左傳紀事本末衛の靈公の擁立(蒯聵と輒の父子の国争い/齊豹の乱・南子の寵を付す)(衛靈公之立(瞶輒父子争國寵齊豹/之亂 南子之 附))

衞の靈公が卜と夢によって立てられてから、蒯聵と輒の父子が国を争い、出公が越で客死するまでを、昭公七年(前535年)から哀公二十六年(前469年)まで扱う篇。孔成子と史朝が同じ夢を見、足の悪い孟縶を退けて元(靈公)を立てた。昭公二十年(前522年)の齊豹の乱では宗魯が公孟の身代わりとなって死に、孔子は琴張の弔いを許さなかった。靈公が南子を寵し宋朝を召したことから太子蒯聵が母を殺そうとして出奔し、その死後に輒が立って父子が争った。孔悝を脅して入国した莊公は已氏に殺され、出公は再び亡命して越の師に納れられず卒した。史論は輒が父を拒んだ罪と蒯聵の過ちを並べ、源は靈公が南子を寵したことにあるとする。

年表(14件)

昭公七年(前535年)

  • 秋、衞の襄公が卒した。衞の齊惡が周に喪を告げ、あわせて命を請うた。王は成簡公を衞へ遣わして弔わせ、あわせて襄公に追命して「叔父よ、慎み深く昇って我が先王の左右にあり、上帝に仕えることを佐けよ。余があえて髙圉・亞圉を忘れようか」と言わせた。
  • 衞の襄公の夫人姜氏には子がなく、嬖人の婤姶が孟縶を生んだ。孔成子は康叔が「元を立てよ。余は羇の孫の圉と史茍にこれを輔けさせる」と言う夢を見た。史朝もまた康叔が「余はお前の子の茍と孔烝鉏の曾孫の圉に元を輔けさせる」と言う夢を見た。史朝が成子に会って夢を告げると、二人の夢は合っていた。
  • 晉の韓宣子が政を執って諸侯を聘問した年、婤姶が子を生み、元と名づけた。孟縶は足が悪く歩行が弱かった。孔成子が周易で筮って「元が衞国を享け、その社稷を主らんことを」と言うと屯を得た。また「余は縶を立てたい。これを嘉したまえ」と言うと屯の比を得た。史朝に示すと、史朝は「元は亨る。何を疑いましょう」と言った。
  • 成子が「長を立てるという意味ではないのか」と言うと、こう答えた。「康叔が名づけたのですから長といえます。孟は人並みでなく、宗廟の列に加われますまい。長とはいえません。しかもその繇に『侯を建つるに利あり』とあります。嗣であれば何が吉で何を建てるのか。建てるとは嗣ではないのです。二つの卦がともにそう言い、康叔が命じ、二卦が告げている。筮が夢と重なるのは武王が用いられた法です。従わずしてどうしましょう。足の弱い者が侯に居り社稷を主り、祭祀に臨み民人を奉じ鬼神に仕え、会朝に従えましょうか。それぞれ利とするところによるのが、よいのではありませんか」。
  • そこで孔成子は靈公を立てた。十二月癸亥、衞の襄公を葬った。

昭公二十年(前522年)

  • 夏、衞の公孟縶が齊豹を侮り、司寇の職と鄄を奪って、役があれば返し、なければ取り上げた。公孟は北宮喜・褚師圃を憎み、この者たちは公孟を除こうとした。公子朝は襄公の夫人宣姜と通じ、懼れて乱を起こそうとした。それゆえ齊豹・北宮喜・褚師圃・公子朝が乱を起こした。
  • はじめ齊豹は宗魯を公孟に推挙して驂乗とさせていた。乱を起こそうとして宗魯に「公孟が善からぬことはお前も知っている。同乗するな。私は殺すつもりだ」と言った。宗魯は答えた。「私はあなたによって公孟に仕え、あなたが私の名を借りたから遠ざけられずにいる。善からぬことは私も知っている。それでも利のために去れなかったのは私の過ちだ。いま難を聞いて逃げればあなたを偽り者にする。あなたは事を行われよ。私は死のう。あなたに仕えたことをまっとうし、公孟のもとで死ぬのが筋だ」。
  • 丙辰、衞侯は平壽にいた。公孟が葢獲の門外で祭事を行った。齊氏は門外に帷を張って甲士を伏せ、祝鼃に戈を薪の車に置かせて門に当てさせ、一乗に公孟を従わせて出し、華齊に公孟を御させ、宗魯を驂乗とした。閎の中に至って齊氏が戈で公孟を撃った。宗魯は背で庇い、腕を断たれてなお戈は公孟の肩に中り、二人とも殺された。
  • 公は乱を聞いて車を駆り、閲門から入った。慶比が御し、公南楚が驂乗、華寅が副車に乗った。公宮に至って鴻駵魋が公の車の四人目に乗った。公は宝器を載せて出た。褚師子申が馬路の辻で公に遇い、そのまま従って齊氏の前を過ぎた。華寅に肌脱ぎで蓋を持たせ車の欠けたところに当てさせた。齊氏が公を射たが南楚の背に中った。公はそのまま出た。華寅は郭門を閉じ、乗り越えて従った。公は死鳥へ行った。析朱鉏は夜に穴から出て、徒歩で公に従った。
  • 齊侯が公孫青を衞に聘問させた。すでに出発してから衞の乱を聞き、どこへ聘問すべきか問わせた。齊侯は「まだ国境の内におられるなら衞君である」と言い、そこで務めを果たすことにし、死鳥まで従って務めを行おうとした。
  • 衞侯は辞退して「亡人は不才で社稷を守り損ね、草莽に落ちのびている。あなたが君命を辱めるところではない」と言った。賓は「寡君は朝廷で下臣に命じて『下執事に付き従え』と言われました。臣はあえて二心を抱きません」と言った。主人は「君がもし先君の好誼を顧み、敝邑を照臨してその社稷を鎮め撫されるなら、宗祧がございます」と言い、そこでやめた。衞侯が固く会うことを請うたが承知されず、その良馬を献じて会った。使いの務めを果たさなかったためである。衞侯はこれを乗馬とした。
  • 賓が夜警に立とうとすると、主人は辞退して「亡人の憂いをあなたに及ぼせぬ。草莽の中はお供に足を運ばせるに値せぬ。あえて辞退する」と言った。賓は「寡君の下臣は君の牧圉です。外役を扞げなければ寡君を持たぬことになります。臣は罪を免れぬことを懼れます。死を免れるためにと請います」と言い、自ら鐸を執って夜通し篝火に立った。
  • 齊氏の宰の渠子が北宮子を召した。北宮氏の宰は謀議に与っていなかったので渠子を殺し、そのまま齊氏を討って滅ぼした。丁巳晦、公が入り、北宮喜と彭水のほとりで盟った。秋七月戊午朔、そこで国人と盟った。八月辛亥、公子朝・褚師圃・子玉霄・子髙魴が晉へ亡命した。閏月戊辰、宣姜を殺した。
  • 衞侯は北宮喜に貞子と諡し、析朱鉏に成子と諡し、齊氏の墓地を与えた。衞侯が齊に安寧を告げ、あわせて子石(公孫青)のことを言った。齊侯が酒宴を開いて大夫に遍く賜り、「お前たちの教えのおかげだ」と言った。苑何忌は辞退して「青の賞に与れば必ずその罰にも及びます。康誥に『父子兄弟、罪は相及ばず』とあります。まして群臣においてをや。臣はあえて君の賜を貪って先王を犯せません」と言った。
  • 琴張は宗魯が死んだと聞いて弔いに行こうとした。仲尼は「齊豹の盗を成し、孟縶の賊を成した者だ。お前は何を弔うのか。君子は姦を食まず、乱を受けず、利のために邪に病まず、邪をもって人に対せず、不義を覆い隠さず、非礼を犯さぬ」と言った。

定公十三年(前497年)

  • はじめ衞の公叔文子が朝して靈公を饗応することを請うた。退いて史鰌に会って告げると、史鰌は「あなたは必ず禍を受けよう。あなたは富み、君は貪る。罪はあなたに及ぶだろう」と言った。文子は「そのとおりだ。先にあなたに告げなかったのは私の罪だ。君はすでに許された。どうしよう」と言った。史鰌は「害はない。あなたは臣たり得るから免れる。富んで臣たり得れば必ず難を免れる。上下ともにそうだ。戍は驕っている。滅びるだろう。富んで驕らぬ者は稀だ。私はあなたを見るだけで、驕って滅びなかった者はまだいない。戍は必ず巻き込まれる」と言った。文子が卒するに及んで、衞侯は公叔戍をその富ゆえに憎み始めた。
  • 公叔戍がまた夫人の一党を除こうとした。夫人は訴えて「戍が乱を起こそうとしています」と言った。

定公十四年(前496年)

  • 春、衞侯が公叔戍とその一党を追った。それゆえ趙陽は宋へ亡命し、戍は魯へ亡命した。夏、衞の北宮結が魯へ亡命した。公叔戍のためである。
  • 衞侯は夫人南子のために宋朝を召し、洮で会した。太子蒯聵が盂を齊に献じに行き、宋の野を通ると、野人が「もうお前の牝豚は満たされた。我らの牡豚を返してくれぬか」と歌った。太子は恥じ、戲陽速に「私に従って少君に朝せよ。少君が私に会ったとき、私が振り返ったら殺せ」と言った。速は承知した。
  • そこで夫人に朝した。夫人が太子に会い、太子は三度振り返ったが速は進み出なかった。夫人はその顔色を見て、泣いて走り「蒯聵が私を殺そうとします」と言った。公はその手を執って臺に登った。太子は宋へ亡命し、その一党をことごとく追った。それゆえ公孟彄は鄭へ亡命し、鄭から齊へ亡命した。
  • 太子は人に「戲陽速が私に禍した」と告げた。戲陽速は人に告げた。「太子こそ私に禍した。太子は無道で、私にその母を殺させようとした。承知しなければ私が殺される。もし夫人を殺せば、私に罪を着せて言い逃れよう。だから承知して行わず、私の死を先へ延ばしたのだ。諺に『民は信によって保たれる』という。私は信をもって義としたのだ」。

哀公二年(前493年)

  • はじめ衞侯が郊に遊び、子南が御した。公が「余には子がない。お前を立てよう」と言ったが答えなかった。後日また言うと、「郢は社稷を辱めるに足りません。君は改めて図られよ。君夫人が堂におられ、三度の揖をする者が下におります。君命はただ辱められるだけです」と答えた。
  • 夏、衞の靈公が卒した。夫人は「公子郢を太子とせよというのが君命です」と言った。答えて言った。「郢は他の子と違います。しかも君は私の手のうちで没されました。もしそういうことがあれば郢が必ず聞いております。それに亡人の子の輒がおります」。そこで輒を立てた。
  • 六月乙酉、晉の趙鞅が衞の太子を戚に納れた。夜に道に迷ったが、陽虎が「河を右にして南へ行けば必ず着く」と言った。太子に絻をかぶらせ、八人に喪服を着せ、衞から迎えに来た者を装って門に告げ、哭して入り、そのまま居座った。

哀公三年(前492年)

  • 春、齊と衞が戚を囲み、中山に援けを求めた。

哀公十一年(前484年)

  • 冬、衞の大叔疾が宋へ亡命した。はじめ疾は宋の子朝から妻を娶り、その妹を寵愛した。子朝が亡命すると、孔文子は疾に妻を出させて自分の娘を娶らせた。疾は侍人に先妻の妹を誘わせて犂に置き、一つの宮を構えて二人妻があるようにした。文子は怒って攻めようとしたが、仲尼が止めた。そこでその娘を取り返した。
  • ある者が外州で淫らな行いをし、外州の人がその軒車を奪って献じた。この二つを恥じて出奔したのである。衞人は遺を立て、孔姞を娶らせた。
  • 疾は向魋に臣事して美しい珠を納れ、城鉏を与えられた。宋公が珠を求めたが魋は与えなかった。これによって罪を得た。桓氏の難のとき、城鉏の人が大叔疾を攻めた。衞の莊公が復帰させ、巢に居らせたが、そこで死んだ。鄖で殯し、少禘に葬った。
  • はじめ晉の悼公の子の憖が亡命して衞にいたとき、その娘に御をさせて狩りをした。大叔懿子が引き留めて酒を飲ませ、そのまま娶って悼子を生んだ。悼子が位に即いたので夏戊が大夫となった。悼子が亡命すると、衞人は夏戊の位を削った。

哀公十二年(前483年)

  • 夏、呉が衞に会を求めた。秋、衞侯が呉と鄖で会した。呉人が衞侯の宿舎を垣で囲んだ。衞侯は帰って夷の言葉を真似た。子之は幼かったが「君は必ず免れまい。夷で死なれるのではないか。捕らえられてなおその言葉を喜ぶとは、心酔ぶりが固い」と言った。

哀公十五年(前480年)

  • 衞の孔圉が太子蒯聵の姉を娶って悝を生んだ。孔氏の下僕の渾良夫は背が高く美男であった。孔文子が卒すると内室と通じた。太子は戚にいた。孔姬は良夫を戚へ遣わした。太子は良夫に「私を入国させてくれれば、冕を着け軒に乗せ、三度の死罪を問わぬ」と言い、盟った。良夫は伯姫のために願い出た。
  • 閏月、良夫は太子とともに入り、孔氏の外圃に泊まった。日暮れに二人は衣で顔を覆って車に乗り、寺人の羅が御して孔氏へ行った。孔氏の家老の欒寧が問うと、姻戚の侍女と称して告げ、そのまま入って伯姬のもとへ行った。食事の後、孔伯姬が戈を杖ついて先に立ち、太子と五人が輿に載せた豚を伴って従い、孔悝を厠で追い詰め、強いて盟わせ、そのまま脅して臺に登った。
  • 欒寧は酒を飲もうとして炙がまだ焼けていなかった。乱を聞いて季子(子路)に知らせ、獲を召して乗車を用意させ、盃を傾け炙を口にして、衞侯輒を奉じて魯へ亡命した。
  • 季子が入ろうとして子羔に遇った。子羔は出ようとしていて「門はもう閉じた」と言った。季子は「ひとまず行ってみる」と言った。子羔は「間に合わぬ。その難に踏み込むな」と言った。季子は「その禄を食んだ以上、難を避けぬ」と言った。子羔はそのまま出た。
  • 子路が入り、門に至ると公孫敢が門を守っていて「入るな」と言った。季子は「これは公孫ではないか。利を求めておきながらその難を逃れる。由はそうしない。その禄を利とした以上、必ずその患いを救う」と言った。使者が出てきたので、そこで入った。「太子は孔悝を何に用いられるのか。殺しても必ず誰かが継ぐ」と言い、さらに「太子には勇がない。臺の半ばを焼けば必ず孔叔を放すだろう」と言った。
  • 太子はこれを聞いて懼れ、石乞と盂黶を下りさせて子路に当たらせた。戈で撃たれて冠の纓が切れた。子路は「君子は死しても冠を脱がぬ」と言い、纓を結び直して死んだ。孔子は衞の乱を聞いて「柴は来るだろう。由は死ぬ」と言った。
  • 孔悝が莊公を立てた。莊公は旧来の政を害と考え、ことごとく除こうとして、まず司徒瞞成に「寡人は外で長く病み苦しんだ。お前も味わってみよ」と言った。帰って褚師比に告げ、ともに公を討とうとしたが果たせなかった。

哀公十六年(前479年)

  • 春、瞞成と褚師比が宋へ亡命した。
  • 衞侯が鄢武子を遣わして周に告げさせた。「蒯聵は君父・君母に罪を得て晉へ逃げ隠れました。晉は王室のゆえに兄弟を棄てず、河のほとりに置きました。天がその心を誘い、嗣いで封を守ることができました。下臣の肸に、あえて執事へ申し上げさせます」。王は單平公に答えさせた。「肸が嘉い知らせを持って告げに来た。余一人は行って叔父に伝えよう。余はお前が代を継いだことを嘉し、お前の禄位を復す。慎めよ。まさに天の恵みである。敬まねば恵まれぬ。悔いても追いつけまい」。
  • 六月、衞侯が平陽で孔悝に酒を飲ませ、厚く酬いた。大夫にもみな贈り物があった。酔って送り、夜半に発たせた。伯姬を平陽から車に載せて行った。西門に至って副車を返して西圃から祏(宗廟の石室の主)を取らせた。
  • 子伯季子はもと孔氏の臣で、新たに公に仕えるようになっていた。追うことを請い、祏を載せた者に遇って殺し、その車に乗った。許公為が祏を取り返しに来て遇い、「不仁の人と争えば、明らかに勝たぬはずがない」と言い、必ず先に射させた。三たび射たがみな外れた。許為が射て倒した。ある者がその車で従い、袋の中から祏を得た。孔悝は宋へ亡命した。
  • 衞侯が夢を占わせた。嬖人が大叔僖子に酒を求めて得られず、卜人と結託して公に「君には大臣が西南の隅におります。除かねば害を懼れます」と告げた。そこで大叔遺を追い、遺は晉へ亡命した。
  • 衞侯が渾良夫に「私は先君を継いだのにその器を得られぬ。どうしたものか」と言った。良夫は火を持つ者に代わって進み出て言った。「疾も亡君(輒)もみな君の子です。召して才ある者を択ばれてよろしい。才がなければ器は得られましょう」。下僕が太子に告げ、太子は五人に豚を輿に載せて従わせ、公を脅して強いて盟わせ、あわせて良夫を殺すことを請うた。公は「彼は盟って三度の死を免れている」と言った。「三度の後に罪があれば殺すことを請います」と言い、公は「よろしい」と言った。

哀公十七年(前478年)

  • 春、衞侯が藉圃に虎の帳を作った。落成し、よい名のある者を求めてともに初めて食事をしようとした。太子は良夫を遣わすことを請うた。良夫は二頭立ての衷甸に乗り、紫衣に狐裘で至り、裘を肌脱ぎにし、剣を解かずに食べた。太子は引き立てて退かせ、三つの罪を数えて殺した。
  • 晉の趙鞅が衞に告げさせた。「君が晉におられたとき、志父が主となった。君かまたは太子が来られることを請う。そうすれば志父は免れる。そうでなければ寡君は志父のせいだと言うだろう」。衞侯は難を理由に断り、太子がまた讒言を加えた。
  • 夏六月、趙鞅が衞を囲んだ。齊の國觀と陳瓘が衞を救った。晉人の挑戦者を捕らえ、子玉(陳瓘)は服を着せて会い、「國子がまことに齊の権柄を執り、瓘に『晉軍を避けるな』と命じられた。どうして命を廃せよう。あなたはまた何を辱められるのか」と言った。簡子は「私は衞を討つことは卜ったが、齊と戦うことは卜っていない」と言い、そこで引き返した。
  • 衞侯は北宮で夢を見た。人が昆吾の観に登り、髪を振り乱して北を向き叫び、「この昆吾の廃墟に登る。綿々と瓜が生ずる。余は渾良夫、天に叫ぶ、罪なきを」と言った。公が自ら筮い、胥彌赦が占って「害はありません」と言ったが、邑を与えられると、それを捨てて宋へ逃げた。衞侯が改めて卜すると、その繇に「魚が尾を赤くし、流れを横切ってさまよう。果ては大国がこれを滅ぼす。滅びようとするとき、門を閉じ穴を塞ぐ。そこで後ろから越える」とあった。
  • 冬十月、晉が改めて衞を討ち、その外郭に入った。城に入ろうとすると簡子は「やめよ。叔向の言に『乱に乗じて国を滅ぼす者に後はない』とある」と言った。衞人は莊公を追い出して晉と和睦した。晉は襄公の孫の般師を立てて引き上げた。
  • 十一月、衞侯が鄄から入り、般師は出た。はじめ公が城に登って望み、戎州を見て問い、告げられると「我らは姫姓だ。どうして戎があってよいか」と言い、これを削った。公が匠人を長く使役した。公が石圃を追おうとしてまだ及ばぬうちに難が起こった。辛巳、石圃が匠氏によって公を攻めた。公は門を閉じて助命を請うたが許されず、北の方から越えて落ち、股を折った。戎州の人が攻めた。太子疾と公子青が越えて公に従ったが、戎州の人が殺した。公は戎州の已氏のもとに入った。
  • はじめ公は城の上から已氏の妻の髪が美しいのを見て、剃らせて呂姜の髢とした。入ってから璧を示し「私を生かせ。お前に璧をやろう」と言った。已氏は「お前を殺せば璧はどこへ行く」と言い、そのまま殺して璧を取った。
  • 衞人は公孫般師を復して立てた。十二月、齊人が衞を討った。衞人が和を請い、公子起を立てた。齊は般師を捕らえて帰り、潞に置いた。

哀公十八年(前477年)

  • 夏、衞の石圃がその君の起を追った。起は齊へ亡命した。衞侯輒が齊から復帰し、石圃を追って石魋と大叔遺を復した。

哀公二十五年(前470年)

  • 夏五月庚辰、衞侯が宋へ亡命した。
  • 衞侯が藉圃に靈臺を作り、諸大夫と酒を飲んだ。褚師聲子が襪のまま席に登り、公が怒った。辞退して「臣には病があって人と違います。もし御覧になれば君は嘔吐なさろう。それで敢えていたしません」と言った。公はいっそう怒った。大夫が取りなしたが聞かず、褚師が出ると、公は手を戟のように振り上げて「必ずお前の足を切る」と言った。褚師はこれを聞いて司寇の亥と同乗し、「今日は幸いだった。その後に亡命だ」と言った。
  • 公が入国したとき南氏の邑を奪い、司寇亥の職を奪った。公は寺人に公文懿子の車を池に投げ込ませた。はじめ衞人が夏丁氏を削り、その家財を彭封彌子に賜った。彌子が公に酒を飲ませ、夏戊の娘を納れた。寵愛して夫人とした。その弟の期は大叔疾の従孫の甥で、幼いころから公に養われ、司徒とされた。夫人の寵が衰えると期は罪を得た。公は三匠を長く使役し、優狡に拳彌と盟わせて甚だ近づけ信じた。
  • それゆえ褚師比・公孫彌牟・公文要・司寇亥・司徒期が三匠と拳彌を頼んで乱を起こした。みな鋭い武器を執り、ない者は斧を執った。拳彌を公宮に入れ、太子疾の宮から鬨の声を上げて公を攻めた。鄄子士が防ぐことを請うと、彌はその手を押さえて「あなたは勇ではあるが、君をどうするのか。先君を御覧にならぬか。君はどこにいても欲を遂げられぬことはない。しかも君はかつて外におられた。必ず帰らぬとは限らぬ。いまは戦えぬ。衆の怒りは犯し難く、休ませればつけ入りやすい」と言った。
  • そこで出た。蒲へ行こうとすると彌は「晉には信がない。なりません」と言い、鄄へ行こうとすると「齊と晉が我らを争う。なりません」と言い、泠へ行こうとすると「魯は与するに足りません。城鉏へ行って越と結ばれることを請う。越には君があります」と言った。そこで城鉏へ行った。彌は「衞の盗は測り難い。速やかに私から先に発つことを請う」と言い、そのまま宝器を載せて衞へ帰った。
  • 公は支離の兵を編み、祝史の揮を頼んで衞を侵した。衞人はこれに苦しんだ。懿子はそれを知り、子之に会って揮を追うことを請うた。文子は「罪はない」と言った。懿子は「彼は利を専らにするのを好み、妄りである。君が入られるのを見れば先導しよう。追えば必ず南門から出て君のもとへ行く。越は新たに諸侯を得た。必ず師を請うだろう」と言った。揮は朝廷にいた。吏を遣わしてその家へ送り帰らせた。揮が出て二晩、内に入れず、五日目に外里に泊まらせた。そこで寵を得て、越へ遣わして師を請わせた。

哀公二十六年(前469年)

  • 夏五月、叔孫舒が師を率い、越の臯如・后庸、宋の樂茷と会して衞侯を納れようとした。文子は納れようとしたが、懿子は「君は情強くて虐い。しばらく待てば必ず民を毒し、そこで君も我らと睦むだろう」と言った。
  • 師が外州を侵して大いに獲た。出て防いだが大敗した。褚師定子の墓を掘って平莊の上で焼いた。文子は王孫齊にひそかに臯如へ「あなたは大いに衞を滅ぼされるのか、それとも君を納れるだけか」と言わせた。臯如は「寡君の命は他でもない。衞君を納れるだけだ」と言った。
  • 文子は衆を集めて問い、「君が蛮夷をもって国を討ち、国はほとんど亡ぶ。納れることを請う」と言った。衆は「納れるな」と言った。「彌牟が亡命して益があるなら、北門から出ることを請う」と言うと、衆は「出るな」と言った。
  • 重く越人に賄賂を贈り、改めて城壁を開いて守りを固めたうえで公を納れることにしたが、公はあえて入らず、師は引き上げた。悼公を立て、南氏が相となり、城鉏を越人に与えた。
  • 公は「期がこれをしたのだ」と言い、「もし夫人に怨みのある者があれば報いよ」と令した。司徒期が越を聘問すると、公は攻めて礼物を奪った。期が王に告げると、王は取り返すよう命じ、期は衆をもって取り返した。公は怒って期の甥で太子となっていた者を殺し、そのまま越で卒した。

  • 衞の出公が城鉏から弓を贈って子貢に問い、「私は入国できるだろうか」と言った。子貢は稽首して弓を受け、「臣には分かりません」と答えた。ひそかに使者に言った。「昔、成公が陳に亡命したとき、寗武子と孫莊子が宛濮の盟を行って君は入られた。獻公が齊に亡命したとき、子鮮と子展が夷儀の盟を行って君は入られた。いま君は再び亡命しておられる。内には獻公のときの親族もなく、外には成公のときの卿もない。賜には入られる筋道が分かりません。詩に『競うことなきはただ人、四方これに順う』とあります。もしその人を得られれば、四方が主とし、国が何ほどのことでしょう」。

史論(士竒)

  • 衞の襄公に嫡子がなく、公孟縶は足の障りで退けられて靈公が立った。康叔の告げが符合したのは偶然でもあるまい。しかし靈公が靈たるゆえんを思えば、縶よりどれほど優れていたか。
  • 齊豹の乱ではその兄が殺され、自身も死鳥まで落ちのびる辱めを受け、辛うじて復帰できた。豹は北宮氏に誅されたが、公子朝・褚師圃・子玉霄・子髙魴は正しく処刑されず、賊を逃した。侵し貪って飽くことなく、代々の臣に富を懼れさせたのは寒心すべきである。
  • 宣姜の禍を身に経ながらなお戒めを知らず、帷房の愛に溺れ、艾豭の歌に嘲られ、蒯聵と輒の人倫に背く事はここに芽生えた。公叔戍が夫人の一党を除こうとすると一言で追われた。靈公ほど昏く悖った君が国を失わずに済んだのは、幸運にすぎない。
  • 南子は淫らではあったが、蒯聵が殺してよい相手ではない。蒯聵は罪を得て出、すでに嗣籍を絶たれていた。しかし靈公は公子郢を立てようとし、郢は「亡人の子の輒がおります」と言った。夫人は蒯聵を怨んでいてもこれを非とせず、そのまま輒を立てた。輒が亡人の子であることで廃されなかったのなら、どうして亡人であることを理由に父を拒めよう。
  • 輒たる者は、まことに嗣位の初めに涙して夫人に請い、「もし蒯聵を罪ありとされるなら、輒はもとより罪人の子です。どうして君となれましょう。もし輒を罪なしとされるなら、亡人は異国にあって赦されておりません。輒はただ一死をもって亡人に謝するのみです。天下にどうして父のない子がありましょう」と言うべきであった。南子がその仁孝に感じて黄泉に至るまでの和解を図らぬとどうして分かろう。
  • それを厳然としてその位に立ち、烏の反哺の情を断つばかりか、まさしく寇讐を防ぐように父を拒んだ。人の子たる者がそうしてよいものか。
  • そもそも蒯聵は立たずとも、衞国を撫するのはその子である。先君の祀は廃れず、民に主がなくなるわけでもない。蒯聵もまた菟裘に隠居して老いることができた。子が国に拠って父がこれを争うなど、古今の大愚でなければ決してしない。
  • 渾良夫は姦邪な下僕である。それに結んで入国を求めた。人の心ある者なら、天下を禄としても行わぬ。まして一国、まして我が子の国においてをや。どんな顔で周に告げたのか分からぬし、周もまた蔭でこそこそと命じたのである。
  • 已氏に斃れてついに北宮の夢の占いに符合し、城鉏で頓挫して越で魂を返せなかった。国が何ほどのものか。ただ肉親の情を互いに損ない、虎狼にも劣った。ゆえに輒が父を拒んだ罪は誅を免れぬが、蒯聵もまた過ちなしとはいえない。その源をたどれば靈公が南子を寵したことに始まる。ああ、戒めずにおれようか。