左傳紀事本末呉、上国と通ず(季札の国譲りを付す)(吳通上國(季札讓/國附))
呉が申公巫臣によって戦車と戦陣を教えられ、晉と通じて上国の列に加わっていく過程を、成公七年(前584年)から昭公二十七年(前515年)まで扱う篇。季札が国を譲った一段を併せる。巫臣は子重・子反への報復として呉に楚への叛を教え、二人を一年に七たび奔命させた。成公十五年(前576年)に鍾離で初めて呉と通じた。諸樊は喪を除いて季札を立てようとしたが、季札は曹の子臧に倣って辞退し、家を棄てて耕した。襄公二十九年(前544年)、季札は魯で周の楽をすべて論じ、齊・鄭・衞・晉の要人に一つずつ戒めを残した。昭公二十七年(前515年)、公子光が鱄設諸に魚腸の剣で僚を弑させて闔廬となり、季札は「立った者に従う」と言って位に復した。
年表(17件)
- 成公七年前584年巫臣が呉に戦車と戦陣と叛を教え、呉が初めて大きくなって上国と通ずる
- 成公八年前583年晉が巫臣を呉へ遣わし、郯が呉に仕えたことを咎める
- 成公九年前582年蒲で初めて呉と会するはずが、呉人が至らない
- 成公十五年前576年鍾離で呉と会し、初めて呉と通ずる
- 襄公三年前570年子重が呉を討って鄧廖を失い、呉が駕を取る
- 襄公五年前568年呉子が壽越を晉へ遣わして詫び、戚で盟って呉と会する
- 襄公十年前563年柤で呉子壽夢と会する
- 襄公十二年前561年呉子壽夢が卒し、魯が周廟で哭して礼にかなう
- 襄公十三年前560年楚の喪に乗じた呉を、養由基の三伏の策で庸浦に大敗させる
- 襄公十四年前559年諸樊が季札を立てようとし、季札が子臧に倣って辞退し耕す
- 襄公二十四年前549年楚子が舟師で呉を討つが軍政を行わず功なく引き上げる
- 襄公二十五年前548年諸樊が巢の城門を攻め、牛臣に射られて卒する
- 襄公二十六年前547年楚子と秦人が呉を侵し、備えありと聞いて引き返す
- 襄公二十九年前544年餘祭が門番に弑され、季札が魯で周の楽を観て諸国を歴聘する
- 襄公三十一年前542年屈狐庸が趙文子に、呉を保つのは餘昧の子孫だと答える
- 昭公十五年前527年呉子夷昧が卒する
- 昭公二十七年前515年公子光が鱄設諸に僚を弑させて闔廬となり、季札が位に復して待つ
成公七年(前584年)
- 春、呉が郯を討ち、郯は和睦した。季文子は言った。「中国が旅を振るわず、蛮夷が入って討つのに誰も憐れまぬ。弔う者がないのだ。詩に『弔まざる昊天、乱れて定まることなし』とあるのは、これをいうのであろう。上にあって弔まぬ者があれば、誰が乱を受けずにおれよう。我らの亡ぶ日も遠くない」。君子は「このように懼れを知れば亡びぬ」と言った。
- 楚が宋を囲んだ役から師が帰り、子重は申と呂を賞田として取ることを請うた。王は許した。申公巫臣は「なりません。これは申と呂が邑とする所以です。それによって賦を出して北方を防いでいる。もし取れば申と呂はなくなる。晉と鄭は必ず漢水に至りましょう」と言った。王はそこでやめた。子重はこれによって巫臣を怨んだ。
- 子反が夏姫を娶ろうとして巫臣が止め、その巫臣が娶って行った。子反もこれを怨んだ。
- 共王が即位すると、子重と子反は巫臣の一族の子閻・子蕩と清尹弗忌、および襄老の子の黑要を殺し、その家財を分けた。子重は子閻の家財を取り、沈尹と王子罷に子蕩の家財を分けさせ、子反は黑要と清尹の家財を取った。
- 巫臣は晉から二人に書を送って「お前たちは讒佞と貪欲をもって君に仕え、多くの無辜を殺した。余は必ずお前たちを奔命に疲れさせて死なせる」と言った。
- 申公巫臣は呉に使いすることを請い、晉侯は許した。呉子壽夢が喜んだ。そこで呉を晉に通じて両立させ、一卒の兵で呉へ行き、その半分をそこに残し、その射手と御者とともに、呉に戦車の乗り方を教え、戦陣を教え、楚に叛くことを教え、その子の狐庸を置いて呉の行人とさせた。
- 呉は初めて楚を討ち、巢を討ち、徐を討った。子重が奔命した。馬陵の会で呉が州來に入り、子重が鄭から奔命した。子重と子反はここにおいて一年に七たび奔命した。楚に属していた蛮夷を呉がことごとく取った。これによって呉は初めて大きくなり、上国と通じた。
成公八年(前583年)
- 秋、晉侯が申公巫臣を呉へ遣わした。
- 冬、晉の士燮が聘問に来た。郯を討つことを言ったのである。郯が呉に仕えたからである。公は賄って師を緩めることを請うた。
- 文子は承知せず、「君命に二心はない。信を失えば立てぬ。礼に賄を加えず、事に二つながら成ることはない。君が諸侯に後れれば、それは寡君が君に仕えられぬことになる。燮は復命しよう」と言った。季孫は懼れ、宣伯に師を率いて郯討伐に会させた。
成公九年(前582年)
- 春、蒲で会した。この行きは初めて呉と会するはずであったが、呉人は至らなかった。
成公十五年(前576年)
- 十一月、鍾離で呉と会した。初めて呉と通じたのである。
襄公三年(前570年)
- 春、楚の子重が呉を討ち、選抜の師を出して鳩茲に克ち、衡山に至った。鄧廖に組甲三百・被練三千を率いて呉を侵させた。呉人は待ち伏せて撃ち、鄧廖を捕らえた。免れ得た者は組甲八十・被練三百だけであった。
- 子重が帰って飲至の礼を行って三日、呉人が楚を討って駕を取った。駕は良い邑であり、鄧廖もまた楚の良い者であった。君子は「子重はこの役において、得たものが失ったものに及ばない」といった。楚人はこれで子重を咎めた。子重は病んで、そのまま心の病にかかって卒した。
- 六月、公が單頃公および諸侯と会した。己未、鷄澤で同盟した。晉侯は荀會に淮上で呉子を迎えさせたが、呉子は至らなかった。
襄公五年(前568年)
- 夏、呉子が壽越を晉へ遣わし、雞澤の会に加わらなかったことを詫び、あわせて諸侯の好誼を聴くことを請うた。晉人はそのために諸侯を合わせようとし、魯と衞を先に会させ、あわせて会の期日を告げさせた。それゆえ孟獻子と孫文子が善道で呉と会した。九月丙午、戚で盟った。呉と会したのである。
襄公十年(前563年)
- 春、柤で会した。呉子壽夢と会したのである。
襄公十二年(前561年)
- 秋、呉子壽夢が卒した。周廟で哭した。礼にかなう。およそ諸侯の喪では、異姓は外で哭し、同姓は宗廟で、同宗は祖廟で、同族は禰廟で哭する。それゆえ魯は諸々の姫姓のために周廟で哭し、邢・凡・蔣・茅・胙・祭のためには周公の廟で哭する。
襄公十三年(前560年)
- 秋、楚の共王が卒した。呉が楚を侵した。養由基が奔命し、子庚が師をもって続いた。養叔は「呉は我らの喪に乗じ、我らが出師できぬと思っている。必ず我らを侮って用心すまい。あなたは三つの伏兵を置いて待たれよ。私が誘うことを請う」と言った。子庚は従った。庸浦で戦って呉の師を大敗させ、公子黨を捕らえた。君子は呉を弔まぬ者とした。詩に「弔まざる昊天、乱れて定まることなし」とある。
襄公十四年(前559年)
- 春、呉が晉に敗北を告げた。向で会した。呉のために楚を謀ったのである。范宣子は呉の不徳を数え立てて呉人を退けた。
- 呉子諸樊は喪を除いてから季札を立てようとした。季札は辞退して言った。「曹の宣公が卒したとき、諸侯と曹人は義でないとして曹君を立てようとせず、子臧を立てようとした。子臧は去ってついにならず、それで曹君を成した。君子は『よく節を守った』という。君は義しい嗣です。誰があえて君を犯しましょう。国を有つのは私の節ではない。札は不才でも、子臧に付いて節を失わぬことを願う」。
- 固く立てようとすると、その家を棄てて耕した。そこで措いた。
- 秋、楚子は庸浦の役のゆえに、子囊が棠に軍して呉を討った。呉は出ずに引き上げた。子囊が殿となり、呉ができぬと見て用心しなかった。呉人は臯舟の隘路から待ち伏せて撃った。楚人は互いに救えず、呉人はこれを破って楚の公子宜穀を捕らえた。
襄公二十四年(前549年)
- 夏、楚子が舟師をもって呉を討ったが、軍政を行わず、功なく引き上げた。
- 冬、呉人は楚の舟師の役のゆえに舒鳩人を招いた。舒鳩人は楚に叛いた。
襄公二十五年(前548年)
- 秋、舒鳩人がついに楚に叛いた。令尹の子木が討った。呉人が救ったが、呉の師は大敗した。
- 十二月、呉子諸樊が楚を討って舟師の役に報い、巢の城門を攻めた。巢の牛臣は「呉王は勇にして軽々しい。門を開けば必ず自ら攻め入る。私が射れば必ず斃せる。この君が国境で死ねば、少しは安らげる」と言った。従った。呉子が門を攻めた。牛臣は低い牆に隠れて射て、呉子は卒した。
襄公二十六年(前547年)
- 夏、楚子と秦人が呉を侵し、雩婁に至って呉に備えがあると聞いて引き返した。
襄公二十九年(前544年)
- 呉人が越を討って俘を得、門番として舟を守らせた。呉子餘祭が舟を見に行き、門番が刀でこれを弑した。
- 呉の公子札が聘問に来た。叔孫穆子に会って喜び、穆子に言った。「あなたは真っ当な死を得られぬのではないか。善を好むが人を択べぬ。私は聞いている、君子は人を択ぶことに務めると。あなたは魯の宗卿としてその大政に任じながら、慎んで人を挙げぬ。どうして堪えられよう。禍は必ずあなたに及ぶ」。
- 周の楽を観ることを請うた。楽人に周南と召南を歌わせると、「美しい。まだ基を築いたばかりで完成していない。しかし勤めて怨まぬ」と言った。
- 邶・鄘・衞を歌わせると、「美しく、深い。憂えても困しまぬものだ。私は聞いている、衞の康叔と武公の徳はこのようであったと。これが衞風であろうか」と言った。
- 王を歌わせると、「美しい。思っても懼れぬ。周の東遷のころか」と言った。
- 鄭を歌わせると、「美しい。しかし細やかに過ぎる。民は堪えられまい。これが先に亡ぶのか」と言った。
- 齊を歌わせると、「美しい。泱々として大いなる風だ。東海に表となる者、太公であろうか。国は量りがたい」と言った。
- 豳を歌わせると、「美しく、のびやかだ。楽しんで淫らでない。周公の東征のころか」と言った。
- 秦を歌わせると、「これを夏の声という。そもそも夏たりうれば大きい。大の至りだ。周の旧地か」と言った。
- 魏を歌わせると、「美しく、ゆったりしている。大きくして婉やか、険しくして行いやすい。徳をもってこれを輔ければ明主となろう」と言った。
- 唐を歌わせると、「思いが深い。陶唐氏の遺民があるのか。そうでなければ、どうして憂えが遠くまで及ぼう。令徳の後でなければ、誰がこのようであり得よう」と言った。
- 陳を歌わせると、「国に主がない。久しくおれようか」と言った。鄶より下は評しなかった。
- 小雅を歌わせると、「美しい。思っても二心なく、怨んでも言わぬ。周の徳の衰えたころか。なお先王の遺民がいる」と言った。
- 大雅を歌わせると、「広い。熙々としている。曲がっていながら直な体がある。文王の徳か」と言った。
- 頌を歌わせると、こう言った。「至れり。直であっても倨らず、曲がっていても屈せず、近くとも逼らず、遠くとも離れず、遷っても淫らでなく、繰り返しても厭きず、哀しんでも愁えず、楽しんでも荒れず、用いても乏しくならず、広くとも顕さず、施しても費やさず、取っても貪らず、留まっても滞らず、行っても流れぬ。五声は和し八風は平らかで、節に度があり、守るに序がある。盛徳の者に共通するところだ」。
- 象箾と南籥の舞を見て「美しい。しかしなお憾みが残る」と言った。大武の舞を見て「美しい。周の盛んなときはこのようであったか」と言った。韶濩の舞を見て「聖人の広さでありながら、なお慙じる徳がある。聖人は難しい」と言った。大夏の舞を見て「美しい。勤めても徳としない。禹でなければ誰がこれを修められよう」と言った。韶箾の舞を見て、こう言った。「徳は至れり、大いなるかな。天が覆わぬものなく、地が載せぬもののないようだ。甚だ盛んな徳でも、これに加えるものはあるまい。観るのはここまでだ。他の楽があっても、私はあえて請わぬ」。
- その聘問は嗣君のことを通じたのである。だからそのまま齊に聘問した。晏平仲を喜んで言った。「あなたは速やかに邑と政を返されよ。邑がなく政がなければ難を免れる。齊国の政はやがて帰するところがある。帰するところを得ぬうちは難がやまぬ」。それゆえ晏子は陳桓子を通じて政と邑を返し、それで欒氏・高氏の難を免れた。
- 鄭に聘問し、子産に会うと旧知のようであった。縞の帯を贈り、子産は紵の衣を献じた。子産に言った。「鄭の執政は奢っている。難が至ろう。政は必ずあなたに及ぶ。あなたが政を執ったら、慎んで礼をもってされよ。でなければ鄭国は敗れよう」。
- 衞へ行き、蘧瑗・史狗・史鰌・公子荊・公叔發・公子朝を喜んで、「衞には君子が多い。まだ患いはない」と言った。
- 衞から晉へ行き、戚に宿ろうとして鐘の音を聞いた。「異なことだ。私は聞いている、弁があって徳がなければ必ず戮を加えられると。あの方は君に罪を得てここにいる。懼れてもなお足りぬのに、そのうえ何を楽しむのか。あの方がここにいるのは、燕が幕の上に巣くうようなものだ。君はまた殯中である。楽しんでよいものか」と言い、そのまま去った。文子はこれを聞いて生涯琴瑟を聴かなかった。
- 晉へ行き、趙文子・韓宣子・魏獻子を喜んで、「晉国はこの三族に集まるのか」と言った。叔向を喜び、去るとき叔向に言った。「あなたは励まれよ。君は奢って良き大夫が多く、みな富んでいる。政はやがて家に移ろう。あなたは直を好む。必ず自ら難を免れることを思われよ」。
襄公三十一年(前542年)
- 呉子が屈狐庸を晉に聘問させた。道を通じたのである。趙文子が問うて「延州來季子は果たして立つだろうか。巢で諸樊が斃れ、門番が戴呉(餘祭)を殺した。天が啓くようだが、どうか」と言った。
- 答えて言った。「立ちません。これは二人の王の命であって、季子を啓くのではありません。もし天の啓くところなら、いまの嗣君(餘昧)にあるのではないか。甚だ徳があって節度がある。徳があれば民を失わず、節度があれば事を失わぬ。民が親しみ事に序がある。天の啓くところです。呉国を有つ者は必ずこの君の子孫がまことに終わりまで保ちましょう。季子は節を守る者です。国があっても立ちません」。
昭公十五年(前527年)
- 春王正月、呉子夷昧が卒した。
昭公二十七年(前515年)
- 呉子が楚の喪に乗じて討とうとし、公子掩餘と公子燭庸に師を率いて潛を囲ませ、延州來季子を上国に聘問させ、そのまま晉に聘問させて諸侯の様子を観させた。
- 呉の公子光は「いまだ。逃してはならぬ」と言い、鱄設諸に告げた。「上国の言葉に『索めずして何を獲ん』とある。私は王の嗣だ。私はこれを求めたい。事がもし成れば、季子が至っても私を廃すまい」。鱄設諸は「王は弑せます。母は老い子は幼い。私はどうにもなりません」と言った。光は「私がお前の身代わりだ」と言った。
- 夏四月、光は地下室に甲士を伏せて王を饗した。王は甲士を道に並べて座らせた。その門から門・階・戸・席に至るまでみな王の親族であった。鈹を持って挟み、料理を運ぶ者は門外で身を検められて服を改め、料理を執る者は膝行して入り、鈹を執る者が挟んで受け渡し、体に触れながら手渡した。
- 光は足の病を装って地下室に入った。鱄設諸は剣を魚の中に入れて進み、剣を抜いて王を刺した。鈹が胸で交わったが、そのまま王を弑した。闔廬はその子を卿とした。
- 季子が至って言った。「まことに先君の祀が廃れず、民人に主が絶えず、社稷に奉ずる者があり、国家が傾かなければ、それが我が君だ。私が誰を怨もう。死者を哀しみ生者に仕えて天命を待つ。私が乱を起こしたのではない。立った者に従うのが先人の道である」。復命し、墓で哭し、位に復して待った。
史論(士竒)
- 呉は泰伯の裔とはいえ、荊蛮の辺鄙に処り、椎髻文身で中国の礼がなかった。馬に乗り舟を宮とし、雲のように集まり鳥のように散り、射御・駆侵・戦陣の法もまだなかった。
- 屈巫が家財を分けられた怨みを含んで晉を導き呉に通じ、そのうえその子の狐庸を遣わして謀主とさせてから、およそ中国の長ずる技をみな呉と共にした。ここにおいて長江を渡って長を争い、楚の辺境は呉の師のない年がなくなった。
- 蒲と雞澤の二役で諸侯が呉を待っても呉は至らなかった。すでに上国を軽んずる心があったのである。晉人は悟らず、必ず諸侯を連ねてこれに近づこうとした。呉はこれから一段と大きくなり、壽夢はついに僭かに王を号した。
- 晉の意は、呉を用いれば楚を制せるということに過ぎなかった。豺を一匹退けてまた狼を一匹進めることに気づかなかった。どうして楚より優れていよう。とすれば呉が中国と通じ得たのは、楚がそれを成させ、晉もまた自らその藩籬を撤したのである。
- 壽夢は季札を賢として立てようとしながら、また長幼の序に牽かれ、順に伝えて必ず季子に国を致すと約した。これは宋の杜太后が太祖の兄弟に並んで天子とならせ、最後に徳昭に返そうとしたのと同じく、誤った計である。
- 歳月が長くて事の成り行きが測れぬのは言うまでもない。仮に諸樊・餘祭・夷昧がみな高齢まで生き、季子が不幸にも先に死んだら、切々たる賢に譲る意は虚しくなる。
- 札が国を譲ったのはまことに至誠から出たものである。しかし子臧の義は慕うべきでも、父兄の志もまた違えられぬ。
- 季子が徐を通り、徐君がその宝剣を欲しがった。使いを終えて戻ると徐君はすでに死んでいた。その剣を墓の樹に掛けて「私はすでに心で許した」と言った。ああ、徐君は蓋を傾けただけの交わりである。その心を深く体してここまでした。それでいて父兄の志だけは曲げて成し遂げられぬとは、軽重が釣り合わぬのではないか。
- 夷昧が卒してからもまた国に戻ってこれを受けず、諸樊の子の光を措いて王僚に序を越えて立たせ、争いの端を啓いた。專諸の刃も「我によりて」の恨みを免れがたい。
- 身は叔父であり社稷の鎮となる公子でありながら、骨肉が相い残なうのを秦人が越人の肥痩を見るように座視して匡し正さなかった。これを賢といえようか。
- 嬴と博の間で坎を掩い三たび号んですぐ去ったのを見れば、札はおそらく曠達にして情理から遠い人である。従来、曠達の士は万物を芻狗のように見、得喪を一つに斉しくする。札が千乗を委ねられたのはこれによるが、呉国を綏め定められなかったのもまたこれによる。何を責めることがあろう。
- その詩を観て列国の興亡を知り、境に入って晉が乱れようとしているのを弁えたことは、当時、名は諸侯に聞こえ、至る所で人を傾動させた。まさしく翩々たる濁世の賢公子ではないか。
- 惜しいことに、経を知って権を知らず、譲りすぎて乱を生じた。春秋が賢者に備わることを責めるゆえんである。