左傳紀事本末城の築造と蒐狩(他の事に因って別に見えるものは重ねて載せず)(城築蒐狩(因事别見/者不更載))

魯が城や邑・厩・囿を築いた記事と、蒐狩・大閲を行った記事を集めた篇。隱公元年(前722年)から定公十五年(前495年)まで。経は民を使えば時宜に合う合わぬにかかわらず必ず書き記す。中丘や郎の築城は盛夏の役、延廏の新造は凶作の後で、いずれも時宜を失った例として挙がる。襄公十三年(前560年)の防の築城で臧武仲が農事の終わりを待つよう請い、昭公九年(前533年)の郎囿で叔孫昭子が速成を戒めたのは、民力を惜しんだ例である。昭公八年(前534年)の紅の大蒐は革車千乗に及び、史論はこれを季氏の専権の兆しと見る。

年表(17件)

隱公元年(前722年)

  • 夏四月、費伯が軍を率いて郎に城を築いた。経に書かないのは公命によるものでないからである。南門を新造したことを書かないのも、公命によるものでないからである。

隱公七年(前716年)

  • 夏、中丘に城を築いた。経に書いたのは時宜を失ったからである。

隱公九年(前714年)

  • 夏、郎に城を築いた。経に書いたのは時宜を失ったからである。

桓公十六年(前696年)

  • 冬、向に城を築いた。経に書いたのは時宜にかなっていたからである。

莊公二十八年(前666年)

  • 冬、郿を築いた。都ではないからである。およそ邑に宗廟と先君の神主があるものを「都」といい、ないものを「邑」という。邑には「築」、都には「城」という。

莊公二十九年(前665年)

  • 春、延廏を新造した。経に書いたのは時宜を失ったからである。およそ馬は春分に放牧に出し、秋分に舎に入れる。
  • 冬十二月、諸と防に城を築いた。経に書いたのは時宜にかなっていたからである。およそ土木工事は、龍星が現れる頃に農事を終えて準備を告げ、火星が現れる頃に資材を集め、水星が宵に南中する頃に版築を始め、冬至までに終える。

僖公二十年(前640年)

  • 春、南門を新造した。経に書いたのは時宜を失ったからである。およそ門戸の開閉に関わるものは時に従う。

文公十二年(前615年)

  • 諸と鄆に城を築いた。経に書いたのは時宜にかなっていたからである。

宣公八年(前601年)

  • 平陽に城を築いた。経に書いたのは時宜にかなっていたからである。

成公九年(前582年)

  • 中城に城を築いた。経に書いたのは時宜にかなっていたからである。

成公十八年(前573年)

  • 鹿囿を築いた。経に書いたのは時宜を失ったからである。

襄公十三年(前560年)

  • 冬、防に城を築いた。経に書いたのは時宜にかなっていたからである。このとき早くに築こうとしたが、臧武仲が農事を終えるまで待つことを請うた。礼にかなう。

昭公九年(前533年)

  • 冬、郎囿を築いた。経に書いたのは時宜にかなっていたからである。季平子は速く仕上げさせたがったが、叔孫昭子は「詩に『始めるに急くなかれ、庶民は子のごとく来る』とある。速く仕上げて何になろう。民を苦しめるだけだ。囿がなくてもよいが、民がなくてよかろうか」と言った。

定公十五年(前495年)

  • 冬、漆に城を築いた。経に書いたのは、時宜を得ずに告げてきたからである。(以上、城築)

桓公四年(前708年)

  • 春正月、桓公が郎で狩をした。経に書いたのは時宜にかなって礼に合っていたからである。

桓公六年(前706年)

  • 秋、大閲を行った。車馬を検分したのである。

昭公八年(前534年)

  • 秋、紅で大蒐を行った。根牟から商・衞に至るまで、革車千乗であった。(以上、蒐狩)

史論(士竒)

  • 千仞の山でも足の悪い羊が登れるのは、なだらかだからである。数仞の塀は孟賁や夏育でもすぐには越えられない。険しいからである。城は民を保つためのもの、どうして廃せようか。
  • しかし城はもともと民のために患いを未然に防ぐものである。それが工事に疲れさせ、本業を棄てさせて愁嘆を起こさせるなら、未然の患いはまだ遠いのに目前の困窮がすでに激しい。まして丘に登って呼べば衆を動かすに足り、梁伯の土木好きは敵を助けただけであった。城がなくてもまだよいが、民がいなければ誰と国を保つのか。
  • ゆえに先王は城を愛することが常に民力を愛することに及ばなかった。一年のうち民を使うのは三日を越えず、しかも必ず農閑期に行って、民の手足をゆったりとさせ、南畝を耕し、上を養い下を育てて、双方に憾みがないようにし、それでこそ本が固まり国が安らぐ。
  • 春秋はおよそ民を使えば、時宜に合うか否かにかかわらずすべて書く。民力を重んじるからである。魯が中丘に城を築き郎に城を築いたのはいずれも盛夏に役を起こしたもので、延廏の新造も大凶作の後であった。民の命を草のように扱い、憂えることを全く知らなかったことが、策の上に明らかである。
  • 襄公十三年の防の築城、昭公九年の郎囿の築造はいずれも真冬で時宜に合っていたが、当時、一方は早く築こうとし、一方は速く仕上げようとした。臧武仲と叔孫昭子だけが民のために命を請うたのは、仁人の心といえよう。
  • ただし民を使えば必ず書くはずなのに、費伯が郎に城を築いたことを書かず、南門の新造も書かない。左氏はその理由を求めて得られず、いずれも「公命によるものでない」とする。私はそうは思わない。隱公の初年にはまだ政を失っていない。どうして公命なしに勝手に大勢を動員して城を築けよう。南門の新造は国都のすぐそばであるのに公が知らなかったとは、隱公は耳を塞いでいたのか。聖人が削ったのには当然理由があるが、求めることはできない。
  • 春の蒐、夏の苗、秋の獮、冬の狩は、先王が四季の狩に軍政を託し、果敢の気を起こさせ、歩伐と整列に慣れさせ、鼓・鐸・鐃・鐲に通じさせて威怒を蓄えるためのものである。しかし必ず定まった時と定まった場所がある。魯が大野で狩をするのはよいが郎はその場所でなく、蒐は春の事であるのに紅の蒐は時も場所も外れている。
  • しかも紅の蒐を考えると、この時、公室は衰微し、魯国の兵権は半ば季氏に帰していた。根牟から商・衞に至るまで革車千乗、領内を挙げてこの役に当てたのは、実は季氏が主宰したもので、昭公とは何の関わりもない。天の時に背き地の利を替え、平然と自らの欲するままに行い、非礼をもって民を動かせるものはすべて用いて上を犯し乱を作しても、誰も逆らえぬというありさまがこの蒐に現れている。だから先儒はこれを季氏の霜を履む兆しとするのである。
  • ああ、城築は民力に関わり、蒐狩は軍政に関わる。力は下に余りを留めるべきであり、政は上から操るべきである。意を用いずにいられようか。