左傳紀事本末晉の悼公、覇を復す(晉悼公復伯)

十四歳で立った晉の悼公が覇業を復し、その死後、平公の代に齊を討つまでを扱う篇。成公三年(前588年)から襄公二十五年(前548年)まで。即位して不臣の七人を追放し、民の誉ある者から六官を選び、施し捨てて負債を免じて紀綱を一新した。魏絳の献策で戎狄と和し、辺境を安んじて南に専念した。虎牢・梧・制に城を築いて鄭を押さえ、知罃の「四軍を三分して迎え撃つ」計で楚を奔命に疲れさせ、襄公十一年(前562年)の蕭魚の会で鄭を得た。悼公の没後は平公が継ぎ、湨梁・督揚の盟を経て、平隂の役で齊を破った。

年表(25件)

成公三年(前588年)

  • 夏、晉人が楚の公子穀臣と連尹襄老の屍を楚へ返し、知罃を求めた。このとき荀首が中軍を補佐していたので楚人は許した。
  • 王は知罃を送るとき「あなたは私を怨むか」と問うた。「二国が兵を交え、臣は不才にしてその任に堪えず捕虜となりました。執事が鼓に血塗らず帰して戮させてくださるのは君の恵みです。臣がまことに不才なのですから、誰を怨みましょう」と答えた。「では私に恩を感ずるか」と問うと、「二国はその社稷を図り民を安んじようとして、それぞれの忿りを抑えて互いに宥し、双方の囚人を釈放して好誼を成しました。二国に好誼があるのは臣の与り知らぬこと。誰にあえて恩を感じましょう」と答えた。
  • 「あなたは帰って何をもって私に報いるか」と問うと、「臣は怨みを受ける立場になく、君もまた恩を受ける立場にありません。怨みも恩もなければ、報いるものも分かりません」と答えた。「そうであっても、必ず不穀に告げよ」と言うと、こう答えた。「君の霊によって囚われの臣が晉に骨を埋められ、寡君が戮されるなら、死んでも朽ちません。君の恵みによって免ぜられ、君の外臣である首に賜り、首が寡君に請うて宗廟で戮されるなら、それも死んで朽ちません。もし命が下らず宗族の職を嗣がせられ、順に事に当たって偏師を率いて封疆を修めることになれば、執事に遭っても避けはしません。力を尽くし死を致し二心なく臣の礼を尽くす。それが報いです」。
  • 王は「晉とは争えぬ」と言い、手厚く礼遇して帰した。
  • 荀罃が楚にいたとき、鄭の商人が彼を袋に入れて連れ出そうと計画していたが、実行前に楚人が返した。商人が晉へ来ると、荀罃はまるで実際に助け出されたかのように手厚く遇した。商人は「私に功はない。どうしてその実を受けられよう。私は小人ながら、君子を厚く誣いてはならぬ」と言い、そのまま齊へ去った。

成公十八年(前573年)

  • 春正月庚申、晉の欒書と中行偃が程滑に厲公を弑させ、荀罃と士魴に周子を京師へ迎えに行かせて立てた。生まれて十四年であった。
  • 大夫が清原で迎えると、周子は「孤の初めの願いはここまで及ばなかった。ここに及んだのも天ではないか。そもそも人が君を求めるのは命を出させるためである。立てておいて従わぬなら、君を何に用いるのか。あなた方が私を用いるのは今日、用いぬのも今日である。恭しく君に従うのは神の福するところだ」と言った。「群臣の願いです。命に従わぬわけがありません」と答えた。庚午、盟って入り、伯子同氏の邸に館した。辛巳、武宮に朝し、不臣の者七人を追放した。周子には兄があったが知恵がなく、豆と麦の区別もつかなかったので立てられなかった。
  • 二月乙酉朔、晉の悼公が朝廷で即位した。初めて百官に命じ、施し捨てて負債を免じ、鰥寡に及ぼし、廃されて滞る者を振るい、乏しく困る者を匡し、災患を救い、淫らな悪を禁じ、賦斂を薄くし、罪過を宥し、器用を節し、時に用いて民の欲を犯さず、時宜を得て民を使った。
  • 魏相・士魴・魏頡・趙武を卿とし、荀家・荀會・欒黶・韓無忌を公族大夫として卿の子弟に恭倹孝弟を訓えさせ、士渥濁を太傅として范武子の法を修めさせ、右行辛を司空として士蒍の法を修めさせた。弁糾が戎車を御し校正を統べて諸々の御者に義を訓え、荀賔が右となり司士を統べて勇力の士を訓えた。時宜を得て使い、卿に専属の御者を置かず軍尉を立てて代行させた。祁奚が中軍尉、羊舌職が補佐、魏絳が司馬、張老が候奄、鐸遏寇が上軍尉、籍偃がその司馬となって卒乗を訓え自ら命を聴かせ、程鄭が乘馬御となって六騶を統べ、騶たちに礼を訓えさせた。およそ六官の長はみな民の誉ある者であった。挙用は職を失わず、官は方を易えず、爵は徳を越えず、師は正を陵がず、旅は師を偪らず、民に謗る言葉がなかった。覇を復した所以である。
  • 成公が晉へ行った。嗣君に朝したのである。
  • 夏六月、鄭伯が宋を侵して曹門の外に至り、そのまま楚子と会して宋を討ち朝郟を取った。楚の子辛と鄭の皇辰が城郜を侵し幽丘を取り、ともに彭城を討って宋の魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府を入れ、三百乗で守らせて帰った。経に「復入」と書いた。およそ国を去った者を、国が迎えて立てるのを「入」、その位に復するのを「復歸」、諸侯が入れるのを「歸」、悪をもって入れるのを「復入」という。
  • 宋人はこれを患えた。西鉏吾は言った。「何を患えるのか。楚人が我らと憎むところを同じくして我らに徳を施すなら、我らはもとより仕えて二心を抱けぬ。大国は飽くことを知らず、我らを辺鄙としてもなお不満であろう。そうでなくとも我らの憎む者を収めてその政を助けさせ、我らの隙を窺うなら、それも我らの患いである。いま諸侯の姦を崇めてその地を裂き、夷庚(要路)を塞ぎ、姦を遂げさせて服する者を離れさせ、諸侯を毒し呉と晉を懼れさせている。我らの功は多い。我らの憂いではない。しかも晉に仕えて何をするのか。晉は必ず我らを憐れむ」。
  • 成公が晉から帰った。晉の范宣子が聘問に来て、あわせて朝見を謝した。君子は晉はここにおいて礼があると評した。
  • 秋、杞の桓公が来朝して成公を労い、あわせて晉の様子を問うた。成公が晉君のことを語ると、杞伯はそれからしきりに晉へ朝し、婚を請うた。
  • 七月、宋の老佐と華喜が彭城を囲み、老佐が戦死した。
  • 冬十一月、楚の子重が彭城を救って宋を討った。宋の華元が晉へ行って急を告げた。韓獻子は政を執っており、「人を得たいと思うなら必ずまず勤めるべきだ。覇を成し境を安んずるのは宋から始まる」と言った。晉侯は台谷に軍を出して宋を救い、靡角の谷で楚軍に遭い、楚軍は引き返した。
  • 晉の士魴が出兵を乞いに来た。季文子が兵の数を臧武仲に問うと、「鄭討伐の役では知伯がまことに来られ、下軍の佐でした。いま彘季もまた下軍を補佐しています。鄭討伐のときと同じでよろしい。大国に仕えるには班爵を失わず敬を加えるのが礼です」と答え、これに従った。

襄公元年(前572年)

  • 春己亥、宋の彭城を囲んだ。彭城は宋の地でないが、追って書いたのである。ここでは宋のために魚石を討ったので宋と称し、また叛人を認めなかった。これを宋の志という。彭城は晉に降り、晉人は彭城にいた宋の五大夫を連れ帰って瓠丘に置いた。
  • 齊人が彭城の役に来なかったので、晉人は討伐しようとし、二月、齊の太子光が晉の人質となった。
  • 夏五月、晉の韓厥と荀偃が諸侯の軍を率いて鄭を討ち、その外郭に入り、洧上でその歩兵を破った。このとき東方諸侯の軍は鄫に陣して晉軍を待った。晉軍は鄭から鄫の軍を率いて楚の焦・夷と陳を侵した。晉侯と衞侯は戚に陣して援けとした。
  • 秋、楚の子辛が鄭を救い、宋の呂と留を侵した。鄭の子然が宋を侵して犬丘を取った。
  • 冬、衞の子叔と晉の知武子が聘問に来た。礼にかなう。およそ諸侯が即位すれば、小国は朝し大国は聘問して、好誼を継ぎ信を結び、事を謀り欠けを補う。礼の大きなものである。

襄公二年(前571年)

  • 春、鄭軍が宋を侵した。楚の命である。
  • 鄭の成公が病んだ。子駟が晉に服して肩の荷を下ろすことを請うと、公は「楚君は鄭のために自ら矢を目に受けられた。他人のためではなく寡人のためだ。もし背けば、力と言葉を棄てることになる。誰が我らに親しもう。寡人を免ずるのはあなた方次第だ」と言った。
  • 秋七月庚辰、鄭伯睔が卒した。このとき子罕が国政を担い、子駟が政を執り、子國が司馬であった。晉軍が鄭を侵し、諸大夫は晉に従おうとしたが、子駟は「官の命はまだ改まっていない」と言った。
  • 戚で会し、鄭のことを謀った。孟獻子が「虎牢に城を築いて鄭に迫られよ」と請うと、知武子は「よろしい。鄫の会であなたは崔子の言を聞かれた。いま来ておりません。滕・薛・小邾が来ないのもみな齊のせいです。寡君の憂いは鄭だけではない。罃は寡君に復命して齊に請いましょう。請いが叶って告げられれば、それはあなたの功です。叶わなければ事は齊に向かう。あなたの請いは諸侯の福です。寡君だけが頼るものではありません」と言った。
  • 冬、再び戚で会し、齊の崔武子および滕・薛・小邾の大夫がみな会した。知武子の言葉のおかげである。そのまま虎牢に城を築き、鄭人はそこで和を結んだ。
  • 楚の公子申が右司馬となり、小国から多くの賄賂を受けて子重・子辛に迫った。楚人はこれを殺した。だから経に「楚その大夫公子申を殺す」と書いた。

襄公三年(前570年)

  • 春、襄公が晉へ行った。初めての朝見である。
  • 夏、長樗で盟った。孟獻子が相となり、襄公が稽首した。知武子が「天子がおられるのに君が稽首されては、寡君が懼れます」と言うと、孟獻子は「我が国は東の端にあって仇讐と隣接しております。寡君は君を頼みとされる。稽首せぬわけがありません」と答えた。
  • 晉は鄭が服したので、あわせて呉との好誼を修めようとして諸侯を集めることにし、士匄を齊へ遣わして告げさせた。「寡君は匄を遣わして申します。歳が安からず、不慮に備えがない。寡君は一二の兄弟と相見えて和さぬ者を謀りたい。君の臨席を請い、匄に盟を乞わせます」。齊侯は許すまいとしたが、和さぬ者とされるのを憚り、そこで耏の外で盟った。
  • 祁奚が隠居を請うと、晉侯は後任を問うた。解狐を挙げた。その仇である。立てようとしたが死んだ。また問うと「午がよろしい」と答えた。このとき羊舌職が死んだ。晉侯が「誰が代われるか」と問うと、「赤がよろしい」と答えた。そこで祁午を中軍尉とし羊舌赤が補佐した。
  • 君子は「祁奚はここにおいてよく善を挙げた。その仇を挙げても諂いでなく、その子を立てても比ではなく、その副を挙げても党ではない。商書に『偏なく党なければ、王道は蕩蕩たり』とあるのは祁奚のことだ。解狐は挙用され、祁午は位を得、伯華は官を得た。一官を建てて三事が成る。よく善を挙げたのだ。ただ善なるがゆえにその類を挙げられる。詩に『これあり、これをもってこれに似たり』とある。祁奚にはそれがある」と評した。
  • 六月、襄公は単頃公および諸侯と会した。己未、雞澤で同盟した。晉侯は荀會を淮上へ呉子を迎えに遣わしたが、呉子は来なかった。
  • 楚の子辛が令尹となり、小国に欲を侵した。陳の成公は袁僑を会に遣わして和を求めた。晉侯は和組父に諸侯へ告げさせた。秋、叔孫豹と諸侯の大夫が陳の袁僑と盟った。陳が服を請うたのである。
  • 晉侯の弟の揚干が曲梁で隊列を乱し、魏絳がその御者を戮した。晉侯は怒って羊舌赤に「諸侯を集めるのは栄えのためだ。揚干が戮されるとは、これ以上の辱めがあろうか。必ず魏絳を殺せ。逃すな」と言った。「絳に二心はありません。君に仕えて難を避けず、罪があれば刑から逃げない。やがて申し開きに参りましょう。命を辱められますな」と答えた。言い終わると魏絳が至り、僕人に書を渡して剣に伏そうとした。士魴と張老が止めた。
  • 公はその書を読んだ。「先に君は使う者に乏しく、臣にこの司馬を務めさせられました。臣は聞いております、軍は順を武とし、軍事には死んでも犯さぬのを敬とすると。君が諸侯を集められたのに、臣があえて敬まずにおれましょうか。君の軍が武でなく執事が敬まぬのは、これ以上の罪はありません。臣はその死が揚干に及ぶことを懼れ、罪を逃れる所がありません。訓えを致せず鉞を用いるに至った。臣の罪は重い。あえて従わずに君の心を怒らせるようなことはいたしません。司寇のもとで死ぬことを請います」。
  • 公は素足で出て「寡人の言は親を愛するがゆえのもの。あなたの討伐は軍礼である。寡人に弟があって教訓できず、大命を犯させた。寡人の過ちだ。あなたは寡人の過ちを重ねられるな。あえてお願いする」と言った。晉侯は魏絳が刑をもって民を輔けられると考え、役を終えると礼食を賜って新軍を補佐させ、張老を中軍司馬、士富を候奄とした。
  • 楚の司馬公子何忌が陳を侵した。陳が叛いたからである。
  • 許の靈公は楚に仕えて雞澤に来なかった。冬、晉の知武子が軍を率いて許を討った。

襄公四年(前569年)

  • 春、楚軍は陳が叛いたのでなお繁陽にあった。韓獻子はこれを患え、朝廷で「文王は殷に叛いた国を率いて紂に仕えた。ただ時を知っていたのだ。いま我らはそれを逆にしている。難しい」と言った。
  • 三月、陳の成公が卒した。楚人は陳を討とうとしたが、喪を聞いてやめた。陳人は命を聴かなかった。臧武仲はこれを聞いて「陳は楚に服さねば必ず滅ぶ。大国が礼を行っても服さぬのは、大国でさえ咎がある。まして小国は」と言った。
  • 夏、楚の彭名が陳を侵した。陳が無礼だったからである。
  • 穆叔が晉へ行き、知武子の聘問に報いた。晉侯が饗応し、鐘で肆夏の三曲を奏したが拝さず、楽人が文王の三曲を歌ったがまた拝さず、鹿鳴の三曲を歌うと三たび拝した。韓獻子が行人の子員に問わせた。「あなたは君命を奉じて我が国に来られ、先君の礼として楽をもって遇したのに、あなたは大きなものを措いて細かなものに重ねて拝された。あえて伺う、何の礼でしょうか」。
  • 穆叔は答えた。「三夏は天子が元侯を饗するものです。使臣はあえて与り聞けません。文王は両君が相見える楽です。臣はあえて及びません。鹿鳴は君が寡君を嘉されるものです。嘉されたことに拝さぬわけがありません。四牡は君が使臣を労われるものです。重ねて拝さぬわけがありません。皇皇者華は君が使臣に『必ず周く諮れ』と教えられるものです。臣は聞いております、善に訪ね問うのを咨、親に諮るのを詢、礼に諮るのを度、事に諮るのを諏、難に諮るのを謀という。臣は五つの善を得ました。重ねて拝さぬわけがありません」。
  • 楚人が頓に陳を窺わせて侵し討たせたので、陳人が頓を囲んだ。
  • 無終子の嘉父が孟樂を晉へ遣わし、魏莊子を通じて虎豹の皮を納れ、諸戎との和を請うた。晉侯は「戎狄は親しみがなく貪る。討つに如くはない」と言った。魏絳は言った。
  • 「諸侯は新たに服し、陳は新たに和を求めております。我らを観るでしょう。我らに徳があれば睦み、なければ離れる。戎に軍を労して楚が陳を討てば必ず救えません。それは陳を棄てることです。諸華は必ず叛く。戎は禽獣です。戎を得て華を失うのは、よろしくないのではありませんか。夏訓に『有窮の后羿』とあります」。
  • 公が「后羿とは何か」と問うと、こう答えた。「昔、夏がまさに衰えたとき、后羿は鉏から窮石へ遷り、夏の民に因って夏の政に代わりました。その弓を恃んで民の事を修めず、獣を追うことに耽り、武羅・伯因・熊髠・尨圉を棄てて寒浞を用いた。寒浞は伯明氏の讒佞な子弟です。伯明の后である寒がこれを棄て、夷羿が拾って信じて用い、自らの相としました。浞は内に媚び外に賄賂を施し、その民を愚弄し羿を狩に耽らせ、詐りと悪を植えてその国家を奪いました。内外がみな服しても羿は改めず、狩から帰ろうとしたとき、家の者が殺して煮てその子に食わせようとした。その子は食べるに忍びず窮の門で死にました。靡は有鬲氏へ逃げた。浞は羿の妻によって澆と豷を生み、その讒悪詐偽を恃んで民に徳を施さず、澆に軍を用いて斟灌と斟尋氏を滅ぼさせ、澆を過に、豷を戈に置いた。靡は有鬲氏から二国の残りを集めて浞を滅ぼし少康を立て、少康は過で澆を滅ぼし、后杼は戈で豷を滅ぼした。有窮はこれによって滅んだ。人を失ったからです。
  • 昔、周の辛甲が太史であったとき、百官に王の欠けを箴めさせました。虞人の箴に『芒芒たる禹の跡、画して九州となし、経て九道を啓く。民に寝廟あり、獣に茂草あり、それぞれ処る所あり、徳もって擾されず。帝夷羿に在っては、原の獣に冒れ、その国の憂いを忘れてその麀牡を思う。武は重ねるべからず、用いれば夏家に恢からず。獣臣は原を司る。あえて僕夫に告ぐ』とあります。虞の箴がこの通りなら、懲りずにおれましょうか」。このとき晉侯は狩を好んだので魏絳はここに及んだのである。
  • 公が「では戎と和するに如くはないか」と言うと、こう答えた。「戎と和すれば五つの利があります。戎狄は移り住み、貨を貴んで土地を軽んじる。土地を買える。一つ。辺鄙が騒がず民が野に馴れ、農夫が功を成す。二つ。戎狄が晉に仕えれば四隣が振るい動き、諸侯は威に懐く。三つ。徳で戎を安んじれば軍は労せず甲兵は傷まぬ。四つ。后羿を鑑として徳と度を用いれば、遠い者は至り近い者は安んずる。五つ。君はお図りください」。公は喜び、魏絳に諸戎と盟わせ、民事を修め時にかなって狩をした。

襄公五年(前568年)

  • 秋、楚人が陳の叛いた件を討ち、「令尹の子辛がまことに欲を侵したからだ」と言って殺した。経に「楚その大夫公子壬夫を殺す」と書いたのは貪ったからである。
  • 君子は「楚の共王はここにおいて刑を正しくしなかった。詩に『周道は挺挺たり、我が心は扃扃たり。事を講ずるに令からざれば、人を集めて来り定む』とある。自らは信がないのに人を殺して思いを遂げるのは、難しいのではないか。夏書に『允を成して功を成す』とある」と評した。
  • 九月丙午、戚で盟った。呉と会し、あわせて陳の守備を命じたのである。
  • 楚の子囊が令尹となった。范宣子は「我らは陳を失った。楚人は二心ある者を討って子囊を立てた。必ず行いを改めて急ぎ陳を討つだろう。陳は楚に近く、民は朝夕に急を告げる。行かずにおれようか。陳があるのは我らの事ではない。なくなってはじめて済む」と言った。冬、諸侯が陳を守り、子囊が陳を討った。十一月甲午、城棣で会して救った。

襄公七年(前566年)

  • 冬、楚の子囊が陳を囲み、鄬で会して救った。
  • 陳人はこれを患えた。慶虎と慶寅が楚人に「我らが公子黄を行かせるから捕らえよ」と言い、楚人は従った。二慶は会にいる陳侯に「楚人が公子黄を捕らえました。君が来られねば、群臣は社稷宗廟に忍びず、二つの図りを懼れます」と告げさせ、陳侯は逃げ帰った。

襄公八年(前565年)

  • 春、襄公が晉へ行って朝し、あわせて朝聘の数を聴いた。
  • 庚寅、鄭の子國と子耳が蔡を侵し、蔡の司馬公子燮を捕らえた。鄭人はみな喜んだが、子産だけが従わず、「小国に文徳がなくて武功があるのは、これ以上の禍はない。楚人が討ちに来れば従わずにおれようか。従えば晉軍が必ず至る。晉と楚が鄭を討ち、今より鄭国は四五年は安らげぬ」と言った。子國は怒って「お前に何が分かる。国に大命があり正卿がある。童子が口を出せば戮されるぞ」と言った。
  • 五月甲辰、邢丘で会して朝聘の数を命じ、諸侯の大夫に命を聴かせた。季孫宿・齊の高厚・宋の向戌・衞の甯殖・邾の大夫が会した。鄭伯が会に戦利品を献じたので自ら命を聴いた。大夫を書かないのは晉侯を尊んだからである。
  • 冬、楚の子囊が鄭を討った。蔡を侵したことを討ったのである。子駟・子國・子耳は楚に従おうとし、子孔・子蟜・子展は晉を待とうとした。子駟は「周詩に『河の澄むを俟つも、人の寿はいくばくぞ。兆して詢ること多ければ、職として競って羅を作す』とある。謀る族が多ければ民の違うことも多く、事はますます成らぬ。民は急である。ひとまず楚に従って我が民を緩めよう。晉軍が至ればまた従う。敬んで幣帛を供して来る者を待つのが小国の道だ。犠牲玉帛を二つの境で待たせ、強い者を待って民を庇う。寇が害をなさず民が疲れ病まぬなら、よいではないか」と言った。
  • 子展は「小が大に仕えるのは信によります。小国に信がなければ兵乱が日々至り、滅びる日も遠くない。五度の会の信をいま背こうとされる。楚が我らを救っても何に用いましょう。我らを親しんでも成るところなく、我らを辺鄙にしようとしている。従えません。晉を待つに如くはない。晉君はまさに明で、四軍に欠けがなく八卿は和睦している。必ず鄭を棄てません。楚軍は遥かに遠く糧食もやがて尽き、必ず速やかに帰るでしょう。何を患えます。舎(子展)は聞いております、杖とすべきは信に如くはない。守りを完うして楚を疲れさせ、信を杖として晉を待つ。よいではありませんか」と言った。
  • 子駟は「詩に『謀夫はなはだ多く、これをもって集まらず。発言は庭に盈つれど、誰かあえてその咎を執らん。行き邁らずして謀るがごとく、これをもって道に得ず』とある。楚に従うことを請う。騑(子駟)がその咎を受けよう」と言い、そこで楚と和睦した。
  • 王子伯駢を晉へ遣わして告げた。「君は我が国に車賦を修め師徒を警めて乱略を討てと命じられました。蔡人が従わず、我が国の人は安んじて処れず、我が兵をすべて挙げて蔡を討ち、司馬燮を捕らえて邢丘に献じました。いま楚が討ちに来て『お前はなぜ蔡に兵を挙げたのか』と言い、我が郊の砦を焼き我が城郭に迫った。我が国の衆は夫婦男女が落ち着く暇もなく助け合いましたが、覆されて訴える所もない。民の死んだ者はその父兄でなければ子弟です。人々は愁い痛んで庇う所を知らず、民は窮困を知って楚から盟を受けました。孤と二三の臣は禁じ止められず、あえて告げぬわけにまいりません」。
  • 知武子は行人の子員に答えさせた。「君は楚の命があったのに、一人の使者すら寡君に告げず楚に安んじられた。君の欲するところである。誰があえて君に違おう。寡君は諸侯を率いて城下にお目にかかろう。君はお図りください」。
  • 晉の范宣子が聘問に来て、あわせて襄公の来訪を謝し、鄭に軍を用いると告げた。襄公が饗応し、宣子が摽有梅を賦した。季武子は「誰があえて逆らいましょう。いま草木に譬えれば、寡君は君の香りの類です。喜んで命を承ります。何の時期がありましょう」と言い、角弓を賦した。賓が退出しようとすると武子は彤弓を賦した。宣子は「城濮の役で我が先君文公が衡雍で功を献じ、襄王から彤弓を受けて子孫の蔵としました。匄は先君の官を守る嗣です。命を承らぬわけがありません」と言った。君子は礼を知ると評した。

襄公九年(前564年)

  • 夏、季武子が晉へ行き、宣子の聘問に報いた。
  • 秦の景公が士雃を遣わして楚に出兵を乞い、晉を討とうとした。楚子は許したが、子囊は言った。
  • 「なりません。いま我らは晉と争えません。晉君は能に類して用い、挙用は選を失わず、官は方を易えない。その卿は善に譲り、その大夫は守りを失わず、その士は教えに競い、その庶人は農穡に力め、商工皂隷は業を移すことを知らない。韓厥は老い、知罃が指示を受けて政を執る。范匄は中行偃より若いが上に置き、中軍を補佐させた。韓起は欒黶より若いが欒黶と士魴が上に置き、上軍を補佐させた。魏絳は功が多いが趙武を賢として、その佐となった。君は明で臣は忠、上は譲り下は競う。この時にあたって晉には敵せません。仕えてこそよろしい。君はお図りください」。
  • 王は「私はすでに許した。晉に及ばずとも必ず出兵する」と言った。秋、楚子は武城に陣して秦の援けとした。秦人が晉を侵したが、晉は飢饉で報復できなかった。
  • 冬十月、諸侯が鄭を討った。庚午、季武子・齊の崔杼・宋の皇鄖が荀罃・士匄に従って鄟門を攻め、衞の北宮括・曹人・邾人が荀偃・韓起に従って師之梁を攻め、滕人・薛人が欒黶・士魴に従って北門を攻め、杞人・郳人が趙武・魏絳に従って並木の栗を伐った。甲戌、氾に陣して諸侯に「器を修め備え、糧を蓄え、老幼と病人を虎牢へ帰し、罪人を赦して鄭を囲め」と令した。鄭人は恐れて和を結んだ。
  • 中行獻子は「そのまま囲んで楚人の救援を待ち、戦うべきです。そうでなければ和は成りません」と言った。知武子は「盟を許して軍を返し、楚人を疲れさせよう。我らの四軍を三分し、諸侯の精鋭とともに来る者を迎え撃てば、我らは疲れず楚は続けられぬ。戦って骨を晒して思いを遂げるよりましだ。大きな労は尽きぬ。君子は心を労し小人は力を労するのが先王の制である」と言った。諸侯はみな戦いたくなかったので、鄭との和を許した。
  • 十一月己亥、戲で同盟した。鄭が服したのである。盟おうとするとき、鄭の六卿である公子騑・公子發・公子嘉・公孫輒・公孫蠆・公孫舍之とその大夫・門子がみな鄭伯に従った。晉の士莊子が盟書を作り、「今日盟った後、鄭国が晉の命だけを聴かず異志を抱く者があれば、この盟のごとくあれ」とした。
  • 公子騑(子駟)が小走りに進んで言った。「天が鄭国に禍を下し、二大国の間に挟ませた。大国は徳音を加えず乱をもって要求し、その鬼神は禋祀を歆けられず、その民人は土地の利を享けられず、夫婦は辛苦して行き詰まり、訴える所もない。今日盟った後、鄭国が礼ある者と強くて民を庇える者だけに従い、あえて異志を抱く者があれば、これもまた同じであれ」。
  • 荀偃が「盟書を改めよ」と言うと、公孫舍之は「大神に昭かに要言した。もし改められるなら、大国もまた叛けよう」と言った。知武子は獻子に「我らがまことに徳なくして人に盟を要求する。礼であろうか。礼でなければ何をもって盟を主れよう。ひとまず盟って退き、徳を修め軍を休めて再び来れば、ついに必ず鄭を得られる。何も今日でなくともよい。我らに徳がなければ民が我らを棄てる。鄭だけではない。よく和を休めれば遠人も来よう。何を鄭に恃むのか」と言い、そこで盟って引き上げた。
  • 晉人は鄭に志を得られず、諸侯とともに再び討った。十二月癸亥、その三つの門を攻め、閏月戊寅、隂阪を渡って鄭を侵し、隂口に陣して引き上げた。子孔は「晉軍は撃てる。軍は疲れ労し、しかも帰る心がある。必ず大勝できる」と言ったが、子展は「なりません」と言った。
  • 楚子が鄭を討った。子駟が楚と和を結ぼうとすると、子孔と子蟜は「大国と盟って口の血もまだ乾かぬのに背いてよいのか」と言った。子駟と子展は「我らの盟はもとより『ただ強い者に従う』と言った。いま楚軍が至り晉が我らを救わぬなら楚が強い。盟誓の言に背くわけではない。しかも強要された盟には質がなく、神も臨まない。神が臨むのはただ信である。信は言の瑞であり善の主である。それゆえ臨むのだ。明神が潔しとせぬ強要の盟は、背いてよい」と言い、そこで楚と和睦した。公子罷戎が入って盟い、中分で同盟した。楚の莊夫人が卒し、王は鄭を定めきれずに帰った。
  • 晉侯は帰って民を休める方策を謀った。魏絳は施し捨てて蓄えを出し貸すことを請うた。公以下、蓄えのある者はことごとく出させ、国に滞る蓄えもなく困る人もなくなった。公は利を禁ぜず、貪る民もなかった。祈りには幣を更新するだけとし、賓客には特牲を用い、器物は新造せず、車服は間に合わせで済ませた。一年行うと国に節度ができ、三度出兵して楚は争えなくなった。

襄公十年(前563年)

  • 夏四月戊午、柤で会した。
  • 晉の荀偃と士匄が偪陽を討って宋の向戌を封ずることを請うた。荀罃は「城は小さいが堅固だ。勝っても武ではなく、勝てねば笑われる」と言ったが、強いて請うた。丙寅、囲んだが落とせなかった。
  • 孟氏の臣である秦堇父が輜重を運んで役に加わっていた。偪陽人が門を開き、諸侯の士が攻め入ると、懸門が下ろされた。郰人紇がそれを持ち上げて味方を出した。門にいた狄虒彌は大車の輪を立てて甲を被せ楯とし、左手に持ち右手に戟を抜いて一隊をなした。孟獻子は「詩にいう『力あること虎のごとし』とはこれだ」と言った。
  • 城内の者が布を垂らすと堇父が登り、女牆に届いたところで切られて落ち、また垂らされ、蘇生してまた登ること三度に及んだ。城内の者が降参の辞を述べたので退き、切れた布を帯びて三日間軍中を回った。
  • 諸侯の軍が偪陽で長引き、荀偃と士匄が荀罃に「雨期が来る。帰れなくなるのを懼れる。撤兵を請う」と言った。知伯は怒って几を投げつけ、その間から出て言った。「お前たちは二つの事を成してから私に告げる。私は命を乱すことを恐れてお前たちに違わなかった。お前たちはすでに君を煩わせ諸侯を興し、老夫を引きずってここまで来ておきながら、武の守りもなく、そのうえ私に罪を移して『これが撤兵させた。そうでなければ勝てた』と言うつもりか。私は痩せ衰えた老人だ。重い任に堪えられようか。七日で落とせねば、必ずお前たちの首を取る」。
  • 五月庚寅、荀偃と士匄が卒を率いて偪陽を攻め、自ら矢石を受けた。甲午、滅ぼした。経に「遂に偪陽を滅ぼす」と書いたのは、会から続いたことをいう。
  • 向戌に与えようとしたが、向戌は辞退して「君がなお辱くも宋国を鎮撫され、偪陽をもって寡君を輝かせてくださるなら、群臣は安んじます。これ以上の賜物がありましょうか。もし臣に専ら賜れば、臣が諸侯を興して自らを封じたことになる。これ以上の罪がありましょうか。あえて死をもって辞退します」と言った。そこで宋公に与えた。
  • 宋公が楚丘で晉侯を饗応し、桑林の舞を用いることを請うた。荀罃は辞退したが、荀偃と士匄は「諸侯のうち宋と魯はここで礼を観る。魯に禘の楽があり賓と祭に用いる。宋が桑林で君を饗するのもよいではないか」と言った。舞師が旌夏を掲げて現れると、晉侯は懼れて房へ退いた。旌を除いて饗を終えて帰った。
  • 著雍に至って病んだ。卜すると桑林の祟りと出た。荀偃と士匄は駆けつけて祈祷を請うたが、荀罃は「我らは礼として辞退した。彼らはそれを行った。なお鬼神があるなら彼らに加えられよう」と言った。晉侯は快方に向かった。
  • 偪陽子を連れ帰って武宮に献じ、夷の俘と呼んだ。偪陽は妘姓である。周の内史にその族の後嗣を選ばせ、霍人に納れた。礼にかなう。
  • 軍が帰り、孟獻子は秦堇父を右とした。秦丕兹を生み、仲尼に仕えた。
  • 六月、楚の子囊と鄭の子耳が宋を討ち、訾母に陣した。庚午、宋を囲み桐門を攻めた。
  • 衞侯が宋を救って襄牛に陣した。鄭の子展は「必ず衞を討たねばならぬ。そうでなければ楚に与しないことになる。晉に罪を得、また楚にも罪を得ては、国はどうなろう」と言った。子駟は「国は疲弊している」と言った。子展は「二大国に罪を得れば必ず滅ぶ。疲弊のほうが滅亡よりましではないか」と言い、諸大夫もみなそう思った。それで鄭の皇耳が軍を率いて衞を侵した。楚の命である。
  • 孫文子が追撃を卜し、その兆を定姜に献じた。姜氏が繇を問うと、「兆は山陵のごとし。夫あり出征してその雄を喪う」とあった。姜氏は「出征する者が雄を喪うのは寇を防ぐ側に利がある。大夫は図られよ」と言った。衞人が追い、孫蒯が犬丘で鄭の皇耳を捕らえた。
  • 秋七月、楚の子囊と鄭の子耳が魯の西境を侵し、帰りに蕭を囲んだ。八月丙寅、これを落とした。九月、子耳が宋の北境を侵した。
  • 諸侯が鄭を討った。齊の崔杼は太子光を先に軍へ着かせたので、滕より上位となった。己酉、牛首に陣した。
  • 諸侯の軍が虎牢に城を築いて守り、晉軍は梧と制に城を築き、士魴と魏絳が守った。経に「鄭の虎牢を戍る」と書いたのは鄭の地ではないからで、やがて鄭に帰すことをいう。鄭は晉と和睦した。
  • 楚の子囊が鄭を救い、十一月、諸侯の軍は鄭から引き返して南下し陽陵に至った。楚軍が退かないので知武子は退こうとし、「我らがいま楚を避ければ楚は必ず驕る。驕れば戦える」と言った。欒黶は「楚を避けるのは晉の恥だ。諸侯を集めて恥を増すくらいなら死んだほうがよい。私は独りで進む」と言い、そのまま進んだ。己亥、楚軍と潁を挟んで陣した。
  • 子蟜は「諸侯はすでに和議が成っている。必ず戦うまい。従っても退くだろうし、従わなくても退く。退けば楚は必ず我らを囲む。どうせ退くのだから、楚に従って退かせるに如くはない」と言い、夜のうちに潁を渡って楚人と盟った。
  • 欒黶は鄭軍を討とうとしたが、荀罃は「なりません。我らはまことに楚を防げず、鄭を庇うこともできぬ。鄭に何の罪があろう。怨みを買って帰るに如くはない。いまその軍を討てば楚は必ず救う。戦って勝てねば諸侯に笑われ、勝っても命じられぬ。帰るに如くはない」と言った。丁未、諸侯の軍は引き返し、鄭の北境を侵して帰った。楚人もまた帰った。

襄公十一年(前562年)

  • 春、鄭人は晉と楚のことを患えた。諸大夫は「晉に従わねば国はほとんど滅びる。楚は晉より弱いが、晉は我らに本気でない。晉が本気になれば楚は避ける。どうすれば晉軍が我らのために死力を尽くし、楚があえて敵せなくなるか。そうなれば固く与せる」と言った。
  • 子展は「宋と悪くなれば諸侯は必ず来る。我らはそれと盟う。楚軍が至れば我らはまた従う。そうすれば晉の怒りは甚だしくなる。晉はしきりに来られるが楚はできまい。そこで我らは固く晉に与する」と言った。大夫は喜び、国境の役人に宋と悪を構えさせた。宋の向戌が鄭を侵して大いに獲物を得た。子展は「軍を出して宋を討ってよい。我らが宋を討てば諸侯が我らを討つのは必ず本気になる。そこで命を聴き、あわせて楚に告げる。楚軍が至ればまた盟い、晉軍に重く賄賂を贈れば免れられる」と言った。夏、鄭の子展が宋を侵した。
  • 四月、諸侯が鄭を討った。己亥、齊の太子光と宋の向戌が先に鄭に至り東門を攻めた。その夕方、晉の荀罃が西郊に至り東の旧許を侵し、衞の孫林父がその北境を侵した。六月、諸侯が北林で会し、向に陣し、右へ回って瑣に陣し、鄭を囲んで南門で兵を観閲し、西へ濟隧を渡った。鄭人は懼れて和を結んだ。
  • 秋七月、亳で同盟した。范宣子は「慎まねば必ず諸侯を失う。諸侯は道中で疲弊して成るところがなければ、二心を抱かずにいられようか」と言った。そこで盟い、盟書に「およそ我が同盟は、年(穀物)を蓄えず、利を塞がず、姦を庇わず、悪を留めず、災患を救い禍乱を憐れみ、好悪を同じくし王室を助ける。この命を犯す者は、司慎・司盟、名山名川、群神群祀、先王先公、七姓十二国の祖、明神がこれを誅し、その民を失わせ、命を墜とし氏を亡ぼし、その国家を倒す」とした。
  • 楚の子囊が秦に出兵を乞い、秦の右大夫詹が軍を率いて楚子に従い鄭を討とうとした。鄭伯は迎え、丙子、宋を討った。
  • 九月、諸侯が全軍をもって再び鄭を討った。鄭人は良霄と太宰石㚟を楚へ遣わし、晉に服すると告げさせ、「孤は社稷のゆえに君を懐かせられません。君がもし玉帛で晉を安んじられるならよいが、そうでなければ武威をもって威されよ。それが孤の願いです」と言わせた。楚人は捕らえた。経に「行人」と書いたのは使者であることをいう。
  • 諸侯の軍が鄭の東門で兵を観閲し、鄭人は王子伯駢を遣わして和を結んだ。甲戌、晉の趙武が入って鄭伯と盟った。冬十月丁亥、鄭の子展が出て晉侯と盟った。十二月戊寅、蕭魚で会し、庚辰、鄭の囚人を赦してみな礼をもって帰し、斥候を引き上げ侵掠を禁じた。晉侯は叔肸に諸侯へ告げさせた。襄公は臧孫紇に答えさせた。「およそ我が同盟で、小国に罪があれば大国が討伐を致す。手土産があれば赦されぬことは稀です。寡君は命を承りました」。
  • 鄭人は晉侯に師悝・師觸・師蠲、広車・軘車それぞれ十五乗、甲兵を備え、あわせて兵車百乗、歌鍾二肆とその鎛磬、女楽十六人を賄賂として贈った。
  • 晉侯はその楽の半分を魏絳に賜り、「あなたは寡人に諸戎狄と和して諸侯を正すことを教えた。八年の間に九度諸侯を合わせ、楽の和のごとく諧わぬところがない。あなたとこれを楽しみたい」と言った。
  • 魏絳は辞退した。「戎狄と和するのは国の福です。八年の間に九度諸侯を合わせ、諸侯に悪がないのは君の霊であり、皆の労です。臣に何の力がありましょう。しかし臣は、君がその楽に安んじつつその終わりを思われることを願います。詩に『楽しき君子、天子の邦を殿む。楽しき君子、福禄の同ずるところ、便蕃たる左右、またこれ帥い従う』とあります。楽は徳を安んじ、義でこれに処し、礼でこれを行い、信でこれを守り、仁でこれを励まして、はじめて邦国を鎮め福禄を同じくし遠人を来させられる。いわゆる楽です。書に『安きに居りて危うきを思う。思えば備えあり、備えあれば患いなし』とあります。あえてこれをもって規といたします」。
  • 公は「あなたの教え、命を承らぬわけがない。しかしあなたがいなければ寡人は戎に対処できず、河を渡れなかった。賞は国の典であり盟府に蔵される。廃してはならぬ。あなたは受けられよ」と言った。魏絳はここにおいて初めて金石の楽を持った。礼にかなう。

襄公十二年(前561年)

  • 夏、晉の士魴が聘問に来て、あわせて出兵を謝した。
  • 襄公が晉へ行って朝し、あわせて士魴の来訪を謝した。礼にかなう。
  • 冬、楚の子囊と秦の庶長無地が宋を討ち楊梁に陣した。晉が鄭を取ったことに報いたのである。

襄公十三年(前560年)

  • 春、襄公が晉から帰り、孟獻子が労を廟に記した。礼にかなう。
  • 夏、荀罃と士魴が卒した。晉侯が緜上で蒐を行い兵を整え、士匄に中軍を率いさせようとした。辞退して「伯游が年長です。昔、臣は知伯に習って補佐しました。賢だからではありません。伯游に従うことを請います」と言い、荀偃が中軍を率い士匄が補佐した。韓起に上軍を率いさせようとすると趙武を理由に辞退し、欒黶にさせようとすると「臣は韓起に及びません。韓起は趙武を上に願っております。君はこれをお聴きください」と辞退した。そこで趙武が上軍を率い韓起が補佐し、欒黶が下軍を率い魏絳が補佐した。新軍には帥がなく、晉侯は人を得がたく、その什吏に卒乗と官属を率いさせて下軍に従わせた。礼にかなう。晉国の民はこれによって大いに和し、諸侯もついに睦まじくなった。
  • 君子は評した。「譲は礼の主である。范宣子が譲ってその下がみな譲り、欒黶は驕慢であったがあえて違わなかった。晉国はこれによって平らぎ、数代がそれに頼った。善を型としたのである。一人が善を型とすれば百姓が休み和す。務めずにおれようか。書に『一人に慶あれば兆民これに頼る。その寧きはこれ永し』とあるのは、このことであろう。周が興ったときの詩に『文王に儀り型とすれば、万邦は孚を作す』とあるのは善を型とすることをいい、衰えたときの詩に『大夫は均しからず、我は事に従いて独り賢し』とあるのは譲らぬことをいう。世が治まれば君子は能を尚んでその下に譲り、小人は力に励んでその上に仕える。それゆえ上下に礼があって讒悪は退けられ遠ざかる。争わぬからである。これを懿徳という。乱れれば君子はその功を称えて小人に加え、小人はその技を誇って君子を凌ぐ。それゆえ上下に礼がなく乱虐が並び生じる。善を争うからである。これを昏徳という。国家の弊は常に必ずこれによる」。
  • 鄭の良霄と太宰石㚟はなお楚にいた。石㚟が子囊に言った。「先王は征伐を五年前から卜し、年ごとにその祥を重ねた。重なれば行い、重ならねば徳を修めて卜し直した。いま楚はまことに競えぬ。行人に何の罪がありましょう。鄭の一卿を留めてその圧迫を除けば、彼らは睦んで楚を憎み晉に固く結びつく。何に用いましょう。帰らせてその使命を廃させ、その君を怨みその大夫を憎んで互いに牽き合わせるほうが、ましではありませんか」。楚人は帰した。

襄公十四年(前559年)

  • 春、向で会し、莒の公子務婁を捕らえた。楚に使いを通じていたからである。
  • 戎子の駒支を捕らえようとして、范宣子が自ら朝廷で数え立てた。「来い、姜戎氏。昔、秦人が汝の祖の吾離を瓜州へ追い、汝の祖の吾離は苫と蓋を被り荊棘を分けて我が先君に帰した。我が先君惠公は粗末な田を汝と分けて食わせた。いま諸侯が寡君に仕えることが昔に及ばぬのは、言語が漏れているからであり、それは汝のせいである。明朝の事に汝は加わるな。加われば汝を捕らえる」。
  • 駒支は答えた。「昔、秦はその衆を恃み土地を貪って我ら諸戎を追いました。惠公はその大徳を明らかにして『我ら諸戎は四嶽の後裔である。これを切り棄てるな』と言い、南の辺境の田を賜った。狐狸の住むところ、豺狼の吼えるところです。我ら諸戎はその荊棘を除き、狐狸豺狼を駆逐して、先君の侵さず叛かぬ臣となり、今日まで二心を抱いておりません。昔、文公が秦とともに鄭を討ったとき、秦人はひそかに鄭と盟って守備を置いた。それで殽の役があり、晉がその上を防ぎ戎がその下を遮って、秦軍は帰れなかった。我ら諸戎がまことにそうしたのです。譬えば鹿を捕らえるように、晉人がその角を執り諸戎がその足を引いて、晉とともに倒したのです。戎がどうして罪を免れましょうか。これ以来、晉の百度の役に我ら諸戎は次々と時に応じて執政に従い、なお殽の志を守っています。どうしてあえて離れましょう。いま官の師旅にまことに欠けがあって諸侯を離れさせているのに、我ら諸戎を罪とされる。我ら諸戎は飲食衣服が華と同じでなく、贄幣も通じず言語も通じません。どんな悪をなせましょう。会に加わらなくとも心残りはありません」。そして青蠅を賦して退いた。宣子は詫び、会の事に加わらせた。愷悌を成したのである。
  • このとき子叔齊子が季武子の介として会に加わった。これ以来、晉人は魯の幣を軽くしてその使者をいよいよ敬った。
  • 秦討伐から軍が帰り、晉侯が新軍を廃した。礼にかなう。完備した国は天子の軍の半分を越えず、周は六軍、諸侯の大なるものは三軍でよい。このとき知朔は盈を生んで死に、盈が生まれて六年で武子が卒し、彘裘もまだ幼く、いずれも立てられなかった。新軍に帥がないので廃したのである。
  • 冬、戚で会した。范宣子が齊から羽毛を借りて返さなかったので、齊人は初めて二心を抱いた。

襄公十五年(前558年)

  • 夏、齊侯が成を囲んだ。晉に二心を抱いたからである。そこで成の外郭に城を築いた。
  • 冬、晉の悼公が卒した。
  • 鄭の公孫夏が晉へ弔問に行き、子蟜が送葬した。

襄公十六年(前557年)

  • 春、晉の悼公を葬り、平公が即位した。羊舌肸が傅、張君臣が中軍司馬、祁奚・韓襄・欒盈・士鞅が公族大夫、虞丘書が乘馬御となった。喪服を改め官を修め、曲沃で烝祭を行い、守りを警めてから湨梁で会し、侵した田を返すよう命じた。
  • 晉侯が諸侯と温で宴し、諸大夫に舞わせて「詩を歌うのに必ず類に合わせよ」と言った。齊の高厚の詩が類に合わなかった。荀偃は怒り、「諸侯に異志がある」と言い、諸大夫に高厚と盟わせようとしたが、高厚は逃げ帰った。そこで叔孫豹・晉の荀偃・宋の向戌・衞の甯殖・鄭の公孫蠆・小邾の大夫が盟って「ともに庭に来ぬ者を討つ」と誓った。
  • 許男が晉へ遷ることを請い、諸侯はそのまま許を遷そうとしたが、許の大夫が承知しなかった。晉人は諸侯を帰した。鄭の子蟜は許を討つと聞き、そのまま鄭伯の相として諸侯の軍に従った。穆叔が襄公に従い、齊子が軍を率いて晉の荀偃と会した。経に「鄭伯と会す」と書いたのは、対等に扱ったからである。
  • 夏六月、棫林に陣し、庚寅、許を討ち、函氏に陣した。晉の荀偃と欒黶が軍を率いて楚を討ち、宋の楊梁の役に報いた。楚の公子格が軍を率いて晉軍と湛阪で戦い、楚軍は大敗した。晉軍はそのまま方城の外を侵し、再び許を討って引き上げた。
  • 秋、齊侯が成を囲んだ。孟孺子速が迎え撃った。齊侯は「彼は勇を好む。退いて名を成させてやろう」と言い、速はそのまま海陘を塞いで引き上げた。
  • 冬、穆叔が晉へ聘問し、あわせて齊のことを述べた。晉人は「寡君がまだ禘祀を行わず、民もまだ休んでおりません。そうでなければ忘れはしません」と言った。穆叔は「齊人が朝夕に我が国の地で鬱憤を晴らしております。それゆえ大いに請うのです。我が国の急は朝が夕まで及ばぬほど。首を伸ばして西を望み『そろそろか』と申しております。執事の暇を待っては、間に合わぬことを懼れます」と言った。
  • 中行獻子に会って圻父を賦すと、獻子は「偃は罪を知りました。執事に従ってともに社稷を憂え、魯をここまで至らせぬわけがありません」と言った。范宣子に会って鴻雁の卒章を賦すと、宣子は「匄がここにおります。魯を安んじさせずにおきましょうか」と言った。

襄公十七年(前556年)

  • 春、宋の莊朝が陳を討ち、司徒の卬を捕らえた。宋を侮ったからである。
  • 衞の孫蒯が曹の隧で狩をし、重丘で馬に水を飲ませてその瓶を壊した。重丘の人は門を閉じて罵り、「自らその君を追い、お前の父は災いのもとだ。それを憂えずに何の狩か」と言った。夏、衞の石買と孫蒯が曹を討って重丘を取り、曹人が晉に訴えた。
  • 齊人は魯に志を得ていなかったので、秋、齊侯が魯の北境を討って桃を囲み、高厚が防で臧紇を囲んだ。軍が陽関から臧孫を迎えに来て旅松に至り、郰叔紇・臧疇・臧賈が甲三百を率いて夜に齊軍に迫り、送り届けてから戻った。齊軍は退いた。
  • 齊人が臧堅を捕らえた。齊侯は夙沙衞を遣わして労い、あわせて「死ぬな」と言わせた。堅は稽首して「命の辱めに拝します。しかし君の賜物が終わりを全うせず、あろうことか刑を受けた臣を遣わして士に礼された」と言い、杙でその傷をえぐって死んだ。

襄公十八年(前555年)

  • 夏、晉人が衞の行人石買を長子で捕らえ、孫蒯を純留で捕らえた。曹のためである。
  • 秋、齊侯が魯の北境を討った。中行獻子が齊を討とうとして、厲公と訴訟して勝てず、公が戈で撃って首が前に落ち、跪いて頭を戴き、それを捧げて走る夢を見た。梗陽の巫皐に会った。後日、道で会って語ると、巫も同じ夢を見ていた。巫は「今年、主は必ず死にます。もし東方で事を起こせば思いを遂げられましょう」と言い、獻子は承知した。
  • 晉侯が齊を討ち、河を渡ろうとした。獻子は朱の糸で玉二枚を繋いで祈った。「齊の環(靈公)はその険を恃み、その衆を負み、好誼を棄て盟に背き、神主を陵虐しております。曾臣の彪(晉の平公)はまさに諸侯を率いて討とうとしております。その官臣である偃がまことに先導いたします。もし勝って功があれば、神の恥を作りますまい。官臣の偃はあえて再び渡りません。ただ神が裁かれよ」。玉を沈めて渡った。
  • 冬十月、魯の濟で会し、湨梁の言を継いで、ともに齊を討った。齊侯は平隂で防ぎ、防門に濠を掘って守った。幅一里であった。夙沙衞は「戦えぬなら険を守るに如くはありません」と言ったが聴かれなかった。諸侯の士が門に迫り、齊人は多く死んだ。
  • 范宣子は析文子に告げた。「私はあなたを知っている。あえて実情を隠そうか。魯人と莒人がみな車千乗をもってそれぞれの方面から入りたいと請い、すでに許した。もし入れば君は必ず国を失う。あなたはお図りなさい」。子家がこれを公に告げ、公は恐れた。晏嬰はこれを聞いて「君はもとより勇がなく、そのうえこれを聞いた。長くはもつまい」と言った。
  • 齊侯が巫山に登って晉軍を望んだ。晉人は司馬に山沢の険を調べさせ、至らぬ所にも必ず旗を立てて陣を疎らに見せ、車に乗る者は左に人を実らせ右に偽物を置き、旗を輿の先に立て、柴を曳かせて従わせた。齊侯はこれを見てその衆を畏れ、そこで抜け出して帰った。
  • 丙寅の晦、齊軍が夜のうちに逃げた。師曠は晉侯に「烏の声が楽しげだ。齊軍は逃げたのでしょう」と告げ、邢伯は中行伯に「馬の群れの声がする。齊軍は逃げたのだろう」と告げ、叔向は晉侯に「城上に烏がいる。齊軍は逃げたのでしょう」と告げた。
  • 十一月丁卯朔、平隂に入り、そのまま齊軍を追った。夙沙衞は大車を連ねて道を塞いで殿を務めた。殖綽と郭最は「あなたが国の軍の殿を務めるのは齊の恥だ。あなたはひとまず先に行かれよ」と言い、代わって殿を務めた。衞は隘路で馬を殺して道を塞いだ。
  • 晉の州綽が追いつき、殖綽を射て肩に当て、二本の矢が首を挟んだ。「止まれ。三軍の捕虜となれ。止まらねばその真ん中を射る」と言った。振り返って「私に誓え」と言い、州綽は「日のごとくあれ」と言った。そこで弓を緩め、後ろから縛った。その右の具丙もまた兵を捨てて郭最を縛った。二人とも甲を着けたまま後ろ手に縛られ、中軍の鼓の下に座らされた。
  • 晉人は逃げる者を追おうとしたが、魯と衞は険を攻めることを請うた。己卯、荀偃と士匄が中軍で京兹を落とし、乙酉、魏絳と欒盈が下軍で邿を落とし、趙武と韓起が上軍で盧を囲んだが落とせなかった。
  • 十二月戊戌、秦周に至り、雍門の萩を伐った。范鞅が雍門を攻め、その御者の追喜が戈で門中の犬を殺した。孟莊子はその橁の木を伐って公の琴とした。己亥、雍門と西郭・南郭を焼き、劉難と士弱が諸侯の軍を率いて申池の竹木を焼いた。壬寅、東郭・北郭を焼いた。范鞅が揚門を攻め、州綽が東閭を攻め、左の驂馬が門中で押し戻されたので、州綽は扉の鋲を数えてみせた。
  • 齊侯は車を出して郵棠へ走ろうとした。太子と郭榮が馬を押さえて「軍は速く進んで掠奪しております。やがて退くでしょう。君は何を懼れられます。しかも社稷の主は軽々しくあってはならぬ。軽ければ衆を失う。君は必ず待たれよ」と言った。犯そうとすると太子は剣を抜いて鞅を断ち、そこでやめた。
  • 甲辰、東へ濰まで侵し、南は沂に至った。
  • 楚は子庚に純門を攻めさせた。晉人は楚軍があると聞いた。師曠は「害はない。私はしばしば北風を歌い、また南風を歌った。南風は競わず、死の声が多い。楚は必ず功がない」と言った。董叔は「天道は多く西北にある。南の軍は時にかなわず必ず功がない」と言った。叔向は「その君の徳にある」と言った。

襄公十九年(前554年)

  • 春、諸侯が沂上から帰り、督揚で盟って「大は小を侵すなかれ」と誓った。晉侯が先に帰った。
  • 襄公は晉の六卿を蒲圃で饗応し、三命の服を賜った。軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄はみな一命の服を受けた。荀偃には束錦に璧を添え、乗馬に先立てて呉の壽夢の鼎を贈った。
  • 晉の欒魴が軍を率いて衞の孫文子に従い齊を討った。
  • 季武子が晉へ行って出兵を謝した。晉侯が饗応し、范宣子が政を執って黍苗を賦した。季武子は立って再拝稽首し、「小国が大国を仰ぐのは、百穀が恵みの雨を仰ぐようなものです。常に恵みを降されるなら天下は睦まじくなりましょう。我が国だけではありません」と言い、六月を賦した。
  • 季武子は齊から得た兵器で林鍾を作り、魯の功を銘した。臧武仲は季孫に言った。「礼ではありません。銘は、天子は令徳を、諸侯は時を言い功を計り、大夫は伐を称える。いま伐を称えるなら下の等級であり、功を計るなら人の力を借りたものであり、時を言うなら民を妨げたことが多い。何をもって銘とされるのか。しかも大が小を討ってその得たもので彝器を作り、その功烈を銘して子孫に示すのは、明徳を昭かにし無礼を懲らすためです。いま人の力を借りてその死を救われたのに、どうして銘するのですか。小国が大国に幸いを得て、得たものを見せびらかして怒らせるのは滅びの道です」。
  • 齊の靈公が卒し、晉の士匄が齊を侵して穀に至り、喪を聞いて引き返した。礼にかなう。
  • 冬十一月、西の外郭に城を築いた。齊を懼れたのである。
  • 齊が晉と和睦し、大隧で盟った。それで穆叔が范宣子と柯で会した。穆叔は叔向に会って載馳の第四章を賦した。叔向は「肸があえて命を承らぬわけがありません」と言った。穆叔は帰って「齊はまだ落ち着かない。懼れずにおれぬ」と言い、そこで武城に城を築いた。

襄公二十年(前553年)

  • 夏、澶淵で盟った。齊と和が成ったからである。
  • 蔡の公子燮が蔡を晉につけようとし、蔡人が殺した。公子履はその同母弟であったので楚へ亡命した。
  • 陳の慶虎と慶寅は公子黄の圧迫を畏れ、楚に「蔡の司馬と謀を同じくしている」と訴えた。楚人がこれを咎めたので、公子黄は楚へ亡命した。
  • はじめ蔡の文侯は晉に仕えようとして「先君は踐土の盟に加わった。晉を棄てられぬ。しかも兄弟の国だ」と言ったが、楚を畏れて実行できずに卒した。楚人は蔡に常なき要求をした。公子燮は先君の志に従って蔡を利しようとしたが果たせずに死んだ。経に「蔡その大夫公子燮を殺す」と書いたのは、民と欲を同じくしなかったからである。「陳侯の弟黄、楚へ出奔す」と書いたのは、その罪でないことをいう。
  • 公子黄が亡命するとき国中に呼ばわった。「慶氏は無道にも陳国を専らにしようとし、その君を暴虐に蔑ろにしてその親を除いた。五年で滅びなければ天はないというものだ」。
  • 齊子が初めて齊を聘問した。礼にかなう。

襄公二十一年(前552年)

  • 春、襄公が晉へ行って出兵を謝した。

襄公二十三年(前550年)

  • 春、杞の孝公が卒した。晉の悼夫人が喪に服したが、平公は楽を撤しなかった。礼に反する。礼では隣国のために欠くものである。
  • 陳侯が楚へ行った。公子黄が二慶を楚に訴え、楚人が召して慶樂を行かせると殺した。慶氏は陳をもって叛いた。
  • 夏、屈建が陳侯に従って陳を囲んだ。陳人が城を築き、版が落ちて人を殺した。役夫たちは互いに合図してそれぞれその長を殺し、そのまま慶虎と慶寅を殺した。楚人は公子黄を入れた。君子は「慶氏は不義であった。不義は恣にできぬ」と評した。だから経に「命は常に于てせず」と書いた。
  • 秋、齊侯が衞を討ち、衞からそのまま晉を討って朝歌を取り、平隂の役に報いた。八月、叔孫豹が軍を率いて晉を救い、雍榆に陣した。礼にかなう。

襄公二十四年(前549年)

  • 孟孝伯が齊を侵した。晉のためである。
  • 齊侯は晉を討ってから懼れ、楚子に会おうとした。楚子は薳啟彊を齊へ聘問に遣わし、あわせて期日を請わせた。齊は社で軍備を検閲し、客に見せた。陳文子は「齊には寇が来よう。私は聞いている、兵を収めねば必ずその族に及ぶと」と言った。
  • 秋、齊侯は晉軍が来ると聞き、陳無宇を薳啟彊に従わせて楚へ遣わし、断りを述べあわせて出兵を乞うた。崔杼が軍を率いて送り、そのまま莒を討って介根を侵した。
  • 夷儀で会し、齊を討とうとしたが水害で果たせなかった。
  • 冬、楚子が鄭を討って齊を救い、東門を攻めて棘澤に陣した。諸侯は引き返して鄭を救った。晉侯は張骼と輔躒に楚軍へ挑戦させ、鄭に御者を求めた。鄭人が宛射犬を卜すると吉と出た。子大叔は「大国の人とは張り合うな」と戒めたが、「衆寡にかかわらず、上に立つ者は同じです」と答えた。大叔は「そうではない。小さな丘に松柏は生えぬ」と言った。
  • 二人は幄の中に座り、射犬を外に座らせた。自分たちが食べてから食べさせ、広車を御して行かせ、自分たちはみな乗車に乗った。楚軍に近づいてから乗り移った。二人は轉に踞って琴を弾いた。近づいても告げずに馳せたので、二人は袋から兜を取って被った。塁に入るとみな降りて人と組み打ちして投げ、捕虜を収め囚人を挟み、待たずに出た。二人は跳び乗って弓を抜いて射た。免れると、また轉に踞って琴を弾いた。
  • 「公孫よ、同乗するのは兄弟だ。なぜ二度も相談しなかったのか」と言うと、「先ほどは突入することしか頭になく、今度は怯えていました」と答えた。二人は笑って「公孫は気が短い」と言った。
  • 楚子は棘澤から帰り、薳啟彊に軍を率いて陳無宇を送らせた。
  • 陳人が改めて慶氏の一党を討ち、鍼宜咎が楚へ亡命した。

襄公二十五年(前548年)

  • 春、齊の崔杼が軍を率いて魯の北境を討った。
  • 夏五月乙亥、齊の崔杼がその君の光を弑した。
  • 晉侯が泮から渡って夷儀で会し、齊を討って朝歌の役に報いた。齊人は莊公のことで釈明し、隰鉏を遣わして和を請うた。慶封が軍のもとへ行き、男女を身分ごとに並べて贈り、晉侯に宗器と楽器を賄賂とし、六正・五吏・三十帥・三軍の大夫・百官の正長・師旅および留守の者に至るまでみな贈物をした。晉侯は許し、叔向に諸侯へ告げさせた。襄公は子服惠伯に答えさせた。「君が罪ある者を措いて小国を靖んじられるのは君の恵みです。寡君は命を承りました」。
  • 秋七月己巳、重丘で同盟した。齊と和が成ったからである。

史論(士竒)

  • 晉の悼公は惠伯談の子、桓叔捷の孫、襄公の曾孫である。周に出て居り、早くから優れた誉があった。厲公が弑され、諸大夫が迎えて立てた。周にいたとき単襄公はその十一の美行を称え、その子の頃公に善く遇するよう託した。
  • 晉国に帰ったとき年はわずか十四。諸大夫が清原で迎えると、悼公は「人が君を持つのは命を出させるためである。立てておいて従わぬなら、君を何に用いるのか。あなた方が私を用いるのは今日、用いぬのも今日である」と言った。侃々たる数言で強臣悍将の気を圧するに足りた。すでに奇である。
  • その初政を見れば、不臣の者七人を追放し、六官を民の誉ある者から選び、施し捨てて負債を免じ、罪を宥し賦を薄くすることを順に行った。靈公・成公・景公・厲公が壊した紀綱を取り上げて刷新した。英風と偉略が一時を震わせた。それゆえ魯侯は会って心服し、杞伯は聞いてしきりに朝した。よく人を招き寄せ覇業を光復できたのも理由がある。
  • 中原の経略ではまず宋の叛臣を誅し、また魏絳の策を用いて内は戎狄と和し、辺境を騒がせず民事を修めた。それゆえ一意に南へ向かい楚と勢力を争い、諸侯の頼りとなり得た。
  • 楚を制したのは、虎牢や梧・制の城が鄭の腹心を押さえたことにあるのではなく、知大夫が精鋭を分けて迎え撃ち軍を返して楚を疲れさせる計にある。楚の鋒は剽悍で力では争えない。晉が河山の兵をことごとく挙げて一戦を決し、幸いに勝っても、楚が再挙を謀らぬとは限らない。行き来すればその勢いは両方が疲れる。ただ少をもって多を制し、楚を奔命に疲れさせれば、久しくして衰え止み、鄭のために数十年の肩の荷を下ろせる。この計が行われて楚は果たして坐して屈し、三度出兵して功が成った。左の割符を執るように確かであった。
  • 甚だしいことに、晉の覇の成立は絳(魏絳)が始め罃(荀罃)が終えたのに、金石の賜物は絳にだけ及んで罃に及ばなかった。なぜか。
  • 鄭が心を傾けたのは、ただ悼公が至誠をもって遇したからである。囚人を礼し掠奪を禁じ、鄭人を自国民と同じに扱った。木石でない限り、誠に感じて動かぬ者はない。蕭魚以後、三度楚軍を経ても鄭は叛かなかった。南風が競わず天道が西北に多かったとはいえ、鄭が一心に晉についていなければ、楚と会するのが二十四年後まで遅れたはずがない。
  • ただ恨めしいのは、悼公ほどの賢者が、東門で款を納れられたときに力を尽くして鄭の賄賂を斥け天下に義を示すことができず、その歌鍾・鎛磬・女楽十六人に溺れたことである。春秋の世は貪り冒すのが風となり賢者も免れなかったが、晉国はことに甚だしい。嘆かわしいことである。
  • また異なことがある。文公・襄公の覇はみな王室を先とした。文公は出て襄王を定め、襄公は温で王に朝した。いずれも晉自らの事である。まして悼公はかつて周の単氏に託されて善く遇され、必ず晉国に帰ると見抜かれて礼された。それなのに悼公は五度合わせ六度集めながら、一事として王室に関わったと聞かない。ただ雞丘の盟に王臣が加わっただけで、しかもそれは分を汚すもので訓とはできぬ。悼公は資質に明るく学に暗かったのだろうか。
  • 鄭を取ることに巧みで陳を撫することに拙く、楚を柔らげることに巧みで齊を服させることに疎かった。英毅の気は始めに鋭く終わりに怠り、宣子が羽毛を借りる事件が起こり、ついに齊を失って悼公も没した。邢丘で政を委ね、湨梁の会は大夫が主宰した。姑息が患いを遺したのも、悼公の盛徳の傷である。
  • やがて公子黄が入って楚が横暴となり、朝歌が取られて齊が大きくなり、夷儀の役はまた利によって崩れて天下の笑いものとなった。平公以下、晉の覇は見るべきものがない。悼公のような者は、まことに賢君ではないか。