左傳紀事本末衛の孫氏・寗氏の廃立(衛孫寗廢立)
衞の孫氏(孫林父)と寗氏(寗殖・寗喜)が君を廃し立てた顛末を、成公七年(前584年)から昭公七年(前535年)まで扱う篇。定公が孫林父を憎んで亡命させ、定姜の諫めで復帰させたが、獻公が鴻を射たまま二人を待たせた無礼から孫文子が叛き、獻公は齊へ逃れて公孫剽が立てられた。寗惠子は臨終に「その君を追い出した」と策に記されたことを悔い、子の悼子が獻公の復位を図って剽と太子角を殺した。獻公は復帰後、約を破って寗喜を誅し、子鮮は生涯仕えなかった。師曠が晉侯に「君こそ甚だしい」と答え、天が君に副を置く意を説く一段を含む。
年表(12件)
- 成公七年前584年定公が孫林父を憎み、林父が晉へ亡命して晉が戚を返す
- 成公十四年前577年定姜の諫めで孫林父を復帰させ、定公が卒して衎が立つ
- 襄公七年前566年孫文子が君を越えて階を登り、穆叔がその滅びを予言する
- 襄公十四年前559年孫文子が叛いて獻公が齊へ亡命し、師曠が君を追い出す是非を論ずる
- 襄公十九年前554年石共子が卒し、悼子が哀しまぬのを孔成子が咎める
- 襄公二十年前553年寗惠子が臨終に君を追い出した名を策に残したことを悔いる
- 襄公二十五年前548年獻公が夷儀に入り、寗喜と話をつけて大叔文子に危ぶまれる
- 襄公二十六年前547年寗喜が剽と太子角を殺し、獻公が復帰して晉に捕らえられる
- 襄公二十七年前546年免餘が寗喜と右宰穀を殺し、子鮮が晉へ去って生涯仕えない
- 襄公二十八年前545年寗氏の一党を討ち、石惡が晉へ亡命して従子の圃が祀を守る
- 襄公二十九年前544年季札が戚で鐘の音を咎め、孫文子が生涯琴瑟を聴かなくなる
- 昭公七年前535年衞の襄公が卒し、晉が獻子を弔問に遣わして戚の田を返す
成公七年(前584年)
- 衞の定公が孫林父を憎んだ。冬、孫林父は晉へ亡命した。衞侯が晉へ行き、晉は戚を返した。
成公十四年(前577年)
- 春、衞侯が晉へ行った。晉侯は強いて孫林父に会わせようとしたが、定公は承知しなかった。
- 夏、衞侯が帰ってから、晉侯は郤犫に孫林父を送らせて会わせようとした。衞侯は断ろうとしたが、定姜は「なりません。これは先君の宗卿の嗣です。大国がまた取りなしている。許さねば滅びましょう。憎んでいても、滅びるよりましではありませんか。君は忍ばれよ。民を安んじ宗卿を宥すのも、よいではありませんか」と言った。衞侯は会って復帰させた。
- 衞侯が病んだ。孔成子と寗惠子に敬姒の子の衎を太子に立てさせた。冬十月、衞の定公が卒した。夫人姜氏は哭を終えて休み、太子が哀しんでいないのを見て、飲み物も口にせず嘆じて言った。「この男はやがて衞国を敗るだけでなく、必ずこの未亡人から始めよう。ああ、天が衞国に禍したのだ。私は鱄を得られず、社稷を主らせられなかった」。大夫はこれを聞いて懼れぬ者はなかった。孫文子はこれ以来、その重器を衞に置かず、ことごとく戚に置き、晉の大夫と甚だ善くした。
襄公七年(前566年)
- 衞の孫文子が聘問に来て、武子の言葉に謝し、孫桓子の盟を継いだ。襄公が階を登ると自分も登った。叔孫穆子が相となり、小走りに進んで「諸侯の会で寡君は衞君に後れたことがありません。いまあなたは寡君に後れられぬ。寡君はどこに過ちがあるか分かりません。あなたはしばらくお控えを」と言った。孫子は詫びもせず改める様子もなかった。
- 穆叔は「孫子は必ず滅びる。臣でありながら君を越え、過ちを改めぬのは滅びの本である。詩に『公より退いて食し、委蛇委蛇たり』とあるのは従う者をいう。横柄でありながら委蛇とすれば必ず折れる」と言った。
襄公十四年(前559年)
- 衞の獻公が孫文子と寗惠子に食事の触れを出した。二人とも礼服で朝に出たが、日が暮れても召されず、公は囿で鴻を射ていた。二人が従うと、公は皮の冠も脱がずに語りかけた。二人は怒った。
- 孫文子は戚へ行った。孫蒯が入り、公は酒を飲ませ、太師に巧言の卒章を歌わせようとした。太師は辞退したが、師曹が自分がやると請うた。
- はじめ公に寵妾があり、師曹に琴を教えさせたが、師曹が鞭打ったので、公は怒って師曹を三百打った。だから師曹はこれを歌って孫子を怒らせ、公に報いようとしたのである。公が歌わせると、そのまま誦した。
- 蒯は懼れて文子に告げた。文子は「君は私を忌まれた。先手を打たねば必ず死ぬ」と言い、妻子を戚に集めてから入り、蘧伯玉に会って「君の暴虐はあなたもご存じ。社稷が傾き覆ることを大いに懼れる。どうしたものか」と言った。「君はその国を制し、臣があえて犯せましょうか。犯したところで、よくなると分かりましょうか」と答え、そのまま去って近い関から出た。
- 公は子蟜・子伯・子皮に丘宮で孫子と盟わせようとしたが、孫子はみな殺した。四月己未、子展が齊へ亡命した。公は鄄へ行き、子行を孫子のもとへ遣わしたが、孫子はこれも殺した。公は齊へ亡命した。孫氏が追って阿澤で公の徒を破り、鄄の人が捕らえた。
- はじめ尹公佗は庾公差に射を学び、庾公差は公孫丁に学んだ。二人が公を追った。公孫丁が公の車を御した。子魚(庾公差)は「射れば師に背き、射なければ戮される。射て礼としよう」と言い、軛の両端を射て引き返した。尹公佗は「あなたにとっては師だが、私には遠い」と言い、そこで引き返した。公孫丁は公に轡を渡して射、腕を貫いた。
- 子鮮が公に従い、国境に至って、公は祝宗に亡命を告げさせ、あわせて無罪を告げさせようとした。定姜は「神がなければ何を告げるのか。あるなら偽れぬ。罪があるのに、どうして無罪を告げるのか。大臣を措いて小臣と謀ったのが一つの罪。先君に冢卿があって師保としたのにこれを蔑ろにしたのが二つ目の罪。私は巾櫛をもって先君に仕えたのに、私を妾のように乱暴に使ったのが三つ目の罪。亡命を告げるだけにせよ。無罪を告げるな」と言った。
- 襄公は厚成叔を遣わして衞を弔わせ、「寡君は瘠に、君が社稷を撫せず他国におられると聞いたので、どうして弔わずにおれようと申されました。同盟のゆえに瘠にひそかに執事へ申し上げさせます。君に恵みなく、臣に敏さがない。君が赦し宥さず、臣もまた職を率いず、淫らを増して漏らす。どうされるおつもりか」と言わせた。
- 衞人は大叔儀に答えさせた。「群臣は不才にして寡君に罪を得ました。寡君は刑に処さずに悼み棄てて、君の憂いとなっております。君は先君の好誼を忘れず、辱くも群臣を弔い、そのうえ重ねて憐れまれる。あえて君命の辱めに拝し、重ねて大きな賜物に拝します」。
- 厚孫は帰って復命し、臧武仲に語った。「衞君は必ず帰るだろう。大叔儀があって守り、同母弟の鱄があって出ている。ある者は内を撫し、ある者は外を営む。帰らずにおれようか」。
- 齊人は郲を衞侯に貸した。復帰するとき郲の糧を持ち帰った。右宰の穀が従っていて逃げ帰った。衞人が殺そうとすると、辞退して「私は初めから喜んでいなかった。私は狐の裘に羔の袖だ」と言った。そこで赦した。
- 衞人は公孫剽を立て、孫林父と寗殖が相となって諸侯の命を聴いた。
- 衞侯が郲にいたとき、臧紇が齊へ行って衞侯を慰問した。衞侯の言葉は乱暴であった。退いてその家人に「衞侯は入れまい。その言は糞土のようだ。亡命してなお変わらぬ。何をもって国に復せよう」と告げた。子展と子鮮がこれを聞いて臧紇に会って語った。道理があった。臧孫は喜び、家人に「衞君は必ず入る。あの二人が、ある者は引き、ある者は押す。入らずにおれようか」と言った。
- 師曠が晉侯に侍していた。晉侯が「衞人がその君を追い出したのは甚だしいのではないか」と言うと、こう答えた。
- 「あるいはその君こそまことに甚だしいのです。良い君は善を賞し淫を刑し、民を子のように養い、天のように覆い、地のように容れる。民はその君を奉じて父母のように愛し、日月のように仰ぎ、神明のように敬い、雷霆のように畏れる。追い出せましょうか。そもそも君は神の主であり民の望みです。民の主を困らせ、神を乏しくし祀を絶やし、百姓が望みを絶ち社稷に主がなければ、何に用いましょう。去らずして何としましょう。
- 天が民を生んで君を立てたのは、これを司牧させてその性を失わせぬためです。君があってその副を置き師保とさせるのは、度を過ぎさせぬためです。それゆえ天子に公があり、諸侯に卿があり、卿は側室を置き、大夫に貳宗があり、士に朋友があり、庶人・工商・皂隷・牧圉にもみな親しい者があって互いに輔佐する。善ければ賞し、過てば匡し、患えれば救い、失えば改める。王より下、それぞれ父子兄弟があってその政を補い察する。史は書を作り、瞽は詩を作り、工は箴諫を誦し、大夫は規誨し、士は言を伝え、庶人は謗り、商旅は市で語り、百工は技を献ずる。だから夏書に『遒人が木鐸をもって路に触れ、官師は互いに規し、工は技事をもって諫める』とあり、正月孟春にこれがある。常を失うことを諫めるためです。天が民を愛することは甚だしい。どうして一人に民の上で恣にさせ、その淫らに従って天地の性を棄てさせましょう。必ずそうではありません」。
- 晉侯が中行獻子に衞のことを問うと、「因ってこれを定めるに如きません。衞にはもう君がおります。討っても志を得られず、諸侯を労するだけです。史佚の言に『重きに因ってこれを撫す』とあり、仲虺の言に『亡ぶ者は侮り、乱れる者は取る。亡を推し存を固めるのが国の道である』とあります。君は衞を定めて時を待たれてはどうか」と答えた。冬、戚で会し、衞を定めることを謀った。
襄公十九年(前554年)
- 衞の石共子が卒した。悼子は哀しまなかった。孔成子は「これをその本を倒すという。必ずその宗を保てまい」と言った。
襄公二十年(前553年)
- 衞の寗惠子が病み、悼子を召して言った。「私は君に罪を得た。悔いても及ばぬ。名は諸侯の策に蔵されて『孫林父と寗殖がその君を追い出した』とある。君が入ればそれを覆える。もし覆えるなら、お前は私の子である。できぬなら、なお鬼神がある。私は餓えるだけで、来て食べることはあるまい」。悼子は承知し、惠子はそのまま卒した。
襄公二十五年(前548年)
- 晉侯が魏舒と宛沒を遣わして衞侯を迎え、衞に夷儀を与えさせようとした。崔子がその妻子を留めて五鹿を求めた。
- 衞の獻公が夷儀に入った。
- 衞の獻公は夷儀から寗喜と話をつけさせ、寗喜は承知した。大叔文子はこれを聞いて言った。「ああ、詩にいう『我が躬すら容れられぬのに、いずくんぞ我が後を恤わん』とは、寗子はその後を憂えぬ者といえる。それでよいものか。おそらく必ずよくない。君子の行いはその終わりを思い、その繰り返しを思う。書に『始めを慎み終わりを敬めば、終いに困しまぬ』とあり、詩に『夙夜懈らず、もって一人に事う』とある。いま寗子は君を碁ほどにも見ていない。どうして免れよう。碁を打つ者が石を挙げたまま定まらねばその相手に勝てぬ。まして君を置いて定まらぬのでは。必ず免れまい。九世の卿族を一挙に滅ぼす。哀しいことだ」。
襄公二十六年(前547年)
- 衞の獻公は子鮮に復位の交渉をさせようとした。敬姒が強いて命じた。「君に信がありません。臣は免れぬことを懼れます」と答えた。敬姒は「そうであっても、私のためだ」と言い、承知した。
- はじめ獻公が寗喜と話をつけさせようとしたとき、寗喜は「必ず子鮮が加わってこそ。そうでなければ必ず敗れる」と言った。だから公は子鮮を遣わしたのである。子鮮は敬姒の命を辞退できず、公の命として寗喜に「もし帰れれば、政は寗氏による。祭は寡人がする」と言った。
- 寗喜が蘧伯玉に告げると、伯玉は「瑗は君が出られたことを聞けなかった。どうして入られることを聞けましょう」と言い、そのまま去って近い関から出た。
- 右宰の穀に告げると、右宰の穀は「なりません。両方の君に罪を得れば、天下の誰が畜いましょう」と言った。悼子(寗喜)は「私は先人から命を受けた。二心を抱けぬ」と言った。穀は「私が使いして様子を見てまいります」と言い、そのまま夷儀で公に会った。帰って「君は外で憂苦されて十二年、それでいて憂色もなく寛やかな言葉もない。相変わらずの人です。やめられねば、死ぬ日も遠くありません」と言った。悼子は「子鮮がいる」と言った。右宰の穀は「子鮮がいて何の益がありましょう。多くて亡命できるだけ。我らに何をしてくれましょう」と言った。悼子は「そうであっても、やめるわけにいかぬ」と言った。
- 孫文子は戚におり、孫嘉は齊を聘問し、孫襄が留守を守っていた。二月庚寅、寗喜と右宰の穀が孫氏を討ったが勝てず、伯國(孫襄)が傷ついた。寗子は出て郊に宿った。伯國が死に、孫氏が夜に哭した。国人が寗子を召し、寗子は改めて孫氏を攻めて勝った。辛卯、子叔(公孫剽)と太子角を殺した。経に「寗喜その君剽を弑す」と書いたのは、罪が寗氏にあることをいう。
- 孫林父は戚をもって晉へ行った。経に「戚に入りて叛く」と書いたのは孫氏を罪としたのである。臣の禄はまことに君の持ち物である。義があれば進み、なければ身を奉じて退く。禄を専らにして立ち回るのは戮せられるべきである。
- 甲午、衞侯が入った。経に「復歸」と書いたのは、国が納れたからである。国境で迎えた大夫にはその手を執って語り、道で迎えた者には車から会釈し、門で迎えた者には頷いただけであった。
- 公は至って大叔文子を責めさせ、「寡人は外で憂苦して久しく、皆が寡人に朝夕衞国の言葉を聞かせてくれた。あなただけが寡人のもとにいなかった。古人の言に『怨むべきでないものを怨むな』とあるが、寡人は怨んでいる」と言った。
- 答えて言った。「臣は罪を知っております。臣は不才にして手綱を負って従い牧圉を守れませんでした。臣の罪の一つ。出る者があり留まる者があるのに、臣は二つながらできず、内外の言葉を通じて君に仕えられませんでした。臣の罪の二つ。二つの罪があって、どうしてその死を忘れましょう」。そのまま去って近い関から出た。公は止めさせた。
- 衞人が戚の東の辺境を侵した。孫氏が晉に訴え、晉は茅氏を守った。殖綽が茅氏を討って晉の守備兵三百人を殺した。孫蒯が追ったがあえて撃たなかった。文子は「厲鬼にも及ばぬ」と言った。そこで衞軍を追い、圉で破り、雍鉏が殖綽を捕らえた。改めて晉に訴えた。
- 晉人は孫氏のゆえに諸侯を召し、衞を討とうとした。夏、中行穆子が聘問に来た。襄公を召したのである。
- 六月、襄公が晉の趙武・宋の向戌・鄭の良霄・曹人と澶淵で会し、衞を討った。戚の田の境を定め、衞の西境の懿氏六十を取って孫氏に与えた。趙武を書かないのは襄公を尊んだからであり、向戌を書かないのは遅れたからであり、鄭を宋より先にしたのは所を失わなかったからである。このとき衞侯が会に加わった。晉人は寗喜と北宮遺を捕らえ、女齊に先に帰らせた。衞侯が晉へ行くと、晉人は捕らえて士弱の家に囚えた。
- 秋七月、齊侯と鄭伯が衞侯のために晉へ行った。晉侯はあわせて饗応した。晉侯が嘉樂を賦し、國景子が齊侯の相として蓼蕭を賦し、子展が鄭伯の相として緇衣を賦した。叔向は晉侯に二君へ拝するよう命じ、「寡君はあえて、齊君が我が先君の宗祧を安んじられたことに拝し、あえて鄭君が二心を抱かれぬことに拝します」と言わせた。
- 國子は晏平仲にひそかに叔向へ「晉君はその明徳を諸侯に宣べ、その患いを憐れんでその欠けを補い、その違いを正してその煩わしさを治めてこそ盟主です。いま臣のために君を捕らえられる。どうされるのか」と言わせた。叔向は趙文子に告げ、文子は晉侯に告げた。晉侯が衞侯の罪を述べ、叔向に二君へ告げさせた。國子が轡之柔矣を賦し、子展が將仲子兮を賦した。晉侯はそこで衞侯を帰すことを許した。叔向は「鄭の七穆のうち罕氏が最後に滅びる家であろう。子展は倹にして一である」と言った。
- 衞人が衞姫を晉に納れ、そこで衞侯を釈放した。君子はこれによって平公が政を失ったことを知った。
襄公二十七年(前546年)
- 衞の寗喜が政を専らにし、公は患えた。公孫免餘が殺すことを請うた。公は「寗子がいなければここまで来られなかった。私は彼と約した。事は分からぬが、ただ悪名を成すだけだ。やめよ」と言った。「臣が殺します。君は与り知られますな」と答えた。
- そこで公孫無地・公孫臣と謀って寗氏を攻めさせたが、勝てずにみな死んだ。公は「臣に罪はない。父子が私のために死んだ」と言った。
- 夏、免餘が改めて寗氏を攻め、寗喜と右宰の穀を殺し、その屍を朝に晒した。石惡は宋の盟に会するため命を受けて出るところであったが、その屍に衣を着せ、股に枕させて哭し、斂して亡命しようとしたが、免れぬことを懼れ、しかも「命を受けている」と言い、そこで出発した。
- 子鮮は「私を追い出した者が出、私を入れた者が死ぬ。賞罰に定めがなくて、何をもって沮み勧めよう。君が信を失い国に刑がなければ、難しいのではないか。しかも鱄がまことにそうさせたのだ」と言い、そのまま晉へ亡命した。公が止めさせたが承知せず、河に至ってまた止めさせたが、使者を留めて河で盟い、木門に身を寄せ、衞国のほうを向いて座らなかった。木門の大夫が仕えることを勧めたが承知せず、「仕えてその事を廃すれば罪である。従えば私が出た理由を明らかにすることになる。誰に訴えよう。私は人の朝廷に立つわけにいかぬ」と言い、生涯仕えなかった。公はこれを喪って稅服(軽い喪服)を着るように、生涯悼んだ。
- 公は免餘に邑六十を与えたが、辞退して「ただ卿だけが百邑を備えます。臣はすでに六十あります。下の者が上の禄を持つのは乱です。臣はあえて承れません。しかも寗子は邑が多かったから死んだ。臣は死が速やかに及ぶことを懼れます」と言った。公が固く与えたので、その半分を受け、少師とした。公が卿にしようとすると、辞退して「大叔儀は二心を抱かず、大事を助けられます。君は彼に命ぜられよ」と言った。そこで文子を卿とした。
襄公二十八年(前545年)
- 衞人が寗氏の一党を討った。それゆえ石惡は晉へ亡命した。衞人はその従子の圃を立てて石氏の祀を守らせた。礼にかなう。
襄公二十九年(前544年)
- 呉の公子札が聘問に来た。衞へ行き、衞から晉へ行こうとして戚に宿ろうとした。鐘の音を聞いて「異なことだ。私は聞いている、弁があって徳がなければ必ず戮を加えられると。あの方は君に罪を得てここにいる。君はまた殯中である。楽しんでよいものか」と言い、そのまま去った。文子はこれを聞いて生涯琴瑟を聴かなかった。
昭公七年(前535年)
- 秋八月、衞の襄公が卒した。晉の大夫が范獻子に言った。「衞が晉に仕えるのは睦まじい。晉が礼遇せず、その賊人を庇ってその地を取ったので諸侯は二心を抱いた。詩に『䳭鴒は原に在り、兄弟は難に急ぐ』とあり、また『死喪の威、兄弟孔だ懐う』とある。兄弟が睦まじくないと、そこで弔わぬ。まして遠い人は誰があえて帰しましょう。いままた衞の嗣君に礼せぬ。衞は必ず我らに叛く。これは諸侯を絶つことです」。獻子は韓宣子に告げ、宣子は喜んで、獻子を衞へ弔問に遣わし、あわせて戚の田を返させた。
史論(士竒)
- 定姜が衞の衎の三つの罪を数え、師曠が平公に君を追い出すことを答えた説を見れば、衎が自ら衞に絶たれたのは孫氏・寗氏の過ちだけではない。
- しかし人臣は君がいかに無道でも、必ず股肱の力を尽くし忠貞を加え、繕い匡し救い、ついに改まらぬところまで来てはじめて身を退く。その宗老大臣が社稷の存亡のゆえに遠く退けぬ場合も、必ず処し方の道がある。桐宮への放と昌邑王の廃は、やむを得ぬ権である。
- 林父は定姜の嘆きを聞くとすぐ重器を戚に置き、晉の大夫と甚だ善くした。これは明らかに戚を狡兎の窟とし、晉を叛主の援けとするもので、仕える相手への忠が一念もない。林父が魯を聘問したとき、公が登ると自分も登って叔孫穆子に咎められ、詫びもせず改める様子もなかった。その跋扈して臣たらぬ気はすでに現れており、君を追い出すまで止まなかった。これから見れば、どうして「その君こそまことに甚だしい」といえよう。
- まして衎が亡命して復帰したのは、義において絶えていない。大叔儀があって守り、同母弟の鱄があって出、ある者は内を撫しある者は外を営み、隣国の大夫がみな必ず帰ると知っていた。とすれば衎が無道でも孫氏・寗氏が追い出せる相手ではなかった。
- 寗殖は悪名が策にあることを懼れ、没するときその子に復位を託して「もし覆えるならお前は私の子だ。できぬなら鬼神がある。私は餓えるだけだ」と言った。その言は甚だ痛ましい。しかし、では衞の剽をどうするつもりだったのか。衎を追い出したのは一人の君に罪を得たにすぎぬが、剽を弑せば二人の君に罪を得る。碁石を挙げて慎まなかった悔いを終わりに抱くくらいなら、始めに審らかにするに如くはない。もしこれを殖に問えば、殖はやはり餓えたであろう。
- 寗喜は臨終の言を承け、晩年に覆おうとして子鮮の信を頼み、必ず信じられぬ昏主に僥倖を求めた。その身を殺したのにも理由がある。
- そもそも君が君である所以は政である。いま「政は寗氏による。祭は寡人がする」というのは、ただ虚位を抱くだけで、束縛され幽囚されるようなもの。君となることの何を取るのか。その言葉からしてすでに信じられなかった。ついに寗氏を殺し、子鮮に友を売った悔いを抱かせ木門に身を隠させた。これは誰の過ちか。
- 林父は非を通して悪を熟させ、禄を盗んで君に叛いた。晉は盟主でありながらかえってその炎を助けた。これもまた君父の大義を知らぬものである。最後に戚を返せたのは、なお過ちをよく補ったというべきである。