左傳紀事本末王室の庶子がもたらした禍(王室庶孽之禍)

周王室が庶子の擁立をめぐって四度の内乱に見舞われた経緯を、桓公十八年(前694年)から哀公十九年(前476年)まで通して集めた篇。桓王に寵された子克の乱、莊王の子頺の乱、惠后に寵された子帶の乱、景王の子朝の乱と続き、いずれも寵愛が発端で、蒍國・富辰・賔起らが加担する。子頺は鄭伯と虢公に、子帶は晉の文公に討たれ、子朝は劉蚠・単旗が敬王を擁して十数年争った末に周の典籍を奉じて楚へ亡命した。間に王子晉(太子晉)の諫言と師曠との問答を挟み、賢い嗣子の早世を惜しむ。

年表(35件)

桓公十八年(前694年)

  • 秋、周公黒肩が莊王を弑して王子克を立てようとした。辛伯がこれを王に告げ、王とともに周公黒肩を殺し、王子克は燕へ亡命した。はじめ子儀(克)は桓王に寵愛され、桓王は後事を周公に託していた。辛伯は「后と並ぶ妾、嫡と対等な庶子、二つの政、国に匹敵する都は乱の本である」と諫めたが、周公は従わず、この事態に至った。(以上、子克の乱)

莊公十六年(前678年)

  • はじめ晉の武公が夷を討って夷詭諸を捕らえたとき、蒍國が願い出て赦させたが、その後何の報いもなかった。そこで子國(蒍國)は乱を起こし、晉人に「我とともに夷を討ってその地を取れ」と持ちかけ、晉軍を率いて夷を討ち夷詭諸を殺した。周公忌父は虢へ亡命し、惠王が立った後に復帰した。

莊公十九年(前675年)

  • はじめ王姚が莊王に寵愛されて子頺を生み、子頺も寵を得て、蒍國がその師傅となった。惠王が即位すると、蒍國の圃を取り上げて囿とし、王宮に近い邊伯の邸宅を取り、子禽・祝跪・詹父の田を奪い、膳夫の俸禄を召し上げた。そこで蒍國・邊伯・石速・詹父・子禽・祝跪が蘇氏を頼って乱を起こした。
  • 秋、五大夫が子頺を奉じて王を攻めたが勝てず、温へ逃れた。蘇子は子頺を奉じて衞へ走り、衞軍と燕軍が周を攻めた。冬、子頺が立てられた。

莊公二十年(前674年)

  • 春、鄭伯が王室を調停しようとしたが成らず、燕仲父を捕らえた。夏、鄭伯は王を伴って帰り、王は櫟に留まった。秋、王と鄭伯は鄔に入り、続いて成周に入って宝器を取って帰った。
  • 冬、王子頺が五大夫を饗応し、舞楽を演じ尽くした。鄭伯はこれを聞いて虢叔に会い、「哀楽が時を失えば必ず災いが来る。いま王子頺は歌舞に倦むことがない。禍を楽しんでいるのだ。司寇が処刑を行えば君主は食膳を減らすものだ。まして禍を楽しむとは。王位を犯す以上の禍があろうか。禍に臨んで憂いを忘れれば憂いは必ず及ぶ。王を迎え入れてはどうか」と説いた。虢公は「望むところだ」と応じた。

莊公二十一年(前673年)

  • 春、鄭伯と虢公は弭で相談し、夏、ともに王城を攻めた。鄭伯は王を奉じて圉門から、虢叔は北門から入り、王子頺と五大夫を殺した。
  • 鄭伯は闕の西側で王を饗応し、楽を備えた。王は武公の畧、すなわち虎牢以東の地を与えた。原伯は「鄭伯は過ちに倣った。彼もまた咎を受けよう」と言った。五月、鄭の厲公が卒した。
  • 王が虢の領内を巡ると、虢公は玤に王の宮を造り、王は酒泉を与えた。鄭伯が王を饗応したときには后の鞶鑑を与えたのに、虢公が器を請うと爵を与えた。鄭伯はこれによって王を憎むようになった。冬、王は虢から帰った。

莊公二十七年(前667年)

  • 十月、王は召伯廖を遣わして齊侯に命を賜り、あわせて衞の討伐を求めた。衞が子頺を立てたからである。

莊公二十八年(前666年)

  • 春、齊侯が衞を討って破り、王命をもって衞を責めたが、賄賂を受け取って引き上げた。

僖公十年(前650年)

  • 春、狄が温を滅ぼした。蘇子に信がなかったからである。蘇子は王に叛いて狄についたが、狄ともうまくいかず攻められ、王も救わなかったので温は滅び、蘇子は衞へ亡命した。(以上、子頺の乱)

莊公十八年(前676年)

  • 虢公・晉侯・鄭伯が原莊公を遣わして陳から王后を迎えた。陳媯が京師へ嫁ぎ、これが惠后である。

僖公七年(前653年)

  • 閏月、惠王が崩じた。襄王は大叔帶の難を懼れ、立てられないのではと恐れて喪を発表せず、齊へ危急を告げた。

僖公八年(前652年)

  • 春、洮で盟を結び、王室のことを謀った。襄王の位が定まってから喪が発表された。
  • 冬、王の使者が喪を告げてきた。難があったので遅れたのである。

僖公十一年(前649年)

  • 夏、楊拒・泉臯・伊雒の戎がともに京師を攻め、王城に入って東門を焼いた。王子帶が招いたのである。秦と晉が戎を討って周を救い、秋、晉侯が王のために戎と和睦させた。

僖公十二年(前648年)

  • 王は戎の難を理由に王子帶を討ち、秋、王子帶は齊へ亡命した。
  • 冬、齊侯は管夷吾を遣わして王のために戎と和睦させ、隰朋を晉との和睦に当たらせた。王が上卿の礼で管仲を饗応しようとすると、管仲は辞退した。「臣は身分の低い有司にすぎません。天子の二守である國氏・髙氏がおり、彼らが季節ごとに王命を受けに参ります。どうして臣にこの礼を。陪臣は辞退いたします」。王は「舅氏よ、余は汝の勲を嘉し、汝の懿徳に応える。督(管仲)を忘れぬ。行って職を務め、朕の命に逆らうな」と言った。管仲は下卿の礼を受けて帰った。君子は「管氏が世々祀られるのも当然だ。譲って上位者を忘れなかった。詩に『愷悌の君子は神が労う』とある」と評した。

僖公十三年(前647年)

  • 春、齊侯が仲孫湫を周へ聘問に遣わし、あわせて王子帶の一件を進言させようとしたが、仲孫湫は用件を終えると王には何も言わずに帰り、「まだ時期ではありません。王の怒りは衰えていない。十年ほどでしょう。十年経たねば王は召されますまい」と復命した。
  • 秋、戎の難のために諸侯が周を守衛し、齊の仲孫湫がこれを取りまとめた。

僖公十六年(前644年)

  • 王が戎の難を齊に告げ、齊は諸侯を徴して周を守衛させた。

僖公二十年(前640年)

  • 滑が鄭に叛いて衞に服したので、夏、鄭の公子士洩と堵寇が軍を率いて滑に入った。

僖公二十二年(前638年)

  • 富辰が王に説いた。「大叔を召し返してください。詩に『隣と睦み合えば姻戚も親しむ』とあります。我ら兄弟が和さずに、どうして諸侯の不和を怨めましょう」。王は喜び、王子帶は齊から京師へ帰った。王が召したのである。

僖公二十四年(前636年)

  • 鄭が滑に入ったとき、滑人は一旦従ったが、鄭軍が引き上げるとまた衞についた。鄭の公子士洩と堵俞彌が軍を率いて滑を討った。王は伯服と游孫伯を鄭へ遣わして滑の赦免を求めたが、鄭伯は、惠王を復位させながら厲公に爵を与えなかったこと、襄王が衞と滑に味方したことを怨み、王命を聞かず二人を捕らえた。
  • 王は怒って狄の兵で鄭を討とうとし、富辰が諫めた。「なりません。最上は徳で民を撫し、次は親を親しむことで及ぼすものです。昔、周公は管叔・蔡叔の不和を憂え、親戚を封建して周の藩屏とした。管・蔡・郕・霍・魯・衞・毛・耼・郜・雍・曹・滕・畢・原・酆・郇は文王の子、邘・晉・應・韓は武王の子、凡・蔣・邢・茅・胙・祭は周公の子孫です。召穆公は周の徳が振るわぬのを憂え、成周に宗族を集めて『常棣の華、鄂として韡韡たり。凡そ今の人、兄弟に如くはなし』と詩を作り、その四章に『兄弟は牆に䦧げども、外はその侮りを禦ぐ』とあります。兄弟には小さな諍いがあっても懿親を廃さないのです。いま天子が小さな忿りを忍ばず鄭という親を棄てるのは、どうしたことでしょう。勲に報い、親を親しみ、近きを睦み、賢を尊ぶのが徳の大なるもの。聾に従い昧を用い、頑を用い嚚に従うのが姦の大なるもの。徳を棄て姦を崇ぶのが禍の大なるものです。鄭には平王・惠王を助けた勲があり、厲王・宣王以来の親があり、寵臣を退けて三良を用いました。諸姫の中でも近しく、四徳が揃っています。五声の和を聞き分けぬのが聾、五色の彩を見分けぬのが昧、徳義の常を心に則らぬのが頑、忠信の言を口にせぬのが嚚。狄はこの四姦をすべて備えています。周に懿徳があった時でさえ『兄弟に如くはなし』として封建し、天下を懐柔しながらなお外からの侮りを恐れ、それを防ぐには親を親しむに如かずとして親族を周の屏としたのです。召穆公もそう言いました。いま周の徳はすでに衰え、そのうえ周公・召公の道を変えて諸姦に従うのは、いけないことではありませんか。民はまだ禍を忘れていないのに、王がまたそれを起こす。文王・武王に対してどう申し開きをなさるのですか」。王は聞かず、頺叔と桃子を遣わして狄軍を出させた。
  • 夏、狄が鄭を討って櫟を取った。王は狄に恩義を感じ、その女を后に立てようとした。富辰は「なりません。報いる者は倦み、施す者は飽きぬと申します。狄はもともと貪欲で、王がさらにその口を開かせる。女の徳には極まりがなく、婦の怨みには終わりがない。狄は必ず患いとなります」と諫めたが、王はまた聞き入れなかった。
  • はじめ甘昭公(王子帶)は惠后に寵愛され、惠后は立てようとしたが果たさずに没した。昭公は齊へ亡命し、王が復帰させたが、隗氏(狄の后)と通じた。王が隗氏を廃すると、頺叔・桃子は「我らが狄を招いたのだ。狄は我らを怨むだろう」と言い、大叔を奉じて狄軍で王を攻めた。王の御士が防ごうとしたが、王は「先后が何と言われよう。むしろ諸侯に任せよう」と言って出奔し、坎欿に至って国人が迎え入れた。
  • 秋、頺叔・桃子は大叔を奉じ狄軍で周を伐って周軍を大敗させ、周公忌父・原伯・毛伯・富辰を捕らえた。王は鄭へ出て汜に留まり、大叔は隗氏を伴って温に居した。
  • 冬、王が魯に難を告げて言った。「不榖は不徳にして、母弟の寵子帶に罪を得、鄭の地の汜に身を寄せている。あえて叔父に告げる」。臧文仲は「天子が外で塵をかぶられた以上、官守が駆けつけて安否を問わぬわけにはまいりません」と応じた。王は簡師父を晉へ、左鄢父を秦へ遣わした。天子に「出」の語はないので、経に「天王出居于鄭」と書いたのは母弟の難を避けたことを示す。天子が凶服を着て名を降したのは礼にかなう。鄭伯は孔將鉏・石甲父・侯宣多に汜で官府の設備を整えさせてから自国の政を聴いた。これも礼にかなう。

僖公二十五年(前635年)

  • 秦伯が河上に軍を出して王を復位させようとした。狐偃は晉侯に「諸侯の心を求めるには勤王に如くはありません」と説いた。
  • 晉侯は秦軍を辞退して南下し、三月甲辰、陽樊に陣を敷き、右軍が温を囲み、左軍が王を迎えた。夏四月丁巳、王は王城に入り、大叔を温で捕らえて隰城で殺した。戊午、晉侯が王に朝すると、王は醴を饗して宥を命じた。晉侯は隧(天子の葬制)を請うたが許されず、「これは王の章である。徳に代わる者がいないのに二王があるのは、叔父の憎むところでもあろう」と言い、陽樊・温・原・攅茅の田を与えた。晉はここから南陽へ進出した。(以上、子帶の乱)

周靈王二十二年(前550年)

  • 穀水と洛水がぶつかって王宮を毀ちそうになり、王は堰き止めようとした。太子晉が諫めた。古の長民者は山を崩さず、藪を高くせず、川を防がず、沢を穴あけしなかった。共工はこの道を棄てて川を塞ぎ高きを崩し、天下を害して滅び、鯀もこれに倣って羽山で誅された。禹は前非を改め、四岳の助けを得て高きを高く低きを低くし、川を疏通し水を導いて九山を封じ九川を決し九沢を障り、天下を通じさせた。だから姒氏・姜氏として姓を賜り、有夏・有呂の祀が絶えなかったのだと説き、いま二川の神を滑らせて争わせ王宮を妨げるのは執政の避けるところがあるからで、それを飾るのは乱を飾り争いを助けることだと諫め、厲王・宣王・幽王・平王以来の天禍がまだ止まぬのにさらにそれを顕わすのは王室をいよいよ卑しくすると論じたが、王はついに堰き止めた。景王の代になって寵人が多く、そこから乱が生じ、景王が崩じると王室は大いに乱れ、定王に至って王室はついに衰えた。

太子晉の遺事

  • 晉の平公が叔譽を周へ遣わすと、太子晉と語り合って五度言い負かされ、退いた。叔譽は「太子晉は十五にして臣は語り合えません。取った田を返すべきです。返さねば、彼が天下を得たとき誅されましょう」と復命した。平公が土地を返そうとすると師曠が反対し、自ら赴いて語り合った。
  • 師曠は舜以来の広徳を問い、太子晉は、舜は天であってその所に居ながら天下を利し、禹は聖であって労しても居らず、文王は仁であって天下の三分の二を得ながら商に服事し、武王は義であって一人を殺して天下を利したと論じた。さらに、丈夫を胄子、上官を治める者を士、衆を率いる者を伯、善を衆に及ぼす者を公、名を樹てて天道に適う者を侯、群を成す者を君、広徳をもって諸侯に任を分かち信を篤くする者を予一人、善が四海に至れば天子、四荒に達すれば天王、四荒からも怨みがなければ帝と呼ぶ、と名の階梯を説き、それを成し得たのは虞舜だと答えた。
  • 師曠は感嘆して足を踏み鳴らし、席を敷いて瑟を弾き、無射の曲を歌った。太子晉は嶠を歌って応じた。師曠が帰るとき太子晉は車馬を贈り、御し方を尋ねられると、詩を引いて馬も剛からず轡も柔らかからず、志気を落ち着けて取捨に迷わぬのが御だと答えた。師曠は「あなたは天下の宗となられるか」と言ったが、太子晉は「太皥以来、一姓が再び天下を得た例はない」と退け、自らの寿命を尋ねた。師曠が「声は清く汗り、色は赤白で火の色。長寿ではない」と告げると、太子晉は「三年の後、天に賓客となる。決して口外するな、禍が及ぶ」と言った。師曠が帰って三年経たぬうちに訃報が届いた。
  • 王子晉は靈王の長子で景王の兄である。

昭公十五年(前527年)

  • 夏六月乙丑、王の太子壽が卒した。
  • 秋八月戊寅、王の穆后が崩じた。
  • 十二月、晉の荀躒が周へ赴いて穆后の葬儀に参列し、籍談が介を務めた。葬儀を終えて喪を除くと、文伯(荀躒)が宴に招かれた。魯の壺を用いた酒器を前に、王は「伯氏よ、諸侯はみな王室を鎮撫する貢物を献じているのに、晉だけないのはなぜか」と問うた。文伯は籍談に譲り、籍談は「諸侯は封建の際に王室から明器を受け、それで社稷を鎮撫し彞器を献じます。晉は深山にあって戎狄と隣り合い王室から遠く、王の威霊も及ばず、戎への対応に追われて器を献ずる暇がありません」と答えた。
  • 王は言った。「叔氏よ、忘れたのか。叔父の唐叔は成王の母弟である。どうして分与がなかろう。密須の鼓と大路は文王が大蒐に用いたもの、闕鞏の甲は武王が商に勝った装備で、唐叔がこれを受けて参虛の地に居し戎狄を治めた。その後、襄王の二路・鏚鉞・秬鬯・彤弓・虎賁を文公が受け、南陽の田を得て東夏を撫征した。これが分与でなくて何か。勲があれば廃さず、功があれば土田を与えて彞器で撫し、車服で旌し、文章で明らかにする。子孫が忘れないのを福というのだ。福祚が挙がらぬなら叔父はどこにいる。そのうえ汝の高祖の孫伯黶は晉の典籍を司って大政としたから籍氏という。辛有の次子が晉に来て董の史となり、汝は典を司る家の後裔である。どうして忘れたのか」。籍談は答えられなかった。
  • 客が退くと王は「籍父には後がないだろう。典を数えながら祖を忘れた」と言った。籍談が帰って叔向に告げると、叔向は言った。「王は天寿を全うすまい。楽しむところで終わると聞く。いま王は憂いを楽しんでいる。憂いで終われば終わりとはいえぬ。王は一年のうちに三年の喪を二つも持ちながら、喪中に客を宴し彞器を求めた。憂いを楽しむのも甚だしく、非礼である。彞器は嘉功によって来るもので、喪によって来るのではない。三年の喪は貴人でも遂げるのが礼であるのに、王はそれを遂げず、宴楽を早々に行った。これも非礼である。礼は王の大経であり、一挙にして二つの礼を失えば大経はない。言は典を考え、典は経を志すもの。経を忘れて多く言い典を挙げても、何の用があろう」。

昭公十八年(前524年)

  • 秋、曹の平公を葬った。参列した者が周の原伯魯に会って語ったところ、学を好まぬ人物であった。帰ってそれを閔子馬に語ると、閔子馬は言った。「周は乱れるだろう。こういう説が広まってから大人にまで及ぶのだ。大人は失うことを患えて惑う。そのうえ『学ばずともよい、学ばなくても害はない』と言う。害がないから学ばぬとなれば、いい加減でも通ることになる。そうなれば下は上を陵ぎ、上は廃れる。乱れずにいられようか。学は殖やすものだ。殖やさねば落ちる。原氏は滅びるだろう」。

昭公二十一年(前521年)

  • 春、天王が無射の鐘を鋳ようとした。泠州鳩は言った。「王は心の病で死なれよう。楽は天子の職である。音は楽を載せる車、鐘は音を収める器。天子は風を省みて楽を作り、鐘に収め、車で運ぶ。小さすぎず大きすぎなければ物と和し、物が和せば善が成る。だから和した声は耳に入って心に蔵まり、心が安らげば楽しい。小さすぎれば満たず、大きすぎれば容れられぬ。心が感じ、感が病を生む。いま鐘は大きすぎる。王の心は堪えられまい。長くは保つまい」。

昭公二十二年(前520年)

  • 王子朝と賔起が景王に寵愛され、王は賔孟(賔起)と語らって王子朝を立てようとした。劉獻公の庶子である伯蚠は単穆公に仕え、賔孟の人柄を憎んで殺そうとし、王子朝の言を憎んで除こうとした。
  • 賔孟が郊外で雄鶏が自ら尾を断つのを見て侍者に問うと、「犠牲にされるのを憚っているのです」と答えた。急ぎ帰って王に告げ、「鶏でさえ人に用いられるのを憚る。人はそれと違い、犠牲に人を用いる。人が犠牲になるのは難しいことだ」と言うと、王は「犠牲が何の害になろう」とだけ応じて取り合わなかった。
  • 夏四月、王は北山で狩をし、公卿をみな従わせて単子・劉子を殺そうとした。王には心の病があり、乙丑、榮錡氏の邸で崩じた。戊辰、劉子摯が卒し、子がなかったので単子が劉蚠を立てた。五月庚辰、王(悼王)に謁見し、そのまま賔起を攻めて殺し、王子たちと単氏の邸で盟った。
  • 丁巳、景王を葬った。王子朝は、職や俸禄を失った旧官・百工と靈王・景王の一族を頼んで乱を起こし、郊と要餞の兵を率いて劉子を追った。壬戌、劉子は揚へ逃げ、単子は悼王を莊宮に迎えて帰ったが、王子還が夜のうちに王を奪って莊宮へ移した。癸亥、単子が出ると、王子還は召莊公と謀り「単旗を殺さねば勝てぬ。重ねて盟っても、背いて勝つ者は多い」と言い、これに従った。樊頃子は「それは言うべきことではない。必ず勝てぬ」と諫めた。
  • こうして王を奉じて単子を追い、領に至って大いに盟い、摯荒を殺して劉子に詫びた。劉子は劉へ行き、単子は逃げた。乙丑、単子は平畤へ奔り、王子たちが追った。単子は還・姑・發・弱・鬷延・定・稠を殺し、子朝は京へ奔った。丙寅、これを討つと京人は山へ逃げ、劉子は王城に入った。辛未、鞏簡公が京で敗れ、乙亥、甘平公も敗れた。叔鞅が京師から帰って王室の乱を伝えると、閔馬父は「子朝は勝てまい。味方する者は天が廃した者たちだ」と言った。
  • 単子は晉へ危急を告げようとし、秋七月戊寅、王を伴って平畤へ、さらに圃車へ移り、皇に留まった。劉子は劉へ行き、単子は王子處に王城を守らせ、百工と平宮で盟った。辛卯、鄩肸が皇を攻めたが大敗し捕らえられ、壬辰、王城の市で焼き殺された。八月辛酉、司徒醜が王師を率いて前城で敗れ、百工が叛いた。己巳、単氏の邸を攻めたが敗れ、庚午、逆に討たれ、辛未、東圉を攻めた。
  • 冬十月丁巳、晉の籍談・荀躒が九州の戎と焦・瑕・温・原の兵を率いて王を王城へ入れた。庚申、単子・劉蚠の率いる王師が郊で敗れ、前城の人が社で陸渾を破った。
  • 十一月乙酉、王子猛が卒した。喪の礼を整えなかった。
  • 己丑、敬王が即位し、子旅氏の邸に居した。十二月庚戌、晉の籍談・荀躒・賈辛・司馬督が軍を率いて隂・侯氏・谿泉に陣し社に留まり、王師は汜・解に陣して任人に留まった。閏月、晉の箕遺・樂徴・右行詭が渡河して前城を取り、その東南に陣し、王師は京楚に陣した。辛丑、京を攻めてその西南を毀った。

昭公二十三年(前519年)

  • 春正月壬寅朔、二軍が郊を囲み、癸卯、郊と鄩が潰えた。丁未、晉軍は平隂に、王師は澤邑にあり、王が休戦を告げさせ、庚戌、晉軍は引き上げた。
  • 夏四月乙酉、単子が訾を取り、劉子が牆人・直人を取った。六月壬午、王子朝が尹に入り、癸未、尹圉が劉佗を誘い出して殺した。丙戌、単子は阪道から、劉子は尹道から尹を攻めたが、単子が先に着いて敗れ、劉子は引き返した。己丑、召伯奐と南宮極が成周の人を尹に駐屯させた。庚寅、単子・劉子・樊齊が王を伴って劉へ移った。甲午、王子朝が王城に入って左巷に陣した。
  • 秋七月戊申、鄩羅が莊宮へ入れ、尹辛が劉師を唐で破り、丙辰にはさらに鄩で破った。甲子、尹辛が西闈を取り、丙寅、蒯を攻めて潰した。
  • 八月丁酉、南宮極の邸が地震で崩れた。萇𢎞は劉文公に「君よ、励まれよ。先君の力で成し遂げられます。周が滅ぶときは三川が震えた。いま西王(子朝方)の大臣が震われた。天が棄てたのです。東王(敬王)は必ず大勝します」と言った。

昭公二十四年(前518年)

  • 春正月辛丑、召簡公と南宮嚚が甘桓公を連れて王子朝に会った。劉子が萇𢎞に「甘氏もまた向こうへ行った」と言うと、萇𢎞は「害はありません。徳を同じくして義を量るのです。大誓に『紂には億兆の民があったが心はばらばら、我には乱を治める臣が十人あって心も徳も一つ』とあります。周が興ったのはこれによります。君は徳に務め、人のいないことを憂えられますな」と答えた。戊午、王子朝が鄔に入った。
  • 三月庚戌、晉侯が士景伯を遣わして周の内情を問わせた。士伯は乾祭に立って一般の人々に問い、晉はそれによって王子朝の使者を受け入れないと宣言した。
  • 六月壬申、王子朝の軍が瑕と杏を攻め、いずれも潰えた。鄭伯が晉へ行き、子大叔が相となって范獻子と会った。獻子が「王室をどうするか」と問うと、子大叔は「老夫は自国のことさえ憂えきれません。まして王室のことなど。しかし人の言に『寡婦は機織りの糸を憂えず宗周の崩壊を憂う。禍が及ぶからだ』とあります。いま王室はうごめき、我が小国も懼れております。これは大国の憂いです。我らに何が分かりましょう。貴方こそ早く図られよ。詩に『缾が空なのは罍の恥』とある。王室が安らかでないのは晉の恥です」と答えた。獻子は懼れて宣子と謀り、諸侯を召集して翌年を期した。
  • 冬十月癸酉、王子朝が成周の宝珪を河に沈めて祈った。甲戌、渡し守がそれを河上で拾い、隂不佞が温の人を率いて南へ侵攻したとき玉を得た者を捕らえて玉を取り上げた。売ろうとすると石になっていた。王が位を定めてからそれを献じ、東訾を与えられた。

昭公二十五年(前517年)

  • 夏、黄父で会し、王室のことを謀った。趙簡子は諸侯の大夫に王への粟の輸送と守備兵の提供を命じ、「来年、王を復位させる」と言った。
  • 宋の樂大心が「我は粟を出さぬ。我は周にとって客である。どうして出せようか」と言うと、晉の士伯は「踐土の盟以来、宋が加わらなかった役があるか、同じくしなかった盟があるか。『同じく王室を憂える』と誓ったのに、どうして逃れられよう。君命を奉じて大事の会に臨みながら、宋が盟に背くのは許されまい」と責めた。右師は答えられず、命令書を受け取って退いた。士伯は簡子に「宋の右師は必ず滅びる。君命を奉じて使いしながら盟に背いて盟主に逆らおうとする。これ以上の不祥はない」と告げた。
  • 壬申、尹文公が鞏を渡って東訾を焼いたが、落とせなかった。

昭公二十六年(前516年)

  • 四月、単子が晉へ行って危急を告げた。五月戊午、劉の人が王城の軍を尸氏で破り、戊辰、王城の人と劉の人が施谷で戦い、劉軍が敗れた。
  • 七月己巳、劉子が王を伴って出て、庚午、渠に留まり、王城の人が劉を焼いた。丙子、王は褚氏に宿り、丁丑、萑谷に移り、庚辰、胥靡に入り、辛巳、滑に留まった。晉の知躒と趙鞅が軍を率いて王を復位させ、女寛に闕塞を守らせた。
  • 冬十月丙申、王は滑で軍を起こし、辛丑、郊に至り、尸に留まった。十一月辛酉、晉軍が鞏を落とし、召伯盈が王子朝を追った。王子朝と召氏の一族、毛伯得・尹氏固・南宮嚚は周の典籍を奉じて楚へ亡命し、隂忌は莒へ奔って叛いた。召伯は尸で王を迎え、劉子・単子と盟い、圉澤に陣して隄上に留まった。癸酉、王は成周に入り、甲戌、襄宮で盟った。晉軍は成公般を周の守備に残して引き上げた。
  • 十二月癸未、王は莊宮に入った。王子朝は諸侯に使者を送って主張した。「昔、武王が殷に勝ち、成王が四方を靖め、康王が民を休ませ、あわせて母弟を建てて周の藩屏とした。『文武の功を独り占めせず、後人が迷い倒れて難に陥ればこれを救う』ためである。夷王が身を損なったときは諸侯がその望を祈り、厲王が虐政を行ったときは万民が耐えかねて彘に置き、諸侯は位を退いて王政を代行した。宣王に志が立ってから官に復した。幽王のとき天は周を弔わず、王は昏くして位を失い、攜王が命を犯したので諸侯はこれを退けて正嗣を立て、郟鄏へ遷した。これが兄弟が王室に力を尽くした証である。惠王のときは天が周を靖めず、頺が禍心を生じ叔帶に及んだが、惠王・襄王が難を避けて王都を離れると、晉と鄭が不正を退けて王家を安んじた。これが兄弟が先王の命に率先して従った証である。定王六年、秦人が『周に髭の王が出る』と妖言したが、王は職を修め諸侯は服し、二世にわたって職を共にした。王位に隙があれば諸侯は図らずして乱と災を受けるものだ。靈王は生まれつき髭があり、甚だ神聖で諸侯に憎まれず、靈王・景王ともに世を全うされた。いま王室が乱れているのは、単旗と劉狄が天下を剥ぎ乱し、ひたすら不善を行い、先王の常法を無視して『ただ我が心の命ずるところ、誰が咎めよう』とし、不逞の徒を率いて王室に乱を行い、欲は飽くことなく、鬼神を汚し刑法を捨て、盟に背き威儀に傲り、先王を偽り誣いているからだ。晉は不道にもこれを助け、その悪をほしいままにさせている。そのために不榖は震い流されて荊蛮に潜み、身の置き所がない。我が兄弟甥舅よ、天の法に順い狡猾を助けず、先王の命に従い、天罰を招かず、不榖を赦し図ってくれるなら、それこそ願いである。あえて腹心と先王の常法を述べる。諸侯よ深く図られよ。昔の先王の命に『王后に嫡子がなければ長を立て、年が同じなら徳、徳が同じなら卜で決める。王は愛をもって立てず、公卿は私しない』とあり、これが古の制である。穆后と太子壽が早世したのに、単・劉は私に少年を立てて先王の命を妨げた。伯・仲・叔・季よ、図られよ」。閔馬父は子朝の辞を聞いて「文辞は礼を行うためのものだ。子朝は景王の命を犯し、晉の大国を遠ざけて我意を通した。無礼も甚だしい。文辞が何になろう」と言った。

昭公二十七年(前515年)

  • 扈で会し、周の守備を命じた。
  • 十二月、晉の籍秦が諸侯の守備兵を周へ送ったが、魯は国内の難を理由に辞退した。

昭公二十九年(前513年)

  • 三月己卯、京師で召伯盈・尹氏固と原伯魯の子が殺された。尹固が戻ったとき、周の郊で会った婦人が「留まれば人に禍を勧め、出れば数日で帰ってくる。この男、三年ももつまい」と咎めた。
  • 夏五月庚寅、王子趙車が鄻に入って叛いたが、隂不佞がこれを破った。

昭公三十二年(前510年)

  • 秋八月、王が富辛と石張を晉へ遣わし、成周に城を築くよう請うた。天子は言った。「天が周に禍を降し、我が兄弟をして乱心を抱かせ、伯父に憂いをかけている。我が親昵・甥舅は落ち着く暇もなく、いまや十年、守備に勤めて五年、余は一日も忘れたことがない。農夫が収穫を待つように心細く時を待っている。伯父がもし大恩を施し、二文(文侯・文公)の業を復して周室の憂いを弛め、文王・武王の福を求め、盟主の地位を固めて令名を昭かにされるなら、余の大願である。昔、成王が諸侯を集めて成周に城を築き東都としたのは文徳を崇めたからだ。いま成王の霊に福を借り成周の城を修め、守備兵に苦労させず諸侯を安んじ、賊を遠ざけたい。これは晉の力によるものだ。伯父に委ねる。よく図られ、余一人が百姓に怨みを受けぬようにされたい。伯父には栄えある功があり、先王もこれを用いられよう」。
  • 范獻子は魏獻子に「周を守るより城を築くほうがよい。天子がそう言われるのだから、後に何かあっても晉は関知せずに済む。王命に従って諸侯を楽にすれば晉に憂いはない。これを務めずして何に従事するのか」と言い、魏獻子は「よろしい」と応じ、伯音(韓不信)に「天子の命があった。謹んで承り、諸侯に急ぎ告げます。遅速の順序はそこで決めましょう」と答えさせた。
  • 冬十一月、晉の魏舒と韓不信が京師へ赴き、諸侯の大夫を狄泉に集めて盟を尋ね、成周に城を築くよう命じた。魏子が南面したので、衞の彪傒は「魏子には必ず大きな咎がある。位を犯して大事を命ずるのは彼の任ではない。詩に『天の怒りを敬み、戯れ楽しまず、天の変を敬み、馳せ駆らず』とある。まして位を犯して大事を行うとは」と言った。
  • 己丑、士彌牟が成周の造営を計画し、丈数を計り、高低を測り、厚薄を量り、溝洫の深さを定め、土の産を調べ、遠近を議し、工期を量り、人夫を計り、材木を考え、糧食を書き出して諸侯に役を命じ、担当を割り当てて分担の丈数を書きつけ、責任者に授け、劉子に報告し、韓簡子が立ち会って正式の命とした。

定公元年(前509年)

  • 春正月辛巳、晉の魏舒が諸侯の大夫を狄泉に集めて成周に城を築こうとし、魏子が政を執った。衞の彪傒は「天子を建てようとしながら位を替えて命ずるのは義でない。大事に義を犯せば必ず大きな咎がある。晉は諸侯を失っていないが、魏子は免れまい」と言った。この行事で魏獻子は韓簡子と原壽過に役を委ね、大陸で狩をして野を焼いた。帰路、甯で卒した。范獻子は、復命せずに狩をしたことを理由に柏の椁を取り去った。
  • 孟懿子が成周の築城に参加した。庚寅、版築を始めたところ、宋の仲幾が担当を拒み「滕・薛・郳が我が役を担うべきだ」と言った。薛の宰は「宋は無道にも我ら小国を周から絶ち、我らを楚につかせた。だから常に宋に従ってきた。晉の文公は踐土の盟で『我が同盟はそれぞれ旧職に復せ』と言った。踐土に従うか宋に従うか、命のままに」と反論した。仲幾が「踐土でももとよりそうだった」と言うと、薛の宰は「薛の皇祖である奚仲は薛に居して夏の車正となり、邳へ遷った。仲虺は薛に居して湯の左相となった。旧職に復するなら王官を承けるべきで、なぜ諸侯の役を務めるのか」と述べた。仲幾は「三代それぞれ制度が違う。薛にどうして旧職があろう。宋の役を務めるのもその職分だ」と応じた。
  • 士彌牟が「晉の執政は新任である。ひとまず担当を受け、帰って旧記録を調べよう」と言うと、仲幾は「たとえ貴方が忘れても、山川の鬼神が忘れましょうか」と言った。士伯は怒り、韓簡子に「薛は人に徴を求め、宋は鬼に徴を求める。宋の罪は大きい。しかも言い分がないのに神を持ち出して我を誣いている。寵を開いて侮りを招くとはこのことだ。必ず仲幾を戮すべきだ」と言い、仲幾を捕らえて帰り、三月に京師へ引き渡した。城は三十日で完成し、諸侯の守備兵を帰した。
  • 齊の髙張は遅れて諸侯に従わなかった。晉の女叔寛は「周の萇𢎞と齊の髙張はともに免れまい。萇叔は天に逆らい、髙子は人に逆らった。天が壊すものは支えられず、衆のなすことは犯せない」と言った。

定公五年(前505年)

  • 春、王の使者が楚で子朝を殺した。

定公六年(前504年)

  • 周の儋翩が王子朝の残党を率い、鄭人を頼んで周で乱を起こそうとした。そこで鄭は馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外を攻めた。六月、晉の閻没が周を守り、あわせて胥靡に城を築いた。
  • 冬十二月、天王は姑蕕に移った。儋翩の乱を避けたのである。

定公七年(前503年)

  • 春二月、周の儋翩が儀栗に入って叛いた。
  • 夏四月、単武公と劉桓公が窮谷で尹氏を破った。
  • 冬十一月戊午、単子・劉子が慶氏の地で王を迎え、晉の籍秦が王を送った。己巳、王は王城に入り、公族黨氏の邸に居し、その後で莊宮に朝した。

定公八年(前502年)

  • 二月己丑、単子が榖城を攻め、劉子が儀栗を攻めた。辛卯、単子が簡城を攻め、劉子が盂を攻めて王室を安定させた。

哀公三年(前492年)

  • 劉氏と范氏は代々姻戚であり、萇𢎞は劉文公に仕えていたので、周は范氏に味方した。趙鞅がこれを咎めたため、六月癸卯、周人は萇𢎞を殺した。

哀公十九年(前476年)

  • 冬、叔青が京師へ赴いた。敬王が崩じたためである。(以上、子朝の乱)

史論(士竒)

  • 幽王は伯服を寵愛して宜臼を廃し、そのために王室は東遷した。永く鑑とすべき事例なのに、後の王が覆車の轍を踏み、子克・子頺・子帶・子朝の乱が相次いだ。
  • 子克の禍は桓王の寵愛に始まる。辛伯の諫めは切実であったが、周公は悟らず刃を蓄える心を抱いた。幸い辛伯が密告して事は成らなかったが、周公の罪は誅しても足りない。子克が四方に流浪したのは自業自得だが、論者は桓王に対する嘆きを禁じ得ない。
  • 莊王は寵愛のせいで危うく弑されかけ、さらに王姚を愛して子頺を可愛がり、蒍國を傅につけた。子克を周公に託したのと同じである。寵されれば驕り、驕れば満ち、満ちれば願いに際限がなくなり、悪に陥らずには済まない。当時、五大夫の怨みがなくとも子頺の乱は起きていただろう。五大夫は憤りを積み、蒍國は師傅の親しさで事を成そうとした。成功しても僥倖であって福ではなく、その逆行ぶりも当然である。
  • 蘇子は畿内の諸侯であり、衞と燕はともに王の近親でありながら、賊に与して天下の大不韙を犯した。何の義があろう。鄭と虢が心を合わせて王室を安んじたのは、燕・衞よりはるかにまさる。だが順逆の別は黒白のように明らかで、鷹や鸇が悪鳥を追うように一刻の猶予もならぬはずだ。子頺の敗亡は、舞楽を尽くすのを見るまでもなく分かること。弭での相談まで様子見をし、子頺が禍を楽しむのを聞いてようやく決したのは、春秋の諸侯が大義に暗かったことを示す。衞が乱の首謀であり、召伯廖が命を伝えて齊が討伐したのは九伐の遺法である。賄賂を取って帰ったのを君子は惜しんだ。蘇子はかつて子頺を迎え、狄に滅ぼされても王が救わなかった。報いの理として当然である。
  • 子帶の難は惠后の寵愛に始まる。惠王が崩じたとき喪を秘して襄王の位を定めたほど、事態は切迫していた。この時こそ骨肉の情を断ち義をもって処すべきであった。戎を招いて王城を犯した子帶の罪は明白で、岱陰へ追いやって根を絶つべきところ、齊が身柄を保全したのは親を親しむ誼としてすでに十分であった。それを齊人が復帰を請い、富辰までがそれを煽ったのはどうしたことか。ついに隗氏との密通が狄の禍を再び招き、襄王は出奔して鄭の地に一年余りも留まった。小を忍ばねば大謀を乱す。富辰はその責を免れまい。
  • 滑の赦免を聞き入れられぬからと狄軍で鄭を伐ち、狄の女を后にしたのは、謀りが拙く禍を招き侮りを容れたものである。王が子帶に対して、属籍を絶ちながらまた復させ、自分を攻めてきてもなお防ぐに忍びなかったのは天性の篤さで、仁人が怒りを蔵さず怨みを宿さないのと変わらない。惜しむらくはその処し方が道を尽くさず、子帶の狼子野心は始終狂悖で、人の道理では責められぬものであった。晉の文公が秦軍を辞退して王の復位の功を独占したのが覇業の基となった。隧を請うて許されず王の章が失われなかったことこそ、東周が細々と続いた所以であろう。
  • 子朝の難は景王の寵愛に始まり、賔孟がそれを成した。犠鶏が尾を断つ話でその邪説をたくましくした。もし景王が心の病で急死せず、単・劉が殺されていたら、子猛は立たなかったであろう。王が崩じて子朝が乱を起こすと、召伯奐・南宮極・尹氏・毛伯らの群兇が羽翼となり、ただ劉蚠と単旗だけが幼主を擁して敗走と流離の中を辿った。不幸にも王猛は早世し、改めて敬王を立て、万死に一生を得てその位を定めた。まことの忠臣というべきである。
  • 当時、東方の諸侯に寡婦の憂いを分かつ者はなく、頼れるのは晉だけであったが、その晉も籍談・荀躒の偏師を差し向けて周囲を回るばかりで、禍敗を救えなかった。乾祭で内情を問うてようやく子朝の使者を退け、子太叔が正論を述べてようやく王室のための計が決した。東王が共主で子朝が嬖孽であることは、南宮極の邸の震災、宝珪が河に浮いた奇事によって天意も人意も明らかであったのに、なぜこれほど疑い迷ったのか。晉が早く諸侯を集めて粟を送り守備兵を出し、力を合わせて元兇を討っていれば、子朝を久しく草莽に辱め、荊蛮で緩やかに死なせ、宗周の典籍まで持ち去らせずに済んだであろう。
  • 敬王が復位した以上、守備も築城も当然であるのに、宋は三恪の家柄でありながら担当を拒み、魏獻子は「周を守るより城を築くほうがよい。天子がそう言うのだから、後に何かあっても晉は関知せずに済む」と言った。どこに天を憂え日を扶ける誠意があろうか。衞の彪傒に至っては「天が壊すものは支えられぬ」の説を妄りに引いて、萇𢎞・劉子が成周に城を築くのを大きな災いだと深く咎めた。いよいよ悖っている。当世の人心がこれでは、周が復興できようか。
  • 鄭は子朝の残党に味方して兵を挙げ順を犯し、敬王を再び姑蕕へ避難させた。その罪は燕・衞と同じである。東周の王室の乱を通観すると四度あり、いずれも庶孽に始まり嬖寵によって成った。論者は乱の原因を省みず、穀水・洛水の堰き止めや無射の鋳造、学を好まぬ弊風のせいにする。末を知って本を知らぬものである。