左傳紀事本末衞の州吁と宣姜の乱(懿公の亡国/文公の狄難平定を付す)(衞州吁宣姜之亂(懿公亡國附文/公定狄難))
衞が驕淫によって乱れ、狄に滅ぼされ、文公の勤倹によって再興するまでを、隱公三年(前720年)から僖公二十五年(前635年)まで扱う篇。莊公が寵姫の子の州吁を禁じず、石碏の諫めを退けたため、州吁は桓公を弑して兵を四国に流し、石碏が大義親を滅して誅した。宣公は夷姜と通じ、子の伋の妻を自ら娶り、急子と壽子が莘で殺される禍を招いた。齊人はさらに昭伯を宣姜と通じさせた。閔公二年(前660年)、鶴を好んだ懿公は熒澤で狄に敗れて国が滅び、遺民は七百三十人となったが、文公が布の衣と絹の冠で復興し、邢と狄の難を靖んだ。
年表(15件)
- 隱公三年前720年莊公が州吁を寵愛して禁ぜず、石碏が六逆六順を挙げて諫める
- 隱公四年前719年州吁が桓公を弑し、鄭を討ち、石碏の謀で州吁と石厚が誅される
- 隱公五年前718年衞の桓公を葬り、鄭が東門の役に報いて牧を侵す
- 桓公三年前709年齊侯と衞侯が蒲で胥命し、盟わずに約する
- 桓公十六年前696年宣姜と朔が急子を陥れ、壽子が身代わりとなって二人とも殺される
- 桓公十七年前695年黄で盟い、齊と紀を和して衞のことを謀る
- 莊公五年前689年惠公を入れるために衞を討つ
- 莊公六年前688年惠公が入国し、黔牟を周へ放って左右の公子を殺す
- 閔公二年前660年鶴を好んだ懿公が熒澤で狄に大敗し、衞が滅んで戴公が曹に仮住まいする
- 僖公元年前659年齊の桓公が邢を夷儀へ移し、翌年に衞を楚丘に封ずる
- 僖公十八年前642年邢と狄が菟圃を囲み、文公が国を譲ろうとして衆に止められる
- 僖公十九年前641年大旱の卜が不吉と出るが、寗莊子の言で邢を討つと雨が降る
- 僖公二十年前640年齊と狄が邢で盟い、邢のために衞の難を謀る
- 僖公二十四年前636年禮至が兄弟で邢に仕えて内応の道を開く
- 僖公二十五年前635年禮氏の二人が國子を殺し、衞侯燬が邢を滅ぼす
隱公三年(前720年)
- 衞の莊公は齊の東宮得臣の妹を娶った。莊姜という。美しかったが子がなかった。衞人が碩人の詩を作ったのはこのためである。
- また陳から娶り厲媯といい、孝伯を生んだが早く死んだ。その妹の戴媯が桓公を生み、莊姜が自分の子とした。
- 公子州吁は寵姫の子で、寵愛されて兵事を好んだ。公は禁じず、莊姜は憎んだ。
- 石碏が諫めた。「臣は聞いております、子を愛するなら義の道を教えて邪に入れぬものだと。驕・奢・淫・佚は邪から生じるもの。この四つが来るのは寵と禄が過ぎるからです。州吁を立てられるなら、いま定められよ。まだそうでないなら、階を作って禍とすることになる。そもそも寵されて驕らず、驕って身を降せ、降って憾まず、憾んで自ら抑えられる者は稀です。しかも賤が貴を妨げ、少が長を陵ぎ、遠が親を隔て、新が旧を隔て、小が大に加わり、淫が義を破るのを六逆といい、君は義、臣は行い、父は慈しみ、子は孝、兄は愛し、弟は敬うのを六順という。順を去って逆に倣うのは禍を速める所以です。人に君たる者は禍を除くことに務めるべきなのに、それを速められる。よろしくないのではありませんか」。聴かれなかった。
- 石碏の子の厚が州吁と交わったので禁じたが、やめさせられなかった。桓公が立つと隠居した。
隱公四年(前719年)
- 春、衞の州吁が桓公を弑して立った。
- 隱公は宋公と会して宿の盟を継ごうとした。期日に至らぬうちに衞人が乱を告げてきた。夏、隱公は宋公と清で会した。
- 宋の殤公が即位したとき公子馮は鄭へ亡命し、鄭人は入れようとした。衞の州吁が立つと、先君の鄭への怨みを果たして諸侯に寵を求め、その民を和させようとし、宋に「君がもし鄭を討って君の害を除かれるなら、君を主とし、我が国が兵を出し、陳と蔡が従います。それが衞国の願いです」と告げさせた。宋人は許した。このとき陳と蔡はちょうど衞と睦まじかった。だから宋公・陳侯・蔡人・衞人が鄭を討ち、その東門を囲むこと五日で引き上げた。
- 隱公が衆仲に「衞の州吁は成るだろうか」と問うと、こう答えた。「臣は徳で民を和すことは聞いておりますが、乱で和すことは聞いておりません。乱で和すのは、糸を治めようとしてもつれさせるようなものです。州吁は兵を恃んで残忍に安んじております。兵を恃めば衆がなく、残忍に安んずれば親がない。衆が叛き親が離れて、成し遂げるのは難しい。兵は火のようなもの。収めねば自ら焼かれます。州吁はその君を弑してその民を虐げ用いている。そこで令徳に務めず乱で成そうとする。必ず免れますまい」。
- 秋、諸侯が再び鄭を討った。宋公が魯に援軍を乞い、隱公は断った。羽父が軍を率いて加わることを請い、隱公は許さなかったが、強いて請うて出陣した。だから経に「翬帥師」と書いた。これを憎んだのである。諸侯の軍は鄭の歩兵を破り、その禾を取って引き上げた。
- 州吁はその民を和せられず、厚は君の位を定める方法を石子に問うた。石子は「王に朝見できればよい」と言った。「どうすれば朝見できるか」と問うと、「陳の桓公がいま王に寵愛されている。陳と衞はいま睦まじい。もし陳に朝して取りなしを請えば、必ず得られよう」と答えた。
- 厚は州吁に従って陳へ行った。石碏は陳に「衞国は狭小で、老夫は耄れて何もできません。この二人がまことに寡君を弑しました。あえて処置を図られたい」と告げさせた。陳人は捕らえ、衞から人を来させて処置するよう請うた。九月、衞人は右宰の醜を遣わして濮で州吁を殺し、石碏は家宰の獳羊肩を遣わして陳で石厚を殺した。
- 君子は「石碏は純臣である。州吁を憎んで厚もそれに与った。『大義親を滅す』とはこのことか」と評した。
- 衞人が公子晉を邢から迎えた。冬十二月、宣公が即位した。経に「衞人晉を立つ」と書いたのは衆によるからである。
隱公五年(前718年)
- 夏、衞の桓公を葬った。衞に乱があったので遅れたのである。
- 四月、鄭人が衞の牧を侵した。東門の役に報いたのである。
- 衞の乱のとき郕人が衞を侵した。それゆえ衞軍が郕に入った。
桓公三年(前709年)
- 夏、齊侯と衞侯が蒲で胥命した。盟わなかったのである。
桓公十六年(前696年)
- はじめ衞の宣公が夷姜と通じて急子を生み、右公子に託し、そのために齊から妻を娶らせようとしたが、美しかったので公が自ら娶り、壽と朔を生んだ。壽を左公子に託した。
- 夷姜は縊れた。宣姜と公子朔が急子を陥れ、公は急子を齊へ遣わし、賊を莘で待たせて殺そうとした。壽子はこれを告げて逃げるよう勧めたが、承知せず、「父の命を棄てて、何の子であろう。父のない国があるなら、それもよいが」と言った。
- 出発にあたり酒を飲ませて酔わせ、壽子はその旌を載せて先に行き、賊が殺した。急子が着いて「私こそ求められている者だ。この者に何の罪があろう。私を殺してくれ」と言うと、これも殺した。
- 二公子はそれで惠公を怨んだ。十一月、左公子洩と右公子職が公子黔牟を立て、惠公は齊へ亡命した。
桓公十七年(前695年)
- 春、黄で盟った。齊と紀を和睦させ、あわせて衞のことを謀ったのである。
莊公五年(前689年)
- 冬、衞を討った。惠公を入れるためである。
莊公六年(前688年)
- 春、王の人が衞を救った。
- 夏、衞侯が入国し、公子黔牟を周へ放ち、寗跪を秦へ放ち、左公子洩と右公子職を殺して即位した。
- 君子は、二公子が黔牟を立てたのは度らなかったとした。そもそも位を固められる者は、必ず本末を度ってから中正を立てる。その本を知らず、知る者に諮らず、本が支えられぬのに強いた。詩に「本と枝、百世」とある。
閔公二年(前660年)
- 冬十二月、狄人が衞を討った。衞の懿公は鶴を好み、軒車に乗る鶴さえあった。戦おうとすると、国人で甲を受ける者はみな「鶴を使え。鶴こそ禄と位を持っている。我らがどうして戦えよう」と言った。
- 公は石祁子に玦を、寗莊子に矢を与えて守らせ、「これで国を助け、利を択んで行え」と言い、夫人には繡衣を与えて「二人に従え」と言った。渠孔が戎車を御し、子伯が右、黄夷が前駆、孔嬰齊が殿を務めた。
- 狄人と熒澤で戦い、衞軍は大敗し、そのまま衞は滅んだ。衞侯はその旗を除かなかったので、ひどく敗れた。狄人は史の華龍滑と禮孔を捕らえて衞人を追った。二人は「我らは太史である。まことにその祭を掌る。我らが先に行かねば国は得られぬ」と言い、そこで先に行かせた。着くと留守の者に「待てません」と告げ、夜のうちに国人とともに出た。狄が衞に入って追い、また河で破った。
- はじめ惠公が即位したとき年少で、齊人は昭伯を宣姜と通じさせた。承知しなかったが強いられ、齊子・戴公・文公・宋の桓夫人・許の穆夫人を生んだ。文公は衞に患いが多いので先に齊へ行っていた。
- 敗戦のとき宋の桓公が河で迎え、夜のうちに渡った。衞の遺民は男女七百三十人。共と滕の民を加えて五千人とし、戴公を立てて曹に仮住まいさせた。許の穆夫人は載馳を賦した。
- 齊侯は公子無虧に車三百乗・甲士三千人を率いて曹を守らせ、戴公に乗馬・祭服五組・牛羊豕鶏犬各三百頭と門材を贈り、夫人には魚軒と重錦三十両を贈った。
僖公元年(前659年)
- 齊の桓公が邢を夷儀へ移し、二年に衞を楚丘に封じた。邢は遷って帰るがごとく、衞は国が滅びたことを忘れた。
- 衞の文公は粗い布の衣に粗い絹の冠で、材を務め農を訓え、商を通わせ工を恵み、教えを敬み学を勧め、方法を授け能を任じた。元年に革車三十乗であったのが、晩年には三百乗になった。
僖公十八年(前642年)
- 冬、邢人と狄人が衞を討って菟圃を囲んだ。衞侯は国を父兄子弟および朝廷の衆に譲ろうとして「もしよく治められるなら、燬(自分)はそれに従う」と言った。衆が承知しなかったので、その後で訾婁に陣し、狄軍は引き上げた。
僖公十九年(前641年)
- 秋、衞人が邢を討った。菟圃の役に報いたのである。
- このとき衞は大旱で、山川に祭ることを卜すると不吉と出た。寗莊子は「昔、周が飢えたとき殷に勝って年が豊かになった。いま邢はまさに無道であり、諸侯に覇者がない。天はあるいは衞に邢を討たせようとしているのではないか」と言った。これに従い、軍を興すと雨が降った。
僖公二十年(前640年)
- 秋、齊と狄が邢で盟った。邢のために衞の難を謀ったのである。このとき衞はまさに邢に苦しんでいた。
僖公二十四年(前636年)
- 衞人が邢を討とうとした。禮至は「その守る者を得なければ国は得られません。私は兄弟でそこに仕えることを請います」と言い、そこで行って仕えた。
僖公二十五年(前635年)
- 春、衞人が邢を討った。二人の禮氏が國子に従って城を巡り、脇を抱えて外へ引き出して殺した。正月丙午、衞侯燬が邢を滅ぼした。同姓であるので名を書いた。禮至は銘を作って「余は脇を抱えて國子を殺した。余を止め得る者はなかった」と言った。
史論(士竒)
- 国家の患いは驕淫より大きいものはない。驕淫は寵愛と馴れから生じ、欲が動き情が恣になって礼義で裁けなくなれば、限りない禍を醸して次第に敗亡に至らぬことは稀である。
- 州吁は寵姫の子で莊姜は憎んだ。武姜が叔段を愛したのとは大きく異なる。武姜が叔段を立てようとしても武公は許さなかったが、それでも乱を招いた。まして州吁は寵を恃んで兵事を好み、莊公は禁じず、石碏の切諫は聞かぬふりをされた。州吁はついに桓公を殺して自ら立ち、残忍に安んじ兵を恃んで毒を四国に流した。衞の禍は莊公が作ったのである。
- 宣公は夷姜と通じ、そのうえ子伋の妻を納れた。淫昏無道は史冊にも稀に聞くところである。壽子は急子の旌を載せる難に赴き、惠公は一人の黔牟すら容れられず、五国の兵を連ね王官に抗して入国した。柏舟の詩がなぜ聞かれなかったのか。
- 昭伯がまた宣姜と通じて二子と二夫人を生んだが、その原因は齊人がそうさせたことにある。廉恥は失われた。上が通じ下が淫らで、衞はここに二代にわたって倫を滅ぼし教化を傷つけた。桑間濮上の風が習いとなって止まなくなったのも怪しむに足りない。
- 孔子が詩を序して牆茨・鶉奔の諸篇をすべて録し、春秋が夷姜・宣姜の閨中の事を歴々と記したのは、衞が狄に滅ぼされた理由を志したのである。福は善に、禍は淫に応ずること響きのごとし。ある者は懿公の亡国を鶴を好んだせいにするが、それは察しが足りない。
- 弘演が肝に復命し、自らの身を覆いとしたのは千古の傷ましさであるのに、左氏はそれを記さなかった。
- 衞が東へ渡ったとき遺民は男女わずか七百三十人。康叔と武公の祀は糸のように細く絶えかけていた。夫人は載馳の涙を落とし、公子は廬と漕の甲を出した。戴公は短命で国は焼け跡ばかりであった。もし文公が絹の冠と布の衣を尊ぶ節を守り、材を務め農を訓え、教えを敬み学を勧め、精を励まして復興に努めなかったなら、どうして訾婁の軍を挙げ邢と狄の難を靖んじられたであろう。
- 同じ一つの衞が、かつては驕淫によって敗れ、後には勤倹によって興った。これもまた古今の得失の林であり、国を持つ者が鑑とすべきものである。