左傳紀事本末孔子、魯に仕える(仲由・端木賜)(冉求・高柴)(孔子仕魯(仲木由/端 賜) (冉求/高柴))
孔子が魯に仕えた時期の事績と、子路・子貢・冉有・高柴ら門弟の活躍を集めた篇。定公十年(前500年)から哀公二十一年(前474年)まで。夾谷の会では相として齊の企てを退け、鄆・讙・龜陰の田を兵を用いずに取り戻した。定公十二年(前498年)には三都の城壁を毀って私門の羽翼を剪ろうとし、郈と費は毀ったが成は落とせなかった。哀公の代には田賦を諫め、陳恒の弑逆に齊討伐を三度請うたがいずれも用いられず、子路は衞の乱に死に、哀公十六年(前479年)に孔丘は卒した。史論は、孔子が用いられなかったことを惜しみつつ、その生は魯のためでなく天下万世のためであったと結ぶ。
年表(9件)
- 定公十年前500年夾谷の会で孔丘が相となり、萊人の脅しを退けて鄆・讙・龜陰の田を返させる
- 定公十二年前498年仲由が三都を毀とうとし、費の襲撃を仲尼が退けるが成は落とせない
- 哀公七年前488年鄫の会で子貢が太宰嚭に季康子の不参を弁明する
- 哀公十一年前484年冉有が左師を率いて齊軍を郊で破り、仲尼が田賦を戒める
- 哀公十二年前483年田賦が用いられ、子貢が呉との盟の継続を退け、衞侯を柵から救う
- 哀公十四年前481年大野で麟を獲、陳恒の弑逆に孔丘が齊討伐を三度請う
- 哀公十五年前480年衞の乱で子路が纓を結び直して死に、孔子が高柴の帰還を言い当てる
- 哀公十六年前479年四月、孔丘が卒し、哀公の誄を子貢が礼に反すると評する
- 哀公二十一年前474年顧の盟で齊人が魯の稽首せぬのを責め、儒書を挙げて歌う
定公十年(前500年)
- 春、齊と和睦した。夏、定公は齊侯と祝其で会した。実は夾谷である。孔丘が相を務めた。
- 犂彌は齊侯に「孔丘は礼を知るが勇はない。萊人に兵をもって魯侯を脅させれば、必ず志を得られましょう」と言い、齊侯は従った。孔丘は定公を退がらせ、「兵よ、これを討て。両君が好誼を結ぶ場に、辺境の夷の捕虜が兵をもって乱すのは、齊君が諸侯に命ずるやり方ではない。辺境の者は夏を謀らず、夷は華を乱さず、捕虜は盟を犯さず、兵は好誼を迫らぬもの。神には不祥、徳には義を失い、人には礼を失う。君は必ずそのようなことはなさるまい」と言った。齊侯はこれを聞いて急いで退けさせた。
- 盟おうとするとき、齊人は盟書に「齊軍が国境を出るとき、甲車三百乗をもって我に従わぬなら、この盟のごとくあれ」と加えた。孔丘は兹無還に会釈して答えさせた。「我らに汶陽の田を返さぬのに、我らに命を供せよというのなら、それもまた同じである」。
- 齊侯が定公を饗応しようとすると、孔丘は梁丘據に言った。「齊と魯の旧例を、あなたはお聞きになっていないのか。事はすでに成ったのに、さらに饗応するのは執事を煩わせるだけだ。しかも犠尊・象尊は門外へ出さず、嘉楽は野外で合わせぬもの。饗して器物を揃えるのは礼を棄てることであり、揃えなければ秕や稗を用いるようなものだ。秕稗を用いれば君は辱められ、礼を棄てれば悪名が立つ。よくお考えあれ。饗は徳を明らかにするためのもの。明らかにできぬなら、やめたほうがよい」。そこで饗応は行われなかった。
- 齊人が鄆・讙・龜陰の田を返してきた。
定公十二年(前498年)
- 夏、仲由が季氏の宰となり、三都の城壁を毀とうとした。そこで叔孫氏は郈を毀った。季氏が費を毀とうとすると、公山不狃と叔孫輒が費の人を率いて魯の都を襲った。定公と三家は季氏の宮に入り、武子の臺に登った。費の人が攻めたが落とせず、公の側まで迫った。仲尼が申句須と樂頎に命じて下って討たせると、費の人は敗走し、国人が追って姑蔑で破った。二人は齊へ亡命し、そのまま費を毀った。
- 成を毀とうとすると、公斂處父が孟孫に「成を毀てば齊人は必ず北門まで来ましょう。しかも成は孟氏の防塁です。成がなければ孟氏もない。あなたは知らぬふりをされよ。私は毀ちません」と言った。冬十二月、定公が成を囲んだが落とせなかった。
哀公七年(前488年)
- 哀公が鄫で呉と会した。太宰の嚭が季康子を召したが、康子は子貢を遣わして断らせた。太宰嚭が「国君が長く道中にあるのに大夫が門を出ないとは、これは何の礼か」と言うと、子貢は答えた。「どうして礼のつもりでしょう。大国を畏れているのです。大国が礼をもって諸侯に命じないなら、礼によらぬ以上、どう推し量れましょう。寡君はすでに命に応じております。その老臣がどうして国を棄てられましょう。太伯は端委の礼服で周礼を行い、仲雍が継いで断髪文身し、裸を飾りとしました。どうして礼でありましょう。そうなる由縁があったのです」。
哀公十一年(前484年)
- 春、齊は鄎の一件で國書と高無㔻に軍を率いて魯を討たせ、清に至った。季孫はその宰の冉求に「齊軍が清にいる。必ず魯のためだ。どうしたものか」と問うた。求は「一人が守り、二人が公に従って国境で防がれよ」と答えた。季孫が「できまい」と言うと、求は「では封疆の間で防がれよ」と言った。
- 季孫が二人に告げたが承知しない。求は「それも無理なら、君は出られず、一人が軍を率いて城を背に戦われよ。従わぬ者は魯人ではない。魯の諸家の兵は齊の兵車より多く、一家の兵でも敵の車に十分勝ります。何を患えられます。二人が戦いたくないのも当然でしょう。政は季氏にあり、あなたの代に齊人が魯を討って戦えぬのはあなたの恥です。諸侯に列することさえできなくなります」と言った。
- 季孫は求を朝廷に従わせ、黨氏の溝で待たせた。武叔が呼んで戦のことを問うと、「君子には遠慮がございます。小人に何が分かりましょう」と答えた。懿子が強いて問うと、「小人は材を慮って言い、力を量って供する者です」と答えた。叔武(武叔)は「それは私を一人前の男ではないと言うのか」と言い、退いて兵車を検閲した。
- 孟孺子洩が右師を率い、顔羽が御し、邴洩が右に立った。冉求が左師を率い、管周父が御し、樊遲が右に立った。季孫が「須(樊遲)は幼い」と言うと、求は「命に従わせられます」と答えた。季氏の甲は七千。冉有は武城の人三百を自分の徒卒とし、老人と子供は役所を守り、雩門の外に五日陣し、右師も後から加わった。
- 公叔務人は守備の者を見て泣き、「賦役が多く政が重い。上は謀れず、士は死ねぬ。どうして民を治められよう。私はもう言ってしまった。努めぬわけにはいかぬ」と言った。
- 魯軍は齊軍と郊で戦った。齊軍は稷曲から来たが、魯軍は溝を越えなかった。樊遲は「越えられぬのではなく、あなたを信じていないのです。三度触れを出してから越えさせなさい」と言い、その通りにすると、兵は従った。魯軍は齊軍に攻め入った。右師は敗走し、齊人が追って陳瓘・陳莊が泗水を渡った。孟之側は最後に入って殿を務め、矢を抜いて馬に鞭打ちながら「馬が進まぬのだ」と言った。林不狃の伍が「逃げるか」と言うと、不狃は「誰にも劣るまい」と言った。「では留まるか」と言うと、「どうして賢かろう」と言い、ゆっくり歩いて死んだ。
- 魯軍は甲首八十を得、齊人は軍を保てなかった。夜、斥候が「齊人は逃げました」と告げ、冉有は追撃を三度請うたが、季孫は許さなかった。
- 孟孺子は人に「私は顔羽に及ばぬが邴洩よりはましだ。子羽は鋭敏で、私は戦いたくなかったが黙っていられた。洩は『駆けよ』と言っただけだ」と語った。
- 公為とその寵愛する童の汪錡はともに乗車して戦死し、ともに殯した。孔子は「干戈を執って社稷を衛った以上、殤(未成年の略式の喪)にしなくてよい」と言った。冉有が齊軍で矛を用い、そのために軍に攻め入れた。孔子は「義である」と評した。
- 孔文子が太叔を攻めようとして仲尼に相談した。仲尼は「胡簋の事なら学びましたが、甲兵の事は聞いておりません」と言い、退いて車を用意させて去ろうとし、「鳥は木を選ぶが、木が鳥を選べようか」と言った。文子は急いで止め、「圉がどうして私事を図りましょう。衞国の難のことを相談したのです」と言い、留めようとした。魯人が幣をもって招いたので帰国した。
- 季孫が田賦を用いようとして冉有に仲尼に相談させた。仲尼は「丘は存じません」と言い、三度尋ねられて最後に「あなたは国老です。あなたを待って実行するのに、なぜ言われぬのですか」と言われた。仲尼は答えず、ひそかに冉有に語った。「君子の行いは礼をもって量る。施すには厚きを取り、事を挙げるには中を取り、収めるには薄きに従う。そうすれば丘(=季氏の田制)でも十分だ。礼で量らず貪って飽くことを知らねば、田賦を用いてもまた足りぬ。しかもあなたと季孫が法に則って行おうというなら周公の典がある。いい加減に行おうというなら、なぜ相談するのか」。聞き入れられなかった。
哀公十二年(前483年)
- 春、田賦を用いた。
- 哀公が橐臯で呉と会した。呉子が太宰嚭に盟を継ぐことを請わせたが、哀公は望まず、子貢に答えさせた。「盟は信を固めるためのものです。だから心をもって制し、玉帛をもって奉じ、言をもって結び、明神をもって誓う。寡君は、盟があった以上は改められぬと考えております。もし改められるなら、日々盟って何の益がありましょう。いまあなたは必ず盟を継げと言われる。継げるものなら、冷ますこともできましょう」。そこで盟は継がれなかった。
- 呉が衞に会合を求めた。はじめ衞人が呉の行人である且姚を殺して懼れ、行人の子羽に相談した。子羽は「呉はいま無道です。我が君を辱めることになりましょう。やめたほうがよい」と言った。子木は「呉はいま無道である。国が無道であれば必ず人に害を及ぼす。呉は無道でも衞を患わせるには足りる。行くべきだ。長い木が倒れれば必ず打たれ、国の狂犬は必ず噛む。まして大国においては」と言った。
- 秋、衞侯が鄖で呉と会した。哀公と衞侯・宋の皇瑗は盟ったが、呉との盟はついに断った。呉人は衞侯の宿舎を柵で囲んだ。子服景伯は子貢に「諸侯の会は事が終われば、侯伯が礼を致し地主が餼を贈って互いに別れるもの。いま呉は衞に礼を行わず、その君の宿舎を柵で囲んで困らせている。あなたは太宰に会われては」と言った。そこで束錦を請うて赴き、話が衞のことに及ぶと、太宰嚭は「寡君は衞君にお仕えしたい。衞君の来訪が遅れたので寡君は懼れた。それで留めようとしている」と言った。
- 子貢は言った。「衞君の来訪は必ずその衆と謀ったはずです。衆のある者は望み、ある者は望まなかった。だから来るのが遅れた。来たがった者はあなたの味方、来たがらなかった者はあなたの敵です。もし衞君を捕らえれば、味方を毀って敵を高めることになる。あなたを陥れたい者が志を得ます。しかも諸侯を集めて衞君を捕らえれば、誰が懼れずにいましょう。味方を毀ち敵を高め、諸侯を懼れさせては、覇を唱えるのは難しいのでは」。太宰嚭は納得し、衞侯を放した。
- 衞侯は帰って夷の言葉を真似た。子之はまだ幼かったが、「君は必ず免れまい。夷の地で死なれるか。捕らえられながらその言葉を喜ぶとは、従うことも固かろう」と言った。
哀公十四年(前481年)
- 春、大野で西狩をした。叔孫氏の御者である子鉏商が麟を捕らえ、不祥として虞人に与えた。仲尼が見て「麟である」と言い、そこで引き取った。
- 小邾の射が句繹を持って亡命し、「季路に取り決めさせてくれれば、盟は要らぬ」と言った。子路にさせようとしたが、子路は辞退した。季康子が冉有に「千乗の国が自国の盟を信ぜず、あなたの言を信じている。何を辱めることがあろう」と言わせると、子路は答えた。「魯が小邾と事を構えるなら、理由も問わずその城下で死ぬのはよい。だが彼は臣たらずしてその言を成し遂げようとしている。それを義とするのはできません」。
- 甲午、齊の陳恒が舒州でその君の壬を弑した。孔丘は三日斎戒して、齊討伐を三度請うた。哀公が「魯が齊に弱められて久しい。あなたが討つといっても、どうするのか」と言うと、「陳恒が君を弑して、民の与しない者が半ばおります。魯の衆を齊の半分に加えれば勝てます」と答えた。哀公が「あなたから季孫に告げよ」と言うと、孔子は辞退して退き、人に「私は大夫の末に連なる身であるから、言わずにはいられなかったのだ」と語った。
哀公十五年(前480年)
- 秋、齊の陳瓘が楚へ行く途中、衞を通った。仲由が会って言った。「天はあるいは陳氏を斧として公室を斲ち削らせ、その後で他人が取るのかもしれず、あるいは陳氏に最後まで享けさせるのかもしれぬ。分からぬことです。魯と善くして時を待たれるのがよいのでは。なぜ憎むのですか」。子玉は「その通り。私は命を受けた。あなたから我が弟に告げてくれ」と言った。冬、齊と和睦した。
- 衞の孔圉は太子蒯聵の姉を娶って悝を生んだ。孔氏の豎である渾良夫は背が高く美しかった。孔文子が卒すると内室と通じた。太子は戚におり、孔姫は良夫を遣わした。太子は良夫と盟い、伯姫のために願い出た。
- 閏月、良夫は太子とともに入り、孔氏の外圃に宿った。日暮れに二人は衣で顔を覆って車に乗り、伯姫のもとへ行った。孔伯姫は戈を持って先導し、太子と五人が輿に載せた豭(豚)を伴って従い、孔悝を厠に追い詰め、そのまま脅して臺に登らせた。
- 欒寧は酒を飲もうとしていたが乱を聞き、季子(子路)に告げさせた。季子が入ろうとすると、出てくる子羔に出会った。季子が「私はひとまず行く」と言うと、子羔は「間に合わぬ。その難を踏むことはない」と言った。季子は「食を受けている以上、その難を避けぬ」と言い、子羔はそのまま出た。
- 子路が入ると、太子は聞いて懼れ、石乞と孟黶を下ろして子路に当たらせた。戈で撃たれて冠の纓が切れた。子路は「君子は死んでも冠を脱がぬ」と言い、纓を結び直して死んだ。孔子は衞の乱を聞いて「柴は帰ってくる。由は死んだ」と言った。
哀公十六年(前479年)
- 夏四月己丑、孔丘が卒した。哀公は誄して言った。「旻天は憐れまず、一人の老を遺して余一人を守らせようとされなかった。孤り余は病に在る。ああ哀しいかな、尼父よ。自ら律する者を失った」。子贛は言った。「君は魯で天寿を全うされまい。あの方の言葉に『礼を失えば昏み、名を失えば愆つ。志を失うのが昏、所を失うのが愆』とある。生前に用いられず、死後に誄するのは礼ではない。『一人』と称するのは名にかなわない。君は二つとも失われた」。
哀公二十一年(前474年)
- 秋八月、哀公は齊侯・邾子と顧で盟った。齊人は稽首しなかったことを責め、こう歌った。「魯人のとがめ、数年も気づかず、我らを高く跳ねさせる。ただその儒書のせいで、二国の憂いとなる」。
- この行事で、哀公は先に陽榖に着いた。齊の閭丘息は「君がかたじけなくも玉趾を運ばれて寡君の軍中におられる。群臣は早馬で寡君に報せますが、返答が来るまで君を煩わせることになりましょう。僕人の宿所がまだ整いませんので、舟道に館を設けさせてください」と言った。哀公は「あえて僕人を煩わせよう」と辞退した。
史論(士竒)
- 天が孔子を生んだのは天下万世のためであって、魯のためではない。ゆえに魯はついに用いることができなかった。とはいえ、聖人が大いになし得たであろう兆しは、すでに魯において概ね現れている。
- 夾谷の会で犂彌が齊侯に「孔丘は礼を知るが勇はない。萊人に魯侯を脅させれば必ず志を得られる」と言った。ああ、孔子がどうして勇なき者であろう。聖人が天下に勝つのは理によってである。仁義は甲冑となるに足り、忠信は楯となるに足りる。だから曽子は子襄に「私はかつて夫子に大勇を聞いた。自ら省みて正しくなければ、粗衣の男に対しても脅せない。自ら省みて正しければ、千万人に対しても我は行く」と語った。大勇とは理が勝つことをいう。
- 壇に登っての数語で辺境の捕虜は退き、兵車の要求を拒み、野外の饗応を取りやめさせ、長く奪われていた三つの田は兵革を用いずに返ってきた。魯はこの時、まさに積年の弱国ぶりを一変させたのではないか。
- 隣国が震え上がっても、内の害虫を除かねば公室を張ろうとしても叶わない。そこで「大都は国に匹敵せず、家が富んでも甲を蔵さぬ」の制を明らかにし、三都を毀って羽翼を剪り、申句須の戈を振るって従容として変を鎮め、乱政の首魁を誅して次々に方針を改めた。
- この時、かの婦人(女楽)の口によって途中でその用いられ方を阻まれず、一年三年と続いていたら、東周の治はただの空言ではなかったであろう。惜しいことに魯は用いられなかった。
- 諸弟子は多才多芸で文武を兼ね備えた。由(子路)の信義は諸侯に知られ、千乗の国が自国の盟を信ぜずその言を重んじるほどであり、三都を毀ったのも実は由が左右で助けたのである。賜(子貢)は三寸の舌を振るってしばしば長蛇の口に抗し、康子は門を出ずに済み、太宰の宴は二度と設けられず、柵で囲まれた衞君は安らかな住まいを得た。郊の稷曲の役では遲(樊遲)が慫慂し、求(冉有)が矛を用いて軍に攻め入った。柴(高柴)は柔弱であったが、その儒者らしい行いもまた魯国を輝かせた。聖賢が時に無益であったとはいえない。
- 田賦が用いられると婉曲な言葉で戒めを示し、舒州の弑逆には声を上げて討伐を請うた。聖人は老いて志を得なかったが、いつ当世を忘れたことがあろう。麟を傷み道が窮まり、両楹の間の夢を告げた。生前に用いられず、死後に誄されたのはまことに惜しい。とはいえ、聖人の生まれたのは魯のためではなく、天下万世のためであった。