左傳紀事本末鄭の穆公の擁立(靈公・僖公の弑逆を付す)(鄭穆公之立(靈公僖公/之弑附))
鄭の穆公が晉から迎えられて立つまでと、その後に靈公・僖公が弑された経緯を、僖公十六年(前644年)から襄公八年(前565年)まで扱う篇。文公は子華を殺し子臧を盗賊に殺させ、群公子を追ったので、公子蘭だけが晉へ亡命して残り、石癸らが「姫と姞が配偶となれば蕃える」として納れ立てた。宣公四年(前605年)、公子宋は黿の羹を与えられなかった恨みから鼎に指を染め、子家を脅して靈公を弑した。襄公七年(前566年)、僖公が子駟を礼遇しなかったことから鵎で弑され、翌年に群公子が逆に子駟に殺された。
年表(14件)
- 僖公十六年前644年鄭が子華を殺す
- 僖公二十四年前636年鷸の冠を好んだ子臧が盗賊に陳と宋の間で殺される
- 僖公三十年前630年公子蘭が鄭を囲む役を辞し、迎えられて太子となる
- 僖公三十一年前629年洩駕と鄭伯に憎まれて公子瑕が楚へ亡命する
- 僖公三十三年前627年楚の子上が瑕を納れようとし、瑕が池に落ちて捕らえられる
- 宣公三年前606年穆公が卒し、蘭の夢と国香の由来が語られる
- 宣公四年前605年公子宋が鼎に指を染め、子家を脅して靈公を弑する
- 宣公十年前599年子家の棺を削ってその族を追い、幽公を改葬して靈と諡する
- 成公十年前581年公子班が公子繻を立て、鄭人が繻を殺して髠頑を立てる
- 成公十三年前578年公子班が子印と子羽を殺し、子駟が国人を率いて討ち滅ぼす
- 襄公二年前571年鄭伯睔が卒し、子罕が国を執り子駟が政を執る
- 襄公五年前568年子國が聘問して嗣君のことを通ずる
- 襄公七年前566年僖公が子駟を礼遇せず、鵎で弑されて五歳の簡公が立つ
- 襄公八年前565年群公子が子駟を謀って先んじられ、四子が殺され二人が衞へ亡命する
僖公十六年(前644年)
- 冬十一月乙卯、鄭が子華を殺した。
僖公二十四年(前636年)
- 鄭の子華の弟の子臧が宋へ亡命した。鷸の羽の冠を集めるのを好んだ。鄭伯は聞いて憎み、盗賊に誘い出させた。八月、盗賊が陳と宋の間で殺した。
- 君子は言う。「衣服がその身に適わぬのは身の災いである。詩に『彼の己の子、その服に称わず』とある。子臧の服は称わなかったのだ。詩に『自らこの憂いを遺す』とあるのは子臧のことであろう。夏書に『地平らかに天成る』とあるのは相称うことである」。
僖公三十年(前630年)
- 晉侯と秦伯が鄭を囲んだ。はじめ鄭の公子蘭が晉へ亡命し、晉侯に従って鄭を討ったが、鄭を囲む役には加わらぬことを請い、許されて東で命を待った。鄭の石甲父と侯宣多が迎えて太子とし、それによって晉と和睦を求めた。晉人は許した。
僖公三十一年(前629年)
- 鄭の洩駕が公子瑕を憎み、鄭伯もまた憎んだ。それゆえ公子瑕は楚へ亡命した。
僖公三十三年(前627年)
- 楚の令尹子上が鄭を討ち、公子瑕を納れようとして桔柣の門を攻めた。瑕は周氏の池に転落し、外僕の髠屯が捕らえて献じた。文夫人が斂して鄶城の下に葬った。
宣公三年(前606年)
- 冬、鄭の穆公が卒した。はじめ鄭の文公に燕姞という賤しい妾があった。天の使いが自分に蘭を与え、「余は伯鯈、お前の祖である。これをお前の子とせよ。蘭には国中に薫る香がある。人はこれを身につけて慕われる」と言う夢を見た。やがて文公が燕姞に会い、蘭を与えて召した。辞退して「妾は不才です。幸いに子ができても信じてもらえますまい。あえてこの蘭を証といたしましょうか」と言い、公は「よい」と言った。穆公を生み、蘭と名づけた。
- 文公は鄭子の妃を娶り、陳媯といい、子華と子臧を生んだ。子臧は罪を得て出、子華を誘って南里で殺し、盗賊に子臧を陳と宋の間で殺させた。また江から娶って公子士を生んだが、楚に朝したところ楚人が毒を盛り、葉に至って死んだ。また蘇から娶って子瑕と子俞彌を生んだ。俞彌は早く卒し、洩駕が瑕を憎み文公もまた憎んだので立てなかった。公が群公子を追い、公子蘭は晉へ亡命した。
- 晉の文公に従って鄭を討ったとき、石癸は言った。「私は聞いている、姫と姞が配偶となればその子孫は必ず蕃えると。姞は吉い人であり、后稷の元妃である。いま公子蘭は姞の甥だ。天が啓かれるのかもしれぬ。必ず君となろう。その後は必ず蕃える。先に納れれば寵を高められる」。孔將鉏・侯宣多とともに納れ、大宮で盟って立て、それによって晉と和睦した。
- 穆公が病んで「蘭が枯れれば私も死ぬだろうか。私が生まれたゆえんだ」と言った。蘭を刈って卒した。
宣公四年(前605年)
- 楚人が鄭の靈公に黿を献じた。公子宋と子家が謁見しようとしたとき、子公(公子宋)の人差し指が動いた。子家に示して「先日もこうなったときは必ず珍味を味わった」と言った。入ると料理人がまさに黿を捌こうとしており、二人は見合わせて笑った。公が問うと、子家が事情を告げた。
- 大夫に黿を饗するとき、子公を召しておきながら与えなかった。子公は怒り、鼎に指を染めて味わって出た。公は怒って子公を殺そうとした。子公は子家と先手を打つことを謀った。子家は「飼っている老いた獣ですら殺すのを憚る。まして君においてをや」と言った。子公は逆に子家を讒言した。子家は懼れて従った。
- 夏、靈公を弑した。経に「鄭の公子歸生その君夷を弑す」と書いたのは、権勢が足りなかったからである。君子は言う。「仁であって武でなければ、成し遂げられぬ」。およそ君を弑したとき君の名を挙げるのは君が無道だからであり、臣の名を挙げるのは臣の罪だからである。
- 鄭人が子良を立てようとしたが、辞退して「賢によるなら去疾は足りません。順序によるなら公子堅が年長です」と言い、そこで襄公を立てた。襄公が穆氏を除いて子良だけを残そうとすると、子良は承知せず、「穆氏が存続してよいのなら、それこそ願いです。滅ぼされるなら皆で滅びます。去疾だけがどうして残りましょう」と言った。そこで皆を残して大夫とした。
宣公十年(前599年)
- 鄭の子家が卒した。鄭人は幽公の乱を討ち、子家の棺を削って(格を下げて)その一族を追い、幽公を改葬して靈と諡した。
成公十年(前581年)
- 鄭の公子班が叔申の謀を聞いた。三月、子如(公子班)が公子繻を立てた。夏四月、鄭人が繻を殺して髠頑を立てた。子如は許へ亡命した。
成公十三年(前578年)
- 六月丁卯の夜、鄭の公子班が訾から大宮に入ろうとしたが果たせず、子印と子羽を殺し、軍を返して市に陣した。己巳、子駟が国人を率いて大宮で盟い、そのまま追ってことごとく焼き、子如・子駹・孫叔・孫知を殺した。
襄公二年(前571年)
- 秋七月、鄭伯睔が卒した。このとき子罕が国を執り、子駟が政を執り、子國が司馬であった。
襄公五年(前568年)
- 夏、鄭の子國が聘問に来た。嗣君のことを通じたのである。
襄公七年(前566年)
- 鄭の僖公が太子であったとき、成公十六年に子罕と晉へ行ったが礼遇せず、また子豐と楚へ行ったがやはり礼遇しなかった。その元年に晉へ朝したとき、子豐は晉に訴えて廃そうとしたが、子罕が止めた。
- 鄬で会そうとしたとき、子駟が相となったが、また礼遇しなかった。侍者が諫めたが聴かず、また諫めたので殺した。鄵に至って、子駟は賊に夜、僖公を弑させ、瘧疾と称して諸侯に訃報した。簡公は生まれて五年であったが、奉じて立てた。
襄公八年(前565年)
- 鄭の群公子が僖公の死のゆえに子駟を謀った。子駟が先んじた。夏四月庚辰、子狐・子熙・子侯・子丁を除いて殺し、孫撃と孫惡は衞へ亡命した。
史論(士竒)
- 鄭の穆公は亡命して出、晉の文公に従って鄭を討ったとき、城を囲む役には加わらぬことを請うた。宗国への思い、水木の情義は篤いというべきである。これによって晉と鄭はその賢を感じ、翻って立てた。鷸の冠を集めた者や鄶城の下に葬られた群公子とは、まるで違う。
- 姫と姞が配偶となれば必ず蕃え、国香の蘭が刈られてそのまま卒した。まことにそういう理はあるので、瑞祥占いの小術と見て左氏の誇張と疑うわけにもいくまい。
- 子公は指を染めた諍いから君父に刃を向けようとした。子家はそれが不可と知ったのなら靈公に告げ、子公を捕らえて戮すればよかった。それを猶予して忍びず、「飼っている老いた獣ですら殺すのを憚る」という言葉は、ことに悖逆で教えとできない。おかげで子公は間で舌を動かして脅し、そのまま大悪に至った。棺を削られ屍を辱められ、累代の卿族がことごとく滅ぼされたのも、理由のあることである。
- 僖公は太子のときその臣を礼遇せず、諸侯となって鄬で会そうとしたとき、子駟が相となるとまた侮り、諫めた侍者を殺した。まことに大臣を優遇し尊ぶ体を失っている。
- しかし人臣たる者は、生かされも殺されもしてよいが、乱を起こさせてはならぬ。礼儀が一つ行き届かぬだけで寇讐と見なされたのでは、君たる者も難しいのではないか。
- 思うに僖公がこの行いに出たのは、楚を棄てて晉に従うためであった。子駟は「官の命がまだ改まっていない」という説をこれ以前、諸大夫が晉に従うことを請うた日に唱えている。とすれば公が楚に背こうとしたのは子駟の意でなかったと分かる。楚の子囊が鄭を討ったとき、子駟・子國・子耳は楚に従おうとし、子孔・子蟜・子展は晉を待とうとした。子駟は「発言が朝廷に満ちても、誰があえてその咎を負うか。楚に従うことを請う。騑がその咎を受ける」と言った。とすれば子駟はまことに一日も楚を忘れなかったのである。
- 僖公が楚を捨てて晉に従い、身は弑された。これは事の勢いが相依って必然に至ったのであって、どうしてすべて諸大夫を礼遇しなかった咎だといえよう。
- 群公子はひとたび子駟を謀って逆に殺され、子駟は公子班の難を討ちながら自らが乱の首魁であった。子家とともに名が諸侯の策に載る。それもまた朽ちぬことである。