施さず、淫らを公然と行い毒を極めた。楚は撓み敗れても、父兄子弟は呉を怨むこと骨髄に入り、争って起こって追い出した。無衣の賦を待たずとも、呉人が楚に長くおれぬことは知れたのである。
  • 伍員は父兄の痛みを抱き、弓を引き剣を袋に入れ、身を側めて間道を行き、荒れた江のほとりで痛哭し、呉の市で食を乞い、仇を尋ねることを忘れず、ついにその願いを果たした。この心は皇天后土もなお鑑みるであろう。
  • しかしその淫らに思いを遂げた過ちを、「日暮れて途窮まり、倒さまに行い逆さまに施す」の説に託した。ああ、甚だしいことだ。そもそも父が誅に当たらぬのに死んだなら子が復讐してよい。しかしまた「君命は天である。天命で死んだなら誰があえて仇とするか」ともいうではないか。
  • しかも員の父兄が殺されたのは、その首悪は費無極である。平王は讒人に構えられ、失は聡くなかったことにある。員が甘心を得たいと望むべき相手は無極であって平王ではない。無極が誅されたときに恨みもいささか解けてよかった。
  • まもなく平王も死んだ。それなのに白公勝に「平王が卒した。私の志は尽くせなくなった」と言った。とすれば手ずから平王を刃にかけねば、ついにその志を伸ばせぬというのか。
  • 屍を鞭ち墓を撻ち、宮を分けて室に居り、辱めは父母の邦に及び、樂扈の曲に惨たらしく歌われた。おそらく伍奢になお知る心があれば、傷心して聞くに忍びなかったであろう。
  • 子胥の復讐は、その事が最も烈しく、また最も奇である。一時に、江上の丈人は壺の飲み物を覆って自ら沈み、瀬水の女子は王孫を哀れんで身を沈めた。孫子の用兵は戮が寵姫に及び、專諸が僚を刺すのに禍が魚の腹から生じ、要離が慶忌を刺すのは嬰児を掴むようであり、莫邪の剣は水を走って楚へ亡げ、吳鴻・扈稽の鉤は一声で胸に着いた。みな事の最も奇なるものである。
  • そもそも楚は一人の胥を失って郢がほとんど廃墟となり、呉は一人の嚭を得て国がついに破れた。天が二人の楚人をもって報復の相い尋ぬる終始としたのは、ことに異なことではないか。