左傳紀事本末晉と楚の弭兵(晉楚弭兵)
宋の向戌が斡旋して晉と楚が兵を止めた「弭兵の会」とその後を、襄公二十五年(前548年)から昭公元年(前541年)まで扱う篇。趙武が政を執って諸侯の幣を薄くし礼を重んじ、向戌が晉・楚・齊・秦を説いて襄公二十七年(前546年)に宋の西門の外で盟が結ばれた。楚の子木は甲を衣の下に着け、盟の先を争って楚が先歃した。宋の子罕は「兵は除けぬ」として左師の賞を退けた。以後、諸侯は交互に楚へ朝することとなり、鄭の子産や魯の穆叔がその礼を論ずる。昭公元年(前541年)の虢の会で盟は継がれたが、直後に季武子が莒を討ち、叔孫豹は財を惜しんで難を免れた。
年表(7件)
- 襄公二十五年前548年趙文子が政を執り、諸侯の幣を薄くして礼を重んじ、兵の止むことを見通す
- 襄公二十六年前547年許の靈公の請いで楚子が鄭を討ち、子産が防がぬよう説く
- 襄公二十七年前546年宋の西門の外で弭兵の盟が成り、子罕が左師の賞を退ける
- 襄公二十八年前545年諸侯が宋の盟によって晉に朝し、子産が壇を作らぬ理由を説く
- 襄公二十九年前544年襄公が楚で襚を献じさせられ、穆叔の計で殯を祓ってから行う
- 襄公三十一年前542年北宮文子が衞侯の相として楚へ行く
- 昭公元年前541年虢の会で盟を継ぎ、魯の莒討伐を趙孟が楚に請うて叔孫豹を免れさせる
襄公二十五年(前548年)
- 趙文子が政を執り、諸侯の幣を薄くしその礼を重んずるよう命じた。穆叔が会うと、文子は「今より後、兵はやや止むだろう。齊の崔氏・慶氏は新たに政を得て諸侯に善しみを求めよう。武(趙武)は楚の令尹を知っている。敬んでその礼を行い、文辞をもって導いて諸侯を靖んずれば、兵は止められる」と言った。
- 楚の薳子馮が卒し、屈建が令尹、屈蕩が莫敖となった。
襄公二十六年(前547年)
- 許の靈公が楚へ行って鄭討伐を請い、「軍が起こらねば孤は帰らぬ」と言った。八月、楚で卒した。楚子は「鄭を討たずして、どうして諸侯を求めよう」と言った。
- 冬十月、楚子が鄭を討った。鄭人が防ごうとすると、子産は「晉と楚はやがて和し、諸侯はやがて楚王に和すだろう。それゆえ一度の来襲に目をつぶり、思いを遂げさせて帰らせるほうがよい。和が成りやすくなる。小人の性は勇に釁を求め禍を惜しむ。自らの性を満たして名を求める者は国家の利ではない。どうして従えよう」と言った。子展は喜び、寇を防がなかった。
- 十二月乙酉、南里に入ってその城を毀ち、樂氏の渡しを渡り、師之梁の門を攻めた。懸門が下ろされ、九人を捕らえた。汜を渡って帰った。その後で許の靈公を葬った。
襄公二十七年(前546年)
- 宋の向戌は趙文子と善く、また令尹の子木とも善かった。諸侯の兵を止めて名を成そうとし、晉へ行って趙孟に告げた。趙孟が諸大夫に謀ると、韓宣子は「兵は民を損なうもの、財用を食うもの、小国の大きな災いです。誰かがそれを止めようというなら、たとえ無理と分かっていても必ず許すべきです。許さねば楚が許して諸侯を召し、我らは盟主を失いましょう」と言った。晉人は許した。
- 楚へ行くと楚も許し、齊へ行くと齊人は難色を示した。陳文子は「晉と楚が許した。我らがどうして已められよう。しかも人が『兵を止めよう』と言うのに我らが許さねば、まことに我が民を離れさせる。何に用いよう」と言い、齊人も許した。秦に告げると秦も許した。みな小国に告げ、宋で会することとなった。
- 五月甲辰、晉の趙武が宋に至った。丙午、鄭の良霄が至った。六月丁未朔、宋人が趙文子を饗応し、叔向が介を務めた。司馬が折俎を置いた。礼にかなう。仲尼はこの礼を挙げさせ、文辞が多いとした。
- 戊申、叔孫豹・齊の慶封・陳須無・衞の石惡が至った。甲寅、晉の荀盈が趙武に従って至った。丙辰、邾の悼公が至った。壬戌、楚の公子黑肱が先に至って晉と言葉を交わした。丁卯、宋の向戌が陳へ行き、子木に従って楚と言葉を交わした。戊辰、滕の成公が至った。
- 子木は向戌に、晉と楚に従う国が互いに相見えることを請うた。庚午、向戌が趙孟に伝えると、趙孟は「晉・楚・齊・秦は対等である。晉が齊を従えられぬのは、楚が秦を従えられぬのと同じだ。楚君が秦君を我が国へ辱くも来させられるなら、寡君はあえて齊に固く請わぬわけがない」と言った。壬申、左師(向戌)が子木に伝え、子木は早馬で王に告げた。王は「齊と秦を除き、他の国は相見えることを請う」と言った。
- 秋七月戊寅、左師が至った。この夜、趙孟と子晳(公子黑肱)が盟い、齊の件を確かめた。庚辰、子木が陳から至り、陳の孔奐、蔡の公孫歸生が至り、曹と許の大夫もみな至った。垣を巡らせて陣とし、晉と楚がそれぞれ一方に位置した。
- 伯夙が趙孟に「楚の気配が甚だ悪い。難を懼れます」と言うと、趙孟は「私は左へ回って宋に入る。我らをどうしよう」と言った。
- 辛巳、宋の西門の外で盟おうとしたとき、楚人が衣の下に甲を着けていた。伯州犂は「諸侯の軍を合わせて不信をなすのは、よろしくないのでは。諸侯は楚に信を望んで来て服したのです。もし信がなければ、諸侯を服させた所以を棄てることになります」と言い、固く甲を外すことを請うた。子木は「晉と楚に信がなくなって久しい。事が利であればよい。志さえ得られれば、信など何に用いよう」と言った。太宰(伯州犂)は退いて人に「令尹は死ぬだろう。三年ももつまい。志を遂げようとして信を棄てた。志が遂げられようか。志は言を発し、言は信を出し、信は志を立てる。三つで定まるのだ。信が亡べば、どうして三年に及ぼう」と言った。
- 趙孟は楚が甲を着けていることを患えて叔向に告げた。叔向は言った。「何の害がありましょう。匹夫が一度不信をなしてさえ許されず、ただ一人で斃れて死ぬ。まして諸侯の卿を合わせて不信をなせば、必ず成りますまい。言を食む者が病むのであって、あなたの患いではありません。信をもって人を召しながら僭りをもって済まそうとすれば、必ず誰も与しません。どうして我らを害せましょう。しかも我らは宋に拠って守ります。窮すればあの者たちは死を致すでしょう。宋と死を致せば、楚が倍でもよろしい。何を懼れられます。しかもそこまでは至りません。『兵を止める』と言って諸侯を召しながら兵を挙げて我らを害するなら、我らの功は多い。患うところではありません」。
- 季武子は叔孫に公命として「邾・滕に准ぜよ」と伝えさせた。まもなく齊人が邾を、宋人が滕をそれぞれ自国の属国として盟に加えなかった。叔孫は「邾と滕は人の私属である。我らは列国だ。なぜそれに准ずるのか。宋と衞が我らの匹敵だ」と言い、そこで盟った。だから経にその族名を書かない。命に違ったことをいう。
- 晉と楚が先を争った。晉人は「晉はもとより諸侯の盟主である。晉に先んじた者はない」と言った。楚人は「あなたは晉と楚は対等だと言われた。もし晉が常に先なら、それは楚が弱いということだ。しかも晉と楚が交互に諸侯の盟を主宰して久しい。どうして晉の専有であろう」と言った。
- 叔向は趙孟に「諸侯が帰するのは晉の徳であって、盟を主宰することではありません。あなたは徳に務め、先を争われますな。しかも諸侯の盟では小国が必ず盟を主宰する。楚が晉にとっての小役を務めるのも、よいではありませんか」と言い、そこで楚人を先にした。経に晉を先に書いたのは、晉に信があったからである。
- 壬午、宋公が晉と楚の大夫をあわせて饗応した。趙孟が主賓となった。子木が語りかけても答えられなかったので、叔向を侍らせて語らせると、子木もまた答えられなかった。
- 乙酉、宋公と諸侯の大夫が蒙門の外で盟った。子木が趙孟に「范武子の徳はいかがか」と問うと、「あの方は家事が治まり、晉国で言うのに隠す情がなく、その祝史は鬼神に信を陳べて愧じる辞がなかった」と答えた。子木は帰って王に語り、王は「上等だ。神と人を歆けさせられる。五君を輔けて盟主となったのも当然だ」と言った。子木はまた王に「晉が覇となるのも当然です。叔向があってその卿を輔けている。楚にはそれに当たる者がない。争えません」と語った。
- 晉の荀盈がそのまま楚へ行って盟に臨んだ。
- 宋の左師が賞を請い、「死を免れる邑をお願いします」と言った。公は邑六十を与え、それを子罕に示した。子罕は言った。
- 「およそ諸侯の小国は、晉と楚が兵で威すので、畏れてはじめて上下が慈しみ和す。慈しみ和してはじめて国家を安靖して大国に仕えられる。存続する所以です。威がなければ驕り、驕れば乱が生じ、乱が生じれば必ず滅ぶ。滅びる所以です。天は五材を生じ民はともにこれを用いる。一つを廃してもならぬ。誰が兵を除けよう。兵が設けられて久しく、不軌を威し文徳を昭かにする所以です。聖人はこれによって興り、乱人はこれによって廃る。廃興存亡・昏明の術はみな兵によるのに、あなたはそれを除こうという。誣いではありませんか。誣いの道で諸侯を蔽うのは、これ以上の罪はない。大きな討伐がなかっただけでもよいのに、そのうえ賞を求めるとは、飽くことを知らぬこと甚だしい」。
- そして竹簡を削って投げ捨てた。左師は邑を辞退した。向氏は司城を攻めようとしたが、左師は「私は滅ぶところだったのを、あの方が救ってくださった。これ以上の徳はない。攻めてよいものか」と言った。君子は「『彼の己の子、邦の司直』とは樂喜のことか。『何をもって我を恤まん、我それこれを収めん』とは向戌のことか」と評した。
- 楚の薳罷が晉へ行って盟に臨んだ。晉侯が饗応し、退出しようとするとき既醉を賦した。叔向は「薳氏が楚国に後を残すのも当然だ。君命を承けて敏を忘れない。子蕩はやがて政を知るだろう。敏をもって君に仕えれば必ずよく民を養える。政がどこへ行こうか」と言った。
襄公二十八年(前545年)
- 夏、齊侯・陳侯・蔡侯・北燕伯・杞伯・胡子・沈子・白狄が晉に朝した。宋の盟のためである。齊侯が出発しようとすると慶封は「我らは盟に加わっていない。晉に何の用がありましょう」と言った。陳文子は「事を先にし賄を後にするのが礼です。小が大に仕えて仕える機会を得られぬなら、従って志のままにするのが礼です。盟に加わらずとも、あえて晉に叛けましょうか。重丘の盟をまだ忘れられません。行くことを勧められよ」と言った。
- 蔡侯が晉から帰る途中、鄭に入った。鄭伯が饗応したが不敬であった。子産は言った。「蔡侯は免れまい。先にここを通られたとき、君は子展に東門の外で労わせた。私に傲って『いずれ改めよう』と言われた。いま帰路に饗を受けて怠っている。それがその本心だ。君として小国が大国に仕えながら怠り傲るのを自分の心とするなら、真っ当な死を得られようか。免れぬなら必ずその子による。その君たるや淫らで父らしくない。僑は聞いている、このような者には常に子の禍がある」。
- 孟孝伯が晉へ行き、宋の盟のゆえに楚へ行くと告げた。
- 蔡侯が晉へ行ったとき、鄭伯は游吉を楚へ遣わした。漢に至って楚人は帰らせ、「宋の盟には君自らかたじけなくも臨まれた。いまあなたが来られた。寡君はあなたにひとまず帰るよう言われる。我らは早馬で晉に問うて告げよう」と言った。
- 子大叔は言った。「宋の盟で君は『小国を利し、あわせてその社稷を安定させ、その民人を鎮撫し、礼をもって天の恵みを承ける』と命じられました。これが君の憲令であり小国の望みです。寡君はそれゆえ吉に皮幣を奉じさせ、歳が安からぬのを理由に下執事に聘問させたのです。いま執事に『お前が何で政令に与るのか。必ずお前の君に封守を棄てさせ、山川を跋渉し霜露を冒して君の心を満たさせよ』との命がある。小国は君を頼みとしております。命に従わぬわけがありません。しかしそれは盟書の言に反して君の徳を欠かせ、執事にも不利ではありませんか。小国はそれを懼れます。そうでなければ、どんな労も厭いはいたしません」。
- 子大叔は帰って復命し、子展に告げた。「楚子は死ぬだろう。その政徳を修めず、諸侯を貪り昧まして願いを遂げようとしている。長く保てようか。周易にある。復の頤に変ずるのに『迷復は凶』とある。楚子のことか。願いを遂げようとしてその本を棄てる。復って帰る所がない。これが迷復である。凶でなくおれようか。君は行かれよ。葬儀を送って帰り、楚の心を快くしましょう。楚は十年近く諸侯を憐れむ余裕がありますまい。我らはそこで民を休められます」。
- 裨竈は「今年、周王と楚子はともに死ぬだろう。歳星がその次を棄てて翌年の次に宿り、鳥帑を害する。周と楚がこれに当たる」と言った。
- 鄭の游吉が晉へ行き、楚へ朝すると告げた。宋の盟に従うためである。子産が鄭伯の相として楚へ行き、宿営に壇を作らなかった。外僕が「昔、先の大夫が先君の相として四国へ赴いたとき、壇を作らぬことはありませんでした。それ以来今日まで皆それに従っております。いまあなたが草の上に宿られるのは、よろしくないのでは」と言った。
- 子産は言った。「大が小へ行けば壇を作る。小が大へ行けば、ただ宿るだけだ。何に壇を用いよう。僑は聞いている、大が小へ行くには五つの美がある。その罪戻を宥し、その過失を赦し、その災患を救い、その徳と刑を賞し、その及ばぬところを教える。小国は困らず、懐き服して帰るがごとし。それゆえ壇を作ってその功を昭かにし、後人に告げて徳に怠らぬようにする。小が大へ行くには五つの悪がある。その罪戻を釈明し、その足りぬところを請い、その政事を行い、その職貢を供し、その時々の命に従う。そうでなければ幣帛を重くしてその福を賀しその凶を弔う。みな小国の禍である。どうして壇を作ってその禍を昭かにしよう。子孫に告げて禍を昭かにするなと言うのがよい」。
- 宋の盟のゆえに、襄公は宋公・陳侯・鄭伯・許男とともに楚へ行った。襄公が鄭を通ったとき鄭伯は不在であった。漢に至って楚の康王が卒した。襄公は引き返そうとした。叔仲昭伯は「我らは楚国のためであって、一人のために行くのではありません」と言った。子服惠伯は「君子には遠慮があり、小人は近きに従う。飢寒すら憐れめぬのに、誰がその後を思う暇があろう。ひとまず帰るに如くはない」と言った。叔孫穆子は「叔仲子が正しい。子服子は学び始めの者だ」と言い、榮成伯は「遠く図るのが忠である」と言った。襄公はそのまま行った。
- 宋の向戌は「我らは一人のためであって楚のためではない。飢寒すら憐れめぬのに、誰が楚を憐れめよう。ひとまず帰って民を休め、その君が立つのを待って備えるがよい」と言い、宋公はそのまま引き返した。
- 楚の屈建が卒し、趙文子は同盟国の礼で喪に服した。礼にかなう。
襄公二十九年(前544年)
- 春正月、襄公は楚にいた。廟で正月の朝を行わなかったことを釈明したのである。
- 楚人は襄公に自ら襚(死者への衣)を献じさせようとした。襄公はこれを患えた。穆叔は「殯を祓ってから襚すれば、幣を布くのと同じです」と言い、そこで巫に桃の枝と茢で先に殯を祓わせた。楚人は禁じなかったが、まもなく後悔した。
- 夏四月、楚の康王を葬った。襄公と陳侯・鄭伯・許男が送葬して西門の外に至り、諸侯の大夫はみな墓まで至った。
襄公三十一年(前542年)
- 十二月、北宮文子が衞の襄公の相として楚へ行った。宋の盟のためである。
昭公元年(前541年)
- 楚の公子圍が鄭を聘問し、そのまま虢で会した。宋の盟を継いだのである。
- 祁午は趙文子に言った。「宋の盟で楚人は晉に対して志を得ました。いま令尹に信がないことは諸侯の聞き知るところです。あなたが戒め懼れられねば、また宋のときのようになりましょう。子木は信を諸侯に称えられながら、なお晉を欺いて上に立った。まして信のなさが甚だしい者は。楚が重ねて晉に志を得るのは晉の恥です。あなたが晉国の相として盟主となって七年、二度諸侯を合わせ三度大夫を合わせ、齊と狄を服させ、東夏を寧んじ、秦の乱を平らげ、淳于に城を築いた。軍は疲れず国家は罷れず、民に謗る言葉なく、諸侯に怨みなく、天に大災なし。あなたの力です。令名があります。それを恥で終えられるのを午は懼れます。戒められねばなりません」。
- 文子は答えた。「武は賜物を受けた。しかし宋の盟で子木には人に禍する心があり、武には人を仁とする心があった。それが楚が晉の上に立った所以だ。いま武はなおこの心である。楚がまた僭りを行っても害するところではない。武は信を本として、それに循って行おう。譬えれば農夫が土を寄せ草を取るようなもの。飢饉があっても必ず豊年がある。しかも私は聞いている、信を能くする者は人の下にならぬと。私はまだ能くしていない。詩に『僭らず賊わず、則とならぬは稀なり』とあるのは信である。人の則となれる者は人の下にならぬ。私が能くできぬのが難であって、楚は患いではない」。
- 楚の令尹圍が犠牲を用い、旧書を読んで犠牲の上に置くだけにすることを請い、晉人は許した。
- 季武子が莒を討って鄆を取った。莒人が会に訴え、楚が晉に「盟を継いだばかりでまだ退いてもいないのに魯が莒を討った。斉しい盟を汚すものだ。その使者を戮せられたい」と告げた。
- 樂桓子は趙文子の相を務めており、叔孫から財を得て取りなそうとして帯を求めたが与えられなかった。梁其踁が「財は身を守るもの。何を惜しまれるのです」と言うと、叔孫はこう答えた。「諸侯の会は社稷を守るためだ。私が財で免れれば魯は必ず軍を受ける。それは禍をもたらすことだ。何が守りであろう。人に牆があるのは悪を蔽うためだ。牆に隙ができ壊れるのは誰の咎か。守るべきものを悪しくするなら、私はさらに甚だしい。季孫を怨んでも魯国に何の罪があろう。叔氏が出て季氏が留まるのは古くからのこと。私が誰を怨もう」。しかし鮒(樂桓子)は財を得ねば止まなかったので、使者を呼んで裳の帛を裂いて与え、「帯としては狭かろう」と言った。
- 趙孟はこれを聞いて「患いに臨んで国を忘れぬのは忠、難を思って官を越えぬのは信、国を図って死を忘れるのは貞、三つを主として謀るのは義である。この四つがある者を、なお戮せようか」と言い、そこで楚に請うた。
- 「魯に罪はあるが、その執事は難を避けず、威を畏れて命を敬んでいる。あなたが免じて左右を勧められるのがよろしい。もしあなたの群吏が、居ては汚れを避けず、出ては難を逃れぬなら、何の患いがありましょう。患いの生ずるところは、汚れて治めず難があって守らぬことによる。この二つを能くする者を、何を患えましょう。その能ある者を靖んじなければ、誰が従いましょう。魯の叔孫豹は能ある者といえます。免じて能ある者を靖んずることを請います。あなたが会して罪ある者を赦し、そのうえその賢を賞されれば、諸侯の誰が欣ばずにおりましょう。楚を望んで帰し、遠きを近きのごとく見ましょう。
- 国境の邑は彼になり此になり、何の常がありましょう。王者・覇者の令は、その封疆を引いて官を置き、標旗を掲げて制令に著すが、過てば刑がある。それでも一つにはできません。だから虞に三苗があり、夏に観・扈があり、商に姺・邳があり、周に徐・奄がありました。令ある王がいなくなって以来、諸侯が次々進んで交互に斉しい盟を主宰する。また一つにできましょうか。大を憂え小を捨てれば盟主となるに足ります。どうしてそれを用いましょう。封疆の削られることは、どの国にもあること。斉しい盟を主宰する者に誰が弁別できましょう。呉と濮に隙があれば、楚の執事はどうして盟を顧みましょう。莒の境の事は楚が関知せず、諸侯を煩わせぬのがよいのでは。莒と魯が鄆を争って久しい。その社稷に大害がなければ咎め立てせずともよい。煩わしさを除き善を宥せば、競って励まぬ者はありません。あなたはお図りください」。
- 固く楚に請い、楚人は許した。そこで叔孫は免れた。
史論(士竒)
- 晉と楚が覇を争って以来、天下は戦闘の止まぬことに苦しんだ。ここに至って軍は武を尽くし謀臣は智を尽くし、みな倦んで休息を思うようになった。たまたま趙文子が令尹の子木と善く、宋の向戌がまた二人と交わってその間を取り持った。これが弭兵の好誼の由来である。
- そもそも兵は民を損なうもの、財用を食うものである。晉・楚・齊・秦が果たして兵を罷めて好誼を結べたなら、誰がそれを数世の利でないと言おう。
- しかし兵が除けぬのは久しい。宋の子罕が左師を責めた言葉は甚だ明晰である。まして兵を止めるなら必ず信を用いなければならぬ。楚を信じられようか。西門で盟うのに子木は甲を衣の下に着けて争い、伯州犂が止めても聴かなかった。その言に「事が利であればよい。志さえ得られれば信など何に用いよう」とある。事の始めから楚人の狡さがすでに現れている。もし趙武も子木と同じであったなら、西門の外はそのまま戦場となり、弭兵の約はどこへ行ったか。
- しかもその中でことに不都合なことがある。楚が天下に僭称の悪名を負って一日ではない。諸侯はその勢いを畏れてひそかに従っても、その心はなお覇主の後日の議を畏れていた。楚が平然と諸侯の和を受けても、その心には必ず憚るところがあって安んじなかったはずである。ところが好誼を合わせることになって、諸侯の従う者が交互に楚で相見えることとなり、内外の区別がなくなり、冠と履の倒置を放置した。大防を紊し大分を蔑ろにすることこれ以上のものはない。
- ゆえに当時、兵を止めようとするなら、必ず楚に僭号を削らせ周へ職貢を修めさせてから好誼を結ぶべきであった。そうでなければ楚には近づけぬ。楚に近づけぬなら兵は止められぬ。それなのに楚を防ぐ備えを捨てて荊蛮を壇坫に進め、中原の冠帯の邦が相率いて朝することになった。魯公が自ら襚を献じたのを辱めとするのも、まことに大きい。
- 諸大夫は大局に暗く、虚名を貪って実害を忘れた。子罕は兵が止められぬことを知っていたが、止められぬ理由が楚にあって兵にあるのではないことを知らなかった。虢の会でなお旧書を読み、趙武は最後まで弭兵の信を守った。賢者ではある。しかし楚が交互に諸侯を主宰することを許したのは、先の大夫が力を合わせて楚を攘った姿から見れば、恥ずかしくないだろうか。
- 盟を継いだばかりでまだ退かぬうちに魯が莒を討った。不信の甚だしきを、まず中国が楚に対して開いたのである。何を誅せよう。