左傳紀事本末齊の五公子が位を争う(齊五公子爭立)

齊の桓公の没後、その子たちが位を争って相次いで君となった経緯を、僖公二年(前658年)から文公十八年(前609年)まで追う篇。桓公は孝公を宋の襄公に託しながら、易牙と寺人貂の求めに従って長子の無虧を立てることも許した。管仲が卒すると五公子が争い、桓公の死後、易牙らが群吏を殺して無虧を立て、孝公は宋へ亡命した。宋の襄公が孝公を擁して齊を討ち、無虧は殺され、孝公が立つ。以後、昭公・懿公・惠公と、桓公の子五人が前後して国主となった。懿公は邴歜と閻職に竹林で弑され、齊人が公子元(惠公)を立てた。

年表(10件)

僖公二年(前658年)

  • 齊の寺人貂が、多魚で初めて軍の機密を漏らした。

僖公十七年(前643年)

  • 齊侯の夫人は王姫・徐嬴・蔡姫の三人であったが、いずれも子がなかった。齊侯は女色を好み、寵愛する女が多く、夫人並みの内嬖が六人いた。長衞姫が武孟を、少衞姫が惠公を、鄭姫が孝公を、葛嬴が昭公を、密姫が懿公を、宋の華子が公子雍を生んだ。
  • 桓公と管仲は孝公を宋の襄公に託して太子とした。雍巫(易牙)は衞の共姫に寵愛され、寺人貂を通じて桓公に料理を献じて寵を得、武孟を立てることを願うと、桓公は許した。
  • 管仲が卒すると五公子がみな立とうと争った。冬十月乙亥、齊の桓公が卒すると、易牙が入って寺人貂とともに内寵の力を借りて群吏を殺し、公子無虧を立てた。孝公は宋へ亡命した。

僖公十八年(前642年)

  • 春、宋の襄公が諸侯を率いて齊を討った。三月、齊人が無虧を殺した。
  • 齊人は孝公を立てようとしたが四公子の徒党に勝てず、そこで宋人と戦った。夏五月、宋は甗で齊軍を破り、孝公を立てて引き上げた。

僖公二十六年(前634年)

  • 東門襄仲と臧文仲が楚へ行って出兵を乞うた。
  • 冬、僖公が楚軍を率いて齊を討ち、榖を取った。およそ軍を自在に動かせる場合を「以」という。桓公の子の雍を榖に置き、易牙が補佐して魯の後ろ盾とし、楚の申公叔侯が守備した。桓公の子七人が楚で七大夫となった。

僖公二十七年(前633年)

  • 夏、齊の孝公が卒した。齊に対する怨みがあったが喪の礼を廃さなかった。礼にかなう。

文公十四年(前613年)

  • 子叔姫が齊の昭公の妃となり、舎を生んだ。叔姫には寵がなく、舎にも威がなかった。公子商人はしきりに国中に施しをし、多くの士を集め、自家の財を使い果たすと公の有司から借りて続けた。
  • 夏五月、昭公が卒し、舎が即位した。
  • 秋七月乙卯の夜、齊の商人が舎を弑して元に譲った。元は「お前がそれを求めて久しい。私はお前に仕えられる。お前を使えば恨みを多く蓄えることになり、私を許すまい。お前がやれ」と言った。
  • 彗星が北斗に入った。周の内史叔服は「七年を出ずして宋・齊・晉の君はみな乱で死ぬだろう」と言った。
  • 齊人が懿公を定め、使者を送って難を告げてきたので、九月と書いた。齊の公子元は懿公の政を認めず、ついに「公」と言わず「あの男」と言った。
  • 襄仲は王に告げさせ、王の権威によって昭姫を齊から取り戻すことを請い、「その子を殺しておいてその母を用いる必要があろうか。引き取って罪を問いたい」と言った。冬、単伯が齊へ行って子叔姫を請うたが、齊人は単伯を捕らえ、さらに子叔姫も捕らえた。

文公十五年(前612年)

  • 春、季文子が晉へ行った。単伯と子叔姫のためである。
  • 齊人は単伯の請いを認めて赦し、使者を送って復命させた。経に「単伯至自齊」と書いたのは尊んだのである。
  • 齊人が子叔姫を返してきた。王のためである。
  • 齊人が魯の西境を侵した。諸侯は何もできまいと考えたのである。そのまま曹を討ってその外郭に入った。曹が来朝したことを咎めたのである。
  • 季文子は言った。「齊侯は免れまい。自らは無礼でありながら礼ある者を討ち、『お前はなぜ礼を行うのか』と言うようなものだ。礼は天に順うもので、天の道である。自らは天に背きながら人を討つのでは、免れがたい。詩に『どうして互いに畏れぬのか、天を畏れぬのか』とある。君子が幼く賤しい者を虐げないのは天を畏れるからである。周頌に『天の威を畏れ、ここにこれを保つ』とある。天を畏れずして何を保てよう。乱によって国を取り、礼を奉じて守ってもなお終わりを全うできぬのを懼れるべきなのに、無礼を重ねては存続できまい」。

文公十六年(前611年)

  • 春正月、齊と和睦した。文公は病んでいたので、季文子を遣わして陽榖で齊侯と会し盟を請わせたが、齊侯は「君の快復を待たれよ」と言って承知しなかった。
  • 夏五月、文公は四度視朔を行わなかった。病のためである。
  • 文公は襄仲を遣わして齊侯に賄賂を納めさせ、それで郪丘で盟った。

文公十七年(前610年)

  • 夏四月癸亥、声姜を葬った。齊の難があったので遅れたのである。
  • 齊侯が魯の北境を討ち、襄仲が盟を請うた。六月、榖で盟った。
  • 襄仲が齊へ行って榖の盟を謝し、帰って復命して言った。「臣は齊人が魯の麦を食おうとしていると聞きました。臣が見るところ、できますまい。齊君の言葉は軽薄です。臧文仲の言に『民の主が軽薄なら必ず死ぬ』とあります」。

文公十八年(前609年)

  • 春、齊侯が出兵の期日を触れたが病んだ。医者は「秋までもたずに死ぬ」と言った。文公はこれを聞いて卜し、「期日まで持たぬように」と祈った。惠伯が亀に命じ、卜楚丘が占って「齊侯は期日まで持ちません。しかし病のせいではない。君もこれをお聞きにならぬがよい。亀に命じた者に咎があります」と言った。
  • 齊の懿公が公子であったころ、邴歜の父と田を争って勝てなかった。即位すると墓を掘り起こして足を斬り、歜を御者とした。また閻職の妻を宮に入れ、職を陪乗させた。
  • 夏五月、懿公が申池に遊んだとき、二人は池で水浴びした。歜が鞭で職を打った。職が怒ると、歜は「人に妻を奪われて怒らぬ者が、一度打たれたくらいで何を傷つこう」と言った。職は「父の足を斬られて苦にしない者はどうなのだ」と言った。そこで懿公の弑害を謀り、竹林の中で殺し、帰って爵を並べて置いてから立ち去った。齊人は公子元を立てた。
  • 秋、襄仲と莊叔が齊へ行った。惠公が立ったからである。

史論(士竒)

  • 無知の禍は桓公自身が経験したことである。首止で会して人倫を定め、嫡子を替えるなと禁じたのだから、国本の重さを知らなかったわけではない。それなのに自らを謀ることに暗く、儲君の決定を果たさず、隠語にいう「三難」に至った。
  • 桓公に嫡子はなく、諸姫の生んだ子が六人。長を無虧、次を惠公、次を孝公、次を昭公、次を懿公、次を公子雍という。無虧が立つべきなのに、桓公と管仲は孝公を宋の襄公に託して太子とした。ところが雍巫が衞の共姫に寵愛され、易牙を通じて料理を献じるようになると、無虧を立てることも許した。碁を打つのに石を挙げたまま置き場所を決められぬような愚を犯したとはいえ、無虧は長子であり、もとより正式の遺命であった。
  • しかし無虧に立つことを許しながら儲位を正さず、孝公を廃する命も出さなかったので、宋の襄公に口実を与え、その勢いは必ず争いに至る。要するに一念の閨房の私情が纏綿して決断できず、それが実は禍の階段となったことに気づかなかったのである。
  • 桓公が死んで無虧が立ち、国人はこぞって奉じ、年を越えて君となった。宋の襄公が孝公を擁して討ちに来たとき、辞令をもって諭してもよく、齊国の衆を挙げて拒んでもよく、拒みきれねば無虧を奉じて出、上は天王に告げ下は方伯に訴えて徐々に復位を図ってもよかった。それを一戦に敗れただけで無虧を殺す口実にするとは、齊にはもう人がいなかったのか。
  • しかも孝公は簒奪して立ち、その後を継いだのが昭公である。昭公は舎を生み、商人に弑された。商人が懿公である。懿公は歜と職に弑され、公子元が継いだ。これが惠公である。桓公の子五人が前後してその国の主となったのも一つの異例である。
  • 管仲は諫めが行われ言が聴かれたので、威を取り覇を定める始めにそれを得られた。しかし覇業が成ると桓公は小人と馴れ親しみ、死に臨んでの丁寧な諫言も拒まれて入らなかった。憂患のときに言えば功を成しやすく、安楽のときに言えば力を及ぼしにくいということではないか。ああ、嘆かわしいことである。