左傳紀事本末郊祀と雩祭(旱でも雩せぬ例は災異篇に見える/視朔を付す)(郊祀雩祭(旱而不雩見/災異視朔附))

魯が行った郊・禘・大雩・望などの祭祀と、視朔・告朔・置閏をめぐる記録を、桓公五年(前707年)から昭公二十五年(前517年)まで集めた篇。郊祭は卜して従わず犠牲を放免することが繰り返され、孟獻子は耕してから郊を卜する順序の誤りを指摘する。大雩は旱のたびに行われた。文公二年(前625年)に夏父弗忌が僖公を閔公の上に置いた「逆祀」は、仲尼が臧文仲の三つの不知の一つに数えた。史論は、魯の郊・禘・大雩がそもそも諸侯の分を越えた僭礼であるとし、周礼が魯から失われていく過程として読む。

年表(19件)

桓公五年(前707年)

  • 秋、大雩を行った。経に書いたのは時宜を失ったからである。およそ祀は、啓蟄に郊を行い、龍星が現れれば雩、初秋に嘗、閉蟄に烝を行う。度を過ぎれば書き記す。

閔公二年(前660年)

  • 夏、莊公の禘祭を吉礼で行った。早すぎる。

僖公五年(前655年)

  • 春正月辛亥朔、冬至であった。僖公は視朔の礼を行ってから観臺に登って望み、記録した。礼にかなう。およそ二分二至と四立には必ず雲気の様子を記す。備えのためである。

僖公三十一年(前629年)

  • 夏四月、四度郊祭を卜したが従わず、犠牲を放免した。礼に反する。なお三望を行ったのも礼に反する。礼では常の祀を卜せず、その犠牲と日を卜する。牛は日を卜してはじめて「牲」といい、牲が成ってから郊を卜するのは怠慢である。望は郊に付随する細かな祀であり、郊をしないなら望もしなくてよい。

文公元年(前626年)

  • この年、閏月を三月に置いた。礼に反する。先王が時を正すには、端を始めに履み、正を中に挙げ、余りを終わりに帰す。端を始めに履めば序は乱れず、正を中に挙げれば民は惑わず、余りを終わりに帰せば事は悖らない。

文公二年(前625年)

  • 春二月丁丑、僖公の神主を作った。経に書いたのは時宜を失ったからである。
  • 秋八月丁卯、大廟で大祭を行い、僖公を上位に置いた。逆さの祀りである。このとき夏父弗忌が宗伯となり、僖公を尊んで、はっきりと「私は見た。新しい鬼が大きく、古い鬼が小さい。大を先にし小を後にするのが順である。聖賢を上に置くのは明である。明と順は礼である」と言った。
  • 君子は礼を失ったとする。礼に順わぬものはない。祀は国の大事であるのに、それを逆さにして礼といえようか。子はたとえ聖であっても父より先に食を受けぬのが久しい定めである。だから禹は鯀に先んじず、湯は契に先んじず、文王・武王は不窋に先んじない。宋は帝乙を祖とし、鄭は厲王を祖とし、なお上を祖とする。だから魯頌に「春秋に怠らず、享祀に違わず、皇皇たる后帝、皇祖后稷」とある。君子は「礼である。后稷は親しいが、帝を先にしている」という。詩に「我が諸姑に問い、そして伯姉に及ぶ」とある。君子は「礼である。姉は親しいが、姑を先にしている」という。
  • 仲尼は「臧文仲には不仁が三つ、不知が三つある。展禽を下位に置き、六関を廃し、妾に蒲を織らせたのが三つの不仁。虚しい器を作り、逆さの祀りを放任し、爰居を祀ったのが三つの不知である」と評した。

文公六年(前621年)

  • 閏月に告朔を行わなかった。礼に反する。閏は時を正すため、時は事を起こすため、事は生を厚くするためであり、民を生かす道はここにある。閏月の告朔をしないのは時政を棄てることである。どうして民を治められよう。

文公十三年(前614年)

  • 秋七月、大室の屋根が壊れた。経に書いたのは、務めを果たさなかったからである。

文公十六年(前611年)

  • 夏五月、文公は四度視朔を行わなかった。病のためである。

宣公三年(前606年)

  • 春、郊を行わずに望を行った。いずれも礼に反する。望は郊に付随するもので、郊をしないなら望もしなくてよい。

襄公三年(前570年)

  • 秋、大雩を行った。旱のためである。

襄公七年(前566年)

  • 夏四月、三度郊祭を卜したが従わず、犠牲を放免した。孟獻子は「私は今になってようやく卜筮の意味を知った。郊で后稷を祀るのは農事を祈るためである。だから啓蟄に郊を行い、郊の後で耕す。いますでに耕してから郊を卜したのだから、従わぬのも当然だ」と言った。

襄公八年(前565年)

  • 秋九月、大雩を行った。旱のためである。

襄公二十八年(前545年)

  • 秋八月、大雩を行った。旱のためである。

昭公六年(前536年)

  • 秋九月、大雩を行った。旱のためである。

昭公十五年(前527年)

  • 春、武宮で禘祭を行おうとして百官に触れを出した。梓慎は「禘の日に凶事があろう。私は赤黒い妖気を見た。祭の吉兆ではなく喪の気配だ。祭事に臨む者に起こるだろう」と言った。二月癸酉、禘祭を行い、叔弓が祭事に臨んだが、籥の舞人が入るところで卒した。楽を取り止め、祭事は終えた。礼にかなう。

昭公十六年(前526年)

  • 九月、大雩を行った。旱のためである。

昭公二十四年(前518年)

  • 秋八月、大雩を行った。旱のためである。

昭公二十五年(前517年)

  • 秋、雩を二度行ったと書かれた。旱がひどかったのである。

史論(士竒)

  • 成王は周公に王室への大功があるとして、郊・禘・大雩の重い祭を賜った。三恪が先代の礼楽を用いられたのと同じく、特別の典である。伯禽が辞退したのか、辞退しても成王が聴かなかったのかは分からないが、大分から推せば、必ず人臣の安んずるところではない。
  • 郊の祭は天に大いに報い日を主とするものである。天に二日なく、土に二王なし。ただ天子だけが万物に首出し、覆う限り照らす限りその精気の通じないところがない。だから天を祭れば天神が来格し、帝を饗すれば上帝が歆け、山川を望んで群神に遍く及び、百霊がみな会する。諸侯は一国の主にすぎず、偽って淫祀を分不相応に行おうとしても、冥々のうちに吐き出されるものだ。
  • 禘はその始祖の出たところを禘するものである。諸侯は初めて封じられた者を始祖とし、廟の数は五に止まる。魯のごときは周公を祀りながら后稷を祖とすることさえできない。まして出自の帝においてをや。
  • 大雩は、天子が五方の上帝を雩し、その帝を配するものである。周公は天に配せられず、すでに陪祀の位を欠く。諸侯が山川に旱を祈るのに、上帝や五人帝が何の関わりがあろう。ゆえに魯の郊・禘・大雩はみな礼に反する。「周公は衰えたか」と夫子は嘆かれた。
  • 郊をしばしば卜して従わなかったのは、まさに「神は同類でない者の供物を歆けず」というものである。卜して従ったのもたまたまにすぎない。魯人はそれに警め悟って前非を改めようとせず、なお三望の挙をこまごまと行って耳目を糊塗した。もし望も卜さねばならなかったとしたら、河海に霊があるなら、林放にも及ばぬ振る舞いと言えまい。
  • 旱によって挙げる祭は盛祭とはならず、ただ天の怒りを招いて暑気をこもらせるだけで、旱への備えではない。経が大きく書くのは、旱に因って僭越と不時を顕わすためである。とはいえ、必ず龍星の現れる月にしか雩ができぬのなら、他の月は旱を座視して顧みぬのか。榖梁の「時が窮まり人力が尽きてから」という説はことに誤っている。
  • 莊公の吉禘は早すぎ、僖公の神主作りは遅すぎた。夏父が僖公を閔公の上に置いたこと、武公の廟を祧すべきなのになお禘したことは諂いによる失である。閏月に告朔せず、世室の屋根が壊れ、四度視朔しなかったのは怠りによる失である。僖公が臺に登って雲気を記したこと、文公が閏を三月に置いたことは、伝が非礼と譏る。ここに至って、魯にあった周礼はもはや跡形もなくなった。