左傳紀事本末小国と魯の交わり(年順に並べ国順によらず/戎狄との戦と和を付す)(小國交魯(以年序不以國序/戎狄兵好俱附))

滕・薛・曹・杞・鄫・郯・郳・小邾・介・榖・鄧といった小国が魯へ来朝し盟を修めた記録を、国別でなく年次順に並べた篇。戎狄との戦と和も併せて収める。隱公二年(前721年)から昭公三十一年(前511年)まで。滕侯と薛侯の席次争い、曹の子臧が二度国を譲った顛末、郯子が少皥氏の鳥の官名を説いて仲尼が学んだ話などを含む。史論は、小国の来朝はことごとく記されながら魯が返礼の使者を送った記事がないことを挙げ、魯が強弱で疎密を決めた非を責める。

年表(30件)

隱公二年(前721年)

  • 莒子が向から妻を娶ったが、向姜は莒に馴染めず帰ってしまった。夏、莒人が向に攻め入り、姜氏を連れ帰った。

隱公七年(前716年)

  • 春、滕侯が卒した。名を書かないのは、まだ同盟していないからである。およそ諸侯が同盟すればそこで名を称する。だから薨ずれば名をもって訃を告げ、終わりを告げて嗣子を称する。好誼を継いで民を安んずるのを礼の経という。

隱公十一年(前712年)

  • 春、滕侯と薛侯が来朝し、席次を争った。薛侯は「我が国が先に封じられた」と言い、滕侯は「我らは周の卜正である。薛は庶姓だ。我らが後になるわけにはいかぬ」と言った。隱公は羽父を遣わして薛侯に請わせた。「君と滕君がかたじけなくも寡人のもとにおられる。周の諺に『山に木あれば工がこれを量り、賓に礼あれば主がこれを選ぶ』とある。周の宗盟では異姓が後になる。寡人が薛へ朝することがあっても、任姓の諸国と席次を争いはしません。君がかたじけなくも寡人に賜るなら、滕君を上位にしていただきたい」。薛侯が承知し、滕侯を上位とした。

桓公二年(前710年)

  • 秋七月、杞侯が来朝したが不敬であった。杞侯が帰ってから討伐を謀り、九月、杞に攻め入った。不敬を討ったのである。
  • 桓公が戎と唐で盟った。旧好を修めたのである。
  • 冬、桓公が唐から帰った。廟に報告したのである。およそ公が出行すれば宗廟に告げ、帰れば飲至の礼を行い、爵を並べて勲を策に記す。礼にかなう。二国だけで会するときは往きも来も地名で称する。事を譲るからである。三国以上なら、往きは地名で、来は「會」と称する。事を成すからである。

桓公三年(前709年)

  • 夏、桓公が杞侯と郕で会した。杞が和を求めたのである。

桓公五年(前707年)

  • 冬、淳于公が曹へ行った。自国が危ういと考えて、そのまま帰らなかった。

桓公六年(前706年)

  • 春、曹から来朝した。経に「實來」と書いたのは、自国へ帰らなかったからである。

桓公七年(前705年)

  • 春、榖伯と鄧侯が来朝した。名を記したのは賤しんだからである。

桓公九年(前703年)

  • 冬、曹の太子が来朝した。上卿の礼で賓客として遇した。曹の太子を饗応したとき、初献の楽が奏されると太子は嘆息した。施父は「曹の太子には憂いがあるのだろう。嘆息する場ではない」と言った。

桓公十年(前702年)

  • 春、曹の桓公が卒した。

桓公十二年(前700年)

  • 夏、曲池で盟った。杞と莒を和睦させたのである。

桓公十七年(前694年)

  • 蔡の桓侯が卒した。蔡人は蔡季を陳から召した。秋、蔡季は陳から蔡へ帰った。蔡人がこれを嘉したのである。

莊公五年(前689年)

  • 秋、郳の犂来が来朝した。名を記したのは、まだ王命を受けていないからである。

莊公十八年(前676年)

  • 夏、莊公が濟西で戎を追った。戎が来たことを書かないのは憚ったのである。

莊公二十七年(前667年)

  • 春、莊公が杞の伯姫と洮で会した。すべきことではない。天子は義を示すためでなければ巡狩せず、諸侯は民の事でなければ動かず、卿は君命でなければ国境を越えない。
  • 冬、杞の伯姫が来た。里帰りである。およそ諸侯の女が里帰りするのを「来」、離縁されるのを「来歸」という。夫人が里帰りするのを「某に如く」、離縁されるのを「某に歸る」という。

僖公十四年(前646年)

  • 鄫の季姫が里帰りした。僖公は怒って留めた。鄫子が朝見しなかったからである。夏、防で会い、鄫子を来朝させた。

僖公二十三年(前637年)

  • 十一月、杞の成公が卒した。経に「子」と書いたのは杞が夷だからである。名を書かないのは、まだ同盟していないからである。およそ諸侯が同盟すれば、死ぬと名をもって訃を告げるのが礼である。名をもって告げれば書き、そうでなければ書かない。不敏を避けるためである。

僖公二十七年(前633年)

  • 春、杞の桓公が来朝した。夷の礼を用いたので「子」と記した。僖公が杞を侮ったのは、杞が恭しくなかったからである。
  • 秋、杞に攻め入った。無礼を責めたのである。

僖公二十九年(前631年)

  • 春、介の葛盧が来朝し、昌衍のほとりに宿った。僖公は会に出ていたので、飼葉と米を届けさせた。礼にかなう。
  • 冬、介の葛盧がまた来た。僖公に会えなかったので改めて来朝したのである。礼遇して燕好を加えた。介の葛盧は牛の鳴き声を聞いて「この牛は三頭の犠牲を生んだが、みな用いられてしまった。その声がそう言っている」と言った。尋ねると、その通りであった。

文公十一年(前616年)

  • 秋、曹の文公が来朝した。即位して謁見に来たのである。
  • 郕の太子朱儒が夫鍾に落ち着いたが、国人は従わなかった。

文公十二年(前615年)

  • 春、郕伯が卒し、郕人は君を立てた。太子は夫鍾と郕邽を持って亡命してきた。文公が諸侯の礼で迎えたのは礼に反する。だから経に「郕伯来奔」と書いた。地名を書かないのは諸侯を尊んだからである。
  • 杞の桓公が来朝した。初めて文公に朝したのであり、あわせて叔姫との離縁を請いながら婚姻関係は絶たぬよう求めた。文公は許した。二月、叔姫が卒した。杞との断絶を言わない。「叔姫」と書いたのは、もはや未婚の女ではないことをいう。
  • 秋、滕の昭公が来朝した。これも初めて文公に朝したのである。

文公十五年(前612年)

  • 夏、曹伯が来朝した。礼にかなう。諸侯は五年に二度互いに朝して王命を修める。古の制である。

宣公九年(前600年)

  • 滕の昭公が卒した。

宣公十六年(前593年)

  • 秋、郯の伯姫が帰ってきた。離縁されたのである。

成公四年(前587年)

  • 杞伯が来朝した。叔姫を返したためである。

成公七年(前584年)

  • 夏、曹の宣公が来朝した。

成公八年(前583年)

  • 冬、杞の叔姫が卒した。杞から帰っていたので経に書いた。

成公九年(前582年)

  • 春、杞の桓公が来て叔姫の遺骸を迎えた。請うたのである。「杞叔姫卒」と書いたのは杞のため、「叔姫を迎える」と書いたのは魯のためである。

成公十三年(前578年)

  • 五月、晉軍が諸侯の軍とともに秦軍と麻隧で戦った。曹の宣公が陣中で卒した。曹人は公子負芻に留守を守らせ、公子欣時に曹伯の遺骸を迎えさせた。秋、負芻はその太子を殺して自ら立った。諸侯は討伐を請うたが、晉人はこの役の労を理由に他年を待つよう言った。
  • 冬、曹の宣公を葬った。葬儀が済むと子臧(欣時)は亡命しようとし、国人がみな従おうとした。成公(負芻)は懼れて罪を告げて願い出、子臧は戻ってその邑を返上した。

成公十五年(前576年)

  • 春、戚で会し、曹の成公を討った。捕らえて京師へ送った。経に「晉侯曹伯を執う」と書いたのは、その民にまで及ばないことを示す。およそ君がその民に不道であれば、諸侯が討って捕らえたとき「某人その侯を執う」といい、そうでなければ言わない。
  • 諸侯は子臧を王に引き合わせて立てようとしたが、子臧は辞退して言った。「前志に『聖人は節に達し、次の者は節を守り、下の者は節を失う。君となるのは我が節ではない』とある。聖人にはなれずとも、守ることを失ってよいものか」。そのまま宋へ亡命した。

成公十六年(前575年)

  • 曹人が晉に請うた。「我が先君宣公が世を去ってから、国人は『どうなるのか』と言い、憂いがまだ止まぬところに、また我が寡君を討たれた。曹国の社稷の鎮めである公子(子臧)まで失っては、曹を大いに滅ぼすことになります。先君に罪があったのでしょうか。罪があるなら、君は会に列せられたはず。君はただ徳と刑を漏らさぬことで諸侯に覇たるのです。どうして我が国にだけ漏らされましょう。あえて私に申し上げます」。
  • 曹人が再び晉に請い、晉侯は子臧に「あなたが帰れば、我らはあなたの君を帰そう」と言った。子臧が曹へ帰り、曹伯も帰されると、子臧はその邑と卿の位をすべて返上して仕えなかった。

成公十六年(前575年)※滕

  • 夏四月、滕の文公が卒した。

襄公六年(前567年)

  • 春、杞の桓公が卒した。初めて名をもって訃を告げた。同盟したからである。
  • 秋、滕の成公が来朝した。初めて襄公に朝したのである。

襄公七年(前566年)

  • 春、郯子が来朝した。初めて襄公に朝したのである。
  • 小邾の穆公が来朝した。これも初めて襄公に朝したのである。

襄公十八年(前555年)

  • 春、白狄が初めて来た。

襄公二十一年(前552年)

  • 冬、曹の武公が来朝した。初めて謁見したのである。

襄公二十九年(前544年)

  • 杞の文公が来て盟った。経に「子」と書いたのは賤しんだからである。

襄公三十一年(前542年)

  • 冬十月、滕の成公が葬儀に参列したが、怠惰でありながら涙が多かった。子服惠伯は「滕君は死ぬだろう。その位に怠りながら哀しみが度を越している。死ぬべき場所で兆しが出た。従わずにいられようか」と言った。

昭公三年(前539年)

  • 春正月丁未、滕子原が卒した。同盟していたので名を書いた。
  • 五月、叔弓が滕へ行って滕の成公を葬った。子服椒が介を務めた。郊に至って懿伯の忌日に当たり、敬子(叔弓)は入ろうとしなかった。惠伯(子服椒)は「公事には公の利があり、私の忌みはありません。椒が先に入りましょう」と言い、先に館を受けた。敬子もこれに従った。
  • 小邾の穆公が来朝した。季武子は待遇を下げようとしたが、穆叔は言った。「なりません。曹・滕・二邾はまことに我らとの好誼を忘れていません。敬んで迎えてもなお二心を懼れるべきなのに、睦まじい一国の待遇を下げるのは、多くの好誼に逆らうことです。従来通りにして、さらに敬を加えられよ。記録に『敬めば災いなし』とあり、また『来る者を敬んで迎えるのは天の福するところ』とあります」。季孫はこれに従った。

昭公十六年(前526年)

  • 秋、郯子が来朝し、昭公が宴を開いた。昭子が「少皥氏が鳥の名を官名としたのはなぜか」と問うと、郯子は答えた。「我が祖のことです。存じております。昔、黄帝氏は雲をもって紀としたので雲師とし雲で名づけ、炎帝氏は火をもって紀としたので火師とし火で名づけ、共工氏は水、太皥氏は龍で同様にしました。我が高祖の少皥摯が立ったとき鳳鳥がたまたま到来したので、鳥をもって紀とし鳥師として鳥で名づけたのです。鳳鳥氏は暦正、玄鳥氏は分(春分・秋分)を司り、伯趙氏は至(夏至・冬至)を司り、青鳥氏は啓(立春・立夏)を司り、丹鳥氏は閉(立秋・立冬)を司る。祝鳩氏は司徒、雎鳩氏は司馬、鳲鳩氏は司空、爽鳩氏は司寇、鶻鳩氏は司事。五鳩は民を集める者です。五雉は五工正となって器用を利し度量を正して民を平らげる者、九扈は九農正となって民の淫らを防ぐ者です。顓頊以来、遠いものを紀とできなくなり、近いものを紀として民師とし、民の事で名づけるようになりました。できなくなったからです」。仲尼はこれを聞いて郯子に会って学び、後に人に「私は『天子が官を失えば学は四夷にある』と聞いていたが、まことである」と語った。

昭公十七年(前525年)

  • 春、小邾の穆公が来朝し、昭公が宴を開いた。季平子が采菽を賦し、穆公は菁菁者莪を賦した。昭子は「国を保つ手立てがなければ、長くは続くまい」と言った。

昭公十八年(前524年)

  • 三月、曹の平公が卒した。

昭公三十一年(前511年)

  • 薛伯榖が卒した。同盟していたので書いた。

史論(士竒)

  • 魯は春秋において積年の弱国である。盟主としては齊・晉の強さに及ばず、地勢は秦・楚の大きさに及ばない。ただ周礼が魯にあるゆえに望国と称され、その声名と文物の余韻が小国の心を繋ぎ、遠人の慕いを動かすに足りた。滕・薛・曹・邾・杞・鄫・郯・紀・郳・犂・牟・葛・介・蕭といった国々はみなしばしば贄を献じて朝礼を修めた。簒逆の桓、遠く方域の外にある榖・鄧の二国でさえ、労を厭わず訪れた。周公の思いが人に残り、魯国が大いになし得たことが分かる。
  • しかし諸小国の来朝はことごとく策に記されながら、ついに一人の使者を送って礼を返したという話を聞かない。春秋が省いて記さなかったのだろうか。それにしては齊・晉・宋・衞との往来は繁を厭わず詳しく記している。
  • 人を敬う者は人も敬い、人を愛する者は人も愛す。魯は平然と大国面をして、小国が自分に親しむのを当然の分と考え、報いるに足らぬとした。杞侯の朝見でさえ不敬を理由に討たれたのだから、他国の簡略や傲慢を責められようか。
  • 国交は人道の大倫であり、往来は天下の常理である。魯はただ強弱によって疎密を決めた。まさに世俗の見識にすぎない。諸姫を存恤し敬んで慰め、来る者を勧め、そのうえ賢を任じ政を修めて発奮し自ら雄となっていれば、天下の望みは魯に走り、周は東遷せずに済んだであろう。惜しいことに魯は暗かった。
  • 小国が僻遠で天子を知らぬのは怪しむに足りない。魯は宗邦でありながら平然と人の朝を受け、しかも自らは述職の礼を修められなかった。だから経は小国の来朝を一切残して削らない。譏りを示すためである。
  • 潛で会し唐で盟ったこと、白狄が来たことも書いて後世の戒めとした。濟西で道すがら追撃した効果もこれで明らかである。洮での会見や防での会見は瑣末で汚らわしく、語るに足りない。蔡季の賢、子臧の譲はいずれも風とすべきである。施父が射姑の嘆きを咎め、惠伯が滕の成公の涙を見抜いたのは、不幸にも言い当てた例である。淳于公がまことに来て帰らず、朱儒が落ち着いて従われなかったのは、ともに自ら棄てたのである。郯子が官制を詳しく述べたのは、葛盧が三頭の犠牲を聞き分けたのと並ぶ千古の美談どころではない。