梁書卷五十五 列傳第四十九 武陵王紀

出自と歴任

  • 蕭紀、字は世詢、高祖の第八子。少くして学に勤め文才があり、辞は華美を好まず気骨に富んだ。天監13年、武陵郡王に封ぜられ食邑2千戸。寧遠将軍・琅邪彭城二郡太守、輕車将軍・丹陽尹を歴任し、会稽太守に出てまもなくその郡が東揚州となると刺史となり、使持節東中郎将を加えられる。侍中・領石頭戍軍事に徴され、宣恵将軍・江州刺史に出て、使持節宣恵将軍・都督揚南徐二州諸軍事・揚州刺史に徴される。まもなく持節都督益梁等十三州諸軍事・安西将軍・益州刺史に改授され、鼓吹一部を加えられる。大同11年、散騎常侍・征西大将軍・開府儀同三司を授かる。
  • 天監中、太陽門が震え「紹宗梁位唯武王」の字が生じたが、解釈する者は「武王とは武陵王のことだ」と考え、朝野はこれに注目したという。

僭号と滅亡

  • 太清中、侯景の乱に際し紀は援軍に赴かず、高祖崩御後に蜀で僭号し、年号を天正と改めた。子の蕭圓照を皇太子とし、圓正を西陽王、圓滿を竟陵王、圓普を南譙王、圓肅を宜都王とした。巴西梓潼二郡太守・永豊侯蕭撝を征西大将軍・益州刺史・秦郡王に封じようとしたが、司馬王僧略・直兵参軍徐怦が固く諫めたところ、紀は二人が自分に異心があるとして殺した。永豊侯撝は「王は免れまい、善人は国の基であるのに反って誅したからには亡ばぬはずがない」と嘆き、親しい者にも「昔、桓玄の年号『大亨』を識者は『二月了』と読み、玄の敗亡は実に仲春にあった。今の年号『天正』も『天』の字は『二人』、『正』の字は『一止』であり、久しくは続くまい」と語った。
  • 太清5年夏4月、紀は軍を率いて東下し巴郡に至り、侯景討伐を名目に荊陝を図ろうとした。西魏が蜀を侵すと聞き、将の南梁州刺史譙淹に軍を返させ援けさせた。5月、西魏将の尉遲迥が涪水に迫り、潼州刺史楊乾運が城を挙げて降ったため、迥は軍を分けて守りつつ成都に趣いた。丁丑、紀は西陵に次り舳艫が川を覆い旌甲が日に輝くほどの盛大な軍容であった。世祖(蕭繹)は護軍将軍陸法和に硖口の両岸に二塁を築かせ江を鎮めて紀を断とうとした。折しも陸納の乱が平定されておらず蜀軍にも迫られ物情が動揺し世祖は憂慮したが、法和からの急報が相次いだため、世祖は獄から任約を出して晋安王司馬とし禁兵を配し、宣猛将軍劉棻とともに西へ赴かせた。6月、任約は連城を築いて鉄鎖を攻絶し、世祖はさらに獄から謝答仁を出して歩兵校尉とし一旅を配して法和を助けさせた。
  • 世祖は紀に書を送り「皇帝、假黄鉞太尉武陵王に敬問す。九黎の侵掠、三苗の寇擾により天は乱を長じ獯醜(侯景)が陵犯し虔劉して魏(西魏)が王室を黍離たらしめ、朕は枕戈して東を望み血涙を流し西に浮かんだ。二方(前線)で愛子を失い、諸侯の八百のような助勢もなく、身に甲を被り手に流矢を受けた。俄かに風樹の酷(親の死)により万恨が纒わり、霜露の悲しみにより百憂が継いで集まった。心を扣き膽を飲むほどの思いで全きを図らず、ただ宗社が綴旒(かろうじて存続する状態)であり鯨鯢(侯景)が未だ翦られていないため嘗胆待旦し天罰を行い、独り四聡を運らし八柄を揮ってきた。壇を結び将を待ち帷を褰げ士を納れたとはいえ、赤壁の兵を拒むにも魯粛のような謀なく、烏巣の米を焼くにも荀攸のような策を訪ねられず、才智はほぼ尽き金貝もほぼ竭き傍らに寸助もなく険阻を備え嘗め、ようやく長狄を駒門に斬り蚩尤を楓木に挫くに至った。怨恥は既に雪がれ天下は塵無く、四方を経営するにはまさに岳牧(各地の重臣)が共に清静を隆んじる時である。隆暑の炎暑の中、弟(紀)はいかがお過ごしか、文武の官も労弊があろう。いま散騎常侍・光州刺史鄭安忠を遣わし宣意させ、還って紀に喩し、蜀に還って専ら岷方を制することを許す」と述べたが、紀は命に従わず、家人の礼で報書したのみであった。庚申、紀の将侯叡が衆を率い山を伝って進取を図ったが、任約・謝答仁がこれと戦い破った。まもなく陸納の乱が平定され、諸軍はことごとく西へ向かった。
  • 世祖はさらに紀へ書を送り「大智(紀の字)殿、季月の煩暑、金を流し石を爍かすほどの暑さで蚊が雷のごとく群がり、封狐が千里に及ぶ中、玉体は陣中で苦労されていることでしょう。眷みて西を顧みる我が労はいかばかりか。獯醜が陵を憑み羯胡が叛乱する中、私は年長として乱を平定する功に与り、この推戴を受けている。璧を懐に当てて還すべき時が来れば、使いを遣わすのも遅くはあるまい。もしそうでないとすれば、ここに投筆し、友于兄弟(兄弟の情)は形を分かちても気を共にする間柄であるのに、兄は肥え弟は痩せ、再び相代わる期はないことになる。棗を譲り梨を推す(兄弟の譲り合い)歓愉の日は永く罷み、上林で静拱して四鳥(母を思う鳥)の哀鳴を聞き、宣室で図を披いて万始(先祖)の長逝を嗟くばかりであろう。心に愛あり、書に尽くせぬものがある」と述べた。
  • 紀は所署の度支尚書樂奉業を江陵に遣わし和議を論じさせたが、以前の喩しどおり蜀へ還るよう求めたのみであった。世祖は紀が必ず敗れると判断し拒んで許さなかった。丙戍、巴興の人符昇・徐子初らが紀の硖口城主公孫晃を斬って衆軍に降り、王琳・宋簉・任約・謝答仁らはこれに乗じて侯叡を攻め三塁を陥落させた。これにより両岸十余城がことごとく降った。将軍樊猛は紀とその第三子圓滿を捕らえ、硖口で殺した。享年46。有司はその属籍を絶つことを奏請し、世祖はこれを許し「饕餮氏」の姓を賜った。
  • 紀が僭号しようとした頃、妖怪が相次いだ。もっとも異とされたのは内寝の柏殿の柱に節を巡って花が生じ、その茎46本、靃靡(美しく垂れる様)として荷花のようだったことで、識者は「王敦の柱に花が咲いたのも不吉な前兆だった」と評した。紀の年号「天正」は蕭棟の年号と暗合し、みな「天の字は二人、正の字は一止である」と言った。棟・紀いずれも僭号わずか1年で滅んだ。