左傳紀事本末齊の桓公の覇業(齊桓公之伯)
齊の桓公が管仲を得て覇業を成し、その死までを追う篇。桓公二年(前710年)の楚への懼れから、僖公十九年(前641年)に諸侯が桓公の徳を忘れぬよう齊で盟うまで。莒から帰って立った小白は、鮑叔の推挙で管仲を相とし、北杏・鄄・幽と会盟を重ねて莊公十五年(前679年)に初めて覇となった。邢を夷儀へ、衞を楚丘へ移し、杞を緣陵へ移して患いを救い、山戎を討ち、僖公四年(前656年)には八国の軍で楚に臨んで召陵の盟を結んだ。首止・洮の会で襄王の位を定め、僖公九年(前651年)の葵丘の会で禁を申べて覇業は頂点に達したが、宰孔はそこに驕りの兆しを見た。
年表(30件)
- 桓公二年前710年蔡侯と鄭伯が鄧で会し、初めて楚を懼れる
- 莊公八年前686年鮑叔牙が小白を奉じて莒へ、管夷吾と召忽が糾を奉じて魯へ亡命する
- 莊公九年前685年小白が先に入国し、乾時で魯軍を破って子糾を殺させ、管仲を相とする
- 莊公十年前684年無礼を咎めて譚を滅ぼし、譚子は莒へ亡命する
- 莊公十三年前681年北杏で会して宋の乱を収拾し、冬に柯で盟って魯と和睦する
- 莊公十四年前680年諸侯が宋を討ち、単伯が加わって和を成し、冬に鄄で会する
- 莊公十五年前679年再び鄄で会し、齊がここで初めて覇となる
- 莊公十六年前678年諸侯が鄭を討ち、冬に幽で同盟して鄭が和する
- 莊公二十七年前667年幽で同盟して陳と鄭が服し、王が齊侯に命を賜って衞討伐を求める
- 莊公二十八年前666年齊侯が衞を破り、楚の子元が車六百乗で鄭を討って諸侯が救う
- 莊公三十年前664年魯の濟で会し、燕を苦しめる山戎のことを謀る
- 莊公三十一年前663年齊侯が来て戎の戦利品を献じ、礼に反するとされる
- 莊公三十二年前662年管仲のために小榖に城を築き、梁丘で宋公と会する
- 閔公元年前661年管敬仲の説得で邢を救い、仲孫湫が魯の難を視察する
- 閔公二年前660年狄が衞を滅ぼし、齊侯が公子無虧に曹を守らせて戴公を助ける
- 僖公元年前659年諸侯が邢を救い、夏に邢を夷儀へ移して城を築く
- 僖公二年前658年諸侯が楚丘に城を築いて衞を封じ、秋に貫で盟って江と黄が服する
- 僖公三年前657年陽榖で会して楚討伐を謀り、蔡姫の一件で齊侯が実家へ帰す
- 僖公四年前656年蔡を潰して楚を討ち、管仲が包茅と昭王を責め、召陵で屈完と盟う
- 僖公五年前655年首止で王の太子鄭と会して周を安んじ、鄭伯が盟から逃げ帰る
- 僖公六年前654年諸侯が鄭を討って新密を囲み、許の僖公が武城で楚子に降る
- 僖公七年前653年甯母で盟い、管仲が子華の姦計を退けて鄭が盟を請う
- 僖公八年前652年洮で盟って王室のことを謀り、襄王の位が定まる
- 僖公九年前651年葵丘で会して盟を継ぎ、王の胙を階を下りて拝し、宰孔が驕りを見る
- 僖公十二年前648年楚が黄を滅ぼし、管仲が下卿の礼を受けて王のため戎と和睦させる
- 僖公十四年前646年諸侯が緣陵に城を築いて杞を移す
- 僖公十五年前645年牡丘で盟って徐を救うが、冬に楚が婁林で徐を破る
- 僖公十六年前644年淮で会して鄫のことを謀るが、築城の役に人夫が疲れて引き上げる
- 僖公十七年前643年徐のために英氏を討ち、冬十月に齊の桓公が卒する
- 僖公十九年前641年陳の穆公の請いにより、諸侯が齊で盟って桓公の好誼を修める
桓公二年(前710年)
- 秋七月、蔡侯と鄭伯が鄧で会した。初めて楚を懼れたのである。
莊公八年(前686年)
- はじめ襄公が立って行いに定めがなかった。鮑叔牙は「君が民を使うのに侮りがある。乱が起こるだろう」と言い、公子小白を奉じて莒へ亡命した。乱が起こると、管夷吾と召忽が公子糾を奉じて魯へ亡命した。
- はじめ公孫無知が雍廪を虐げていた。
莊公九年(前685年)
- 春、雍廪が無知を殺した。
- 莊公が齊の大夫と蔇で盟った。齊に君がいなかったからである。
- 夏、莊公が齊を討って子糾を送り込もうとしたが、桓公が莒から先に入国した。
- 秋、魯軍が齊軍と乾時で戦い、大敗した。莊公は戦車を失い、他の車に乗り換えて帰った。秦子と梁子が公の旗を持って脇道へ逸れたので、二人とも捕らえられた。
- 鮑叔が軍を率いて来て言った。「子糾は親族です。君の手で討たれよ。管仲と召忽は仇です。引き取って思いを晴らしたい」。そこで生竇で子糾を殺し、召忽は殉死し、管仲は囚われることを願い、鮑叔が受け取った。堂阜まで来て縄を解き、帰って「管夷吾は高傒より治国に長けています。相とされるのがよい」と報告した。桓公はこれに従った。
莊公十年(前684年)
- 齊侯が亡命したとき譚を通ったが、譚は礼遇しなかった。帰国したときも諸侯がみな祝ったのに譚は来なかった。冬、齊軍が譚を滅ぼした。譚が無礼だったからである。譚子は莒へ亡命した。同盟していたからである。
莊公十二年(前682年)
- 秋、宋の萬が閔公を蒙澤で弑した。
莊公十三年(前681年)
- 春、北杏で会し、宋の乱を収拾した。遂人が来なかったので、夏、齊人が滅ぼして守備兵を置いた。
- 冬、柯で盟った。初めて齊と和睦したのである。
莊公十四年(前680年)
- 宋人が北杏の会に背いた。
- 春、諸侯が宋を討った。齊は周に出兵を請い、夏、単伯が加わって宋と和を成して帰った。
- 冬、鄄で会した。宋が服したからである。
莊公十五年(前679年)
- 春、再び鄄で会した。齊がここで初めて覇となった。
- 秋、諸侯が宋のために郳を討った。鄭人がその隙をついて宋を侵した。
莊公十六年(前678年)
- 夏、諸侯が鄭を討った。宋のためである。
- 鄭伯が櫟から入国したが、楚への報告が遅れた。秋、楚が鄭を討って櫟に至った。無礼だったからである。
- 冬、幽で同盟した。鄭が和したのである。
莊公十七年(前677年)
- 春、齊人が鄭の詹を捕らえた。鄭が朝見しなかったからである。
- 夏、遂の因氏・頜氏・工婁氏・須遂氏が齊の守備兵を饗応し、酔ったところを殺したが、齊人は彼らを皆殺しにした。
莊公二十七年(前667年)
- 夏、幽で同盟した。陳と鄭が服したのである。
- 冬、王が召伯廖を遣わして齊侯に命を賜り、あわせて衞の討伐を求めた。衞が子頽を立てたからである。
莊公二十八年(前666年)
- 春、齊侯が衞を討って破り、王命をもって衞を責めたが、賄賂を受け取って引き上げた。
- 楚の令尹子元は文王の夫人を誘惑しようとして、その宮の脇に館を作り萬の舞を演じさせた。夫人はこれを聞いて泣き、「先君はこの舞で戦備を習わせた。いま令尹はそれを仇敵に向けず、未亡人の脇で行う。異なことではないか」と言った。御者が告げると、子元は「婦人でさえ仇を襲うことを忘れぬのに、私はかえって忘れていた」と言った。
- 秋、子元は車六百乗で鄭を討ち、桔柣の門に入った。子元・鬬御疆・鬬梧・耿之不比が旗を先頭に立て、鬬班・王孫游・王孫喜が殿を務めた。多くの車が純門から入って逵市に至ったが、懸門が下ろされていなかった。楚人は「鄭には人がいる」と言って出た。
- 諸侯が鄭を救い、楚軍は夜のうちに退いた。鄭人が桐丘へ逃げようとしたとき、斥候が「楚の幕舎に烏がいる(無人である)」と告げたので取りやめた。
- 冬、飢饉となり、臧孫辰が齊に穀物の融通を求めた。礼にかなう。
莊公三十年(前664年)
- 冬、魯の濟で会し、山戎のことを謀った。山戎が燕を苦しめていたからである。
莊公三十一年(前663年)
- 夏六月、齊侯が来て戎の戦利品を献じた。礼に反する。およそ諸侯が四夷に功があれば王に献じ、王はそれで夷を警めるが、中国相手ならしない。諸侯は互いに捕虜を贈らない。
莊公三十二年(前662年)
- 春、小榖に城を築いた。管仲のためである。
- 齊侯は楚が鄭を討った件で諸侯に会合を求めた。宋公が先に齊侯に会うことを請い、夏、梁丘で会した。
- 八月癸亥、莊公が路寝で薨じ、子般が即位して黨氏の家に居した。冬十月己未、共仲が圉人犖に黨氏の家で子般を弑させた。成季は陳へ亡命し、閔公が立てられた。
閔公元年(前661年)
- 春、狄人が邢を討った。管敬仲は齊侯に「戎狄は豺狼であって満足を知らず、諸夏は親しく睦むもので棄ててはなりません。安逸は毒酒であって懐いてはならぬ。詩に『帰りたくないわけではないが、この簡書を畏れる』とあります。簡書とは悪を同じくする者が互いに憂えることをいう。邢を救って簡書に従われよ」と説き、齊人は邢を救った。
- 秋八月、閔公は齊侯と落姑で盟い、季友の帰国を請うた。齊侯が許して陳から召させ、閔公は郎に留まって待った。経に「季子来帰」と書いたのは嘉したのである。
- 冬、齊の仲孫湫が来て難の様子を視察した。経に「仲孫」と書いたのも嘉したのである。仲孫は帰って「慶父を除かねば魯の難は終わりません」と報告した。齊侯が「どうやって除くのか」と問うと、「難が続けば自ら斃れます。君はお待ちなさい」と答えた。「魯を取れるか」と問うと、「なりません。まだ周礼を守っております。周礼は国の本です。臣は聞いております、国が滅びようとするときは本がまず倒れ、枝葉が従うと。魯が周礼を棄てぬうちは動かせません。君は魯の難を鎮めて親しまれるのがよい。礼ある者に親しみ、堅固な者に頼み、離心ある者を突き、昏乱な者を覆すのが覇王の道具です」と答えた。
閔公二年(前660年)
- 秋八月辛丑、共仲が卜齮に武闈で閔公を殺させた。哀姜も与っていたので邾へ逃れたが、齊人が捕らえて夷で殺した。
- 冬、齊の高子が来て盟った。
- 冬十二月、狄人が衞を討ち、そのまま衞を滅ぼした。
- 衞の遺民は男女七百三十人であった。共と滕の民を加えて五千人とし、戴公を立てて曹に仮住まいさせた。許穆夫人は載馳を賦した。齊侯は公子無虧に車三百乗と甲士三千人を率いて曹を守らせ、戴公に乗馬・祭服五組・牛羊豕鶏犬各三百頭と門材を贈り、夫人には魚軒(婦人用の車)と重錦三十両を贈った。
- 僖公元年、齊の桓公は邢を夷儀へ移し、二年には衞を楚丘に封じた。邢は遷って帰るがごとく、衞は国が滅びたことを忘れた。
僖公元年(前659年)
- 春、諸侯が邢を救った。邢人は潰えて軍のもとへ逃げ、軍はそのまま狄人を追い、邢の器物を揃えて移した。軍に私する者はなかった。
- 夏、邢は夷儀へ遷り、諸侯が城を築いた。患いを救ったのである。およそ侯伯が患いを救い災を分かち罪を討つのは礼である。
- 秋、楚人が鄭を討った。鄭が齊についたからである。犖で盟い、鄭を救うことを謀った。
僖公二年(前658年)
- 春、諸侯が楚丘に城を築いて衞を封じた。経に書かないのは会に遅れたからである。
- 秋、貫で盟った。江と黄が服したのである。
- 冬、楚人が鄭を討ち、鬬章が鄭の𣆀伯を捕らえた。
僖公三年(前657年)
- 秋、陽榖で会した。楚討伐を謀ったのである。
- 齊侯は陽榖の会のことで来て盟を継ごうとし、冬、公子友が齊へ行って盟に臨んだ。
- 楚人が鄭を討った。鄭伯は和を結ぼうとしたが、孔叔は「齊がまさに我らのために尽くしてくれている。徳を棄てるのは不祥です」と反対した。
- 齊侯が蔡姫と囿の舟に乗ったとき、蔡姫が舟を揺すった。齊侯は懼れて顔色を変え、やめさせようとしたが聞かなかった。齊侯は怒って実家へ帰したが、縁を切ったわけではなかった。ところが蔡人は他家へ嫁がせてしまった。
僖公四年(前656年)
- 春、齊侯が諸侯の軍で蔡を侵し、蔡は潰えた。そのまま楚を討った。楚子は使者を軍に送って「君は北海に処し、寡人は南海に処す。風に放たれた馬牛も互いに及ばぬ隔たりです。君が我が地に踏み込まれるとは思いもよらぬ。何ゆえですか」と言わせた。
- 管仲は答えた。「昔、召康公が我が先君太公に『五侯九伯、汝これを征し、周室を夾輔せよ』と命じ、我が先君に東は海、西は河、南は穆陵、北は無棣に至る領域を賜った。汝の貢である包茅が納められず、王の祭に供せられず、酒を漉すことができぬ。寡人はそれを徴する。昭王が南征して帰らなかった。寡人はそれを問う」。楚は「貢が納められぬのは寡君の罪です。供せぬわけがありません。昭王が帰らなかったことは、水辺にお尋ねください」と答えた。
- 軍は進んで陘に陣した。夏、楚子が屈完を軍に遣わすと、軍は退いて召陵に陣した。齊侯が諸侯の軍を並べ、屈完と同乗して観閲し、「これは私のためではない。先君の好誼を継ぐためである。私と好誼を同じくされてはどうか」と言った。屈完は「君が恵んで我が国の社稷に福を求め、かたじけなくも寡君を受け入れてくださるなら、寡君の願いです」と答えた。齊侯が「この軍勢で戦えば誰が防げよう。この軍勢で城を攻めれば、どの城が落ちぬか」と言うと、屈完は「君が徳で諸侯を安んじられるなら、誰が服さぬでしょう。しかし力によるなら、楚国は方城を城とし漢水を濠とします。軍勢が多くとも用いようがありません」と答えた。屈完は諸侯と盟った。
- 陳の轅濤塗は鄭の申侯に「軍が陳と鄭の間を通れば、両国は必ず疲弊する。東方へ出て東夷に兵を示し、海沿いに帰ればよかろう」と言った。申侯は「よろしい」と言った。濤塗が齊侯に告げると許された。ところが申侯は齊侯に会って「軍は疲れています。東方へ出て敵に遭えば、使い物にならぬのを懼れます。陳と鄭の間を通り、糧食や履を供給させるのがよろしい」と言った。齊侯は喜んで虎牢を与え、轅濤塗を捕らえた。
- 秋、陳を討った。不忠を討ったのである。
- 許の穆公が陣中で卒し、侯の礼で葬った。およそ諸侯が朝会の場で薨ずれば一等加え、王事で死ねば二等加える。それで衮衣で斂したのである。
- 冬、叔孫戴伯が軍を率いて諸侯の軍とともに陳を侵した。陳は和を結び、轅濤塗を返された。
僖公五年(前655年)
- 夏、首止で会した。王の太子鄭と会し、周を安んずることを謀ったのである。
- 陳の轅宣仲は、鄭の申侯が召陵で自分を裏切ったことを怨み、その賜った邑に城を築くよう勧めて「立派に築けば大きな名になる。子孫はあなたが私の助けを得たことを忘れまい」と言い、諸侯に請うて立派に築かせた。そのうえで鄭伯に「賜った邑を立派に築いたのは叛くためです」と讒言した。申侯はこれによって罪を得た。
- 秋、諸侯が盟った。王は周公を遣わして鄭伯に「私が汝を撫して楚に従わせ、晉で補佐させよう。少しは安んじられよう」と告げさせた。鄭伯は王命を喜び、しかも齊へ朝せぬことを懼れて、盟わずに逃げ帰った。孔叔が「国君は軽々しくあってはなりません。軽ければ親しみを失い、親しみを失えば必ず患いが至る。苦しくなってから盟を乞えば失うものが多い。君は必ず悔やまれます」と止めたが、聞かずに軍を置いて帰った。
僖公六年(前654年)
- 夏、諸侯が鄭を討った。首止の盟から逃げたからである。新密を囲んだ。鄭が時宜を得ずに城を築いていた場所である。
- 秋、楚子が許を囲んだ。
- 鄭を救っていた諸侯が許を救い、そこで引き上げた。
- 冬、蔡の穆侯は許の僖公を伴い、武城で楚子に謁見させた。許男は後ろ手に縛られ璧を口にくわえ、大夫は衰絰を着け、士は棺を輿に載せた。楚子が逢伯に問うと、「昔、武王が殷に勝ったとき微子啓がこうしました。武王は自ら縛を解き、璧を受けて祓い清め、棺を焼き、礼をもって命じて元の地位に復させました」と答え、楚子はこれに従った。
僖公七年(前653年)
- 春、齊人が鄭を討った。孔叔は鄭伯に「諺に『心が競わぬなら、苦しみを何で憚ろう』とあります。強くもなれず弱くもなれぬのが滅びる所以です。国が危うい。齊に下って国を救われよ」と言った。鄭伯が「その由来は分かっている。しばらく待て」と言うと、孔叔は「朝が夕まで持ちません。何を待てましょう」と答えた。
- 夏、鄭は申侯を殺して齊に釈明した。陳の轅濤塗の讒言によるものでもある。はじめ申侯は申の出で、楚の文王に寵愛された。文王は死に臨んで璧を与えて去らせ、「私だけが汝を知っている。汝は利を専らにして飽きず、私から取り私に求めるが、私は汝を咎めなかった。後の人は汝に多くを求めよう。汝は必ず免れぬ。私が死んだら速やかに去れ。小国へ行くな。汝を容れまい」と言った。葬儀が済むと鄭へ亡命し、また厲公に寵愛された。子文はその死を聞いて「古人の言に『臣を知るは君に如くはなし』とある。まことに変えられぬ」と言った。
- 秋、甯母で盟った。鄭のことを謀ったのである。管仲は齊侯に「臣は聞いております、離れる者を招くには礼をもってし、遠い者を懐けるには徳をもってすると。徳と礼が変わらなければ、懐かぬ者はありません」と言い、齊侯は諸侯に礼を修め、諸侯の官はそれぞれの土地の産物を受けた。
- 鄭伯は太子華を会に遣わして命を聴かせた。華は齊侯に「洩氏・孔氏・子人氏の三族が君命に背いております。君が彼らを除いて和を成してくださるなら、私は鄭を内臣とします。君にも不利はありますまい」と言った。齊侯が許そうとすると、管仲は諫めた。「君が礼と信をもって諸侯をまとめながら姦をもって終えるのは、よろしくないのでは。子と父が互いに欺かぬのを礼といい、命を守って時に供するのを信という。この二つに背けば、これ以上の姦はありません」。
- 齊侯が「諸侯が鄭を討ってまだ勝てぬ。いま隙があるならそれに乗じてもよかろう」と言うと、管仲は答えた。「君が徳で安んじ訓辞を加え、諸侯を率いて鄭を討たれるなら、鄭は覆り滅ぶのを防ぐ暇もありますまい。どうして懼れずにいましょう。しかしその罪人を束ねて臨めば、鄭には言い分ができる。何を懼れましょう。しかも諸侯を合わせるのは徳を崇めるためです。会して姦を列するのでは、後嗣に何を示すのですか。諸侯の会は、その徳・刑・礼・義をどの国も記録します。姦を位に列したことを記されれば、君の盟は廃れます。行っても記されぬなら盛徳ではない。君は許されますな。鄭は必ず盟を受けましょう。子華は太子でありながら大国の助けを求めて自国を弱めようとしている。彼もまた免れますまい。鄭には叔詹・堵叔・師叔の三良が政を執っており、隙は突けません」。齊侯は断り、子華はこれによって鄭で罪を得た。冬、鄭伯は齊に盟を請うた。
- 閏月、惠王が崩じた。襄王は太叔帯の難を懼れ、立てられないのではと恐れて喪を発表せず、齊へ危急を告げた。
僖公八年(前652年)
- 春、洮で盟った。王室のことを謀ったのである。鄭伯は盟を乞い、服することを請うた。襄王の位が定まってから喪が発表された。
僖公九年(前651年)
- 夏、葵丘で会した。盟を継ぎ、あわせて好誼を修めたのである。礼にかなう。
- 王が宰孔を遣わして齊侯に胙(祭肉)を賜り、「天子は文王・武王を祀られ、孔を遣わして伯舅に胙を賜う」と告げた。齊侯が階を下りて拝そうとすると、孔は「なお後の命がある。天子は孔に『伯舅は老齢であり、労に報いて一級を加える。階を下りて拝するに及ばず』と言わせられた」と言った。齊侯は「天の威は顔から咫尺と離れておりません。小白があえて天子の命を貪って階を下りずにおれば、下で転び倒れて天子に恥を残しましょう。下りて拝さぬわけにはまいりません」と答え、階を下りて拝し、登って受けた。
- 秋、齊侯は諸侯と葵丘で盟い、「およそ我が同盟の人は、盟った後は好誼に帰せ」と誓った。宰孔は先に帰る途中で晉侯に会い、「会に出ずともよい。齊侯は徳に務めず遠征に励んでいる。だから北は山戎を討ち、南は楚を討ち、西でこの会を開いた。東への進出は分からぬが、西へは向かうまい。内乱があるのでは。君は乱を鎮めることに務め、遠出に労されるな」と言った。晉侯はそこで引き返した。
- 九月、晉の獻公が卒した。冬十月、里克が奚齊を仮宮で殺した。十一月、里克が公子卓を朝廷で殺した。
- 齊侯が諸侯の軍で晉を討ち、高梁まで行って引き返した。晉の乱を討ったのである。命が魯に及ばなかったので経に書かない。
- 齊の隰朋が軍を率いて秦軍と会し、晉の惠公を入国させた。
僖公十年(前650年)
- 夏四月、周公忌父と王子黨が齊の隰朋と会し、晉侯を立てた。
僖公十一年(前649年)
- 夏、戎が京師を討った。王子帯が招いたのである。
- 黄人が楚に貢を納めなかったので、冬、楚人が黄を討った。
僖公十二年(前648年)
- 春、諸侯が衞の楚丘の外郭に城を築いた。狄の難を懼れたのである。
- 黄人は諸侯が齊と睦まじいのを恃んで楚への務めを果たさず、「郢から我らまで九百里ある。どうして害を及ぼせよう」と言った。夏、楚が黄を滅ぼした。
- 冬、齊侯が管夷吾を遣わして王のために戎と和睦させた。王が上卿の礼で管仲を饗応しようとすると、管仲は辞退した。「臣は身分の低い有司にすぎません。天子の二守である國氏・髙氏がおり、彼らが季節ごとに王命を受けに参ります。どうして臣にこの礼を。陪臣は辞退いたします」。王は「舅氏よ、余は汝の勲を嘉し、汝の懿徳に応える。督を忘れぬ。行って職を務め、朕の命に逆らうな」と言った。管仲は下卿の礼を受けて帰った。君子は「管仲が世々祀られるのも当然だ。譲って上位者を忘れなかった」と評した。
僖公十三年(前647年)
- 春、齊侯が仲孫湫を周へ聘問に遣わした。
- 夏、鹹で会した。淮夷が杞を苦しめていたためであり、あわせて王室のことを謀ったのである。秋、戎の難のために諸侯が周を守衛し、仲孫湫がこれを取りまとめた。
僖公十四年(前646年)
- 春、諸侯が緣陵に城を築いて杞を移した。その人名を書かないのは欠けがあったからである。
僖公十五年(前645年)
- 春、楚人が徐を討った。徐が諸夏についたからである。
- 三月、牡丘で盟った。葵丘の盟を継ぎ、あわせて徐を救うためである。孟穆伯が軍を率い、諸侯の軍とともに徐を救った。諸侯は匡に陣して待った。
- 秋、厲を討った。徐を救うためである。
- 冬、楚が婁林で徐を破った。徐が救援を恃んだからである。
僖公十六年(前644年)
- 夏、齊が厲を討ったが落とせず、徐を救って引き上げた。
- 秋、王が戎の難を齊に告げ、齊は諸侯を徴して周を守衛させた。
- 十一月乙卯、鄭が子華を殺した。
- 十二月、淮で会した。鄫のことを謀り、あわせて東方進出を図ったのである。鄫に城を築く役で人夫が疲れ、夜に丘に登って「齊に乱がある」と叫ぶ者があり、城を築かずに引き上げた。
僖公十七年(前643年)
- 春、齊人が徐のために英氏を討った。婁林の役に報いたのである。
- 冬十月乙亥、齊の桓公が卒した。十二月乙亥に訃を出し、辛巳の夜に殯した。
僖公十八年(前642年)
- 秋八月、齊の桓公を葬った。
僖公十九年(前641年)
- 陳の穆公が諸侯に好誼を修めて齊の桓公の徳を忘れぬようにすることを請い、冬、齊で盟った。桓公の好誼を修めたのである。
史論(士竒)
- 齊の桓公は莒へ亡命した身から、高氏・國氏の支持と鮑叔の賢者推挙によって、鉤を射られ死に瀕した恥を忘れ、ついに仲父を用いた。内政を整えて軍令を寄せ、節制ある軍を成し、魚塩の利を通じて国は富み、士気は昂った。三万の人をもって天下を横行し、南征北伐、東略西討し、朝服のまま河を渡っても恐れるところがなかった。孔子はその「一匡」の功を許し、孟子はその五命の盛んなさまを載せる。まことに一世の雄であり、管仲は天下の才であった。
- その人心を収攬した大略を総括すれば、一に攘外、二に恤患、三に尊王である。
- 周室が東遷して以来、大いなる防ぎは次第に緩み、魯は宗国でありながら真っ先に潛や唐の会盟を行い、まもなく楚丘での掠奪があって辱めが王官に及んだ。以来、燕・齊・邢・衞の間でしばしば急を告げる声が上がった。楚に至っては荊蛮を恃んで名を僭し、坐したまま大きくなり、その勢いは王畿に迫った。猪突を恣にしても誰も難とせず、その雄心を抑えねば、鼎の軽重を問い兵を観閲するに至って止まなかったであろう。桓公はそこでまず淮・徐を討ち、次いで令支を撃ち、その後で八国の兵を大いに合わせ、熊耳に登って江漢を望み、昭王が帰らなかったことを問い、酒を漉す茅が供せられぬことを責めた。楚は初めて中国に人がいることを知り、耳を伏せ魂を震わせ、あえて神器に手を出せなくなった。これが桓公の攘外の力である。
- 鄭は中原の屏である。子元が誘惑の心を逞しくし、理由なく車六百乗で夜に純門を突いたとき、その勢いは最も切迫していた。桓公が特に救い、楚の幕舎に烏がとまってはじめて桐丘への逃亡は止んだ。魯に慶父の乱があって長らく君がないとき、南陽の甲を下して僖公を定め、魯に城を築いた。周公・伯禽の祀は絶えずに済んだ。邢と衞は狄の患いにあったが、一方は楚丘に城を築いて封じ、一方は器物を揃えて移した。「邢は遷って帰るがごとく、衞は国の滅亡を忘れた」というのは誰の恵みか。その後、淮夷がまた杞の患いとなると、また城を築き、また移した。これも前と同じ志である。その他、緊急に駆けつけ助けた義は一つ二つでは数えきれず、新城が困窮し許昌が危急を告げれば星のように急行した。人の急を緩めることの最も善い者、これが桓公の恤患の徳である。
- 子頽の禍では衞が実に賊を助けた。そこで召伯廖の命が下り、義の旗が西を指し、衞軍は破れて天の討伐が明らかとなった。惠王が叔帯に心を寄せたとき襄王はほとんど立てられなかったが、桓公はただ大国を制し小国を扶け、首止で会してその位を定めた。甯母で盟って王への貢が通じたのも、みな日を捧げる忠である。惠后が崩じても憂いが止まぬので洮の会があり、葵丘で禁を申して王の章が輝いた。労を加えられて階を下りて拝し、転び倒れることをいよいよ懼れた。戎の難が告げられれば周を守る令が行われた。五覇のうち、これほど切実に王室を念い、二度三度と厭わなかった者が何人いようか。これこそ尊王の大きな恵みであって、消し去るわけにはいかない。
- そのほか、信義を重んじて曹沫の剣を忍び、善言に従って子華の姦を退け、召陵で服従した使者を礼をもって帰し、隰朋を遣わして晉君の位を定めたのは、いずれも伝えるに足る清らかな美節である。両度の鄄、両度の幽、貫澤、陽榖以来、離れる者を招き二心ある者を服させ、内を安んじ外を攘う謀を立てたのは、念が深く礼が謹み、慮りが周く義が明らかで、事ごとに人心にかなっていた。
- ところが驕り溢れる芽は陳を通ったことに始まり、葵丘の役で成った。宰孔は微かな兆しを見てひそかに議論し、晉侯はそれを聞いてついに引き返した。その後、暮れゆく気はいよいよ衰えて再び振るわなかった。胡氏のいう「借りものが長続きせずついに返された」というものである。
- 陘に陣しての大挙も、天の吏が至ったとは聞かず、封国の美談にも王の命はなかった。業績が群を抜き名声が代々伝わったとはいえ、世を論ずる者には遺憾なしとしない。まして簒奪の後を経ながら前車を戒めず、孝公を託したことがかえって権力争いの資となり、五公子の間は乱れた糸のようになった。豎刁・易牙・開方は、先君の「芸人と道化が前にいる」というのと何が違おう。身は死に家は騒ぎ、戸口に屍の虫が湧いたのも、自ら招いたことである。