左傳紀事本末王臣の事績(王朝と列国の朝覲・定王靈王の婚儀/齊・諸侯・王を付す)(王臣之事(王朝交列國朝定靈婚/齊附 諸侯 王併附))

王室に仕える卿・大夫たちの事績を、隠公七年(前716年)から定公二年(前508年)まで集めた篇。周公閲と王孫蘇、王孫蘇と召氏・毛氏、周公楚と伯輿、王叔陳生と伯輿と、王臣どうしの政権争いが繰り返され、そのたびに晉の趙宣子・士㑹・士匄が調停に入って王の権威は下がっていく。定王の齊への求后、詹桓伯の晉への抗議、劉康公の茅戎での敗北、単獻公・原伯絞・甘悼公・毛伯過・鞏簡公の横死など、王臣の内訌と失態が並ぶ。

年表(27件)

隠公七年(前716年)

  • 戎が周に朝見して公卿に幣を贈ったが、凡伯は賓客として遇さなかった。冬、王が凡伯を魯への聘問に遣わすと、帰路、戎が楚丘で襲って連れ去った。

莊公二十九年(前665年)

  • 樊皮が王に叛いた。

莊公三十年(前664年)

  • 春、王が虢公に樊皮の討伐を命じた。夏四月丙辰、虢公は樊に入って樊仲皮を捕らえ、京師へ連行した。

僖公十年(前650年)

  • 春、狄が温を滅ぼした。蘇子に信がなかったからである。蘇子は王に叛いて狄についたが、狄ともうまくいかず、狄に攻められた。王は救わず、温は滅び、蘇子は衞へ亡命した。

文公三年(前624年)

  • 夏四月乙亥、王叔文公が卒した。訃報が届き、同盟国に準じて弔した。礼にかなう。

文公十四年(前613年)

  • 春、頃王が崩じた。周公閲と王孫蘇が政権を争ったため訃報が出されなかった。およそ崩薨は訃報がなければ書かれず、禍福も告げられなければ書かれない。不敬を懲らすためである。
  • 周公が王孫蘇と晉で訴訟しようとすると、王は王孫蘇を見捨て、尹氏と耼啟に周公を晉へ訴えさせた。趙宣子が王室を調停し、双方を元に復した。

文公十七年(前610年)

  • 秋、周の甘歜が邥垂で戎を破った。戎が酒に酔っていた隙を突いたのである。

宣公六年(前603年)

  • 夏、定王が子服を遣わして齊に后を求め、冬、召桓公が齊から王后を迎えた。

宣公十五年(前594年)

  • 王孫蘇が召氏・毛氏と政権を争い、王子捷に召戴公と毛伯衞を殺させ、召襄を立てた。

宣公十六年(前593年)

  • 夏、成周の宣榭が焼けた。人が火を放ったのである。およそ人の放火を「火」、天災の火を「災」という。
  • 毛・召の乱のせいで王室は再び乱れ、王孫蘇は晉へ亡命したが、晉人が復帰させた。
  • 冬、晉侯が士㑹を遣わして王室を調停させた。定王が饗応した際、殽烝(骨付き肉を切り分けて出す形式)で供したので、武子はひそかにその理由を尋ねた。王はこれを聞いて武子を召し、「季氏よ、聞いていないのか。王の饗宴には体薦、宴には折俎を用い、公は饗、卿は宴に当たるのが王室の礼である」と説いた。武子は帰国後、典礼を研究して晉の法を整えた。

成公元年(前590年)

  • 春、晉侯が瑕嘉を遣わして王のために戎と和睦させ、単襄公が晉へ赴いて謝礼した。
  • 劉康公は戎を侮り、そのまま討とうとした。叔服は「盟に背いて大国を欺くのは必ず敗れる。盟に背くのは不祥、大国を欺くのは不義で、神も人も助けない。どうして勝てよう」と諫めたが、聞き入れず茅戎を討ち、三月癸未、徐吾氏で大敗した。
  • 秋、王の使者が来て敗戦を告げた。

成公十一年(前580年)

  • 周公楚は惠氏・襄氏に圧迫され、また伯輿と政権を争って勝てず、怒って出奔した。陽樊に至ると王は劉子を遣わして呼び戻し、鄄で盟を結んで入国させたが、三日で再び出奔して晉へ走った。

成公十二年(前579年)

  • 春、王が周公の一件を告げてきた。経に「周公出奔晉」と書いたのは、周からは通常「出」と書かないが、周公が自ら出たからである。

成公十三年(前578年)

  • 春三月、成公が京師へ赴いた。宣伯は賜物を得ようとして先発を願い出、王は行人の礼で遇した。孟獻子は王に随行して介となり、手厚い贈物を受けた。
  • 成公と諸侯は王に朝見し、そのまま劉康公・成肅公に従って晉侯と会し秦を討った。成肅公は社で脤を受けるとき不敬であった。劉子は言った。「民は天地の中和を受けて生まれる。これを命という。だから動作・礼義・威儀の則があって命を定める。よくする者は福を得、できぬ者は禍を招く。君子は礼に勤め、小人は力を尽くす。礼に勤めるには敬を致すのが第一、力を尽くすには篤実が第一。敬は神を養い、篤は業を守る。国の大事は祀と戎にあり、祀には膰を執り、戎には脤を受けるのが神事の大節である。いま成子は怠り、その命を棄てた。生きて帰るまい」と。
  • 夏、成肅公は瑕で卒した。

襄公五年(前568年)

  • 王が王叔陳生を遣わして晉に戎を訴えたが、晉人は王叔陳生を捕らえた。士魴が京師へ赴き、王叔が戎に内通していると告げた。

襄公十年(前563年)

  • 王叔陳生と伯輿が政権を争い、王が伯輿を支持したので、王叔陳生は怒って出奔した。河に至ったところで王が呼び戻し、史狡を殺して詫びたが、王叔は入らず、そのまま晉に留まった。
  • 晉侯は士匄を遣わして王室を調停させ、王叔と伯輿は訴訟した。王叔の家宰と伯輿の大夫瑕禽が王庭で対決し、士匄が審理した。王叔の宰が「貧家の出の者が上を陵ぐのでは、上に立つ者はやりきれない」と言うと、瑕禽は反論した。「昔、平王が東遷したとき我ら七姓が王に従い、犠牲も供物も揃えて仕えた。王はこれを頼み、騂旄の盟を賜って『世々職を失うことなかれ』と誓われた。貧家の者にどうして東へ従えたでしょう。また王が何を頼りにされましょうか。王叔が相となってから政は賄賂で決まり、刑は寵臣に緩み、官の師旅は富み余っている。我らが貧しくならずにいられましょうか。大国よ、お考えください。下位の者に道理がなければ、何をもって正といいましょう」。范宣子は「天子が是とする者は我が君も是とし、非とする者は非とする」と述べ、王叔氏と伯輿に証拠を突き合わせさせたが、王叔氏は契約を挙げられなかった。王叔は晉へ亡命した。経に書かないのは告げてこなかったからである。単靖公が卿士となって王室を輔佐した。

襄公十二年(前561年)

  • 靈王が齊に后を求めた。齊侯が晏桓子に応答の仕方を尋ねると、桓子は答えた。「先王の礼の辞にこうあります。天子が諸侯に后を求めれば、諸侯は『夫婦の生んだ娘が何人、妾の子が何人』と答え、娘がなく姉妹や姑・姉妹がいれば『先君某公の遺女が何人』と答えるのです」。齊侯は婚を許し、王は隂里を遣わして取り決めさせた。

襄公十四年(前559年)

  • 王が劉定公を遣わして齊侯に命を賜り、こう告げた。「昔、伯舅たる太公は我が先王を助け、周室の股肱となり万民を師保した。世々太師の地位を享け、東海を代表した。王室が壊れなかったのは伯舅の力である。いま汝環に命ずる。舅氏の典を率い、祖考を継いで旧きを辱めるな。慎め、朕の命を廃するな」。

襄公十五年(前558年)

  • 官師が単靖公に従って齊から王后を迎えた。卿が行かなかったのは礼に反する。

襄公三十年(前543年)

  • はじめ王の弟である儋季が卒したとき、その子の括が王に会おうとして嘆いた。単公子の愆期は靈王の御士であったが、廷を通りかかってその嘆きを聞き、「ああ、必ず何か起こる」と言った。人がこれを王に告げ、「必ず殺すべきです。喪を悲しまず大それたことを願い、目つきが躁がしく足が高く上がる。心は他所にある。殺さねば害になります」と進言したが、王は「子供に何が分かる」と取り合わなかった。
  • 靈王が崩じると、儋括は王子佞夫を立てようとした。佞夫は与り知らなかった。戊子、儋括は蒍を囲み成愆を追い、成愆は平畤へ逃げた。五月癸巳、尹言多・劉毅・単蔑・甘過・鞏成が佞夫を殺し、括・瑕・廖は晉へ亡命した。経に「天王がその弟佞夫を殺した」と書いたのは、罪が王にあるからである。

昭公七年(前535年)

  • 単獻公は親族を退けて他国の者を用いた。冬十月辛酉、襄公・頃公の一族が獻公を殺し、成公を立てた。

昭公九年(前533年)

  • 周の甘の人と晉の閻嘉が閻の田を争い、晉の梁丙・張趯が隂戎を率いて潁を攻めた。王は詹桓伯を遣わして晉に抗議した。「我が周は夏の時代から后稷・魏・駘・芮・岐・畢を西土とし、武王が商に勝ってからは蒲姑・商奄を東土、巴・濮・楚・鄧を南土、肅慎・燕・亳を北土とした。狭い封域などない。文・武・成・康が母弟を建てて周の藩屏としたのは、その衰えに備えるためであって、弁髦のように捨てて損なうためではない。先王は檮杌を四裔に置いて螭魅を防いだ。允姓の悪しき者が𤓰州にいたのを、伯父の惠公が秦から帰るとき誘い入れ、我ら諸姫を圧迫させ郊甸に入れた。戎が中国を得たのは誰の咎か。后稷が天下を封殖したのに、いま戎がこれを制するのは道理に合わぬ。伯父よ考えよ。我にとって伯父は、衣服の冠冕、木水の本原、民人の謀主である。伯父が冠冕を裂き毀ち、本を抜き原を塞ぎ、謀主を棄てるなら、戎狄とても我一人をどうしようか」。
  • 叔向は宣子に言った。「文公の覇業も物を改めるほどではなかったが、天子を翼戴して功を加えた。文公以来、代々徳が衰えて宗周を暴虐に扱い奢侈を示してきた。諸侯が離反するのも当然だ。王の言い分は正しい。考え直されよ」。宣子は納得した。王家に姻戚の喪があったので、晉は趙成を周へ遣わして弔問し、あわせて閻の田と衣服を届け、潁の捕虜を返した。王も賔滑を遣わして甘の大夫襄を捕らえたことを晉に釈明し、晉人は礼をもって送り返した。

昭公十一年(前531年)

  • 単子が韓宣子と戚で会したとき、視線が低く言葉が遅かった。叔向は言った。「単子は死ぬだろう。朝には定まった位置があり、会には目印があり、衣には襟の合わせ、帯には結び目がある。会朝の言葉は必ず表著の位置まで届き、事の順序を示す。視線は襟と帯の結び目の間を越えず、それで容貌を示す。言葉で命じ、容貌で明らかにする。失えば欠けが生じる。いま単子は王の官伯として会で事を命じながら、視線は帯より上がらず、言葉は歩を越えず、容貌も整わず、言も明らかでない。整わなければ恭しくなく、明らかでなければ従われない。生気が保たれていない」。
  • 十二月、単成公が卒した。

昭公十二年(前530年)

  • 周の原伯絞が家臣を虐げたので、家僕たちは逃げた。冬十月壬申朔、原の輿人が絞を追放して公子跪尋を立て、絞は郊へ亡命した。
  • 甘簡公に子がなく、弟の過が立った。過が成公・景公の一族を除こうとしたので、その一族は劉獻公に賄賂を贈り、丙申、甘悼公を殺して成公の孫の鰌を立てた。丁酉には獻公の太子の傅である庾皮の子過を殺し、瑕辛を市で殺し、宮嬖綽・王孫没・劉州鳩・隂忌・老陽子にも及んだ。

昭公十八年(前524年)

  • 春二月乙卯、周の毛得が毛伯過を殺して取って代わった。萇𢎞は言った。「毛得は必ず滅びる。今日は昆吾が罪を熟させた日だ。奢侈のせいで滅んだその日に、毛得が王都で奢侈を遂げた。滅びずして何を待とう」。

定公元年(前509年)

  • 周の鞏簡公は自らの子弟を退けて他所者を好んだ。

定公二年(前508年)

  • 夏四月辛酉、鞏氏の子弟たちが簡公を殺した。

史論(士竒)

  • 人臣は国家に対して責任を放棄することも権を独占することも許されない。私心なく公に奉じ、心を合わせて事を成せば諸事は栄え、天下は無事の福を享ける。周の興隆は周公と召公が心を同じくして治めたからであり、再興は共和が相依って治めたからであり、東遷後に王室が衰微したのは鄭と虢が政を争ったからである。以後、大臣の対立から国勢が傾く轍が繰り返された。
  • 権は天下の大柄であり、独占しようとすれば必ず争いになり、争えば互いに傷つき両者とも敗れ、家に凶をもたらし国を害する。害に至らずとも、有用な精神を国家の功績や方策に使わず、党派の争いに投げ捨てるのは惜しむべきことだ。
  • 樊皮や蘇子の叛逆は自滅であって論ずるまでもない。頃王の大喪に際して周公閲と王孫蘇が政争のために訃報の礼を行わなかったのは、勢利を知って大義を知らぬ所業で、周室が衰えぬはずがない。王が周公に味方して王孫蘇を見捨て、尹氏・耼啟に周公を晉へ訴えさせ、趙簡子が王室を調停して復帰させたのは、進退を自ら決められず覇国に頼ったもので、王の威霊は失われた。
  • その後も王孫蘇が召氏・毛氏と争って召公・毛伯を殺し、王室は再び乱れて士㑹が調停した。周公はまた伯輿と争って出奔し、王が盟わせたが結局晉へ去って戻らなかった。王叔陳生も伯輿と争い、王は心では伯輿を是としながら断を下せず、覇国の老臣を煩わせて王庭で審理させてようやく決着した。当時の王臣が私を営み党を植え、公に奉じて国を憂える者がいなかったことが分かり、王が無用の存在と化していたことも知れる。
  • 王叔陳生の罪は伯輿との争いだけでなく、狄への二心にもある。儋括が王子佞夫を立てようとしたとき、佞夫は与り知らなかったのに劉氏・単氏らが即座に殺したのは刑の誤りである。原伯絞は虐政で追われ、甘過は成公・景公の一族を除こうとして逆に殺され、原氏・甘氏は衰えた。毛得が毛伯過を殺して代わったのは驕りが甚だしい。鞏簡公が子弟を退けて遠人を用いたのと単獻公が親族を退けて他国者を用いたのは同じ過ちで、一方は子弟の手に、一方は襄公・頃公の一族の手に斃れた。何と憚りのないことか。
  • 成子が脤を受けて不敬だったのも、単子の視線が低く言葉が遅かったのも、衰えの気配である。劉康公が民の生まれる所以を知り、詹桓伯が争田の是非を論じ、愆期が儋括の嘆きを見抜き、萇𢎞が毛得の滅亡を察したのは、王臣の中の傑出した者たちだが、結局は禍敗の助けにならなかった。大廈は一木で支えられぬということか。
  • 凡伯が楚丘で辱められ、王師が徐吾で敗れたことは、邥垂の勝利があっても栄誉にはならない。晉は先に王のために戎と和睦させながら、閻の田のことで隂戎を率いて潁を攻めた。不義も甚だしい。平王・桓王以下、王室はうごめき、威福は下へ移り、互いに傾け軋み、乱れた糸のように収拾がつかない。これは誰の過ちであろうか。