左傳紀事本末寗武子、晉の難を鎮める(寗武子弭晉難)

衞の成公が晉の文公と対立して国を追われ、周に囚われ毒殺されかけたところを、寗武子(寗俞)が支え通して復位させるまでを扱う篇。僖公二十三年(前637年)から文公四年(前623年)まで。城濮の役の後、衞人は成公を追い出して晉に釈明し、成公は楚から陳へ逃れた。宛濮の盟で国人を和した寗武子は、期日を待たず先に入った成公が叔武を殺す悲劇にも従い続けた。成公が元咺と訴訟して敗れ京師の深室に囚われると、寗俞は食を届け、医者に賄賂を贈って毒を薄めさせ、僖公の取りなしで釈放された。文公四年(前623年)、寗武子は魯を聘問し、湛露と彤弓を賦されて辞退した。

年表(7件)

僖公二十三年(前637年)

  • 晉の公子重耳が難に遭ってそのまま狄へ亡命した。衞を通ったが衞の文公は礼遇しなかった。五鹿を出て野人に食を乞うと、野人は土塊を与え、公子は怒った。

僖公二十四年(前636年)

  • 春正月、秦伯が重耳を入国させた。

僖公二十八年(前632年)

  • 春、晉侯が衞を討って五鹿を取った。晉侯と齊侯が斂盂で盟った。衞侯が盟を請うたが晉人は許さなかった。衞侯は楚に与しようとしたが国人が望まず、その君を追い出して晉に釈明した。衞侯は出て襄牛に居した。
  • 公子買が衞を守った。楚人が衞を救ったが果たせなかった。
  • 夏四月戊辰、晉侯・宋公・齊の國歸父・崔夭・秦の小子憗が城濮に陣した。己巳、晉軍が莘の北に陣し、楚軍は大敗した。衞侯は楚軍が敗れたと聞いて懼れ、楚へ亡命し、そのまま陳へ行き、元咺に叔武を奉じて盟を受けさせた。
  • ある者が元咺を衞侯に訴えて「叔武を立てました」と言った。その子の角が公に従っていたので、公は殺させた。咺は命を廃さず、夷叔(叔武)を奉じて入り守った。
  • 六月、晉人が衞侯を復した。寗武子は衞人と宛濮で盟って言った。「天が衞国に禍を下し、君臣が和さずこの憂いに至った。いま天がその心を誘い、みな心を降して互いに従うようにさせられた。留まる者がなければ誰が社稷を守り、行く者がなければ誰が牧圉を守ろう。和さなかったゆえに、明らかに汝ら大神に盟を乞い、天の心を導く。今日より後、盟った後は、行った者はその力を誇らず、留まった者はその罪を懼れぬ。この盟に背いて互いに害することがあれば、明神と先君がこれを糺し誅する」。国人はこの盟を聞いてから二心を抱かなくなった。
  • 衞侯が期日より先に入った。寗子が先に立ち、長牂が門を守っていて使者と思い、ともに乗って入った。公子歂犬と華仲が前駆した。叔武は髪を洗おうとしていたが、君が至ったと聞いて喜び、髪を掴んだまま走り出た。前駆が射て殺した。公はその無罪を知り、股に枕させて哭した。歂犬が走って出ると、公は殺させた。元咺は晉へ亡命した。
  • 冬、衞侯が元咺と訴訟した。寗武子が輔け、鍼莊子が坐(被告代理)、士榮が大士(弁論役)となった。衞侯は敗れ、士榮を殺し、鍼莊子の足を斬り、寗俞は忠として免じた。衞侯を捕らえて京師へ送り、深室に置いた。寗子はその食を袋に入れて届ける役を務めた。元咺は衞へ帰って公子瑕を立てた。

僖公三十年(前630年)

  • 晉侯が医の衍を遣わして衞侯を毒殺させようとした。寗俞は医に賄賂を贈って毒を薄くさせ、死なずに済んだ。僖公はそのために取りなし、王と晉侯にそれぞれ玉十㲄を納れた。王が許し、秋、衞侯は釈放された。
  • 衞侯は周歂と冶厪に賄賂を贈って「もし私を入れられるなら、私はお前たちを卿にしよう」と言った。周氏と冶氏は元咺および子適・子儀を殺した。公は入って先君を祀った。周氏と冶氏はすでに卿の服を着て命を受けようとし、周歂が先に入って門に至ったところで急病で死に、冶厪は卿を辞退した。

僖公三十一年(前629年)

  • 冬、狄が衞を囲み、衞は帝丘へ遷った。卜すると「三百年」と出た。
  • 衞の成公は康叔が「相が私の享を奪う」と言う夢を見た。公は相を祀るよう命じたが、寗武子は「なりません。鬼神はその族類でなければその祀を歆けません。杞と鄫は何をしているのですか。相がここで享けられなくなって久しい。衞の罪ではありません。成王と周公の命じた祀を犯すわけにいきません。祀の命を改められることを請います」と言った。

僖公三十二年(前628年)

  • 夏、狄に乱があり、衞人が狄を侵した。狄が和を請うた。秋、衞人と狄が盟った。

文公四年(前623年)

  • 衞の寗武子が聘問に来た。文公が宴を設けて湛露と彤弓を賦したが、辞退もせず返して賦することもなかった。行人にひそかに問わせると、こう答えた。
  • 「臣は稽古の練習が及んだものと思っておりました。昔、諸侯が王に朝正すると、王は宴して楽しませ、そこで湛露を賦しました。天子が陽に当たり諸侯が命を用いるという意味です。諸侯が王の憤る相手に敵して功を献ずると、王はそこで彤弓一・彤矢百・玈弓矢千を賜って報いの宴を明らかにしました。いま陪臣は旧好を継ぎに来ただけです。君が辱くも賜られたからといって、どうしてあえて大礼を犯して自ら咎を取りましょう」。
  • 冬、成風が薨じた。

史論(士竒)

  • 晉の文公は怨みを募らせて斂盂の盟で衞を拒んだ。その偏狭さは極まっている。成公がもし婉やかな言葉で詫び、齊と宋に取りなしを頼めば、晉は必ずしも従わぬわけではなかった。それを国人の望まぬことに背いて甘んじて楚に入ったのは、策を失うこと甚だしい。
  • 元咺が叔武を立てようとしたことは事実の根拠がないのに、たちまちその子の角を殺した。叔武が位を摂して国にすでに君があった。成公が帰れたのはまことにこれによる。それなのに期日を待たずに先に入ったのは、すでに疑い忌む心があったのである。もし公がまことに弟を愛せる者であったなら、前駆への申し合わせをなぜ予めしておかなかったのか。髪を掴んで走り迎え、歓喜して躍り上がった公子が歂犬の手にかかって斃れたのは、まことに痛ましい。
  • 再び捕らえられ再び帰されたとき、元咺を憎むのはよいとして、子瑕に何の罪があって戮したのか。残忍で恩を賊うことがここまで至る。前駆の矢もまた風向きを察して放たれたものでないと、どうして言えよう。股に枕させて哭したのは、その涙がどこから出たのか甚だ疑わしい。歂犬を殺して咎を塞いだところで、「伯仁は我に由りて死す」の恨みを償えようか。
  • 成公が叔武を殺したのは、まことに天下に大不義を負う。しかし成公は君であり咺は臣である。心にその所業を是としないなら、その禄を食まずに逃げればよい。忠臣は国を去っても人に自らの無罪を説かぬもの。それをあえて君と訴訟し、平然と獄に坐した。深室の囚となって毒であやうく死にかけ、そのうえ子瑕を立ててその帰路を阻んだ。人臣たる者がそうしてよいものか。
  • もし寗武子が一身をもってその間を守り、内には宛濮で盟って国人を協わせ、外には手綱を負って患難に従わなかったら、深室で獄死して帰国の望みもなかったであろう。医の衍への賄賂、袋に入れた食の差し入れ、玉の献上、その忠貞は委曲を尽くし、まさに金石を貫き神鬼を感じさせるほどである。これは天下の人臣たる者への教えとできる。
  • 湛露と彤弓に答えなかったのは、敬を志した一端にすぎない。どうして武子の生涯を尽くせよう。孔子は「その知は及ぶべきも、その愚は及ぶべからず」と言われた。ただその愚があったからこそ、険しい道を辿り抜いてついに衞侯を帰し、大国の怒りを犯さずに済んだのである。元咺のような者は同日に語れようか。