梁書卷五十五 列傳第四十九 豫章王綜

出自と出生の疑惑

  • 蕭綜、字は世謙、高祖の第二子。天監3年、豫章郡王に封ぜられ食邑2千戸。5年、使持節都督南徐州諸軍事・仁威将軍・南徐州刺史に出て、まもなく北中郎将に進号。10年、都督郢司霍三州諸軍事・雲麾将軍・郢州刺史に遷る。13年、安右将軍・領石頭戍軍事に遷り、15年、西中郎将・兼護軍将軍に遷り、また安前将軍・丹陽尹に遷る。16年、再び北中郎将・南徐州刺史となる。普通2年、侍中・鎮右将軍として入朝し佐史を置く。
  • 母の呉淑媛は斉の東昏侯の宮から高祖の寵を得た女性で、わずか7ヶ月で綜を生んだため、宮中には疑いを抱く者が多かった。淑媛は寵が衰えると怨望し疑わしい説を漏らしたため、綜も成長後にこれを胸に懐いた。才学があり文をよくしたが、高祖が諸子を礼で朝見させる際もあまり数えられず、綜は常に不遇を怨んだ。藩に出るたびに淑媛は付き従い、綜が15、6歳になっても裸のまま淑媛の前で戯れ、昼夜の別なく内外に穢れた噂が流れた。

酷政と反逆の兆し

  • 徐州にあっては政刑が酷薄で、勇力があり自ら奔馬を制し、しばしば微行して夜に出歩き節度がなかった。高祖から敕書が届くたびに忿恚を顔に表し、群臣も敢えて諫めなかった。密室で斉氏の七廟を祀り、微服で曲阿に赴き斉明帝の陵を拝したが、それでも自らの出自を確信できず、「生者の血を死者の骨に瀝らせば父子と判る」という俗説を聞くと、密かに斉の東昏侯の墓を掘って骨を出し自分の腕の血を瀝らせて試し、さらに男児を一人殺してその骨でも試した。いずれも「験あり」と出たため、以後常に異心を懐いた。
  • 4年、使持節都督南兖・北兖・徐・青・冀五州諸軍事・平北将軍・南兖州刺史に出て鼓吹一部を給される。斉の建安王蕭宝寅が魏にあると知ると、人を遣わして通じ叔父と呼び、その旗の下に帰ることを約した。大挙北伐の際、6年、魏将元法僧が彭城を以て降り、高祖は綜に諸軍を都督させ彭城に鎮させたが、魏将の安豊王元延明と対峙した。高祖は連兵が長引くことを憂い綜に退軍を敕したが、綜は南に帰れば宝寅に会う機会を失うと恐れ、数騎で夜に元延明のもとへ奔った。魏は綜を侍中・太尉・高平公・丹陽王とし食邑7千戸、銭300万、布絹3千匹、雑彩千匹、馬50匹、羊500口、奴婢100人を与えた。

魏への亡命と最期

  • 綜は名を纉、字を徳文と改め、斉の東昏侯のために斬衰の喪服を追ってまとった。有司は爵土を削り属籍を絶ち姓を「悖氏」に改めるよう奏したが、まもなく詔で復された。子の蕭直は永新侯に封ぜられ食邑千戸を与えられた。大通2年、蕭宝寅が魏で長安に拠り反した際、綜は洛陽から北方へ逃れ宝寅のもとへ赴こうとしたが津吏に捕らえられ、魏人に殺された。享年49。
  • 綜はかつて志を得ない鬱屈から「聴鍾鳴」「悲落葉」の辞を作りその志を述べた。その大略に「鍾の鳴るのを聴けば帝城にあると知る、参差として難を数え難く、暦乱して百愁が生ずる……」等とあり、二十余年京域に淹留し、鏡を見ては容色の衰えを嘆き、悲愁を抑えきれなかったという趣旨を歌う。「悲落葉」も、木の葉が重なり落ちるように人生の零落は留めがたいという趣旨で、これを聞いた当時の人はみな悲しんだという。