左傳紀事本末秦と晉の交戦(秦晉交兵)
秦と晉が数十年にわたって兵を交えた経緯を、文公六年(前621年)から昭公六年(前536年)まで追う篇。晉の襄公が卒したとき、趙盾は秦から公子雍を迎えながら翻って靈公を立て、文公七年(前620年)に令狐で秦軍を破った。ここから少梁・北徴・羈馬・河曲と報復が絡み合う。成公十三年(前578年)、呂相が長大な絶交の辞を秦に告げ、麻隧で秦軍を大敗させた。襄公十四年(前559年)の遷延の役では荀偃と欒黶の不和で軍が引き上げた。襄公二十五年(前548年)に韓起と伯車が往来して和が成り、后子の帰国と景公の葬礼を経て、宿怨はようやく解けた。
年表(24件)
- 文公六年前621年襄公が卒し、趙孟が先蔑と士會を秦へ遣わして公子雍を迎えさせる
- 文公七年前620年穆嬴の哭訴で靈公を立て、令狐で秦軍を破って先蔑と士會が秦へ亡命する
- 文公八年前619年秦人が晉を討って武城を取り、令狐の役に報いる
- 文公十年前617年晉が秦の少梁を取り、秦伯が晉の北徴を取る
- 文公十二年前615年秦の西乞術が聘問し、秦伯が晉を討って羈馬を取る
- 文公十三年前614年晉侯が詹嘉を瑕に置いて桃林の塞を守らせる
- 宣公元年前608年趙穿が崇を侵して和を求めるが、秦は応じない
- 宣公二年前607年秦軍が晉を討って崇の件に報い、焦を囲む
- 宣公八年前601年白狄が晉と和して秦を討ち、秦の間諜が絳の市で殺される
- 宣公十五年前594年魏顆が輔氏で秦軍を破り、力士の杜回を捕らえる
- 成公九年前582年秦人と白狄が晉を討つ
- 成公十一年前580年令狐の会で秦伯が河を渡らず、帰って和を破る
- 成公十三年前578年呂相が絶交を告げ、麻隧で秦軍を大敗させる
- 襄公九年前564年秦が楚に出兵を乞い、晉は飢饉で報復できない
- 襄公十年前563年晉の荀罃が秦を討ってその侵略に報いる
- 襄公十一年前562年秦の庶長鮑と庶長武が櫟で晉軍を大敗させる
- 襄公十二年前561年秦嬴が楚へ嫁ぎ、楚の子庚が秦を聘問する
- 襄公十四年前559年諸侯の軍が涇を渡って棫林に至るが、荀偃と欒黶が食い違い引き上げる
- 襄公十九年前554年鄭の公孫蠆が卒し、秦討伐の功により王が追って大路を賜る
- 襄公二十五年前548年韓起と伯車が往来して秦と晉が和を結ぶ
- 襄公二十六年前547年秦伯の弟の鍼が晉へ行って和を修め、叔向が子朱を退ける
- 昭公元年前541年秦の后子が車千乗を連ねて晉へ亡命する
- 昭公五年前537年景公の卒により、秦の后子が秦へ帰る
- 昭公六年前536年大夫が秦へ行って景公を葬る
文公六年(前621年)
- 八月乙亥、晉の襄公が卒した。靈公は幼く、晉人は難があるので年長の君を立てようとした。趙孟は先蔑と士會を秦へ遣わして公子雍を迎えさせた。
文公七年(前620年)
- 夏、秦の康公が公子雍を晉へ送るにあたり、「文公が入国したとき護衛がなかったので呂氏・郤氏の難があった」と言い、多くの護衛を付けた。
- 衞の穆嬴は日々太子を抱いて朝廷で泣いた。宣子と諸大夫はそこで先蔑を裏切って靈公を立て、秦軍を防いだ。
- 箕鄭が留守を守り、趙盾が中軍を率い先克が補佐し、荀林父が上軍を補佐し、先蔑が下軍を率い先都が補佐し、步招が戎車を御し、戎津が右に立った。堇隂に至って宣子は言った。「我らが秦を受け入れれば秦は賓客だが、受け入れねば寇である。すでに受け入れぬと決めた以上、なお軍を緩めれば秦は心を生じよう。人に先んじるのは人の心を奪う。軍の善き謀りである。寇を追うのは逃げる者を追うようにするのが軍の善き政である」。卒を訓え兵を研ぎ、馬に飼葉をやり寝床で食べ、ひそかに夜に軍を起こし、戊子、令狐で秦軍を破って刳首まで至った。己丑、先蔑は秦へ亡命し、士會が従った。
文公八年(前619年)
- 夏、秦人が晉を討って武城を取り、令狐の役に報いた。
文公十年(前617年)
- 春、晉人が秦を討って少梁を取った。夏、秦伯が晉を討って北徴を取った。
文公十二年(前615年)
- 秦伯が西乞術を聘問に遣わし、あわせて晉を討つと告げた。襄仲は玉を辞退して「君は先君の好誼を忘れず魯国を照臨し、その社稷を鎮撫され、そのうえ大器を重ねられた。寡君はあえて辞退いたします」と言った。「粗末な器で辞退されるほどのものではありません」と答えた。主人が三度辞退すると、賓は「寡君は周公と魯公に福を求めて君にお仕えしたいのです。先君の粗末な器を下臣に執事へ届けさせ、瑞節として好誼の命を結ぶ。それによって寡君の命を託し、二国の好誼を結ぶ。だからあえて届けるのです」と答えた。襄仲は「君子がなければ国を保てようか。この国には鄙しさがない」と言い、手厚く贈物をした。
- 秦は令狐の役のゆえに、冬、秦伯が晉を討って羈馬を取った。晉人が防ぎ、十二月、秦軍が晉の上軍を襲った。趙穿が追ったが及ばず、秦軍は夜のうちに逃げ、また晉を侵して瑕に入った。
文公十三年(前614年)
- 春、晉侯が詹嘉を瑕に置いて桃林の塞を守らせた。
宣公元年(前608年)
- 晉が秦と和を結ぼうとした。趙穿は「我らが崇を侵せば秦は急ぎ、崇は必ず救われる。それで和を求めましょう」と言った。冬、趙穿が崇を侵したが、秦は和を結ばなかった。
宣公二年(前607年)
- 秦軍が晉を討った。崇の件に報いたのである。そのまま焦を囲んだ。
宣公八年(前601年)
- 春、白狄が晉と和睦した。夏、晉と会して秦を討った。晉人が秦の間諜を捕らえて絳の市で殺したところ、六日して蘇生した。
宣公十五年(前594年)
- 秋七月、秦の桓公が晉を討って輔氏に陣した。壬午、晉侯が稷で兵を整えて狄の地を掠め、黎侯を立てて引き上げた。雒に至り、魏顆が輔氏で秦軍を破り、杜回を捕らえた。秦の力士である。
成公九年(前582年)
- 秦人と白狄が晉を討った。諸侯が二心を抱いたからである。
成公十一年(前580年)
- 秦と晉が和を結ぼうとして令狐で会することにした。晉侯が先に着いたが、秦伯は河を渡ろうとせず王城に陣し、史顆に河東で晉侯と盟わせ、晉の郤犫が河西で秦伯と盟った。范文子は「この盟に何の益があろう。斉しい盟は信を質とするもの。会は信の始めである。始めから従わぬのに、質とできようか」と言った。秦伯は帰って晉との和を破った。
成公十三年(前578年)
- 夏四月戊午、晉侯が呂相を遣わして秦と絶交を告げさせた。
- 「昔、我が獻公と穆公が相善み、力を合わせ心を同じくし、盟誓を重ね婚姻を重ねました。天が晉国に禍を下し、文公は齊へ、惠公は秦へ行きました。不幸にも獻公が世を去ると、穆公は旧徳を忘れず、我が惠公が晉で祀を奉じられるようにしてくださった。しかし大勲を成しきれず韓の戦いとなり、心に悔いを抱いて我が文公を助けられた。これは穆公の成し遂げたことです。
- 文公は自ら甲冑を身につけ山川を跋渉し険阻を越えて、東方の諸侯、虞・夏・商・周の後裔を征して秦に朝させました。これで旧徳には報いております。鄭人が君の境を怒らせると、我が文公は諸侯を率い秦とともに鄭を囲みました。ところが秦の大夫は我が寡君に相談せず勝手に鄭と盟い、諸侯は憤って秦に命を致そうとした。文公は恐懼して諸侯を宥め鎮め、秦軍は害なく帰れた。これは我らが西に大きな功を為したことです。
- 不幸にも文公が世を去ると、穆公は弔わず、我が亡君を蔑ろにし我が襄公を寡しとし、我が殽の地を侵し、我らの好誼を断ち、我らの城を討ち、我らの費滑を滅ぼし、我らの兄弟を離散させ、我らの同盟を撓乱し、我らの国家を傾けようとした。我が襄公は君の旧勲を忘れず、しかも社稷の滅びを懼れて殽の役に及んだのです。それでもなお穆公に罪を赦していただきたいと願いました。穆公は聴かず楚について我らを謀った。天がその心を誘い、成王が命を落としたので、穆公は我らに志を遂げられなかった。
- 穆公と襄公が世を去り、康公と靈公が即位しました。康公は我が国から出た方です。それなのに我が公室を削り我が社稷を傾けようとし、我らの賊を率いて来て我らの辺境を揺るがした。それゆえ令狐の役があったのです。康公はなお改めず、我が河曲に入り、我が洓川を討ち、我が王官を捕虜とし、我が羈馬を奪った。それゆえ河曲の戦いがあった。東への道が通じなくなったのは、康公が我らの好誼を絶ったからです。
- 君が嗣がれてからは、我が君景公は首を伸ばして西を望み、『我らを撫してくださるだろうか』と言いました。しかし君も恵んで盟を称えられず、我らに狄の難があるのを利として我が河県に入り、我が箕と郜を焼き、我が農作を刈り、我が辺境を殺した。それゆえ輔氏の集結があったのです。
- 君もまた禍の長引くのを悔い、先君の獻公・穆公に福を求めようとされ、伯車を遣わして我が景公に『私は汝と好誼を同じくし、悪を棄てて旧徳を修め、前の勲を追念しよう』と命じられた。誓いがまだ成らぬうちに景公が世を去り、我が寡君はそれゆえ令狐の会に臨んだのです。ところが君はまた不祥にも盟誓に背き棄てられた。
- 白狄は君と同じ州にあり、君の仇讐でありながら我らの婚姻の相手です。君は来て『私は汝と狄を討とう』と命じられ、寡君はあえて婚姻を顧みず、君の威を畏れて吏から命を受けました。ところが君は狄に二心を抱き、『晉がお前を討つ』と言われた。狄は応じつつも憎み、それを我らに告げてきました。楚人も君の徳が二三であることを憎み、来て我らに告げました。『秦は令狐の盟に背いて我らに盟を求め、昊天上帝・秦の三公・楚の三王に昭告して「余は晉と出入りしても、余はただ利だけを見る」と言った。不穀はその成徳のなさを憎み、これを宣べて不一を懲らす』と。
- 諸侯はことごとくこの言葉を聞き、それゆえ痛心疾首して寡人に親しみ寄り、寡人が率いて命を聴くこととなった。ただ好誼を求めるだけです。君がもし諸侯を顧み寡人を憐れんで盟を賜るなら、それが寡人の願いです。諸侯を承け寧んじて退きましょう。どうしてあえて乱を求めましょう。君が大恵を施されぬなら、寡人は不才にして諸侯を率いて退くことができません。あえて執事にすべて申し述べます。執事がまことに利を図られよ」。
- 秦の桓公は晉の厲公と令狐の盟を結びながら、また狄と楚を招いて晉討伐へ導こうとした。それゆえ諸侯は晉と睦まじくなった。
- 晉の欒書が中軍を率い荀庚が補佐し、士燮が上軍を率い郤錡が補佐し、韓厥が下軍を率い荀罃が補佐し、趙旃が新軍を率い郤至が補佐し、郤毅が戎車を御し、欒鍼が右に立った。孟獻子は「晉の帥と乗は和している。軍は必ず大功があろう」と言った。
- 五月丁亥、晉軍は諸侯の軍とともに秦軍と麻隧で戦い、秦軍は大敗した。秦の成差と不更の女父を捕らえた。曹の宣公が陣中で卒した。軍はそのまま涇を渡り、侯麗に至って引き上げ、新楚で晉侯を迎えた。
襄公九年(前564年)
- 夏、秦の景公が士雃を遣わして楚に出兵を乞い、晉を討とうとした。楚子は武城に陣して秦の援けとした。秦人が晉を侵したが、晉は飢饉で報復できなかった。
襄公十年(前563年)
- 晉の荀罃が秦を討った。その侵略に報いたのである。
襄公十一年(前562年)
- 十二月、秦の庶長鮑と庶長武が軍を率いて晉を討ち、鄭を救った。鮑が先に晉の地に入り、士魴が防いだが、秦軍を少なく見て備えを設けなかった。壬午、武が輔氏から渡って鮑と挟み撃ちに晉軍を討った。己丑、秦と晉が櫟で戦い、晉軍は大敗した。秦を侮ったからである。
襄公十二年(前561年)
- 冬、秦嬴が楚へ嫁いだ。楚の司馬子庚が秦を聘問した。夫人のための挨拶である。礼にかなう。
襄公十四年(前559年)
- 夏、諸侯の大夫が晉侯に従って秦を討ち、櫟の役に報いた。晉侯は国境に留まり、六卿に諸侯の軍を率いて進ませた。涇に至って渡らなかった。叔向が叔孫穆子に会うと、穆子は匏有苦葉を賦した。叔向は退いて舟を用意した。魯人と莒人が先に渡った。
- 鄭の子蟜が衞の北宮懿子に会って「人に与しながら固からぬのは、これ以上の悪はない。社稷をどうするのか」と言った。懿子は喜び、二人は諸侯の軍に会って渡ることを勧めた。涇を渡って陣した。
- 秦人が涇の上流に毒を流し、軍の者が多く死んだ。鄭の司馬子蟜が鄭軍を率いて進み、諸軍もみな従い、棫林に至ったが和を得られなかった。
- 荀偃が「鶏鳴に車を出し、井を塞ぎ竈を平らげよ。ただ余の馬首を見よ」と命じた。欒黶は「晉国の命令にこんなものはない。余の馬首は東へ向かう」と言い、そこで帰った。下軍が従った。
- 左史が魏莊子に「中行伯を待たれぬのか」と言うと、莊子は「あの方は帥に従えと命じられた。欒伯は我が帥である。私はそれに従う。帥に従うのがあの方を待つことだ」と答えた。伯游(荀偃)は「私の命がまことに過ちであった。悔いても及ばぬ。秦に捕虜を多く遺すことになる」と言い、そこで全軍撤退を命じた。晉人はこれを「遷延の役」と呼んだ。
- このとき齊の崔杼、宋の華閲と仲江が会して秦を討ったが書かれない。怠ったからである。向の会も同様である。衞の北宮括は向の会では書かれず秦討伐では書かれる。代理として励んだからである。
襄公十九年(前554年)
- 四月丁未、鄭の公孫蠆が卒し、晉の大夫に訃を告げた。范宣子は晉侯に、彼が秦討伐でよく働いたことを申し上げた。六月、晉侯が王に請い、王は追って大路を賜り、それで葬儀を行わせた。礼にかなう。
襄公二十五年(前548年)
- 夷儀で会した年、齊人が郟に城を築いた。その五月、秦と晉が和を結び、晉の韓起が秦へ行って盟に臨み、秦の伯車が晉へ行って盟に臨んだ。和は成ったが固くはなかった。
襄公二十六年(前547年)
- 春、秦伯の弟の鍼が晉へ行って和を修めた。叔向が行人の子員を召すよう命じたが、行人の子朱が「朱が当番です」と三度言った。叔向は応じなかった。子朱は怒って「爵位は同じなのに、なぜ朱を朝廷で退けるのか」と言い、剣を撫して迫った。叔向は「秦と晉が和さぬこと久しい。今日の事が幸いに成れば晉国はそれに頼れる。成らねば三軍が骨を晒す。子員は二国の言葉を伝えて私がない。あなたは常にそれを易えて姦をもって君に仕える。私が防げるところだ」と言い、衣を払って迫った。人が救い止めた。
- 平公は「晉はまずまずだ。我が臣の争うものは大きい」と言った。師曠は「公室が卑しくなることを懼れます。臣が心で競わず力で争い、徳に務めず善を争い、私欲がすでに奢っている。卑しくならずにいられましょうか」と言った。
昭公元年(前541年)
- 秦の后子は桓公に寵愛され、景公の代には二人の君のようであった。その母が「去らねば選ばれる(誅される)ことを懼れる」と言った。癸卯、鍼は晉へ行った。その車は千乗であった。経に「秦伯の弟鍼、晉へ出奔す」と書いたのは秦伯を罪としたのである。
- 后子が晉侯を饗応し、河に舟橋を架け、十里ごとに車を置き、雍から絳まで、酬幣を取りに帰らせ、事が終わるまで八往復した。司馬侯が「あなたの車はこれで全部か」と問うと、「これで多いというものです。これより少なくできたなら、私はどうしてお目にかかれましょう」と答えた。女叔齊がこれを公に告げ、あわせて「秦の公子は必ず帰国します。臣は聞いております、君子はその過ちを知ればよい図りがあると。よい図りは天の助けるところです」と言った。
昭公五年(前537年)
- 秦の后子が秦へ帰った。景公が卒したからである。
昭公六年(前536年)
- 大夫が秦へ行き、景公を葬った。礼にかなう。
史論(士竒)
- 秦と晉の兵が交わったのは、殽での敗北から令狐へ、令狐から遷延の役へと続いた。曲直はそれぞれ帰するところがあるが、始めの禍を論ずれば、晉がまことに秦に負い目があり、秦は晉に負い目がない。
- 殽の陵で軍を覆されたその怨みは最も惨痛である。王官と郊を取り屍を封じて帰っても、匹馬隻輪も帰らなかった恨みの万分の一にも報いられない。それなのに、なぜまた刳首の敗北があったのか。
- ゆえに秦晉の曲直を論ずるのは獄を裁くようなもので、殽がその最初の案件、令狐がその転じた案件である。しかも令狐の誤りもまた甚だしい。靈公は幼くとも嫡子である。襄公が手ずから提げて授け、宣子の言葉は耳に残り、先君の遺骸もまだ冷えていない。古には遺腹の子を立て、亡君の裘に朝しても安らかに事なきを得た例がある。しかも盾は趙氏の孤ではなかったか。ただ諸大夫が互いに睦み合って輔けて成り立たせればよいのに、何を見て別に年長の君を求めたのか。碁石を挙げたまま置き場所を決められぬ愚に暗いというものだ。
- 秦が賊を挟んで来ても、一人の使者を遣わして婉やかに詫びれば、秦は聴かぬとも限らない。聴かねば関を閉ざして拒めばよい。受け入れれば賓客だが、受け入れずとも直ちに寇となるわけではない。ひそかに夜に軍を起こし、一鼓で打ちのめして、賈季に何と申し開きするのか。また天下の諸侯に聞かせられようか。
- 以来、少梁・北徴・羈馬・河曲の兵は絡み合って解けなくなった。秦もまた非を通す罪を免れがたいが、晉の不当さは水が深まるようなものである。
- 魯の宣公元年、晉が秦と和を結ぼうとしたのは、禍の長引くのを悔いて改める心があったのだろう。ならばなぜ肺腑を披瀝して誓約を交わさなかったのか。かえって詐術を崇め同盟国を攻めて秦の怒りを挑発した。秦が心を降そうか。焦を囲んだのは崇に報いたのであり、狄と会して秦を討ったのは焦に報いたのであり、輔氏の陣は討伐に報いたのである。敗れてまた報い、ついに白狄と組んだ。秦の行き過ぎはこの一役だけである。その余は互いに一つずつ、往来相当であって、晉が秦を弱めようとしたとは見えない。
- 令狐で和を結ぼうとして河に臨みながら渡らなかったことを、後に呂相は秦の罪とした。しかし秦は、晉が殽陵で我らを狙い令狐で我らを狙った、虎狼は秦よりひどい、と考えたのかもしれない。秦に不信の心がないことを望むのは難しい。それゆえ帰って和を破った。晉は呂相に書を届けさせたが、その言葉を聴くと秦には弁解のしようがないかのようである。先儒はその書に文飾が多いといい、秦の返書は伝わらない。秦には人がいなかったのだろうか。
- 以来、麻隧で再び報い、士雃が南郢の軍を乞い、荀罃が侵略に報い、庶長が櫟の功を奏した。十三国が兵を連ねて討ったときも、荀偃の一命で馬首が東へ向き、ただ遷延の役となった。晉もやや倦み、秦も再び報いなくなった。
- 韓起と伯車の使命が交わり、后子が帰って好誼が成り、景公の葬儀に礼が厚くなって、はじめて殽の敗北・令狐以来数十年の宿怨が一挙に解けた。君子はそれが凶で終わらなかったことを取るが、晉が二度も禍の始めとなったことを恨まずにはいられない。