左傳紀事本末楚の靈王の乱(陳と蔡の滅亡/平王の国を得ることを併せ付す)(楚靈王之亂(滅陳蔡俱平/王得國 附))

楚の公子圍が郟敖を弑して靈王となり、陳と蔡を滅ぼして驕り高ぶった末に乾谿で見放され、平王(棄疾)が国を得るまでを、襄公二十六年(前547年)から昭公十九年(前523年)まで扱う篇。令尹となった公子圍は君の服を設え、北宮文子や叔向にその不義と短命を見抜かれた。昭公元年(前541年)、王の病を見舞う体で縊り殺して即位した。申で諸侯を合わせて奢りを示し、慶封を戮して逆に己の弑逆を言い返され、陳と蔡を滅ぼして隱太子を犠牲に用いた。子革が祈招の詩を誦して諫めたが克てず、乾谿で師に見放されて申亥の家で縊れた。共王が五人の子から璧の卜で後継を択んだ経緯と、叔向が子干の五つの難と棄疾の五つの利を数えた説を載せる。

年表(18件)

襄公二十六年(前547年)

  • 楚子と秦人が呉を侵し、雩婁に至って呉に備えがあると聞いて引き返し、そのまま鄭を侵した。五月、城麇に至った。鄭の皇頡が守っていたが、出て楚の師と戦って敗れた。
  • 穿封戍が皇頡を捕らえた。公子圍がこれを争い、伯州犂に裁いてもらった。伯州犂は「囚人に問うことを請う」と言い、そこで囚人を立たせた。伯州犂は「争っておられるのは君子だ。どうして分からぬことがあろう」と言い、手を高く上げて「この方は王子圍、寡君の貴い弟だ」と言い、手を下げて「この者は穿封戍、方城の外の県尹だ。どちらがあなたを捕らえたか」と言った。囚人は「頡は王子に遇って屈しました」と言った。
  • 戍は怒り、戈を抜いて王子圍を追ったが及ばなかった。楚人は皇頡を伴って帰った。
  • 印堇父が皇頡とともに城麇を守っていた。楚人は捕らえて秦に献じた。鄭人は印氏から財貨を取って身柄を請おうとした。子太叔が令正であったので、その願い文を作った。
  • 子産は言った。「楚に功を受けられぬまま鄭から財貨を取るのでは、国とはいえぬ。秦はそうしないだろう。もし『君の勤めに拝します。鄭国は君の恵みがなければ、楚の師はなお敝邑の城下におりました』と言えば、従わぬはずがない」。そのまま行った。秦人は渡さなかった。幣を改めて子産の言葉に従い、それでようやく得られた。

襄公二十九年(前544年)

  • 楚の郟敖が即位し、王子圍が令尹となった。鄭の行人子羽は「これを不宜という。必ず代わって栄えよう。松柏の下にはその草が育たぬ」と言った。

襄公三十年(前543年)

  • 春王正月、楚子が薳罷を聘問に来させた。嗣君のことを通じたのである。穆叔が王子の政の執り方はどうかと問うと、「我ら小人は食って命を聴くだけで、それでも足りずに咎を免れぬことを懼れております。どうして政に与り知りましょう」と答えた。固く問うたが告げなかった。
  • 穆叔は大夫に告げた。「楚の令尹はやがて大事を起こす。子蕩(薳罷)はそれに与るだろう。助けてその実情を隠している」。
  • 蔡の景侯が太子般のために楚から妻を娶り、自ら通じた。太子は景侯を弑した。
  • 六月、鄭の子産が陳へ行って盟に臨んだ。帰って復命し、大夫に告げた。「陳は亡国だ。与するに足りぬ。禾や粟を集め城郭を繕い、この二つを恃んでその民を撫さぬ。その君は根が弱く、公子は奢り、太子は卑しく、大夫は傲り、政は多くの門から出る。それで大国に挟まれて、亡びずにおれようか。十年を過ぎまい」。
  • 楚の公子圍が大司馬の蔿掩を殺してその家財を取った。申無宇は言った。「王子は必ず免れぬ。善い人は国の主である。王子は楚国の相となって、これを培い育てるべきなのに虐げた。国に禍するものだ。しかも司馬は令尹の副であり王の四体である。民の主を絶ち、民の副を去り、王の体を刈って国に禍する。これ以上の不祥はない。どうして免れられよう」。

襄公三十一年(前542年)

  • 十二月、北宮文子が衞侯の相となって楚へ行った。北宮文子は令尹圍の威儀を見て衞侯に言った。「令尹は君のようだ。他の志があるのでしょう。その志を得ても全うできますまい。詩に『初めあらざるはなく、よく終わりあるは鮮し』とある。終わりを全うするのはまことに難しい。令尹は免れますまい」。
  • 公が「あなたはどうして分かるのか」と言うと、こう答えた。「詩に『威儀を敬み慎む、これ民の則』とある。令尹に威儀がなければ民に則るものがない。民が則らぬものを持って民の上に居るのでは、全うできません」。
  • 公が「よいかな。威儀とは何か」と言うと、こう答えた。
  • 「威があって畏るべきを威といい、儀があって象るべきを儀といいます。君に君の威儀があれば、その臣は畏れて愛し、則って象る。だからその国家を保ち、令聞は代々長く続く。臣に臣の威儀があれば、その下の者は畏れて愛する。だからその官職を守り、族を保ち家を宜しくする。順にこうして下までみなそうであれば、上下は互いに固め合えます。
  • 衞の詩に『威儀は棣棣たり、選ぶべからず』とあるのは、君臣・上下・父子・兄弟・内外・大小がみな威儀を持つことをいいます。周の詩に『朋友の攝くるところ、攝くるに威儀をもってす』とあるのは、朋友の道が必ず威儀をもって互いに教え訓えることをいいます。周書が文王の徳を数えて『大国はその力を畏れ、小国はその徳を懐かしむ』というのは、畏れて愛することをいいます。詩に『識らず知らず、帝の則に順う』とあるのは、則って象ることをいいます。
  • 紂が文王を七年囚え、諸侯がみな従って囚われようとした。紂はここにおいて懼れて帰した。愛したといえます。文王が崇を討ち、再び軍を出すと降って臣となり、蛮夷も率いて服した。畏れたといえます。文王の功を天下が誦して歌い舞う。則ったといえます。文王の行いが今なお法とされる。象ったといえます。威儀があるからです。
  • だから君子は位にあって畏るべく、施し与えて愛すべく、進退は度るべく、周旋は則るべく、容止は観るべく、事のなし方は法とすべく、徳行は象るべく、声や気は楽しむべく、動作に文があり、言語に章がある。それでその下に臨むのを威儀があるというのです」。

昭公元年(前541年)

  • 春、楚の公子圍が鄭に聘問し、そのまま虢で会した。三月甲辰、盟った。楚の公子圍は君の服を設え、二人の護衛を左右に離して立てた。
  • 叔孫穆子は「楚の公子は立派だ。君のようだ」と言った。鄭の子皮は「戈を執る二人が前におります」と言った。蔡の子家は「蒲宮でも前駆を置いた例がある。よいのではありませんか」と言った。楚の伯州犂は「この行きに際して、断って寡君から借りたのです」と言った。鄭の行人揮は「借りて返しますまい」と言った。伯州犂は「あなたはひとまず子晳が勝手に背くことを憂えられよ」と言った。子羽は「璧に当たった方(棄疾)がまだおられる。借りて返さぬのだ。あなたこそ憂えずにおれようか」と言った。齊の國子は「私はお二人に代わって痛ましく思う」と言った。陳の公子招は「憂えずして何が成ろう。お二人は楽しんでおられる」と言った。衞の齊子は「まことに分かっているなら、憂えても何の害があろう」と言った。宋の合左師は「大国が令し小国が供する。私は供することだけを知る」と言った。晉の樂王鮒は「小旻の卒章がよい。私はそれに従う」と言った。
  • 会が退けて、子羽は子皮に言った。「叔孫は率直だが婉やか、宋の左師は簡にして礼あり、樂王鮒は慈しみ深くて敬まやか。あなたと子家は自らを保っていた。みな代々を保つ主である。齊・衞・陳の大夫は免れまい。國子は人に代わって憂え、子招は憂えを楽しみ、齊子は憂えても害はないという。そもそも及ばぬのに憂えること、憂うべきなのに楽しむこと、憂えても害がないとすること、みな憂えを招く道だ。憂えは必ず及ぶ。大誓に『民の欲するところ、天は必ずこれに従う』とある。三人の大夫は憂えを兆した。憂えが至らずにおれようか。言葉で物事を知るとは、このことであろう」。
  • 令尹が趙孟を饗し、大明の首章を賦した。趙孟は小宛の二章を賦した。事が終わって趙孟は叔向に「令尹は自ら王のつもりでいる。どうか」と言った。答えて「王は弱く令尹は強い。できるでしょう。できても全うはできますまい」と言った。
  • 趙孟が「なぜか」と言うと、こう答えた。「強で弱に克ってそこに安んじるのは、強にして不義です。不義でありながら強ければ、その斃れるのは必ず速い。詩に『赫赫たる宗周、褒姒これを滅ぼす』とあるのは強にして不義です。令尹は王となれば必ず諸侯を求めましょう。晉は少し弱っており、諸侯は行くでしょう。もし諸侯を得れば、その虐げはいっそう甚だしくなり、民は堪えられません。どうして全うできましょう。そもそも強によって不義を取り、克てば必ずそれを道とする。道が淫虐であれば、もはや久しくは続きません」。
  • 楚の公子圍は公子黑肱と伯州犂に犫・櫟・郟に城を築かせた。鄭人は懼れた。子産は「害はない。令尹は大事を行おうとして、まず二人を除くのだ。禍は鄭に及ばぬ。何を患えよう」と言った。
  • 冬、楚の公子圍が鄭に聘問しようとした。伍舉が副使であった。まだ国境を出ぬうちに王が病んだと聞いて引き返した。伍舉はそのまま聘問した。
  • 十一月己酉、公子圍が至り、入って王の病を見舞い、縊り殺した。そのままその二人の子の幕と平夏を殺した。右尹の子干は晉へ、宮廄尹の子晳は鄭へ亡命した。太宰の伯州犂を郟で殺し、王を郟に葬って郟敖と呼んだ。
  • 鄭に訃報させるとき、伍舉が後嗣についてどう言うべきか問うた。「寡大夫の圍」と答えた。伍舉は「共王の子の圍が最年長である」と改めた。
  • 子干が晉へ亡命したとき、従う車は五乗であった。叔向は秦の公子(后子)と同じ食事を出させ、どちらも百人分の食料とした。趙文子が「秦の公子のほうが富んでいる」と言った。
  • 叔向は言った。「禄を定めるのは徳による。徳が等しければ年による。年が同じなら尊卑による。公子は国をもってする。富をもってするとは聞かぬ。しかも千乗を擁して国を去ったのだから、強く抑えられたことは甚だしい。詩に『鰥寡を侮らず、彊禦を畏れず』とある。秦と楚は匹敵する」。后子を子干と同列にさせた。辞退して「鍼は択ばれることを懼れます。楚の公子は得られなかった。それでどちらも来たのです。ただ命のままに。しかも臣が羈旅の者と同列になるのは、いけないのではありませんか。史佚の言に『羈旅の者でなくて何を憚ろう』とあります」と言った。
  • 楚の靈王が即位し、薳罷が令尹、薳啓彊が大宰となった。鄭の游吉が楚へ行って郟敖を葬り、あわせて君の擁立を聘問した。帰って子産に「旅の道具を整えられよ。楚王は奢り高ぶって自ら得意になっている。必ず諸侯を合わせよう。我らが行く日は遠くない」と言った。子産は「数年たたねばできまい」と言った。

昭公三年(前539年)

  • 秋七月、鄭の罕虎が晉へ行って夫人を賀し、あわせて告げた。「楚人は日ごとに敝邑に、王の擁立に朝さなかったゆえをもって徴を立てております。敝邑が行けば執事を畏れ、寡君がもとより外心を抱いていたと言われましょう。行かなければ宋の盟の趣旨があります。進むも退くも罪です。寡君は虎にこれを申し述べさせます」。
  • 宣子は叔向に答えさせた。「君がもし辱くも寡君を持ってくださるなら、楚におられて何の害がありましょう。宋の盟を修めることです。君がまことに盟を思われるなら、寡君は咎めを免れると分かります。君がもし寡君を持たれぬなら、朝夕に敝邑へ辱く来られても寡君は疑います。君にまことに心がおありなら、どうして命を煩わされましょう。君は行かれよ。まことに寡君を持たれるなら、楚におられることは晉におられるのと同じです」。
  • 十月、鄭伯が楚へ行き、子産が相となった。楚子は饗して吉日を賦した。饗が終わって子産は狩りの備えを整えた。王は江南の夢で狩りをした。

昭公四年(前538年)

  • 春王正月、許男が楚へ行った。楚子は引き留め、そのまま鄭伯も留めて、改めて江南で狩りをした。許男もこれに加わった。
  • 椒舉を晉へ遣わして諸侯を求めさせ、二人の君はこれを待った。椒舉は命を伝えて言った。「寡君は舉に申させます。先ごろ君は恵みをもって宋で盟を賜り、『晉と楚に従う者は互いに相見える』と申されました。年の情勢が容易でないので、寡人は諸君と歓を結びたいと願い、舉に間を請わせます。君がもし四方の憂いがなければ、寵を借りて諸侯に請いたいと願います」。
  • 晉侯は許すまいとした。司馬侯は言った。「なりません。楚王はいま驕り高ぶっています。天はあるいはその心を遂げさせてその毒を厚くし、罰を降そうとしているのかもしれません。まだ分かりません。よく全うさせるのかもしれず、これも分かりません。晉と楚はただ天の助けるところにあり、争えません。君は許して徳を修め、その帰するところを待たれよ。もし徳に帰すなら、我らはなお仕えましょう。まして諸侯においてをや。もし淫虐に向かえば、楚はやがて棄てられる。我らはまた誰と争いましょう」。
  • 公は「晉には三つの危うからざるものがある。何の敵があろう。国は険しく馬が多い。齊と楚には難が多い。この三つがあれば、どこへ向かって成らぬことがあろう」と言った。
  • 答えて言った。「険と馬を恃んで隣国の難を当てにする、これは三つの危うさです。四嶽・三塗・陽城・大室・荊山・中南は九州の険ですが、一つの姓のものではありません。冀の北の地は馬の生ずるところですが、興った国はありません。険と馬を恃んで固めとはできぬ。古からそうです。それゆえ先王は徳音を修めて神と人に通ずることに務め、険と馬に務めたとは聞きません。
  • 隣国の難は当てにできません。難が多くてその国を固め、その疆土を開く者もあり、難がなくてその国を喪い、その守るところを失う者もある。どうして難を当てにできましょう。齊には仲孫の難があって桓公を得、今に至るまでこれに頼っています。晉には里克・㔻鄭の難があって文公を得、それで盟主となりました。衞と邢には難がなかったが、敵がこれを喪ぼした。だから人の難は当てにできません。
  • この三つを恃んで政と徳を修めねば、亡びるのに暇もない。どうして成りましょう。君は許されよ。紂は淫虐をなし、文王は恵和であった。殷はそれで隕ち、周はそれで興った。どうして諸侯を争うことでしょうか」。
  • そこで楚の使者に許した。叔向に答えさせて「寡君に社稷の事があり、それで春秋に時折お目にかかることができません。諸侯は君がまことに持たれる。どうして命を煩わされましょう」と言った。椒舉はそのまま婚を請い、晉侯は許した。
  • 楚子が子産に「晉は我らに諸侯を許すだろうか」と問うた。答えて言った。「君に許しましょう。晉君は若くて安逸に流れ、心が諸侯にありません。その大夫は求めるものが多く、誰もその君を匡さない。宋の盟でまた『一つのごとし』と言いました。もし君に許さなければ、何に用いるのでしょう」。
  • 王が「諸侯は来るだろうか」と言うと、「必ず来ます。宋の盟に従い、君の歓を承け、大国を畏れぬ。なぜ来ぬことがありましょう。来ぬのは魯・衞・曹・邾でしょうか。曹は宋を畏れ、邾は魯を畏れ、魯と衞は齊に逼られて晉に親しむ。この者たちが来ぬだけで、その他は君の及ばれるところ。誰があえて至らぬでしょう」と答えた。
  • 王が「では私の求めるものは叶わぬことがないのか」と言うと、「人に思いを遂げることは求められません。人と欲を同じくすれば、ことごとく成りましょう」と答えた。
  • 夏、諸侯が楚へ行った。魯・衞・曹・邾は会さなかった。曹と邾は難を理由に断り、公は時祭を理由に断り、衞侯は病を理由に断った。鄭伯は先に申で待った。
  • 六月丙午、楚子が申で諸侯を合わせた。椒舉は楚子に言った。「臣は聞いております、諸侯には帰するところがなく、礼を帰するところとすると。いま君は初めて諸侯を得られた。礼を慎まれよ。覇の成否はこの会にあります。夏の啓には鈞臺の享があり、商の湯には景亳の命があり、周の武には孟津の誓があり、成王には岐陽の蒐があり、康王には酆宮の朝があり、穆王には塗山の会があり、齊の桓公には召陵の師があり、晉の文公には踐土の盟がありました。君は何を用いられるのか。宋の向戌と鄭の公孫僑は諸侯の中の良き者です。君は択ばれよ」。
  • 王は「私は齊の桓公のやり方を用いる」と言い、左師と子産に礼を問わせた。左師は「小国が習い、大国が用いる。あえて申し上げずにおれましょうか」と言い、公が諸侯を合わせる礼の六つを献じた。子産は「小国は職を供する。あえて守るところを申し上げずにおれましょうか」と言い、伯・子・男が公に会する礼の六つを献じた。君子は、合の左師はよく先代のことを守り、子産はよく小国の相となったという。
  • 王は椒舉を後ろに侍らせて過ちを正させた。事が終わっても正さなかった。王がその理由を問うと、「礼で私が見たことのないものが六つありました。何をもって正しましょう」と答えた。
  • 宋の太子佐が遅れて至った。王は武城で狩りをして久しく会わなかった。椒舉が断りを述べることを請うた。王は人を遣わして「たまたま武城で宗祧の事があり、寡君は幣を捧げようとしています。遅れたことをあえて謝ります」と言わせ、その後で会った。
  • 徐子は呉の出であり、二心があると見なされた。それゆえ申で捕らえた。
  • 楚子が諸侯に奢りを示した。椒舉は言った。「そもそも六王二公の事は、みな諸侯に礼を示す所以です。諸侯が命を用いる所以です。夏の桀は仍の会を行って有緡が叛き、商の紂は黎の蒐を行って東夷が叛き、周の幽王は大室の盟を行って戎狄が叛いた。みな諸侯に驕りを示す所以であり、諸侯が命を棄てるもととなった。いま君が驕りをもってされるのは、成らぬのではありませんか」。王は聴かなかった。
  • 子産は左師に会って「私は楚を患えぬ。驕って諫めに背く。十年を過ぎまい」と言った。左師は「そのとおり。十年たたずとも、奢りはその悪が遠くまで及ばぬ。悪が遠くまで及んでから棄てられる。善もまた同じこと。徳が遠くまで及んでから興る」と言った。
  • 秋七月、楚子が諸侯をもって呉を討った。宋の太子と鄭伯は先に帰り、宋の華費遂と鄭の大夫が従った。屈申に朱方を囲ませ、八月甲申にこれに克ち、齊の慶封を捕らえてその一族をことごとく滅ぼした。
  • 慶封を戮そうとした。椒舉は「臣は聞いております、瑕なき者こそ人を戮せると。慶封はただ命に逆らってここにいるだけです。喜んで戮に従いましょうか。諸侯に広まります。何に用いましょう」と言った。王は聴かなかった。
  • 斧鉞を背負わせて諸侯に晒し、こう言わせた。「誰も齊の慶封のようであってはならぬ。その君を弑し、その孤を弱くして、その大夫と盟った」。慶封は言った。「誰も楚の共王の庶子の圍のようであってはならぬ。その君である兄の子の麇を弑して代わり、諸侯と盟っている」。王は急いで殺させた。
  • そのまま諸侯をもって賴を滅ぼした。賴子は面縛して璧を銜え、士は肌脱ぎになり棺を輿に載せて従い、中軍に来た。王が椒舉に問うと、「成王が許に克ったとき、許の僖公がこうしました」と答えた。王は自らその縛めを解き、その璧を受け、その棺を焼いた。賴を鄢へ遷した。
  • 楚子は許を賴へ遷そうとし、鬭韋龜と公子棄疾に城を築かせて引き上げた。申無宇は言った。「楚の禍の首はここにあろう。諸侯を召して来させ、国を討って克ち、境に城を築いても誰も咎めぬ。王の心は逆らわれぬ。民は安んじて居られようか。民が安住できねば、誰が堪えられよう。王命に堪えられなければ、それが禍乱である」。
  • 冬、呉が楚を討ち、棘・櫟・麻に入り、朱方の役に報いた。楚の沈尹射は夏汭に奔命し、箴尹宜咎は鍾離に城を築き、薳啓彊は巢に城を築き、然丹は州來に城を築いた。東の国は水が出て城を築けなかった。彭生が賴の師を解いた。

昭公五年(前537年)

  • 楚子は屈申が呉に二心を抱いていると考え、そこで殺した。屈生を莫敖とし、令尹の子蕩とともに晉へ女を迎えに行かせた。鄭を通ったとき、鄭伯は子蕩を汜で労い、屈生を莬氏で労った。晉侯は女を邢丘へ送った。子産が鄭伯の相となって邢丘で晉侯と会した。
  • 晉の韓宣子が楚へ行って女を送った。叔向が副使であった。鄭の子皮と子太叔が索氏で労った。太叔は叔向に「楚王の驕り高ぶりは甚だしすぎる。あなたは戒められよ」と言った。
  • 叔向は言った。「驕り高ぶりが甚だしすぎるのは我が身の災いです。どうして人に及びましょう。もし我らの幣帛を捧げ、我らの威儀を慎み、信をもって守り、礼をもって行い、始めを敬んで終わりを思えば、終わりに戻らぬことはありません。従って儀を失わず、敬んで威を失わず、訓えの言葉で導き、旧法をもって奉り、先王に照らし、二国のあり方で量れば、驕り高ぶっても我らをどうできましょう」。
  • 楚に至ると、楚子はその大夫に朝して言った。「晉は我が仇敵だ。まことに志を得られるなら、他のことは顧みぬ。いま来た者は上卿と上大夫だ。もし私が韓起を門番とし、羊舌肸を司宮とすれば、晉を辱めるに足り、私も志を得られる。よいか」。大夫は誰も答えなかった。
  • 薳啓彊が言った。「よろしい。まことにその備えがあるなら、なぜ不可でしょう。匹夫を辱めるにも備えなしではできぬ。まして国を辱めるのでは。それゆえ聖王は礼を行うことに務め、人を辱めることを求めなかった。朝聘には珪があり、享覜には璋があり、小には述職があり、大には巡功があり、机を設けても凭れず、爵を満たしても飲まず、宴には好い品があり、饗には陪鼎があり、入るときには郊での労いがあり、出るときには贈り物がある。礼の至りです。国家が敗れるのは道を失うからで、そこで禍乱が興ります。
  • 城濮の役は晉が楚への備えを欠いて邲で敗れ、邲の役は楚が晉への備えを欠いて鄢で敗れた。鄢以来、晉は備えを失わず、そのうえ礼を加え、睦まじさを重ねた。だから楚は報復できず、親しみを求めた。すでに姻親を得たのに、そのうえ辱めて仇敵を招こうとされる。備えはどうなさるのか。誰がこれを担うのか。もしその人があるなら、辱めてもよい。まだなければ、君も図られよ。
  • 晉が君に仕えることは、臣が思うに十分です。諸侯を求めれば群れ集まり、婚を求めれば女を薦め、君が自ら送り、上卿と上大夫が送り届けた。それをなお辱めようとされる。君にもまた備えがおありでしょう。でなければどうされるのか。
  • 韓起の下には趙成・中行吳・魏舒・范鞅・知盈があり、羊舌肸の下には祁午・張趯・籍談・女齊・梁丙・張骼・輔躒・苗賁皇があり、みな諸侯級の選りすぐりです。韓襄は公族大夫、韓須は命を受けて使いする。箕襄・邢帶・叔禽・叔椒・子羽はみな大家です。韓の賦は七邑、みな成った県です。羊舌の四族はみな強い家です。
  • 晉人がもし韓起と楊肸を喪えば、五卿八大夫が韓須と楊石を輔け、その十家九県により、長轂九百、その残りの四十県の留守が四千、その武の怒りを奮ってその大恥に報いましょう。伯華が謀り、中行伯と魏舒が率いれば、成らぬことはありますまい。
  • 君は親しみを怨みに換え、まことに礼なくして敵を招きながら、その備えがない。群臣を遣わして獲物を与え、君の心を遂げさせる。何の不可がありましょう」。
  • 王は「不穀の過ちだ。大夫よ、辱めるな」と言い、韓子への礼を厚くした。王は叔向をその知らぬことで嘲ってできなかったので、その礼もまた厚くした。韓起が帰るとき、鄭伯が圉で労ったが、あえて会わぬと辞した。礼にかなう。
  • 冬十月、楚子が諸侯と東夷をもって呉を討ち、棘・櫟・麻の役に報いた。薳射が繁揚の師をもって夏汭で会した。越の大夫常壽過が師を率いて瑣で楚子と会した。呉の師が出たと聞いて薳啓彊が師を率いて追ったが、急いだために備えを設けなかった。呉人は鵲岸でこれを破った。
  • 楚子は早馬で羅汭に至った。呉子はその弟の蹶由に師を犒わせた。楚人は捕らえて釁鼓の犠牲にしようとした。王が問わせて「お前は来ることを卜って吉と出たか」と言うと、こう答えた。
  • 「吉でした。寡君は君が敝邑で兵を治められると聞き、守り伝えの亀甲で卜って、『余は急ぎ人を遣わして師を犒おう。行って王の怒りの疾さ緩さを見て備えをなすことを請う。それでなお克つことを知り得るか』と申しました。亀の兆しは吉と告げ、『克つことは知り得る』と申しました。
  • 君がもし歓ばれて好意で使臣を迎えられれば、敝邑はますます休み怠ってその死を忘れ、亡びる日も遠くありません。いま君は奮い立って雷電のごとく大いに怒り、使臣を虐げ捕らえて釁鼓にされようとする。それなら呉は備えるところを知ります。敝邑は弱くとも、早く修め固めれば師を休ませられます。難易いずれにも備えあり。吉といえましょう。
  • しかも呉は社稷のことを卜ったので、一人のためではありません。使臣が軍鼓の釁となり、敝邑が備えを知って不慮に備えるなら、これほど大きな吉がありましょうか。国の守り伝えの亀甲は、どんな事でも卜わぬことはない。一方は良く一方は否である。誰がその常を保てましょう。城濮の兆しはその報いが邲にありました。いまこの行きも、報いる志があるのではありませんか」。
  • そこで殺さなかった。楚の師は羅汭を渡った。沈尹赤が楚子と会して萊山に駐屯した。薳射が繁揚の師を率いて先に南懐に入り、楚の師が従って汝清に及んだが、呉には入れなかった。楚子はそのまま坻箕の山で兵を観閲した。
  • この行きは、呉が早くから備えを設けていたので、楚は功なく帰り、蹶由を伴って帰った。楚子は呉を懼れ、沈尹射を巢で命を待たせ、薳啓彊を雩婁で命を待たせた。礼にかなう。

昭公六年(前536年)

  • 楚の公子棄疾が晉へ行った。韓子への返礼である。鄭を通ったとき、鄭の罕虎・公孫僑・游吉が鄭伯に従って柤で労おうとしたが、あえて会わぬと辞した。固く請うて会うと、会う様子は王に会うのと同じで、その乗馬八匹を贈った。ひそかに面会し、子皮には上卿に対するように馬六匹、子産には馬四匹、子太叔には馬二匹を贈った。
  • 秣を刈り牧をし薪を採ることを禁じ、田に入らず、樹を伐らず、植えたものを採らず、家を壊さず、強いて乞わなかった。誓って「命を犯す者があれば、君子は職を廃し、小人は位を降す」と言った。宿っても乱暴をせず、主人も賓客に煩わされなかった。往復ともこうであった。鄭の三卿はみな彼がやがて王となることを知った。
  • 韓宣子が楚へ行ったとき、楚人は迎えなかった。公子棄疾が晉の国境に至ったとき、晉侯もまた迎えまいとした。叔向は言った。「楚が偏っていても我らは正しくあるべきです。どうして偏りに倣うのか。詩に『爾の教うるとき、民みな倣う』とある。我らに従うだけです。どうして人の偏りに倣いましょう。書に『聖は則を作る』とある。むしろ善き人を則とすべきで、人の偏りを則としてよいものか。匹夫が善をなせば民はなお則る。まして国君においてをや」。晉侯は喜び、そこで迎えた。
  • 徐の儀楚が楚に聘問した。楚子は捕らえたが、逃げ帰った。叛くことを懼れ、薳洩に徐を討たせた。呉人が救った。令尹子蕩が師を率いて呉を討ち、豫章に軍して乾谿に駐屯した。呉人は房鍾でその師を破り、宮廄尹棄疾を捕らえた。子蕩は罪を薳洩に帰して殺した。
  • 冬、叔弓が楚へ行って聘問し、あわせて敗戦を弔った。

昭公七年(前535年)

  • 楚子が令尹であったとき、王の旌を作って狩りをした。芈尹無宇はこれを断ち切って「一国に二人の君があれば、誰が堪えられよう」と言った。
  • 即位して章華の宮を作り、逃亡者を納れて満たした。無宇の門番が入り込んだ。無宇が捕らえると、役人が渡さず、「王宮で人を捕らえるとは、その罪は大きい」と言った。捕らえて王に申し出た。王は酒を飲もうとしていた。
  • 無宇は申し立てて言った。「天子が経略し、諸侯が封を正すのが古の制です。封略の内で、どこが君の土でないでしょう。土の産物を食む者で、誰が君の臣でないでしょう。だから詩に『普天の下、王土にあらざるはなし。率土の濱、王臣にあらざるはなし』とあるのです。
  • 天に十日あり、人に十等あります。下は上に仕える所以、上は神に供する所以です。だから王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は皁を臣とし、皁は輿を臣とし、輿は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とする。馬には圉があり、牛には牧があり、それで百事に当たります。
  • いま役人は『お前はなぜ王宮で人を捕らえるのか』と言う。ではどこで捕らえるのか。周の文王の法に『逃亡があれば大いに捜索する』とあり、これが天下を得た所以です。我が先君の文王は僕区の法を作って『盗が隠した器は盗と同罪』とし、これが汝の地を封じた所以です。
  • もし役人に従うなら、逃げた臣を捕らえるところがない。逃げて放置するなら、陪臺の者がいなくなる。王事に欠けが生ずるのではありませんか。昔、武王は紂の罪を数えて諸侯に告げ、『紂は天下の逃亡者の主となり、淵や藪のように集めた』と言った。だから人は死を致したのです。君王は初めて諸侯を求められるのに紂に倣われる。いけないのではありませんか。もし二人の文王の法によって取るなら、盗の在り処は明らかです」。
  • 王は「お前の臣を取って行け。盗が寵臣であれば取れぬものだ」と言い、そのまま赦した。
  • 楚子が章華の臺を成し、諸侯とその落成を祝いたいと願った。大宰の薳啓彊は「臣は魯侯を得られます」と言った。
  • 薳啓彊が来て公を召した。公が辞退すると、こう言った。「昔、先君の成公が我が先大夫の嬰齊に『私は先君の好誼を忘れぬ。衡父を楚国に照臨させ、その社稷を鎮め撫して爾の民を安んじよう』と命じられました。嬰齊は蜀で命を受け、承って持ち帰り、宗祧に告げました。『我が先君の共王は首を伸ばして北を望み、日月に希った』と。伝えて相授け、いま四代の王となります。嘉い恵みはまだ至らず、ただ襄公が辱くも我が喪に臨まれただけ。孤とその二三の臣は心を痛めて図りを失い、社稷に暇もない。まして君の徳を思う余裕がありましょうか。
  • いま君がもし玉趾を運ばれて辱くも寡君に会われ、楚国を寵し霊し、蜀の役を信として君の嘉い恵みを致されるなら、寡君はすでに賜物を受けたことになります。どうして蜀を望みましょう。その先君の鬼神もまことに嘉し頼りましょう。寡君だけのことではありません。君がもし来られぬなら、使臣は行く期日を伺うことを請います。寡君は質幣を承けて蜀でお目にかかり、先君の賜物を請いましょう」。
  • 公は行こうとした。襄公が祖の祭をする夢を見た。梓慎は「君は結局行かれますまい。襄公が楚へ行かれたとき、周公が祖の祭をする夢を見て行かれた。いま襄公がまさに祖の祭をされたのだから、君は行かれまい」と言った。
  • 子服惠伯は「行かれます。先君はまだ楚へ行ったことがなかった。だから周公が祖の祭をして導いた。襄公は楚へ行かれた。その方が祖の祭をして君を導かれるのだから、行かずしてどこへ行かれよう」と言った。
  • 楚子が新臺で公を饗し、髭の長い者に相をさせ、大屈という弓で好誼を示した。やがて悔いた。薳啓彊はこれを聞いて公に会った。公が語ると、拝して賀した。公が「何を賀するのか」と言うと、こう答えた。「齊と晉と越がこれを久しく欲しております。寡君は誰に与えるかを決めかね、君に伝えられた。君は三隣を防ぐ備えをなし、慎んで宝を守られよ。どうして賀せずにおれましょう」。公は懼れ、そこで返した。

昭公八年(前534年)

  • 陳の哀公の元妃の鄭姫が悼太子偃師を生み、二妃が公子留を生み、下妃が公子勝を生んだ。二妃が寵せられ、留も寵せられて、司徒招と公子過に託された。
  • 哀公に廃疾があった。三月甲申、公子招と公子過が悼太子偃師を殺して公子留を立てた。夏四月辛亥、哀公は縊れた。干徵師が楚に訃報し、あわせて君を立てたことを告げた。公子勝が楚に訴え、楚人は捕らえて殺した。公子留は鄭へ亡命した。
  • 経に「陳侯の弟招、陳の世子偃師を殺す」と書いたのは、罪が招にあるからである。「楚人、陳の行人干徵師を執えて殺す」と書いたのは、罪が行人にないからである。
  • 陳の公子招は罪を公子過に帰して殺した。
  • 九月、楚の公子棄疾が師を率い、孫吳を奉じて陳を囲んだ。宋の戴惡が会した。冬十一月壬午、陳を滅ぼした。輿嬖の袁克が馬を殺し玉を毀って葬ろうとした。楚人が殺そうとしたので、それを措くよう請い、やがてまた私事を請い、幕の中でひそかに額に絰をかけて逃げた。
  • 穿封戍を陳公とした。「城麇の役で諂わなかった者だ」と言い、王のもとで酒を飲ませた。王が「城麇の役で、お前が寡人がここまで来ると知っていたら、寡人を避けたか」と言うと、「もし君がここまで来られると知っていたら、臣は必ず死を致して礼を全うし、楚を安んじたでしょう」と答えた。

昭公九年(前533年)

  • 春、叔弓・宋の華亥・鄭の游吉・衞の趙黶が陳で楚子と会した。
  • 二月庚申、楚の公子棄疾が許を夷、すなわち城父へ遷し、州來と淮北の田を取って加増した。伍舉が許男に田を授けた。然丹は城父の人を陳へ遷し、夷と濮の西の田を加増した。方城の外の人を許へ遷した。
  • 夏四月、陳に火災があった。鄭の裨竈は「五年で陳は改めて封ぜられる。封じられて五十二年でついに亡ぶ」と言った。子産がその理由を問うと、こう答えた。「陳は水に属します。火は水の妃であり、楚が輔けるところです。いま火星が出て陳が火事になったのは、楚を逐って陳を建てるのです。妃は五で成る。だから五年という。歳星が五たび鶉火に及んでから陳はついに亡び、楚がこれを有する。天の道です。だから五十二年という」。

昭公十一年(前531年)

  • 春、景王が萇弘に「今年、諸侯のどこがまことに吉で、どこがまことに凶か」と問うた。答えて言った。「蔡が凶です。これは蔡侯般がその君を弑した年に当たります。歳星は豕韋にあり、これを過ぎますまい。歳星が大梁に及べば蔡は復し、楚が凶となる。天の道です」。
  • 楚子は申にいて蔡の靈侯を召した。靈侯が行こうとすると、蔡の大夫は「王は貪って信がなく、ただ蔡だけを憾んでいます。いま幣は重く言葉は甘い。我らを誘っているのです。行かぬに如きません」と言った。蔡侯は聴かなかった。
  • 三月丙申、楚子は甲士を伏せて申で蔡侯を饗し、酔ったところで捕らえた。夏四月丁巳、殺した。その士七十人を刑した。
  • 公子棄疾が師を率いて蔡を囲んだ。韓宣子が叔向に「楚は克つだろうか」と問うた。答えて言った。
  • 「克ちましょう。蔡侯はその君に罪を得、その民を治められなかった。天が楚に手を借りてこれを斃そうとしている。なぜ克たぬことがありましょう。しかし肸は聞いております、信ならずして僥倖を得ることは二度とないと。楚王は孫吳を奉じて陳を討ち、『お前の国を定める』と言った。陳人は命を聴いたのに、そのまま県とした。いままた蔡を誘ってその君を殺し、その国を囲む。幸いに克っても必ずその咎を受け、久しくは保てますまい。
  • 桀は有緡に克ってその国を喪い、紂は東夷に克ってその身を隕とした。楚は小さく位も低いのに、しきりに二人の王より暴なることをなす。咎なくおれましょうか。天が不善を仮に助けるのは、福するのではない。その凶悪を厚くして罰を降すのです。しかもたとえば天に五材があってこれを用いようとするとき、力を尽くさせて棄てる。それゆえ救いようがなく、振るい起こすこともできません」。
  • 楚の師が蔡にあったとき、晉の荀吳が韓宣子に言った。「陳を救えず、また蔡も救えぬ。事物は親しむものがなくなる。晉の力の及ばぬこともこれで分かる。盟主でありながら亡国を憐れまぬ。何に用いよう」。
  • 秋、厥憖で会し、蔡を救うことを謀った。鄭の子皮が行こうとすると、子産は「行っても遠くまで行かぬ。蔡は救えぬ。蔡は小さくて順わず、楚は大きくて徳がない。天は蔡を棄てて楚を満たし、満ちたところで罰しようとしている。蔡は必ず亡ぶ。しかも君を喪って守り得た例は稀だ。三年で王には咎があろうか。美も悪も一巡すれば必ず戻る。王の悪は一巡した」と言った。
  • 晉人は狐父を遣わして楚に蔡を請うたが、許されなかった。
  • 冬十一月、楚子が蔡を滅ぼし、隱太子を岡山の犠牲に用いた。申無宇は「不祥だ。五牲は互いに用いぬ。まして諸侯を用いるとは。王は必ず悔いよう」と言った。
  • 十二月、楚子が陳・蔡・不羹に城を築き、棄疾を蔡公とした。王は申無宇に「棄疾が蔡にいるのはどうか」と問うた。答えて言った。
  • 「子を択ぶには父に如くはなく、臣を択ぶには君に如くはありません。鄭の莊公は櫟に城を築いて子元を置き、昭公を立てさせなかった。齊の桓公は穀に城を築いて管仲を置き、今に至るまでこれに頼っています。臣は聞いております、五つの大なるものは辺境に置かず、五つの細なるものは朝廷に置かず、親しい者は外に置かず、羈旅の者は内に置かぬと。いま棄疾は外にあり、鄭丹は内にあります。君は少し戒められよ」。
  • 王が「国に大きな城があるのはどうか」と問うと、こう答えた。「鄭の京と櫟はまことに曼伯を殺し、宋の蕭と亳はまことに子游を殺し、齊の渠丘はまことに無知を殺し、衞の蒲と戚はまことに獻公を出しました。これから見れば、国に害があります。末が大きければ必ず折れ、尾が大きければ振れぬのは、君のご存じのとおりです」。

昭公十二年(前530年)

  • 楚子が州來で狩りをし、潁尾に駐屯した。蕩侯・潘子・司馬督・囂尹午・陵尹喜に師を率いて徐を囲ませ、呉を懼れさせた。楚子は乾谿に駐屯してその後詰めとなった。
  • 雪が降った。王は皮の冠に秦の羽織、翡翠の被衣、豹の履、鞭を執って出た。僕析父が従った。右尹の子革が夕方の伺候に出、王は会って冠を取り被衣を脱ぎ鞭を措いて語った。
  • 「昔、我が先王の熊繹は呂伋・王孫牟・燮父・禽父とともに康王に仕えた。四国はみな分器を得たのに、我らだけがない。いま私が周に人を遣わして鼎を分器として求めたら、王は我らに与えるだろうか」。
  • 答えて言った。「与えましょう、君王に。昔、我が先王の熊繹は荊山の辺鄙にあり、篳路藍縷で草莽に住み、山林を跋渉して天子に仕え、ただ桃の弓と棘の矢で王事を防ぐことを供えました。齊は王の舅であり、晉と魯と衞は王の母弟です。楚はそれで分器がなく、彼らはみな持った。いま周と四国は君王に服し仕え、ただ命に従うばかり。どうして鼎を惜しみましょう」。
  • 王が「昔、我が皇祖の伯父昆吾は旧許の地に宅した。いま鄭人はその田を貪り頼んで我らに与えぬ。私が求めれば与えるだろうか」と言うと、「与えましょう、君王に。周が鼎を惜しまぬのに、鄭があえて田を惜しみましょうか」と答えた。
  • 王が「昔、諸侯は我らを遠ざけて晉を畏れた。いま我らは陳・蔡・不羹に大城を築き、賦はみな千乗である。あなたもそれに功があった。諸侯は我らを畏れるだろうか」と言うと、「畏れましょう、君王を。この四国だけで畏れさせるに足ります。そのうえ楚を加えるのだから、あえて君王を畏れずにおれましょうか」と答えた。
  • 工尹の路が「君王は圭を割って斧の柄飾りとせよと命じられました。あえて命を伺います」と請うた。王は入って見た。
  • 析父は子革に言った。「あなたは楚国の望みです。いま王と語るのに響きのように調子を合わせておられる。国はどうなるのか」。子革は「刃を研いで待っている。王が出られたら、我が刃はまさに斬るのだ」と言った。
  • 王が出て、また語った。左史の倚相が小走りに通った。王は「あれは良い史だ。あなたはよく見ておかれよ。三墳・五典・八索・九丘を読める者だ」と言った。
  • 答えて言った。「臣はかつて問うたことがあります。昔、穆王がその心を恣にし、天下を周く行って、どこにも必ず車の轍と馬の跡を残そうとした。祭公謀父が祈招の詩を作って王の心を止めた。王はそれで祗宮で真っ当な最期を得られました。臣がその詩を問うと、知りませんでした。もっと遠いことを問えば、どうして知れましょう」。
  • 王が「あなたはできるか」と言うと、「できます。その詩に『祈招の愔愔たる、もって徳音を昭かにす。我が王の度を思う、玉のごとく金のごとし。民の力を形り、酔い飽く心なし』とあります」と答えた。
  • 王は揖して入り、食を饋られても食べず、寝ても眠れず、数日、自ら克てず、ついに難に及んだ。
  • 仲尼は言った。「古に志がある。『己に克ちて礼に復るは仁なり』と。まことによい言葉だ。楚の靈王がもしこのようであり得たなら、どうして乾谿で辱められよう」。

昭公十三年(前529年)

  • 楚子は令尹であったとき、大司馬の薳掩を殺してその家財を取った。即位すると薳居の田を奪い、許を遷して許圍を人質とした。蔡洧は王に寵せられていたが、王が蔡を滅ぼしたとき、その父はそこで死んだ。王は蔡洧を守りに加えたうえで出発した。申の会で越の大夫が戮された。王は鬭韋龜から中犫を奪い、また成然から邑を奪って郊尹とした。蔓成然はもとから蔡公に仕えていた。
  • それゆえ薳氏の一族と薳居・許圍・蔡洧・蔓成然はみな王に礼遇されぬ者であった。職を失った諸族に頼り、越の大夫常壽過を誘って乱を起こし、固城を囲み、息舟に克ち、城を築いて居た。
  • 觀起が死んだとき、その子の觀從は蔡におり、朝吳に仕えていた。「いま蔡を封じなければ、蔡はもう封じられぬ。私が試みることを請う」と言った。
  • 蔡公の命として子干と子晳を召し、郊に至って実情を告げ、強いて盟わせ、入って蔡を襲った。蔡公は食事しようとしてこれを見て逃げた。觀從は子干に穴の祭で食べさせ、犠牲を用い盟書を加えて速やかに行かせた。
  • 自らは蔡に触れて回り、「蔡公が二人を召して納れようとし、盟って遣わされた。師を率いて従われる」と言った。蔡人が集まって捕らえようとすると、辞して「賊を取り逃がして軍を成し、余を殺して何の益があろう」と言った。そこで釈放した。
  • 朝吳は言った。「諸君、もし死ぬか亡命するかできるなら、これに背いて成るのを待つがよい。もし安定を求めるなら、これに与して望みを遂げるがよい。しかも上に背いて、どこへ行けばよいのか」。衆は「与しよう」と言った。
  • そこで蔡公を奉じ、二人を召して鄧で盟い、陳と蔡の人に頼って国を取った。楚の公子比・公子黑肱・公子棄疾・蔓成然・蔡の朝吳が陳・蔡・不羹・許・葉の師を率い、四族の徒に頼って楚に入った。
  • 郊に至って、陳と蔡は名を挙げようとして武軍(戦勝の塁)を築くことを請うた。蔡公はそれを察して「速やかにしたい。しかも役夫が疲れている。垣だけにすることを請う」と言い、そこで垣で軍を囲った。
  • 蔡公は須務牟と史猈を先に入らせ、正僕人に頼って太子祿と公子罷敵を殺した。公子比を王とし、公子黑肱を令尹とし、魚陂に駐屯した。公子棄疾は司馬となり、まず王宮を掃除した。觀從に乾谿の師のもとへ行かせてこれを告げさせ、あわせて「先に帰る者は元の職に復す。後れる者は劓刑にする」と言わせた。師は訾梁に及んで潰えた。
  • 王は諸公子の死を聞いて自ら車の下に身を投げ、「人が子を愛するのも私と同じか」と言った。侍者は「それより甚だしい。小人は老いて子がなければ、溝壑に落とされると知っています」と言った。王は「余は人の子を殺すこと多かった。ここに至らずにおれようか」と言った。
  • 右尹の子革が「郊で待って国人の意を聴かれることを請う」と言った。王は「衆の怒りは犯せぬ」と言った。「では大きな都に入って諸侯に師を乞われては」と言うと、王は「みな叛いた」と言った。「では諸侯のもとに亡命して大国が君を図るのに任されては」と言うと、王は「大きな福は二度来ぬ。ただ辱めを取るだけだ」と言った。
  • 然丹はそこで楚へ帰った。王は夏水に沿って鄢に入ろうとした。芈尹無宇の子の申亥は「我が父は二度も王命を犯したが、王は誅されなかった。これ以上大きな恵みがあろうか。君は見捨てられず、恵みは棄てられぬ。私は王に従おう」と言い、そこで王を探し、棘の門で遇って伴い帰った。
  • 夏五月癸亥、王は芈尹申亥の家で縊れた。申亥はその二人の娘を殉として葬った。
  • 觀從は子干に「棄疾を殺さねば、国を得ても禍を受けよう」と言った。子干は「余には忍びぬ」と言った。子玉(觀從)は「人はあなたに忍びますぞ。私は忍んで待たぬ」と言い、そこで立ち去った。
  • 国は夜ごとに「王が入られた」と騒いだ。乙卯の夜、棄疾は人を遍く走らせて「王が至られた」と呼ばわらせた。国人は大いに驚いた。蔓成然を走らせて子干と子晳に「王が至られた。国人が君を殺す。司馬がやがて来る。君が早く自ら図られれば、辱めを受けずに済む。衆の怒りは水火のようで、謀りようがない」と告げさせた。また呼ばわりながら走り来る者があって「衆が至った」と言った。二人ともに自殺した。
  • 丙辰、棄疾が即位し、名を熊居といった。子干を訾に葬った。これが訾敖である。囚人を殺して王の服を着せ、漢水に流し、そこで取り上げて葬った。それで国人を靖めた。子旗を令尹とした。
  • 楚の師が徐から帰るとき、呉人が豫章でこれを破り、その五人の帥を捕らえた。
  • 平王は陳と蔡を封じ、遷した邑を復し、諸々の賄賂を返し、施し与え、民を寛やかにし、罪を宥し、職に人を挙げ、觀從を召した。王が「ただお前の望むままに」と言うと、「臣の先祖は開卜を佐けました」と答えた。そこで卜尹とした。
  • 枝如子躬を鄭に聘問させ、あわせて犫と櫟の田を返させた。事が終わっても返さなかった。鄭人が請うて「道路で聞くところでは、寡君に犫と櫟を命ぜられるとか。あえて命を伺います」と言った。答えて「臣はまだ命を聞いておりません」と言った。
  • 復命してから、王が犫と櫟を問うと、服を脱いで答えた。「臣は過ちを犯しました。命を失って返しませんでした」。王はその手を執って「あなたは労するな。ひとまず帰られよ。不穀に事があればあなたに告げよう」と言った。
  • 後年、芈尹申亥が王の柩を告げ、そこで改葬した。
  • はじめ靈王が卜って「余は天下を得たい」と言ったが不吉と出た。亀を投げ、天を罵って呼ばわり、「これしきのものを余に与えぬのか。余は必ず自ら取る」と言った。民は王の飽くことなきを患えた。それゆえ乱に従うことが家に帰るようであった。
  • はじめ共王には嫡子がなく、寵せられる子が五人あって、立てるべき嫡子がなかった。そこで諸々の望祭を大いに行って祈り、「神が五人の中から択び、社稷を主らせられることを請う」と言い、そこで遍く璧を諸々の望祭に見せて、「璧に当たって拝む者が神の立てる者である。誰があえて違おう」と言った。
  • そして巴姫とひそかに璧を大室の庭に埋め、五人を斎戒させて年長から入って拝ませた。康王は跨ぎ、靈王は肘が上に乗り、子干と子晳はどちらも遠く、平王は幼くて抱かれて入り、再拝してどちらも紐の当たるところに当たった。鬭韋龜は成然を託し、あわせて「礼を棄て命に違えば、楚は危ういかな」と言った。
  • 子干が帰ったとき、韓宣子は叔向に「子干は成し遂げられるか」と問うた。答えて「難しい」と言った。宣子が「悪を同じくする者は市の商人のように求め合う。何が難しいか」と言うと、こう答えた。
  • 「好を同じくする者がなければ、誰が悪を同じくできましょう。国を取るには五つの難があります。寵があって人がないのが一つ。人があって主がないのが二つ。主があって謀がないのが三つ。謀があって民がないのが四つ。民があって徳がないのが五つ。
  • 子干は晉にいること十三年。晉と楚の従者に達者を聞きません。人なしといえます。族は尽き親は叛きました。主なしといえます。隙もないのに動きました。謀なしといえます。生涯羈旅の身でした。民なしといえます。亡命して愛されるしるしもありません。徳なしといえます。王は虐でも憚らなかった。楚に君として、子干が五つの難を渡って旧君を弑して、誰が成し遂げられましょう。
  • 楚国を有する者は棄疾でしょう。陳と蔡に君となり、城外もこれに属し、苛酷や邪慝は起こらず、盗賊は身を隠し、私欲は違わず、民に怨む心がありません。先の神がこれに命じ、国の民がこれを信じています。芈姓に乱があれば必ず末子が立つのが楚の常です。神を得たのが一つ。民があるのが二つ。令徳があるのが三つ。寵貴があるのが四つ。常に居るのが五つ。五つの利があって五つの難を除く。誰が害せましょう。
  • 子干の官は右尹にすぎず、その貴寵を数えれば庶子にすぎず、神が命じたところでは遠かった。その貴さは亡び、その寵は棄てられた。民に懐かしむ者なく、国に与する者もない。何によって立てましょう」。
  • 宣子が「齊の桓公と晉の文公もそうではなかったか」と言うと、こう答えた。
  • 「齊の桓公は衞姫の子で、僖公に寵せられ、鮑叔牙・賓須無・隰朋を輔佐とし、莒と衞を外の主とし、國氏・高氏を内の主とし、善に従うこと流れるがごとく、善に下ること斉しく粛やかで、賄を蔵さず、欲に従わず、施し与えて倦まず、善を求めて厭わなかった。国を有したのも当然ではありませんか。
  • 我が先君の文公は狐季姫の子で、獻公に寵せられ、学を好んで二心なく、生まれて十七年で士を五人持ち、先大夫の子餘・子犯を腹心とし、魏犫・賈佗を股肱とし、齊・宋・秦・楚を外の主とし、欒氏・郤氏・狐氏・先氏を内の主とした。亡命十九年、志を守っていよいよ篤く、惠公と懷公が民を棄てて民が従って与した。獻公に他の親しい子はなく、民に他の望みはなく、天がまさに晉を輔けた。何をもって文公に代われましょう。
  • この二君は子干と違います。共王には寵せられる子があり、国には奥深い主があり、子干は民に施すこともなく外に援けもなく、晉を去るのに送る者もなく、楚に帰るのに迎える者もない。何によって国を期せましょう」。
  • 楚が蔡を滅ぼしたとき、靈王は許・胡・沈・道・房・申を荊へ遷した。平王は即位して陳と蔡を封じてから、みなこれを復した。礼にかなう。隱太子の子の廬が蔡へ帰った。礼にかなう。悼太子の子の吳が陳へ帰った。礼にかなう。
  • 冬十月、蔡の靈公を葬った。礼にかなう。
  • 呉が州來を滅ぼした。令尹の子旗が呉を討つことを請うたが、王は許さず、「私はまだ民人を撫せず、鬼神に仕えず、守りの備えを修めず、国家を定めていない。それで民の力を用いれば、敗れても悔いきれぬ。州來が呉にあるのは楚にあるのと同じだ。あなたはひとまず待たれよ」と言った。

昭公十四年(前528年)

  • 夏、楚子は然丹に上国の兵を宗丘で選ばせ、あわせてその民を撫させた。貧しい者に分け与え、窮した者を振るい起こし、孤児を養い幼い者を育て、老人と病者を養い、寄る辺なき者を収め、災患を救い、孤寡を宥し、罪戾を赦し、姦慝を詰め、埋もれた者を挙げ、新しい者を礼し旧い者を叙し、勲功に禄を与え、親族を合わせ、良き者を任じ、官を物色して使った。屈罷に東国の兵を召陵で選ばせ、やはり同じようにした。辺境と好誼を結び、民を休めること五年にしてから師を用いた。礼にかなう。

昭公十六年(前526年)

  • 楚子は蠻氏の乱と蠻子に信義がないことを聞き、然丹に戎の蠻子嘉を誘わせて殺し、そのまま蠻氏を取った。やがてその子を改めて立てた。礼にかなう。

昭公十九年(前523年)

  • 令尹の子瑕が蹶由のことを楚子に言った。「彼に何の罪がありましょう。諺にいわゆる『室で怒って市で顔に出す』とは楚のことです。前の憤りを措かれてよろしい」。そこで蹶由を帰した。

史論(士竒)

  • 楚の共王には寵せられる子が五人あって、立てるべき者が定まらず、そこで璧を大室の庭に埋めて神を卜とした。国の本を重んじなかったことも甚だしい。そもそも年が等しければ徳により、徳が等しければ卜による。必ず徳を先にして卜を後にするので、ひたすら冥々たる鬼神に命を聴いたという話は聞かない。
  • 兎一匹を街に走らせれば紛々と追う者が出るのは、まだ誰の物か分からぬからである。屈建が「楚には必ず乱が多い」と憂えたゆえんである。
  • 康王が死んで郟敖が立ち、子圍が令尹となった。王の旌を借りて狩りをすれば申無宇に抑えられ、「蒲宮にも前駆の例がある」といえば列国の大夫に遍く譏られた。臣たらぬ心は道行く人でさえ知っていたのに、その君は戒めなかった。松柏の下にその草が育たぬのも当然である。
  • 子圍は手ずからその君を弑し、そのうえその君の子を殺した。これは池に沈めても赦されぬ罪である。当時の諸侯は、その天を覆う悪の熟するのを座視して、あえて一旅を興して罪を問う師を出さず、そのうえ天を援いて自ら言い訳し、逆にその逆らいを助けてともに推戴した。おかげで当時の冠帯の国は、滅ぶ者は滅び、遷る者は遷った。それで欲は満ち気は驕り、亀を投げ天を罵って「これしきのものを余に与えぬのか」と言うに至った。
  • ああ、楚の靈王が死ななければ、周室は危うかったであろう。乾谿の潰えと申亥の家での縊死は、天が郟敖と蔡・陳の諸君侯の冤を償っただけでなく、まことに周を存続させる所以であった。
  • 棄疾は璧に当たった符に加えて多く徳恵を売り、名は諸侯に聞こえた。必ず王となると知れていた。そのうえ自ら師を董して二国を破滅させ、太阿の剣をその掌中に握った。蔓草の図りがたさは明らかに見えていた。それを辺鄙に居らせ、不平の徒と狎れ交わらせた。隠れた憂いを忘れ大きな患いを忽せにして、なお隣境に兵を耀かせようとし、師は老い怨みが起こった。祗宮での最期を得ようとしても、どうして得られよう。
  • 平王は二人の君を弑して一人の兄を殺した。残忍悖逆、これより甚だしいものはない。無極の讒を聴いて子の妻を殺し娶ったのを待つまでもなく、亡びる理があると知れる。
  • 当時、国を取る五つの利を論じて、なお「令徳が三つ目」と言った。その小さな仁と曲がった恵みが陳と蔡の人心を結ぶに足りたからであろうか。亡国を復したのは、その名は美しいようだが、楚もそれによって弱くなった。平王は蔡を用いて楚に入り、ついに呉の師が郢を破ったとき、蔡がまことにこれを導いた。禍福が相倚るのは、古よりそうなのである。