左傳紀事本末鄭、許を滅ぼす(鄭滅許)
鄭が隣国の許を代々圧迫し、ついに滅ぼすまでを、隱公十一年(前712年)から定公六年(前504年)まで追う篇。鄭の莊公が許に入って許叔を東の一隅に置いてから、成公の代には田の境を争って鉏・任・泠敦を取り、叔申の封で和睦させた。許の靈公は鄭に逼られて楚へ遷ることを請い、葉・白羽・容城と流離した末、楚で客死した。定公六年(前504年)、楚が敗れたのに乗じて鄭がついに許を滅ぼす。史論は鄭の急迫を咎めつつ、晉へ遷る機を逃した許の失策も指摘する。
年表(14件)
- 隱公十一年前712年鄭伯が許に入り、許叔を東の一隅に居らせて祀を存続させる
- 桓公十五年前697年鄭の内乱に乗じて許叔が許に入る
- 成公三年前588年許が楚を頼んで鄭に仕えず、子良が許を討つ
- 成公四年前587年公孫申が許の田の境を定めて展陂で破られ、鄭伯が三邑の田を取る
- 成公五年前586年許の靈公が鄭伯を楚に訴える
- 成公八年前583年鄭伯が許の東門を攻めて大いに獲る
- 成公十四年前577年子罕が敗れ、鄭伯が改めて外郭に入り、叔申の封で和睦する
- 成公十五年前576年許の靈公が楚へ遷ることを請い、公子申が許を葉へ遷す
- 襄公十六年前557年許男が晉へ遷ることを請うが、許の大夫が阻んで沙汰やみとなる
- 襄公二十六年前547年靈公が楚で師を請うて客死し、楚子が鄭を討つ
- 昭公十八年前524年王子勝の献策で楚が許を析(白羽)へ遷す
- 昭公十九年前523年悼公が太子止の薬を飲んで卒し、止が晉へ亡命する
- 定公四年前506年許が容城へ遷る
- 定公六年前504年楚の敗れたのに乗じて鄭が許を滅ぼす
隱公十一年(前712年)
- 鄭伯が許を討ち、そのまま許に入って、許の大夫百里に許叔を奉じて許の東の一隅に居らせた(詳しくは鄭莊強國の篇にある)。
桓公十五年(前697年)
- 許叔が許に入った。
成公三年(前588年)
- 夏、許が楚を頼んで鄭に仕えなかった。鄭の子良が許を討った。
成公四年(前587年)
- 冬十一月、鄭の公孫申が師を率いて許の田の境を定めた。許人が展陂で破った。鄭伯が許を討ち、鉏・任・泠敦の田を取った。
成公五年(前586年)
- 夏、許の靈公が鄭伯を楚に訴えた。
成公八年(前583年)
- 鄭伯が晉の師と会そうとして許の東門を攻め、大いに獲た。
成公十四年(前577年)
- 八月、鄭の子罕が許を討ったが敗れた。戊戌、鄭伯が改めて許を討ち、庚子、その外郭に入った。許人は叔申の封(先の境界の取り決め)によって和睦した。
成公十五年(前576年)
- 許の靈公が鄭に逼られるのを畏れ、楚へ遷ることを請うた。辛丑、楚の公子申が許を葉へ遷した。
襄公十六年(前557年)
- 許男が晉へ遷ることを請うた。諸侯はそのまま許を遷そうとしたが、許の大夫が承知しなかった。晉人は諸侯を帰した。鄭の子蟜は許を討つと聞いて、そのまま鄭伯の相となって諸侯の師に従った。
襄公二十六年(前547年)
- 許の靈公が楚へ行き、鄭を討つことを請うて「師を出されぬなら孤は帰りません」と言った。八月、楚で卒した。楚子は鄭を討った。
昭公十八年(前524年)
- 楚の左尹王子勝が楚子に言った。「許は鄭にとって仇敵でありながら楚の地に居り、鄭を礼遇しません。晉と鄭はいま睦まじい。鄭がもし許を討って晉が助ければ、楚は地を失います。君はなぜ許を遷されぬのか。許は楚に専一でなく、鄭にはいま良い政があります。許は『ここは我が旧国だ』といい、鄭は『我が俘邑だ』という。葉は楚国の方城の外の要害です。土地は易えられず、国は小さくできず、許は俘とされてはならず、仇に隙を開いてはならぬ。君は図られよ」。
- 楚子は喜んだ。冬、楚子は王子勝に許を析、すなわち白羽へ遷させた。
昭公十九年(前523年)
- 夏、許の悼公が瘧を病んだ。五月戊辰、太子止の差し出した薬を飲んで卒した。太子は晉へ亡命した。経に「その君を弑す」と書いた。君子は言う。「心力を尽くして君に仕えるにも、薬物は措くのがよい」。
- 冬、許の悼公を葬った。
定公四年(前506年)
- 許が容城へ遷った。
定公六年(前504年)
- 春、鄭が許を滅ぼした。楚が敗れたのに乗じたのである。
史論(士竒)
- 許は太岳の裔で、旧許の地に国し、鄭と隣り合っていた。鄭が併呑してその封境を広げようと望んだ相手である。
- 魯の隱公の末年、齊・魯と会して許に入り、許叔を許の西の一隅に置いてかろうじてその祀を存続させただけであった。桓公のとき、鄭にちょうど内乱があり、許叔は機に乗じてひそかに入ったのであって、鄭の意ではない。そのうえ許は南して楚に付き、しばしば従って鄭を討った。こうして代々の仇讐となった。
- そもそも鄭と許は唇歯の国である。鄭が隣と睦む礼を尽くし、許を提げて中国に従わせられたなら、許がどうして甘んじて身を折って楚に入ろうか。それを強きを恃んで弱きを凌ぎ、ひたすら許を滅ぼすことに務めた。すでに鉏・任・泠敦の田を取り、そのうえ叔申の封で和睦した。弾丸のような許に残るものがどれだけあったか。
- それゆえ靈公は二度楚に訴え、「師を出されぬなら孤は帰りません」と言った。楚の庭で涙を尽くし、魂は鄢郢に羈された。この惨めさに至って、高い木を下りて幽谷に遷ったのも、鄭が許をよく処遇せず、楚のために獲物を追い立てたようなものである。
- しかし許にも失策があった。当時、許はかつて晉へ遷ることを請うた。晉へ遷るほうが楚へ遷るよりはるかに優ることは明らかである。それを許の大夫が内から阻み、晉人が諸侯を帰したことでその事は沙汰やみとなり、そのまま楚に安んじた。はじめは葉、次いで白羽、次いで容城と流離困苦し、ついに鄭に滅ぼされたが、楚の属する師は撓み敗れて救えなかった。
- 許はまことに身の置き所をよく択ばなかったが、鄭が煮え立たせることの急なるを深く恨まずにもおれまい。