左傳紀事本末魯の隠公、国を嗣ぐ(桓公の簒奪と弑逆を付す)(魯隠公嗣國(桓公篡/弑附))
惠公の没後、幼い桓公を奉じて摂位した隠公の治世十一年と、その弑逆の顛末を扱う篇。邾・戎・齊・鄭との盟、棠での観魚を臧僖伯に諫められた一件、仲子の廟で六羽の舞を用いた始まりなど、摂位の間の事績を年ごとに追う。隠公十一年(前712年)、羽父が桓公の殺害を請うて拒まれると翻って桓公に讒し、寪氏の館で隠公を弑して桓公が立った。史論は、隠公の失は譲ったことではなく譲り方が嫌疑を遠ざけなかった点にあるとする。
年表(14件)
- 隠公即位の由来惠公が薨じ、仲子の生んだ桓公が幼かったため隠公が摂位する
- 隠公元年前722年摂政ゆえ即位を書かず、邾の儀父と蔑で盟い、惠公を改葬する
- 隠公二年前721年潛で戎と会し、無駭が極に攻め入り、秋に唐で戎と盟う
- 隠公三年前720年隠公の母の声子が卒するが、夫人の礼で葬られない
- 隠公四年前719年羽父が強いて請い、諸侯の鄭討伐に軍を率いて加わる
- 隠公五年前718年臧僖伯の諫めを退けて棠で観魚し、仲子の廟に六羽の舞を始める
- 隠公六年前717年鄭と和を改め、艾で齊と初めて盟う
- 隠公七年前716年齊侯が夷仲年を遣わして聘問し、艾の盟を固める
- 隠公八年前715年鄭伯が祊を返し、齊が宋・衞と鄭を和睦させ、無駭に展氏の族名を賜う
- 隠公九年前714年宋が魯に告げなかったことを怒り、隠公が宋との交わりを絶つ
- 隠公十年前713年齊侯・鄭伯と会して宋を討ち、菅で宋軍を破って郜と防を得る
- 隠公十一年前712年羽父の讒により、寪氏の館で隠公が弑され桓公が立つ
- 桓公元年前711年桓公が即位して鄭と好誼を修め、祊と許の田を交換する
- 桓公十七年前694年邾の儀父と趡で盟い、宋の意向で邾を討つ
隠公即位の由来
- 惠公の元妃は孟子であったが、孟子が没したので声子を継室とし、隠公が生まれた。宋の武公は仲子を生み、仲子は生まれつき手に「魯の夫人となる」という文があった。そこで仲子は魯へ嫁ぎ、桓公を生んだところで惠公が薨じた。こうして隠公が立ち、桓公を奉じることとなった。
隠公元年(前722年)
- 春正月、即位を書かないのは摂政だからである。
- 三月、隠公は邾の儀父と蔑で盟った。邾子克のことである。まだ王命を受けていないので爵を書かず、「儀父」と字で呼んだのは尊んだからである。隠公は摂位して邾と好を結ぼうとし、蔑の盟を行った。
- 秋七月、天王が宰咺を遣わし、惠公と仲子への賵を届けた。時期が遅れたうえ、仲子はまだ死んでいなかったので使者の名が記された。天子は死後七月で葬られ同軌の諸国がすべて集まり、諸侯は五月で同盟国が、大夫は三月で同位の者が、士は月をまたいで外姻が集まる。死者への贈物は遺体に間に合わせ、生者への弔問は哀しみの最中に届けるもので、凶事を前倒しにするのは礼に反する。
- 冬十月庚申、惠公を改葬した。隠公が臨まなかったので経に書かれない。惠公が薨じたとき宋との戦があり、太子は幼く、葬儀に不備があったので改葬したのである。衞侯が葬儀に来たが隠公に会えなかったので、これも書かれない。
- 衆父が卒した。隠公が小斂に立ち会わなかったので日付を書かない。
隠公二年(前721年)
- 春、隠公が潛で戎と会した。惠公以来の好誼を修めるためである。戎が盟を請うたが、隠公は辞退した。
- 司空無駭が極に攻め入り、費庈父がこれを制圧した。
- 戎が改めて盟を請い、秋、唐で盟って戎との好誼を修めた。
隠公三年(前720年)
- 夏、君氏が卒した。声子のことである。諸侯に訃報を出さず、寝で反哭せず、姑に袝さなかったので「薨」と書かず、夫人と称さないので「葬」と言わず、姓も書かず、公のために「君氏」と称した。
隠公四年(前719年)
- 夏、隠公が宋公と清で会った。
- 秋、諸侯が鄭を討った。宋公が魯に援軍を求めてきたが隠公は断った。羽父が軍を率いて加わることを請い、隠公は許さなかったが、強いて請うて出陣した。経に「翬帥師」と書いたのは、これを憎んだからである。
隠公五年(前718年)
- 春、隠公が棠へ行って漁を見物しようとした。臧僖伯が諫めた。「およそ物が大事を講ずるに足りず、材が器用に備えるに足りないなら、君主は手を出しません。君主は民を軌と物に導く者です。だから事を講じて法度を量るのを軌といい、材を取って物の彩を明らかにするのを物といいます。軌でも物でもないものを乱政といい、乱政がしばしば行われるのが敗れる所以です。春の蒐、夏の苗、秋の獮、冬の狩はみな農閑期に事を講ずるもので、三年ごとに治兵し、帰って軍を整え、廟に至って飲至し、軍の成果を数え、文章を昭かにし貴賤を明らかにし、等列を弁じ、長幼の順に従い、威儀を習うのです。鳥獣の肉が俎に上らず、皮革・歯牙・骨角・毛羽が器に用いられないなら、君主は射ません。これが古の制です。山林川澤の産物や器用の材は、下役の仕事、役人の職分であって君主の関わるところではありません」。隠公は「私は領地を巡視するのだ」と言って出かけ、漁具を並べさせて見物した。僖伯は病と称して従わなかった。経に「公矢魚于棠」と書いたのは非礼だからであり、あわせて遠地であることを示している。
- 九月、仲子の廟が完成し、萬の舞を奉納しようとして、隠公は羽の数を衆仲に問うた。衆仲は「天子は八、諸侯は六、大夫は四、士は二です。舞は八音を節し八風を行うものですから、八から下へ数えます」と答えた。隠公はこれに従い、こうして初めて六羽を用い、六佾が始まった。
- 宋人が邾の田を取ったので、邾人が鄭に「君よ、宋への鬱憤を晴らされよ。我が国が道案内をします」と告げた。鄭は王の軍とともに宋を討ち、その外郭に攻め入って東門の役の報復とした。宋人が魯に急を告げてきたので、隠公は外郭まで攻め込まれたと聞いて救援しようとし、使者に「敵はどこまで来たか」と問うた。使者が「まだ国都には及びません」と答えたので、隠公は怒って中止し、「君命では社稷の難をともに憂えよとのことだった。いま使者に問えば国都には及んでいないという。私の関知するところではない」と告げた。
- 冬十二月辛巳、臧僖伯が卒した。隠公は「叔父は私を恨んでいたが、私は忘れていない」と言い、葬礼を一等上げた。
隠公六年(前717年)
- 春、鄭人が来て和を改めた。改めて和睦したのである。
- 夏、艾で盟った。齊と初めて和睦したのである。
隠公七年(前716年)
- 齊侯が夷仲年を遣わして聘問し、艾の盟を固めた。
隠公八年(前715年)
- 春、鄭伯が泰山の祀を止めて周公を祀ることを請い、泰山の祊の地と許の田を交換しようとした。三月、鄭伯は宛を遣わして祊を返した。泰山を祀らなくなったからである。
- 夏四月、齊人がついに宋・衞と鄭の和を成立させた。
- 冬、齊侯が使者を送って三国の和睦を告げてきた。隠公は衆仲に「君が三国のことを考えて民を安んじられたのは君の恵みです。寡君は承知しました。君の明徳を承けぬわけがありません」と答えさせた。
- 無駭が卒した。羽父が諡と族の名を請うた。隠公が族について衆仲に問うと、衆仲は「天子は徳ある者を建て、その出生にちなんで姓を賜い、土地を与えて氏を命じます。諸侯は字を諡とし、それを族とします。官に世々の功があれば官の名を族とし、邑も同様です」と答えた。隠公は字によって展氏と命じた。
隠公九年(前714年)
- 夏、宋公が王に朝さなかった。鄭伯は王の左卿士として王命によってこれを討ち、宋を伐った。宋は外郭に攻め入られた役のとき隠公が援けなかったことを怨んで魯に告げず、隠公は怒って宋の使者との交わりを絶った。
- 秋、鄭伯が王命によって宋討伐を告げてきた。冬、隠公は齊侯と防で会し、宋を討つことを謀った。
隠公十年(前713年)
- 春正月、隠公は齊侯・鄭伯と中丘で会し、癸丑、鄧で盟って出兵の期日を定めた。
- 夏五月、羽父が先に齊侯・鄭伯と会して宋を討った。
- 六月戊申、隠公は齊侯・鄭伯と老桃で会した。壬戌、隠公は菅で宋軍を破り、庚午、鄭軍が郜に入って辛未これを魯に帰し、庚辰、鄭軍が防に入って辛巳これを魯に帰した。君子は「鄭の莊公はここでは正しかった。王命によって不臣を討ち、その土地を貪らず、王の爵を持つ者に功を労った。これが正しさの本体である」と評した。
隠公十一年(前712年)
- 冬、羽父が桓公を殺すことを請い、その見返りに大宰の職を求めた。隠公は「桓が幼かったから位に就いたのだ。私はもう譲るつもりでいる。莵裘に館を営ませ、そこで老後を送ろう」と言った。羽父は懼れ、逆に桓公に隠公を讒言して弑することを請うた。
- 隠公が公子であったころ、鄭人と狐壤で戦って捕らえられ、鄭人は尹氏の家に幽閉した。隠公は尹氏に賄賂を贈り、その家の主神である鍾巫に祈り、尹氏とともに帰国してその神主を立てた。十一月、隠公が鍾巫を祭り、社圃で斎戒して寪氏の館に宿ったとき、壬辰、羽父が刺客を送って寪氏の館で隠公を弑し、桓公を立てて寪氏を討った。死者も出た。葬を書かないのは喪の礼を整えなかったからである。
桓公元年(前711年)
- 春、桓公が即位し、鄭と好誼を修めた。鄭人が周公の祀を復することを請い、ついに祊の田を交換した。桓公は許した。三月、鄭伯は璧を添えて許の田を借りた。周公の祊のためである。
- 夏四月丁未、桓公は鄭伯と越で盟い、祊の交換を確認した。盟には「盟に背けば国を保てぬ」と誓った。
- 冬、鄭伯が盟の礼を謝した。
桓公十七年(前694年)
- 春、邾の儀父と趡で盟い、蔑の盟を継いだ。
- 秋、邾を討った。宋の意向によるものである。
史論(士竒)
- 隠公の摂位と譲位の是非は四伝が詳しく論じている。譲は美徳であり、太伯・仲雍が行い、伯夷・叔齊も行って君子はこれを非としない。なぜ隠公にだけ疑いを差し挟むのか。
- 説く者は、隠公は長子で当然立つべきであり、惠公の邪心を汲んで成就させるべきではなかった、隠公が自ら位に就かず摂政としたことが争いを開き、ついに鍾巫の禍を招いたのだ、という。それはその通りだが、隠公の失は譲ったこと自体ではなく、譲の処し方が善くなかったことにある。
- 桓公の生年は考えられないが、隠公が摂位して十年で弑され、桓公は立って三年で齊と婚を成した。隠公の摂位開始から数えると十三歳にすぎない。古来十三歳で婚を成した例はない。これから推すと、隠公元年に桓公は幼くとも三歳から五歳にはなっていたはずである。
- 隠公が周公の輔佐する成王の故事のように、桓公を抱いて群臣に臨み国政を聴くか、そうでなければ桓公を深宮で育て、自らは魯の相として代行し、命令の発布も王朝への報告も隣国との通問もすべて桓公の名で行い、自分は関与しないとしていれば、名分が定まり自らの心跡も明らかとなり、百人の奸人がいても離間できなかったであろう。
- それをせずに平然と位に居たので、国人はみな指さして「これが魯の君だ」と言い、会盟や征伐の場でもみな「これが魯の君だ」と言った。瓜田李下の嫌疑をどう避けられよう。しかも隠公の初年に桓公はまだ幼かったが、子翬が殺害を請うたときには十余歳になっていた。それでも国を返さず、「幼いから」を口実にした。莵裘に館を営んだところで、桓公の疑いをどう解き、羽父の讒言をどう防げよう。隠公は譲ったことは譲ったが、嫌疑を遠ざける譲であったとは言えない。
- そもそも狐壤で戦って捕らえられたのは勇がない。鍾巫に祈り、その淫祀の神主を持ち帰ったのは智がない。摂位して真っ先に盟に従事したのは信がない。惠公を改葬しながら自ら臨まなかったのは孝がない。衆父が卒したのに小斂に立ち会わなかったのは仁がない。潛で会し唐で盟ったのは防ぎを紊した。極に入り和を改め郜と防を取ったのは貪りである。羽父が鄭討伐の参加を請うたのを禁じられなかったのは権を放縦にした。慌ただしく清で会したのは礼を簡略にした。使者の言い方が時宜を失ったからと軽々しく隣国との好を絶ったのは反覆である。棠で領地巡視と称したのは過ちを飾った。祊に入り許と交換したのは君と親を無視した。隠公十年の経伝に載る所業を辿ると、人の意にかなうものは稀である。
- 世人はただ、桓公に譲ったのに桓公が弑したという一点で桓公を深く憎み、それだけ隠公を賢としてやまない。しかし隠公のような譲は、実に争いの端を開き禍の媒となるものである。太伯・仲雍や夷齊は譲ってその跡を遠ざけた。隠公は譲りながら桓公の位を貪って摂した。寪氏の館の刃が及んだのはそのためである。