左傳紀事本末昭王・惠王の楚国復興(白公の乱/惠王の陳滅亡を付す)(惠)(昭惠復興楚國(曰公之亂/王滅陳附) (惠/))

呉に郢を落とされた楚が昭王・惠王の代に復興していく過程を、定公四年(前506年)から哀公十八年(前477年)まで扱う篇。白公の乱と惠王が陳を滅ぼした一段を併せる。申包胥は秦の庭で七日哭き続けて師を乞い、秦の子蒲・子虎が至って呉の師を次々に破った。子西は郢を鄀へ遷して政の紀綱を改め、楚国を定めた。昭王は赤い鳥の凶を令尹・司馬に移すことを拒み、河の祟りにも「望を越えず」として祭らず、城父で卒するとき三人の弟に位を譲ろうとして、孔子に大道を知る者と評された。哀公十六年(前479年)、葉公の諫めを退けて召された白公勝が子西と子期を殺して惠王を脅したが、葉公が国人を率いて討ち、乱は収まった。

年表(16件)

定公四年(前506年)

  • はじめ伍員は申包胥と友であった。亡命するとき申包胥に「私は必ず楚国を覆す」と言った。申包胥は「励まれよ。あなたが覆せるなら、私は必ず興す」と言った。
  • 昭王が隨にいるころ、申包胥は秦へ行って師を乞い、こう言った。「呉は大猪や長蛇となって上国を次々に食らい、虐げは楚から始まりました。寡君は社稷を守り損ね、草莽に落ちのび、下臣に急を告げさせて申されます。『夷の性は飽くことを知らぬ。もし君の隣となれば疆場の患いとなる。呉のまだ定まらぬうちに、君はその分け前を取られよ。もし楚がついに亡べば君の土地です。もし君の霊威で撫されるなら、代々君に仕えます』」。
  • 秦伯は断らせて「寡人は命を承った。あなたはひとまず館に就かれよ。図ってから告げよう」と言った。答えて「寡君は草莽に落ちのび、身を伏せる所も得ておりません。下臣がどうしてあえて安んじられましょう」と言い、庭の牆に寄りかかって哭し、日夜声を絶やさず、一杯の水も口にせぬこと七日。秦の哀公はそのために無衣を賦した。九たび頓首して座った。秦の師はそこで出た。

定公五年(前505年)

  • 申包胥が秦の師を伴って至った。秦の子蒲と子虎が戦車五百乗を率いて楚を救った。子蒲は「私はまだ呉の戦法を知らぬ」と言い、楚人を先に呉人と戦わせ、自らは稷から合流した。沂で夫槩王を大敗させた。
  • 呉人は柏舉で薳射を捕らえていたが、その子が敗走した兵を率いて子西に従い、軍祥で呉の師を破った。
  • 秋七月、子期と子蒲が唐を滅ぼした。九月、夫槩王が帰って自ら立ち、王と戦って敗れ、楚へ亡命して堂谿氏となった。
  • 呉の師が雍澨で楚の師を破り、秦の師がまた呉の師を破った。呉の師は麇に居た。子期が焼こうとした。子西は「父兄の骨がそこに晒されていて収められぬのに、そのうえ焼くのは不可だ」と言った。子期は「国が亡びる。死者にもし知る心があれば、旧の祀を享けられるのだ。どうして焼くことを憚ろう」と言った。焼いてまた戦い、呉の師は敗れた。また公壻の谿で戦い、呉の師は大敗した。呉子はそこで帰った。
  • 闉輿罷を囚えた。闉輿罷は先に行くことを請い、そのまま逃げ帰った。葉公諸梁の弟の后臧は母に従って呉にいたが、待たずに帰った。葉公は終生まともに顔を見なかった。
  • 楚子が郢に入った。はじめ鬭辛は呉人が宮を争っていると聞いて「私は聞いている、譲らねば和さず、和さねば遠く征伐できぬと。呉が楚で争えば必ず乱がある。乱があれば必ず帰る。どうして楚を定められよう」と言った。
  • 王が隨へ逃げたとき、成臼を渡ろうとした。藍尹亹はその妻子を渡し、王に舟を与えなかった。安寧になって王は殺そうとした。子西は「子常はただ旧怨ばかり思って君を敗った。何を倣われるのか」と言った。王は「よろしい」と言い、旧の職に復させて「私はこれで前の悪を記憶にとどめる」と言った。
  • 王は鬭辛・王孫由于・王孫圉・鍾建・鬭巢・申包胥・王孫賈・宋木・鬭懷を賞した。子西は「懷は措かれることを請う」と言った。王は「大きな徳は小さな怨みを消す。それが道だ」と言った。
  • 申包胥は「私は君のためにしたので、身のためではない。君はすでに定まった。その上まだ何を求めよう。しかも私は子旗を咎めた。そのうえ自分がそれをするのか」と言い、そのまま賞を逃れた。
  • 王が季芈を嫁がせようとした。季芈は辞退して「女子である所以は丈夫を遠ざけることです。鍾建は私を背負いました」と言った。そこで鍾建に嫁がせ、樂尹とした。
  • 王が隨にいたとき、子西は王の輿と服を作って道々の民を安んじ、脾洩に国を構えた。王の居場所を聞いてから王に従った。
  • 王は由于に麇に城を築かせた。復命したとき子西が城の高さと厚さを問うたが、知らなかった。子西は「できぬなら断ればよい。城の高さ厚さ大小を知らぬなら、何を知っているのか」と言った。
  • 答えて言った。「固く断ってできぬと言いました。あなたが私にさせたのです。人にはそれぞれできることとできぬことがある。王が雲中で盗に遭ったとき、私はその戈を受けました。その跡がまだあります」。肌脱ぎになって背を見せ、「これが私にできることです。脾洩の事は私にはできませんでした」と言った。

定公六年(前504年)

  • 四月己丑、呉の太子終纍が楚の舟師を破り、潘子臣・小惟子および大夫七人を捕らえた。楚国は大いに懼れ、亡びると思った。子期がまた陵師をもって繁陽で敗れた。
  • 令尹の子西は喜んで「これでやっと手が打てる」と言った。ここにおいて郢を鄀へ遷し、その政の紀綱を改めて楚国を定めた。

定公十四年(前496年)

  • 頓子牂が晉に仕えようとして楚に背き、陳との好誼を絶った。二月、楚が頓を滅ぼした。

定公十五年(前495年)

  • 呉が楚に入ったとき、胡子は胡に近い楚の邑をことごとく俘にした。楚が定まってからも胡子豹は楚に仕えず、「存亡は命による。楚に仕えて何になろう。費えが多いだけだ」と言った。二月、楚が胡を滅ぼした。

哀公元年(前494年)

  • 春、楚子が蔡を囲んだ。柏舉に報いたのである。一里離れて土塁を築き、幅一丈、高さはその倍とし、駐屯すること昼夜九日、子西の計画どおりであった。蔡人は男女を分けて出た。江水と汝水の間に境を定めさせて引き上げた。蔡はここにおいて呉へ遷ることを請うた。
  • 呉が楚に入ったとき、陳の懷公に使いした。懷公は国人を朝廷に集めて問い、「楚に与したい者は右へ、呉に与したい者は左へ」と言った。陳人は田によって分かれ、田のない者は党によった。
  • 逢滑が公の前に進み出て言った。「臣は聞いております、国が興るのは福による、その亡ぶのは禍によると。いま呉にはまだ福がなく、楚にはまだ禍がありません。楚は棄てられず、呉には従えません。しかも晉が盟主です。晉を理由に呉を断られてはどうか」。
  • 公が「国は破られ君は亡命した。禍でなくて何か」と言うと、こう答えた。「国にこういうことは多くあります。なぜ必ず復さぬといえましょう。小国でさえ復するのに、まして大国では。臣は聞いております、国が興るときは民を傷ついた者を見るように見る、それがその福である。その亡ぶときは民を土芥のように扱う、それがその禍であると。楚は徳がなくとも、その民を刈り殺しはしません。呉は日々兵に疲れ、骨を野に晒すこと草むらのようで、まだ徳を見ません。天はあるいは楚を正しく訓えているのかもしれません。禍が呉に向かうのに、何日もかかりましょうか」。
  • 陳侯は従った。夫差が越に克つに及んで先君の怨みを修めた。秋八月、呉が陳を侵した。旧怨を修めたのである。

哀公二年(前493年)

  • 秋、呉の洩庸が蔡へ行き、聘礼を納れながら少しずつ師を入れた。師がすべて入ってから衆が気づいた。蔡侯は大夫に告げ、公子駟を殺して言い訳とし、哭して墓を遷した。冬、蔡は州來へ遷った。

哀公四年(前491年)

  • 春、蔡の昭侯が呉へ行こうとした。諸大夫はまた遷されることを恐れ、公孫翩に頼んで追って射た。民家に入って卒した。翩は二本の矢で門を守り、衆はあえて進めなかった。文之鍇が後から至って「牆のように並んで進め。多くとも二人殺されるだけだ」と言い、鍇は弓を執って先に立った。翩が射て肘に中ったが、鍇はそのまま殺した。それゆえ公孫辰を追い、公孫姓・公孫旴を殺した。
  • 夏、楚人は夷虎に克ってから北方を謀った。左司馬眅・申公壽餘・葉公諸梁が蔡の民を負函に集め、方城の外の民を繒關に集めて、「呉が長江を遡って郢に入ろうとしている。奔命する」と言い、一夜の期日を定めて梁と霍を襲った。單浮餘が蠻氏を囲み、蠻氏は潰えた。蠻子赤は晉の陰地へ亡命した。
  • 司馬が豐と析の兵と狄戎を起こして上雒に臨み、左師は菟和に、右師は倉野に軍し、陰地の命大夫士蔑に言わせた。「晉と楚には盟があり、好悪を同じくする。もし廃されぬなら寡君の願いです。そうでなければ少習を通って命を聴きましょう」。
  • 士蔑が趙孟に伺うと、趙孟は「晉国はまだ安寧でない。どうして楚と悪くできよう。必ず速やかに与えよ」と言った。士蔑はそこで九州の戎を招き、田を裂いて蠻子に与えて城を築こうとし、あわせてそのために卜おうとした。蠻子は卜を聴いた。そのまま捕らえ、その五人の大夫とともに三户で楚の師に与えた。司馬は邑を与え宗を立てて、その残った民を誘い、ことごとく俘にして帰った。

哀公六年(前489年)

  • 春、呉が陳を討った。改めて旧怨を修めたのである。楚子は「我が先君は陳と盟があった。救わぬわけにいかぬ」と言い、そこで陳を救って城父に軍した。
  • 秋七月、楚子は城父にあって陳を救おうとした。戦うことを卜うと不吉、退くことを卜っても不吉であった。王は「では死ぬだけだ。再び楚の師を敗るくらいなら死ぬに如かず。盟を棄てて仇から逃げるのも死ぬに如かず。死は同じことだ。仇に向かって死のう」と言った。
  • 公子申を王とするよう命じたが承知しなかった。公子結に命じたがやはり承知しなかった。公子啓に命じ、五たび辞退してから承知した。
  • 戦おうとして王が病んだ。庚寅、昭王は大冥を攻め、城父で卒した。
  • 子閭は退いて言った。「君王はその子を措いて群臣に譲られた。どうして君を忘れられよう。君の命に従うのは順である。君の子を立てるのもまた順である。二つの順は失えぬ」。子西・子期と謀って師をひそかに動かし道を閉ざし、越の女の子の章を迎えて立ててから帰った。
  • この年、雲があって、赤い鳥の群れが日を挟んで飛ぶこと三日であった。楚子は周の大史に問わせた。周の大史は「それは王の身に当たるのではありませんか。禜祭をすれば令尹か司馬に移せます」と言った。王は「腹心の病を除いて股肱に置いて何の益があろう。不穀に大きな過ちがなければ、天がどうして夭折させよう。罪があって罰を受けるのに、どうしてこれを移そう」と言い、そのまま禜祭をしなかった。
  • はじめ昭王が病んだとき、卜って「河が祟りをなす」と出た。王は祭らなかった。大夫が郊で祭ることを請うと、王は「三代の祀の定めでは、祭は望の範囲を越えぬ。江・漢・睢・漳が楚の望である。禍福の至るところもこれを越えぬ。不穀は徳がなくとも、河に罪を得たわけではない」と言い、そのまま祭らなかった。
  • 孔子は言った。「楚の昭王は大道を知っている。国を失わなかったのも当然である。夏書に『かの陶唐は、かの天常に率い、この冀方を有した。いまその行いを失い、その紀綱を乱して、そこで滅び亡んだ』とあり、また『まことに出ずるはここ、在るもここ』とある。自らによって常に率えばよいのである」。

哀公九年(前486年)

  • 夏、楚人が陳を討った。陳が呉についたからである。

哀公十年(前485年)

  • 冬、楚の子期が陳を討った。呉の延州來季子が陳を救い、子期に「二君は徳に務めず力で諸侯を争っている。民に何の罪がありましょう。私は退いてあなたの名としましょう。徳に務め民を安んずるのです」と言った。そこで引き上げた。

哀公十一年(前484年)

  • 夏、陳の轅頗が鄭へ亡命した。はじめ轅頗は司徒となり、封内の田に賦を課して公の娘を嫁がせ、余りを自分の大きな器物にした。国人が追ったので出奔したのである。
  • 道中で渇いた。その一族の轅咺が稲の甘酒と粱の炒り粉と干し肉を差し出した。喜んで「なんと行き届いていることか」と言った。答えて「器が出来上がったときに備えました」と言った。「なぜ私を諫めなかったのか」と言うと、「私が先に追われることを懼れました」と答えた。

哀公十五年(前480年)

  • 夏、楚の子西と子期が呉を討ち、桐汭に至った。陳侯が公孫貞子を弔問に遣わしたが、良に至って卒した。屍を伴って入ろうとした。
  • 呉子は大宰嚭に労わせ、あわせて断って言った。「長雨の時期でもあり、大夫の屍を朽ちさせて落とし、寡君の憂いを重くすることになりましょう。寡君はあえて辞退します」。
  • 上介の芈尹葢が答えた。「寡君は楚が無道にも重ねて呉国を討ち、その民人を滅ぼすと聞き、葢を使いに備えて君の下吏を弔わせました。禄なく、使者は天の憂いに遭い、大命が隕ち落ちて良で世を絶ちました。日を定めて積み、一日ごとに宿を移しました。いま君は使者を迎えて『屍を門に持ち込むな』と命じられる。これは我が寡君の命を草莽に委ねることです。
  • しかも臣は聞いております、死者に仕えること生者に仕えるがごとくが礼であると。ここにおいて朝聘して途中で死ねば屍をもって事を行う礼があり、また朝聘して喪に遭う礼もあります。もし屍をもって命を伝えぬなら、喪に遭って帰ることになる。いけないのではありませんか。礼で民を防いでも越える者がある。いま大夫は死ねば棄てよと言われる。これは礼を棄てることです。何をもって諸侯の主となられましょう。
  • 先の民に言葉があります、『士を穢し虐げるなかれ』と。使いに備えて屍を奉じ命を伝える。まことに我が寡君の命が君のところに達すれば、深淵に隕ちても天命であって、君や渡し守の過ちではありません」。呉人は入れた。

哀公十六年(前479年)

  • 楚の太子建が讒に遭ったとき、城父から宋へ亡命し、また華氏の乱を避けて鄭へ行った。鄭人は甚だ善く遇した。また晉へ行き、晉人と鄭を襲うことを謀り、そこで復帰を求めた。鄭人はもとどおりに復した。
  • 晉人が子木(太子建)のところへ間諜を遣わした。子木は行くことを請うて期日を定めた。子木はその私邑で暴虐をふるい、邑人が訴えた。鄭人が調べると晉の間諜が見つかった。そのまま子木を殺した。
  • その子を勝といい、呉にいた。子西が召そうとした。葉公は「私は聞いている、勝は詐にして乱を好むと。害にならぬか」と言った。子西は「私は聞いている、勝は信にして勇であると。不利なことはせぬ。辺境に置いて藩を守らせよう」と言った。
  • 葉公は言った。「仁を周くするのを信といい、義に率うのを勇という。私は聞いている、勝は言ったことを果たすのを好み、死士を求めていると。おそらく私心があろう。言ったことを果たすのは信ではなく、死を期するのは勇ではない。あなたは必ず悔いられよう」。従わずに召し、呉の国境に置いて白公とした。
  • 鄭を討つことを請うた。子西は「楚はまだ整っていない。そうでなければ私も忘れてはいない」と言った。後日また請い、許した。まだ師を起こさぬうちに晉人が鄭を討ち、楚が救ってこれと盟った。勝は怒って「鄭人がここにいる。仇は遠くない」と言った。
  • 勝が自ら剣を研いでいた。子期の子の平が見て「王孫は何を自ら研がれるのか」と言った。「勝は率直で聞こえている。お前に告げねば、どうして率直といえよう。これでお前の父を殺すのだ」と言った。平が子西に告げると、子西は「勝は卵のようなものだ。余が翼で覆って育てた。楚国は、私が死ねば令尹と司馬は勝でなくて誰か」と言った。勝はこれを聞いて「令尹の狂いようよ。真っ当な死を得れば、私が私でない」と言った。子西は改めなかった。
  • 勝は石乞に「王と二人の卿士に、それぞれ五百人で当たれば足りる」と言った。乞は「得られません」と言い、「市の南に熊宜僚という者がおります。これを得られれば五百人に当たれます」と言った。そこで白公に従って会い、語った。喜んで事情を告げたが断った。剣を突きつけても動じなかった。勝は「利のために諂わず、威に怯えず、人の言葉を漏らして取り入ろうとせぬ者だ」と言い、そのままにした。
  • 呉人が慎を討ち、白公が破った。戦の装備を献ずることを請い、許された。そのまま乱を起こした。秋七月、朝廷で子西と子期を殺し、惠王を脅した。子西は袖で顔を覆って死んだ。子期は「昔、私は力で君に仕えた。全うせぬわけにいかぬ」と言い、豫章の木を引き抜いて人を殺してから死んだ。
  • 石乞は「倉庫を焼き王を弑さねば成りません」と言った。白公は「なりません。王を弑すのは不祥、倉庫を焼けば蓄えがない。何によって守ろう」と言った。乞は「楚国を有してその民を治め、敬んで神に仕えれば祥を得られます。しかも蓄えはある。従わぬことを何を患えましょう」と言った。
  • 葉公は蔡におり、方城の外の者はみな「入れます」と言った。子高(葉公)は「私は聞いている、危険によって僥倖を求める者はその求めに飽くことがない。偏って重ければ必ず離れると」と言い、齊の管修を殺したと聞いてから入った。
  • 白公は子閭を王にしようとした。子閭は承知しなかった。そこで兵で脅した。子閭は「王孫がもし楚国を安んじ靖め、王室を匡し正してから庇われるなら、それが啓の願いです。あえて聴き従わぬはずがありません。もし利を専らにして王室を傾けようとし、楚国を顧みぬなら、死んでもできません」と言った。そのまま殺し、王を伴って高府へ行った。
  • 石乞が門を守り、圉公陽が宮に穴を開けて王を背負い、昭夫人の宮へ行った。
  • 葉公もまた至った。北門に及んで、ある者が出会って「君はなぜ兜をかぶられぬのか。国人は君を慈父母のように望んでおります。盗賊の矢がもし君を傷つければ、民の望みを絶つことになる。どうして兜をかぶられぬのか」と言った。そこで兜をかぶって進んだ。
  • また一人に出会って「君はなぜ兜をかぶられるのか。国人は君を豊年のように望んでおります。日月に望んで、君の顔を見られれば安らげる。民は死なぬと知れば、みな奮い立つ心を持ち、なお君を旗印として国に触れ回ろうというのに、そのうえ顔を覆って民の望みを絶たれるのは、甚だしいのではありませんか」と言った。そこで兜を脱いで進んだ。
  • 箴尹固がその属を率いて白公に与しようとしているのに出会った。子高は「二人(子西・子期)がなければ楚は国とならなかった。徳を棄てて賊に従って、保てようか」と言った。そこで葉公に従った。
  • 国人とともに白公を攻めさせた。白公は山へ逃げて縊れた。その徒が屍を隠した。石乞を生け捕りにして白公の死んだ所を問うた。答えて「私はその死んだ所を知っているが、年長者が私に言うなと言った」と言った。「言わねば烹る」と言うと、乞は「この事は克てば卿となり、克たねば烹られる。もとよりそういうものだ。何の害があろう」と言った。そこで石乞を烹た。王孫燕は頯黄氏へ亡命した。
  • 沈諸梁は二つの職を兼ね、国が安寧になると、寧を令尹とし、寛を司馬として、葉で老いた。

哀公十七年(前478年)

  • 楚の白公の乱で、陳人はその蓄えを恃んで楚を侵した。楚が安寧になると、陳の麦を取ろうとした。
  • 楚子は大師子穀と葉公諸梁に将帥を問うた。子穀は「右領の差車と左史の老はどちらも令尹・司馬を輔けて陳を討ったことがあります。使えましょう」と言った。子高は「身分の低い者を率いれば民は侮る。命を用いぬことを懼れます」と言った。
  • 子穀は言った。「觀丁父は鄀の俘でしたが、武王は軍率とし、それで州と蓼に克ち、隨と唐を服させ、諸蛮を大いに開きました。彭仲爽は申の俘でしたが、文王は令尹とし、まことに申と息を県とし、陳と蔡を朝させ、汝水まで畛を封じました。ただその任に堪えるかどうかです。何の賤しさがありましょう」。
  • 子高は言った。「天命は諂われません。令尹は陳に恨みがあります。天がもし陳を亡ぼすなら、必ず令尹の子に与えましょう。君はなぜそれに措かれぬのか。臣は右領と左史に二人の俘の賤しさはあってもその令徳がないことを懼れます」。
  • 王が卜うと武城尹が吉と出た。師を率いて陳の麦を取らせた。陳人が防いだが敗れ、そのまま陳を囲んだ。秋七月己卯、楚の公孫朝が師を率いて陳を滅ぼした。
  • 王は葉公とともに子良を令尹とすることを枚卜した。沈尹朱は「吉ですが、その志に過ぎます」と言った。葉公は「王子でありながら国の相となる。過ぎればどうなるか」と言った。後日、改めて子國を卜って令尹とした。

哀公十八年(前477年)

  • 巴人が楚を討って鄾を囲んだ。はじめ右司馬子國を卜ったとき、觀瞻は「志のとおり」と言った。それゆえこれに命じたのである。
  • 巴の師が至って将帥を卜おうとすると、王は「寧(子國)が志のとおりだ。何を卜おう」と言い、師を率いて行かせ、副将を請わせた。王は「寢尹と工尹は先君に勤めた者だ」と言った。
  • 三月、楚の公孫寧・吳由于・薳固が鄾で巴の師を破った。それゆえ子國を析に封じた。
  • 君子は言う。「惠王は志を知っていた。夏書に『官の占はよく志を決し、それから元亀に命ずる』とあるのは、これをいうのであろう。志に『聖人は卜筮を煩わさぬ』とある。惠王はそれがあった」。

史論(士竒)

  • 平王の悪が積もって楚国はほとんど亡びた。昭王は立ったばかりでその政の紀綱を改められず、申包胥・沈尹戌・子西・子期の諸臣がありながら用いることを知らず、ただ囊瓦の言だけを聴き、唐と蔡の二君を辱めて呉を導いて楚を破らせ、辱めは先人の墓にまで及んだ。
  • 奔走流離に及んでから初めて徳と慧を増した。藍尹が妻子を渡した怨みを子常の戒めとして赦し、陳を救うのに戦いを卜って不吉と出れば「再び楚の師を敗るくらいなら死ぬに如かず」と言い、そこで自らの子を措いて群臣に譲った。国と義の声が感激を呼び、ついに越の女の子の章が立った。
  • 周の史の赤い鳥の占いに背き、群臣が河を祭ることを請うたのを拒んだことに至っては、孔子がその道を知るというのも、晩年でよく覆ったといえよう。
  • 宗廟を掃き清め、呉の師を追い、唐と蔡に報い、頓と胡を滅ぼし、夷虎に克って北方を謀り、ほとんど共王・莊王の跡を継いだのも、やはりゆえのあることである。
  • しかし当時の艱難を思えば、子西が偽の輿と服を作って道々を安んじ、子期が心を割いて隨と盟ったことなど、忠もまた至れりである。国に帰ってから二人は志を協せて楚を靖めた。繁陽の敗北で楚人は大いに懼れて亡びると思ったのに、子西はかえって喜んで「これでやっと手が打てる」と言った。ここにおいて国を鄀へ遷し、政令を一新した。
  • この後、白公の乱で沈諸梁は子西と子期の死を聞いて「私は彼が我が言を棄てたことを怨むが、その楚国を治めたことには徳とする。楚国がよく平らかに均しく先王の業を復せたのは、あの方によるのだ」と言った。ああ、君子がなくて国を治められようか。
  • 申包胥は険しい道を重ねた足の皮で越え、牆に寄りかかること七日、ついに秦の師を出させ、長蛇を追い、楚を復す約束を果たした。その志はまことに苦しく、その義は子員(伍員)より一段と正しい。そのうえその賞を貪らなかった。孤忠峻節、どうしてただ魯仲連の類にすぎようか。
  • 惜しいことに、文公は緜上の田を表し、句踐は少伯の像を鋳たのに、昭王は包胥が賞を辞退した後、別に格別の処遇があったとは聞かない。何をもって天下の忠節を勧められよう。
  • 白公父子は陰険狡猾な禍の賊で、ともに誅鋤された。とすれば子建が立たなかったのも惜しむに足りぬ。子西は忠貞は余りあったが智と決断が足りず、首を伸ばして盗を招き入れた。大愚といえる。
  • 葉公子高は初めは害を遠ざけ、終わりにはよく賊を討った。国人に豊年のように望まれたのだから、高子が魯人に感じられたことも、これに何を加えられよう。
  • 申鳴が父を殺し、自らも死んだのは、なお恨みが余ろう。
  • 柏舉以来、昭王と惠王が相継いでともに良き図りがあった。巴の師が至っても卜筮を煩わさず、まっすぐ子國を将としたのは、人を知る明があったといえる。菹を食べて蛭を呑み、法が廃れることを恐れ、また罪が料理人に及ぶことも恐れた。己に克ち命に順うところは、ゆったりと父の風がある。まして子高と子國が政を秉り、力を尽くして謀を協せたのだから、ついに陳と蔡を県とし、境を泗上まで拓くことができた。楚が危うくして改めて安く、弱くしてよく強くなれたのは、まことに賢君に頼ったのである。
  • 季芈は鍾建が自分を背負ったことで下嫁を憚らず、越姫は義によって昭王に殉じ、好みによってではなかった。漸臺で符を欠いた夫人は魚鼈に甘んずるを厭わず、貞姫は紡績して呉王を慕わなかった。一時に女子の奇なる行いが簡冊に照り輝いた。市南の熊僚のような男子だけではない。国が乱れて偏った気がまことに奇なる人を産む。これもまた異とすべきである。