左傳紀事本末鄭の莊公、国を強くする(段に克ち入国を争う/許の公子擁立を付す)(諸)(鄭莊強國(克段争入許/公子 立附) (諸/))
鄭の莊公が弟の段を除いて国を強くし、四隣を討ち従えたのち、その死後に四人の公子が争って国が乱れるまでを、隱公元年(前722年)から莊公十六年(前678年)まで扱う篇。段を京に居らせて驕らせ、鄢で克って共へ追い、母の姜氏とは黄泉の誓いを立てたが、潁考叔の計で隧道に会って元どおりになった。以後、衞・宋・陳・戴・郕・許を次々に討ち、許では許叔を東の一隅に置いて後人に累を及ぼさぬ処置をとり、君子に礼ありと称された。莊公の没後は祭仲が忽と突を立て替え、髙渠彌が昭公を弑し、子亹・子儀を経て厲公が復帰するまで四君が入れ替わった。
年表(27件)
- 隱公元年前722年段が京に驕って叛き、鄢で克たれて共へ亡命し、隧道で姜氏と和す
- 隱公二年前721年公孫滑の乱を討って鄭人が衞を討つ
- 隱公三年前720年齊と鄭が石門で盟い、盧の盟を継ぐ
- 隱公四年前719年宋ら四国が東門を囲み、秋に再び鄭を討って歩兵を破る
- 隱公五年前718年鄭が衞の牧を侵し、北制で燕の師を破り、宋の外郭に入る
- 隱公六年前717年陳が和睦を許さず、鄭伯が陳を侵して大いに獲る
- 隱公九年(宋を伐つ謀り)前714年王命をもって宋討伐を告げ、防で会して謀る
- 隱公十年前713年戴を囲んで三国の師を取り、宋に入り、齊とともに郕に入る
- 隱公十一年前712年許を克って許叔を東の一隅に置き、潁考叔が子都に射殺される
- 桓公十五年(許叔の入国)前697年許叔が許に入り、艾で会して許を定めることを謀る
- 莊公二十九年前665年鄭人が許を侵し、伐・侵・襲の別が示される
- 閔公二年前660年髙克の師が河のほとりで潰え、鄭人が清人を賦する
- 隱公七年前716年陳と鄭が和睦し、五父の盟の所作から陳の乱が予見される
- 隱公八年前715年公子忽が陳から媯氏を迎え、鍼子が礼を失したことを咎める
- 隱公九年(北戎の来襲)前714年公子突の三伏の策によって北戎の師を大敗させる
- 桓公六年前706年太子忽が齊を救って戎を破り、齊の婚を辞退する
- 桓公十年前702年食糧の序列で鄭を後にしたことから齊・衞・鄭と郎で戦う
- 桓公十一年前701年莊公が卒し、祭仲が宋に捕らえられて厲公を立て昭公が衞へ亡命する
- 桓公十二年前700年宋の和睦が当てにならず、鄭伯と武父で盟って宋を討つ
- 桓公十三年前699年宋の求める賄賂に堪えず、紀・魯とともに齊・宋・衞・燕と戦う
- 桓公十四年前698年宋が諸侯をもって鄭を討ち、牛首を取って大宮の椽を持ち帰る
- 桓公十五年(祭仲の専横)前697年雍糾の謀が漏れて殺され、厲公が蔡へ、昭公が入る
- 桓公十六年前696年曹で会して鄭を討つことを謀り、夏に鄭を討つ
- 桓公十七年前695年髙渠彌が昭公を弑して公子亹を立てる
- 桓公十八年前694年齊が首止で子亹を殺し髙渠彌を車裂きにし、祭仲が鄭子を立てる
- 莊公十四年前680年傅瑕が鄭子父子を殺して厲公を納れ、原繁が二心なきを説いて縊れる
- 莊公十六年前678年雍糾の乱に与した者を処断し、公父定叔を復して共叔の後を存続させる
隱公元年(前722年)
- はじめ鄭の武公が申から妻を娶り、武姜といった。莊公と共叔段を生んだ。莊公は逆子で生まれて姜氏を驚かせたので寤生と名づけ、そのまま憎んだ。姜氏は共叔段を愛して立てようとし、しきりに武公に請うたが許されなかった。
- 莊公が即位すると、姜氏は段のために制を請うた。公は「制は険しい邑です。虢叔がそこで死にました。他の邑ならご命令のままに」と言い、京を請われて居らせた。京城大叔と呼ばれた。
- 祭仲が言った。「都城が百雉を超えるのは国の害です。先王の制では、大都は国の三分の一、中は五分の一、小は九分の一を超えません。いま京は規定に外れ、制にかないません。君は堪えられますまい」。公は「姜氏が望んだのだ。害を避けようがあるか」と言った。「姜氏に飽きることがありましょうか。早く処置されるがよい。蔓延らせてはなりません。蔓延れば図り難くなります。蔓草すら除けぬのに、まして君の寵弟では」と答えた。公は「不義を重ねれば必ず自ら倒れる。しばらく待て」と言った。
- やがて大叔は西の辺境と北の辺境に自分にも属するよう命じた。公子呂が「国は二君に堪えられません。君はどうされるのか。大叔に与えられるなら臣は彼に仕えることを請う。与えられぬなら除くことを請う。民に二心を生じさせてはなりません」と言った。公は「無用だ。自ら禍が及ぶ」と言った。
- 大叔はさらに二属の地を自分の邑とし、廩延にまで及んだ。子封が「よろしい。厚くなれば衆を得ます」と言うと、公は「不義であれば人は親しまぬ。厚くなればかえって崩れる」と言った。
- 大叔は城を修め食糧を集め、甲兵を繕い、歩兵と戦車を整えて鄭を襲おうとした。夫人が内応して門を開こうとしていた。公はその期日を聞いて「よろしい」と言い、子封に戦車二百乗で京を討たせた。京が大叔段に叛き、段は鄢に入った。公は鄢で討った。五月辛丑、大叔は共へ亡命した。
- 経に「鄭伯、段に鄢に克つ」と書いたのは、段が弟らしくないから弟といわず、二人の君のようだから克つといい、鄭伯と称したのは教えを失ったことを譏ったのであり、鄭の意図と見たのであり、出奔と言わないのはそう書きにくかったからである。
- そこで姜氏を城潁に置き、「黄泉に及ばねば相見えぬ」と誓ったが、やがて悔いた。潁考叔は潁谷の封人で、これを聞いて公に献上をした。公が食事を賜うと、肉を残した。公が問うと、「小人には母があり、小人の食べ物はみな味わっております。まだ君の羹を味わっておりません。これを贈りたく」と答えた。公は「お前には母があって贈れる。私だけがない」と言った。潁考叔が「あえて伺いますが、どういうことですか」と言うので、公は事情を語り、悔いていることも告げた。「君は何を憂えられますか。地を掘って泉に及び、隧道で相見えれば、誰がそうでないと言いましょう」と答えた。公は従った。
- 公は入って「大隧の中、その楽しみ融融たり」と賦した。姜が出て「大隧の外、その楽しみ洩洩たり」と賦した。そこで母子は元どおりになった。君子は言う。「潁考叔は純孝である。その母を愛して莊公にまで及ぼした。詩に『孝子匱しからず、永く爾が類に錫う』とあるのは、これをいうのであろう」。
- 冬十月、鄭の共叔の乱で公孫滑が衞へ亡命した。衞人はそのために鄭を討って廩延を取った。鄭人は王の師と虢の師をもって衞の南の辺境を討ち、邾に師を請うた。邾子は公子豫にひそかに伝え、豫は行くことを請うたが公は許さなかった。それでも行って、邾人・鄭人と翼で盟った。経に書かないのは公の命でないからである。
隱公二年(前721年)
- 冬、鄭人が衞を討った。公孫滑の乱を討ったのである。
隱公三年(前720年)
- 冬、齊と鄭が石門で盟った。盧の盟を継いだのである。庚戌、鄭伯の車が濟で倒れた。
隱公四年(前719年)
- 宋公・陳侯・蔡人・衞人が鄭を討ち、その東門を囲んで五日で引き上げた。
- 秋、諸侯が改めて鄭を討った。宋公が魯に師を乞いに来たが公は断った。羽父が師を率いて会することを請い、公は許さなかったが、固く請うて行った。諸侯の師は鄭の歩兵を破り、その稲を刈って引き上げた。
隱公五年(前718年)
- 四月、鄭人が衞の牧を侵し、東門の役に報いた。衞人は燕の師をもって鄭を討った。鄭の祭足・原繁・洩駕が三軍でその前に陣し、曼伯と子元にひそかに軍を回してその後ろに陣させた。燕人は鄭の三軍を畏れて制の人に備えなかった。六月、鄭の二公子が制の人をもって北制で燕の師を破った。君子は言う。「不慮に備えぬ者は師を用いられぬ」。
- 宋人が邾の田を取った。邾人は鄭に告げて「君が宋に憾みを晴らされることを請う。敝邑が道案内をする」と言った。鄭人は王の師をもって会し、宋を討ってその外郭に入り、東門の役に報いた。
- 宋人が鄭を討って長葛を囲み、外郭に入られた役に報いた。
隱公六年(前717年)
- 五月庚申、鄭伯が陳を侵して大いに獲た。先年、鄭伯が陳に和睦を請うたが陳侯は許さなかった。五父が諫めて「仁に親しみ隣と善くするのは国の宝です。君は鄭を許されよ」と言った。陳侯は「宋と衞こそ難物だ。鄭に何ができる」と言い、ついに許さなかった。
- 君子は言う。「善は失うべからず、悪は長ずべからず。陳の桓公のことをいうのであろう。悪を長じて改めねば、自ら禍が及ぶ。救おうとしてもできようか。商書に『悪の広がりやすきは、火が原を焼くごとし。近寄れもせぬのに、どうして撲滅できよう』とあり、周任の言に『国家を治める者は、悪を見れば農夫が草を除くのに務めるようにする。刈り取って積み上げ、その根を絶やして生えられなくすれば、善なる者が信を得る』とある」。
- 秋、宋人が長葛を取った。
隱公九年(前714年)(宋を伐つ謀り)
- 宋公が王に朝さなかった。鄭伯は王の左卿士であり、王命をもって宋を討つことを告げに来た。防で会し、宋を討つことを謀った。
隱公十年(前713年)
- 中丘で会した。出師の期日を定めたのである(残りは隱公攝國の篇にある)。
- 蔡人・衞人・郕人が王命の会に加わらなかった。秋七月庚寅、鄭の師が郊に入り、なお郊にとどまった。宋人・衞人が鄭に入り、蔡人が従って戴を討った。八月壬戌、鄭伯が戴を囲み、癸亥にこれを克ち、三国の師を取った。宋と衞は鄭に入っておきながら戴を討つために蔡人を召したので、蔡人は怒った。それゆえ和さずに敗れた。九月戊寅、鄭伯が宋に入った。冬、齊人と鄭人が郕に入った。王命に違ったことを討ったのである。
隱公十一年(前712年)
- 夏、公が鄭伯と郲で会し、許を討つことを謀った。
- 鄭伯が許を討とうとした。五月甲辰、大宮で兵器を授けた。公孫閼と潁考叔が車を争い、潁考叔が轅を抱えて走ると、子都(公孫閼)は戟を抜いて追った。大逵まで来て追いつけず、子都は怒った。
- 秋七月、公が齊侯・鄭伯と会して許を討った。庚辰、許に迫った。潁考叔が鄭伯の旗の蝥弧を取って先に登り、子都が下から射て墜とした。瑕叔盈がまた蝥弧を持って登り、周りに麾いて「君が登られた」と呼ばわり、鄭の師はことごとく登った。壬午、そのまま許に入った。許の莊公は衞へ亡命した。
- 齊侯が許を魯に譲ろうとした。公は「君が許は共しないと言われたから君に従って討った。許はすでにその罪に服した。君命があっても寡人はあえて与り知らぬ」と言い、そこで鄭人に与えた。
- 鄭伯は許の大夫百里に許叔を奉じて許の東の一隅に居らせ、こう言った。「天が許国に禍し、鬼神がまことに許君を快しとせず、我が手を借りたのである。寡人にはただ一二の父兄があるが、それすら安んじられぬ。どうして許を自分の功としてよかろう。寡人には弟があって和協できず、四方に口を糊させている。まして許を長く保てようか。あなたは許叔を奉じてこの民を撫し柔らげよ。私は獲にあなたを佐けさせる。もし寡人が地に没することができたなら、天が礼をもって許への禍を悔いられ、この許公が改めてその社稷を奉じ、ただ我が鄭国と請い願うことがあるとき、旧来の婚姻のように、へりくだって従い合えるであろう。他の族がここに逼り住んで我が鄭国とこの土地を争うようにしてはならぬ。我が子孫は自らの滅亡を防ぐ暇もなくなろう。まして許を祀れようか。寡人があなたをここに置くのは、ただ許国のためだけでなく、いささか我が辺境を固めるためでもある」。
- そこで公孫獲を許の西の一隅に置き、こう言った。「およそお前の器物や財貨を許に置くな。私が死んだらすぐに去れ。我が先君は新たにここに邑を定められたが、王室はすでに衰えた。周の子孫は日ごとにその序を失っている。そもそも許は大岳の胤である。天がすでに周の徳に飽きたのなら、我らが許と争えようか」。
- 君子は「鄭の莊公はここにおいて礼があった」という。礼とは国家を経め、社稷を定め、民人を序し、後嗣を利する道である。許に法がないから討ち、服したから赦し、徳を度って処し、力を量って行い、時を見て動き、後人に累を及ぼさなかった。礼を知るといえる。
- 鄭伯は兵卒に豚を出させ、隊ごとに犬と鶏を出させて、潁考叔を射た者を呪詛させた。君子は「鄭の莊公は政と刑を失った」という。政は民を治め、刑は邪を正すもの。徳のある政もなく、威ある刑もなければ、邪が生ずる。邪であるからと呪詛して何の益があろう。
- 鄭と息の間に諍いの言があった。息侯が鄭を討ち、鄭伯は国境で戦って息の師は大敗して帰った。君子はこれによって息が滅びようとしているのを知った。徳を度らず、力を量らず、親を親しまず、言葉を糺さず、罪の所在を察しない。五つの不當を犯して人を討ったのだから、その師を失うのも当然ではないか。
- 冬十月、鄭伯が虢の師をもって宋を討ち、壬戌、宋の師を大敗させ、鄭に入られたことに報いた。宋が告げなかったので経に書かない。およそ諸侯に事があって告げれば書き、そうでなければ書かない。出師の成否もまた同じである。国を滅ぼすほどのことでも、滅ぼされた側が敗北を告げず、勝った側が克ったことを告げなければ、策に書かない。
桓公十五年(前697年)(許叔の入国)
- 許叔が許に入った。公が齊侯と艾で会し、許を定めることを謀った。
莊公二十九年(前665年)
- 夏、鄭人が許を侵した。およそ師に鐘鼓のあるのを伐といい、ないのを侵といい、軽装のものを襲という。
閔公二年(前660年)
- 鄭人が髙克を憎み、師を率いて河のほとりに駐屯させ、久しく召さなかった。師は潰えて帰り、髙克は陳へ亡命した。鄭人はそのために清人を賦した。
隱公七年(前716年)
- 陳と鄭が和睦した。十二月、陳の五父が鄭へ行って盟に臨んだ。壬申、鄭伯と盟ったが、血をすする所作が上の空であった。洩伯は「五父は必ず免れまい。盟を頼みとしていない」と言った。鄭の良佐が陳へ行って盟に臨み、辛巳、陳侯と盟い、やはり陳がやがて乱れることを知った。
- 冬、鄭の公子忽が王のもとにいたので、陳侯は娘を娶らせることを請うた。鄭伯が許し、そこで婚が調った。
隱公八年(前715年)
- 四月甲辰、鄭の公子忽が陳へ行って媯氏を迎えた。辛亥、媯氏を伴って帰り、甲寅、鄭に入った。陳の鍼子が娘を送ったが、先に交わってから祖廟に告げた。鍼子は「これでは夫婦とならぬ。その祖を誣いた。礼ではない。どうして子を育てられよう」と言った。
隱公九年(前714年)(北戎の来襲)
- 冬、北戎が鄭を侵し、鄭伯が防いだ。戎の師を患えて「彼は歩兵、我らは戦車。突き崩されるのが懼ろしい」と言った。公子突が言った。「勇があって剛でない者に敵を試させ、速やかに退かせなさい。君は三つの伏兵を置いて待たれよ。戎は軽々しくて整わず、貪って親しみ合わず、勝てば譲らず、敗れれば救わぬ。先を行く者は獲物を見れば必ず進む。進んで伏兵に遇えば必ず速やかに逃げる。後の者が救わなければ後続はなくなる。それで思いどおりにできます」。従った。
- 戎人の先陣が伏兵に遇って逃げた。祝聃が追い、戎の師を断ち切って前後から撃ち、ことごとく殲滅した。戎の師は大いに逃げた。十一月甲寅、鄭人は戎の師を大敗させた。
桓公六年(前706年)
- 夏、北戎が齊を討った。齊侯が鄭に師を乞い、鄭の太子忽が師を率いて齊を救った。六月、戎の師を大敗させ、その二人の帥の大良・少良を捕らえ、首級三百を齊に献じた。
- このとき諸侯の大夫が齊を守っていた。齊人が食糧を贈るのに魯にその序列を決めさせたところ、鄭を後にした。鄭の忽は功があるのにと怒った。それゆえ郎の戦いが起こった。
- 公がまだ齊と婚を結ばぬころ、齊侯は文姜を鄭の太子忽に娶らせようとした。太子忽は辞退した。人がその理由を問うと、太子は「人にはそれぞれ配偶がある。齊は大きく、我が配偶ではない。詩に『自ら多福を求む』とある。我にあるだけだ。大国が何をしてくれよう」と言った。君子は「よく自らのために謀った」と言った。
- 戎の師を破ったとき、齊侯がまた娶らせることを請うたが固く辞退した。人がその理由を問うと、太子は「齊に事がないときですら私はあえてしなかった。いま君命で齊の急に駆けつけ、妻を得て帰れば、これは師を出して婚を結んだことになる。民は私を何と言おう」と言い、そのまま鄭伯に断らせた。
桓公十年(前702年)
- 冬、齊・衞・鄭が来て郎で戦った。我らに言い分があった。はじめ北戎が齊を苦しめ、諸侯が救って鄭の公子忽に功があった。齊人が諸侯に食糧を贈るとき魯にその序列を決めさせ、魯は周の班次によって鄭を後にした。鄭人は怒って齊に師を請い、齊人は衞の師をもって助けた。それゆえ侵伐と称さず、齊・衞を先に書いたのは王の爵位による。
桓公十一年(前701年)
- 春、齊・衞・鄭・宋が惡曹で盟った。
- 鄭の昭公が北戎を破ったとき、齊人が娘を娶らせようとした。昭公は辞退した。祭仲は「必ず娶られよ。君には内寵が多い。あなたに大きな援けがなければ立てません。三人の公子はみな君となり得ます」と言ったが、従わなかった。
- 夏、鄭の莊公が卒した。はじめ祭の封人仲足が莊公に寵せられ、莊公は卿とした。公のために鄧曼を娶って昭公を生ませた。それゆえ祭仲がこれを立てた。宋の雍氏が鄭の莊公に娘を嫁がせ、雍姞といい、厲公を生んだ。雍氏の宗族は宋の莊公に寵せられていたので、祭仲を誘って捕らえ、「突を立てねば死ぬぞ」と言い、また厲公を捕らえて賄賂を求めた。祭仲は宋人と盟い、厲公を伴って帰って立てた。
- 秋九月丁亥、昭公が衞へ亡命し、己亥、厲公が立った。
桓公十二年(前700年)
- 夏、公が宋と鄭を和睦させようとした。秋、公が宋公と句瀆の丘で盟った。宋の和睦は当てにならなかったので、また虚で会し、冬にまた龜で会した。宋公が和睦を断ったので、鄭伯と武父で盟い、そのまま師を率いて宋を討ち、戦った。宋に信がなかったからである。君子は言う。「まことに信が続かねば、盟に益はない。詩に『君子しばしば盟い、乱これをもって長ず』とあるのは、信がないからである」。
桓公十三年(前699年)
- 春、宋が鄭に多くの賄賂を求めた。鄭はその命に堪えず、紀と魯をもって齊・宋・衞・燕と戦った。どこで戦ったか書かないのは、報告が遅れたからである。
- 鄭人が来て好誼を修めることを請うた。
桓公十四年(前698年)
- 春、曹で会した。曹人が食糧を贈った。礼にかなう。夏、鄭の子人が来て盟を継ぎ、あわせて曹の会を修めた。
- 冬、宋人が諸侯をもって鄭を討ち、宋での戦いに報いた。渠門を焼いて大逵まで入り、東の郊を討ち、牛首を取り、大宮の椽を持ち帰って盧門の椽とした。
桓公十五年(前697年)(祭仲の専横)
- 祭仲が政を専らにし、鄭伯はこれを患えて、その婿の雍糾に殺させようとした。郊で饗応しようとした。雍姬はこれを知って母に「父と夫とどちらが親しいか」と問うた。母は「男は誰でも夫になり得るが、父は一人だけだ。どうして比べられよう」と言った。そこで祭仲に「雍氏がその家を措いてあなたを郊で饗応しようとしています。私は怪しみます」と告げた。祭仲は雍糾を殺して周氏の池に晒した。公は屍を車に載せて出、「婦人に謀りごとを及ぼした。死んで当然だ」と言った。
- 夏、厲公が蔡へ亡命した。六月乙亥、昭公が入った。
- 秋、鄭伯(厲公)が櫟の人に頼って檀伯を殺し、そのまま櫟に居した。冬、袲で会し、鄭を討って厲公を納れることを謀ったが、果たせずに引き返した。
桓公十六年(前696年)
- 春正月、曹で会し、鄭を討つことを謀った。夏、鄭を討った。秋七月、公が鄭討伐から帰り、飲至の礼を行った。
桓公十七年(前695年)
- はじめ鄭伯が髙渠彌を卿にしようとした。昭公はこれを憎んで固く諫めたが聴かれなかった。昭公が立つと、渠彌は自分が殺されることを懼れた。辛卯、昭公を弑して公子亹を立てた。君子は「昭公は憎むべきものを知っていた」という。公子達は「髙伯は戮されるだろう。憎まれ返すことが甚だしすぎる」と言った。
桓公十八年(前694年)
- 秋、齊侯が首止に軍を置き、子亹が会した。髙渠彌が相となった。七月戊戌、齊人が子亹を殺し、髙渠彌を車裂きにした。祭仲は鄭子を陳から迎えて立てた。この行きに際し、祭仲はそれを察していたので病と称して行かなかった。人は「祭仲は智によって免れた」と言った。仲は「まことにそのとおりだ」と言った。
莊公十四年(前680年)
- 鄭の厲公が櫟から鄭を侵し、大陵に至って傅瑕を捕らえた。傅瑕は「もし私を赦されるなら、君を納れることを請う」と言った。盟って赦した。六月甲子、傅瑕が鄭子とその二人の子を殺して厲公を納れた。
- はじめ内の蛇と外の蛇が鄭の南門の中で闘い、内の蛇が死んだ。六年たって厲公が入った。公はこれを聞いて申繻に「やはり妖というものがあるのか」と問うた。答えて言った。「人が忌むところ、その気の勢いによって招くのです。妖は人によって興る。人に隙がなければ妖は自ら起こりません。人が常道を棄てれば妖が興る。だから妖があるのです」。
- 厲公は入るとそのまま傅瑕を殺し、原繁に伝えさせた。「傅瑕は二心を抱いた。周に定まった刑がある。すでにその罪に服した。私を納れて二心のなかった者には、みな上大夫の地位を許した。私は伯父とそれを図りたい。しかも寡人が出ていたとき伯父は内からの言葉をくれず、入ってからも寡人を思ってくれぬ。寡人は憾みに思う」。
- 答えて言った。「先君の桓公が我が先人に命じて宗祏を司らせました。社稷に主があるのに心を外に向ける、それ以上の二心がありましょうか。まことに社稷を主る者があれば、国内の民で誰が臣とならぬでしょう。臣に二心なきは天の制です。子儀が位にあって十四年、君を召そうと謀ったのは二心でなくて何でしょう。莊公の子はなお八人おります。もしみな官爵をもって賄賂を行い二心を勧めて事を成せるなら、君はどうされるのか。臣は命を承りました」。そこで縊れて死んだ。
莊公十六年(前678年)
- 鄭伯が雍糾の乱に与した者を処断した。九月、公子閼を殺し、强鉏の足を斬った。公父定叔は衞へ亡命したが、三年で復帰させて「共叔に鄭で後嗣がなくなるようにはできぬ」と言い、十月に入らせて「よい月だ。満ちた数につく」と言った。君子は「强鉏はその足を守れなかった」という。
史論(士奇)
- 鄭の莊公は春秋の諸侯の中で梟雄の資質を持つ者である。その陰謀と残忍さは、まず自ら弟を切ることから始まり、後に上は王に及び、下は四隣の与国に及んだ。
- そもそも兄弟は一本の天属で最も親しい。それを驕らせ悪を長じさせて刈り取る計を行った。黄泉の誓いは生みの母にすらあえてしたのである。まして他人においてをや。
- これ以後、雄心を収めず、廩延の隙を咎めては衞を討ち、東門の役に報いては衞を侵し、邾人のために田を取られた憾みを晴らしては宋を討ち、和睦を許されぬのを怒っては陳を侵し、王命を借りて師を興しては宋を討ち、三国の師を兼ねては戴を取り、命に違ったことに託して小国を虐げては郕に入り、鬼神が快しとせぬと飾っては許に入り、周の班次で後にされたのを怒っては郎で戦った。その他、連衡して党を植え、従い合って血をすすることは一つ二つと数えきれぬ。莊公もまた一世の雄である。
- しかし国の本を固められず、内に寵嬖が多く、三人の公子がみな君と紛らわしく、忽・突・子亹・子儀の際に争いと弑逆の禍が起こって国内は大いに乱れた。これはみな陰謀と残忍さの積み重ねが招いたのであって、天道が偽らぬことがこれで分かる。
- 昭公はしばしば戦陣を経て、齊を救ったときは戎の師を大敗させ甲首三百を獲て功が最も多かった。まったく柔弱な者でもない。文姜を断って「我にあるだけだ。大国が何をしてくれよう」と言ったのは、自立していないとはいえまい。
- ところが当時の人は、突に追われたことから、齊の援けを座して失ったことを惜しみ嘆き、有女同車の詩を引いて刺としたが、忽が不幸にも齊と婚を結んでいたら、彭生の禍は魯の桓公でなく鄭の忽に降りかかったであろうことを知らない。「人にはそれぞれ配偶がある」という言葉が失策だと、どうしていえよう。
- 祭仲足は寵せられて莊公に卿とされ、公のために鄧曼を娶って忽を生ませた。だから祭仲が忽を立てたのである。とすれば祭仲は忽が腹心と頼んだ者である。古に、六尺の孤を託し百里の命を寄せ、大節に臨んで奪えぬ者があった。仲は宋に捕らえられるや、たちまち帰って厲公を立てて昭公を追い、また専横を忌まれるや厲公を出して昭公を納れた。仇に顔を向けて仕える行いは犬や豚と同じである。
- 子亹の首止の会で、齊人が髙渠彌の弑逆を討ってともに殺した。仲はそれを察して病と称して行かなかった。人はよく智によって免れたというが、仲がただ生を貪り死を畏れる小人にすぎぬことを知らない。臣がみな仲のようであったら、国家は何を頼みとしよう。
- 原繁のような者こそ、死を守って二心なき者といえる。
- 忽は入ってついに出、突は出てついに入り、子亹と子儀は立ってまっとうできなかった。このとき鄭には四人の君があり、乱れた糸のように紛れた。蛇の妖が変を告げたのは偶然ではない。厲公が共叔の後を存続させたのは、その篡逆の気質が同類だったからである。しかし君子は四公子の禍の因を尋ねて、莊公を追い恨まぬことはないのである。