梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷

海南諸国――総説

  • 海南諸国はおおむね交州の南、西南の大海の島々にあり、近い国で3千~5千里、遠い国で2万~3万里離れ、西は西域諸国と接する。漢の元鼎年間、伏波将軍路博徳が百越を開いて日南郡を置くと、徼外の諸国は武帝以来朝貢した。後漢桓帝の世には大秦・天竺もこの道から貢献した。呉の孫権の時代、宣化従事の朱応・中郎の康泰を遣わして通交させ、その見聞は百数十国に及び記伝が立てられた。晋代は中国と通じる国が少なく史書に載らなかったが、宋・斉の代には来朝する国が十余国あり伝が立てられた。梁が天下を革めてからは正朔を奉じ貢職を修め航海して毎年至る国が前代より増えた。今、風俗の顕著な国を採り「海南伝」として綴る。

林邑国

  • 林邑国はもと漢の日南郡象林県、古の越裳の地。伏波将軍馬援が漢の南境を開きこの県を置いた。国土は縦横約600里、城から海まで120里、日南界まで400余里、北は九徳郡に接する。金山があり石はみな赤色で、夜には金気が蛍火のように飛ぶという。瑇瑁・貝歯・吉貝(木綿)・沈木香を産する。吉貝はその花が蛾の毛のようになった時に紡いで布を織り、白布や染色布とする。沈香は木を斫って年を経て朽ちさせ、心節だけを水に沈めて名付けたもので、沈まず浮かばぬものを「棧香」という。
  • 漢末の大乱の際、功曹区達が県令を殺して自立し王となり数世伝わったが、外甥の范熊が継ぎ、熊の死後は子の范逸が嗣いだ。晋の成帝咸康3年、逸の死後、奴隷の文が簒奪して立った。文はもと日南西捲県の夷帥范稚の家奴で、山澗で牧牛中に鯉魚(実際は霊魚)2頭を得てこれを化して鉄となし刀を鋳造、「もし石を斫って破れれば我この国の王となろう」と呪して石を斬ると藁のように断ち割れたため、文は自らを異とした。范稚の商用で林邑に赴いた際、林邑王に宮室・兵車器械の作り方を教え王に寵任されたが、やがて王の諸子を讒言し追放させ、王の死後は隣国から迎えた王子を毒殺し国人を脅して自立、周辺の小国を併呑し4、5万の衆を得た。
  • 交州刺史姜荘の使者韓戢・謝稚がそれぞれ日南郡を監督し貪残であったため、穆帝永和3年、朝廷が夏侯覧を太守に遣わすと侵刻がさらに甚だしくなった。林邑はもと田土がなく肥沃な日南を欲していたため民の怨みに乗じ日南を襲い覧を殺してその屍を天に祭り、日南に3年留まり退いた。交州刺史朱藩が督護劉雄に日南を守らせると文はまたこれを屠り、さらに九徳郡に侵入し官吏を殺害、使者を送って日南北境の横山を境とすることを願ったが藩は許さず、督護陶綬・李衢に討たせたところ文は林邑に帰るがまもなく日南に屯した。5年、文が死に子の佛が立ちなお日南に屯していたが、征西将軍桓温が督護滕畯・九真太守灌邃に交広州兵を率いて討たせた。佛は籠城したが邃が林邑まで追い佛は降を請うた。哀帝昇平初、再び寇暴したため刺史が討伐した。安帝隆安3年、佛の孫の湏達が日南を再び犯し太守炅源を殺し九徳にも侵入し太守曹炳を殺したが、交趾太守杜瑗が都護鄧逸らに撃破させた。杜瑗を刺史とし、義熙3年に湏達がまた日南を犯し長史を殺すと瑗は海邏督護阮斐に討たせ湏達を破った。9年にも湏達が九真を犯すが行郡事杜慧期がその子交龍王甄知や范健らを斬り湏達の子那能ら百余人を捕虜とした。瑗の死後、林邑は毎年のように日南・九徳を犯し交州は衰弱した。
  • 湏達が死ぬと子の敵真が立ったが、弟の敵鎧が母を伴い出奔したため敵真は追わず容れなかったことを悔い、母弟を天竺に去らせ甥の国相藏驎に禅位した。藏驎は殺され、その子もまた殺され、敵鎧の異父弟の文敵が立った。文敵は後に扶南王子の当根純に殺され、大臣の范諸農がその乱を平定し王となった。諸農の死後、子の陽邁が立ち、宋の永初2年に朝貢し林邑王に封ぜられた。陽邁の死後、子の咄が簒って復た「陽邁」と号した。
  • その国俗では住居を「閣」と呼び戸は北向き、貝葉に文字を書き、男女とも吉貝の布を腰から下に纏い「干漫」あるいは「都縵」と呼ぶ。耳を穿ち小鐶を着け、貴者は革履、賤者は跣足で歩く。林邑・扶南以南の諸国はみな同様である。王は法服に瓔珞を加え仏像のごとく装い、出行には象に乗り螺を吹き鼓を撃ち吉貝の傘を差し吉貝の幡旗を用いる。国に刑法はなく罪人は象に踏み殺させる。大姓は「婆羅門」と号し、婚姻は8月と定め女から男を求め賤男貴女とする。同姓同士でも婚姻し、婆羅門が新郎を新婦に会わせ手を握らせ「吉利吉利」と唱えて成礼とする。死者は火葬し、寡婦は髪を散らして孤独に老いる。王は尼乾道を信奉し金銀の人像を鋳造する。
  • 元嘉初、陽邁が日南・九徳諸郡を侵し、交州刺史杜弘文が討伐の構えを取ると兵を止めた。8年、九徳郡と四会浦口を犯すが、交州刺史阮弥之の隊主相道生が区栗城を攻めきれず引き返した。以後、頻年貢献しつつも寇盗が絶えなかった。23年、交州刺史檀和之・振武将軍宗慤に討伐を命じ、和之は司馬蕭景憲を前鋒とした。陽邁は恐れて金1万斤・銀10万斤を出し略奪した日南民戸を返そうとしたが、大臣の范扶龍がこれを諫止し北界の区栗城を守らせた。景憲は城を陥落させ扶龍を斬り、金銀雑物を数え切れぬほど得て、勝ちに乗じて林邑を陥落させた。陽邁父子は逃亡し、珍異な未名の宝物や金人を溶かした黄金数十万斤を得た。和之は後に病死し胡神の祟りとされた。
  • 孝武帝の建元・大明中、林邑王范神成が長史を遣わし貢献を重ねた。明帝泰豫元年にも方物を献じ、斉の永明中には范文賛が貢献を重ねた。天監9年、文賛の子天凱が白猴を献じたことに詔して「林邑王范天凱は海表にありながら誠を尽くし職貢を修めた、栄号を与えるべし」とし持節督縁海諸軍事・威南将軍・林邑王とした。10年・13年にも天凱は貢献を重ねたが病死し子の弼毳跋摩が立ち貢献した。普通7年、王高式勝鎧が方物を献じ持節督縁海諸軍事・綏南将軍・林邑王とされた。大通元年にも貢献し、中大通2年、行林邑王高式律陁羅跋摩が貢献し持節督縁海諸軍事・綏南将軍・林邑王とされた。6年にも方物を献じた。

扶南国

  • 扶南国は日南郡の南、海西の大湾中にあり、日南から約7千里、林邑の西南3千余里。城から海まで500里、幅10里の大江が西北から東の海へ流れる。国の輪郭は約3千里、土地は低湿で平らかに広い。気候・風俗はおおむね林邑と同じ。金銀・銅錫・沈木香・象牙・孔翠・五色鸚鵡を産する。南界3千余里に頓遜国があり、扶南に属する五王がいる。頓遜の東は交州に通じ、西は天竺・安息の徼外諸国と交易する。頓遜は海中千余里に入り込み漲海に崖岸がなく船舶が通れないため、この地で東西の商人が万余人集まり交易する。酒樹という木があり花の汁を瓮に停めると数日で酒になる。
  • 頓遜の外の大海洲中に毗騫国があり、扶南から8千里。王は身長1丈2尺、頭は3尺、不死といい、神聖で国中の善悪と未来を知るため誰も欺けず、「長頸王国」と呼ばれる。扶南山に金が出て石上に露のように生じる。国法では罪人を王の前で肉を食わせ処刑し、外来商人も殺して食う風習があり、商旅は恐れて近づかない。王は楼居し血食せず鬼神も祀らないが、子孫は普通の人と同じく生死するのに王だけは死なない。扶南王が使者を通じて贈答したところ、純金の食器や布類が届いたという。王は天竺の書も記せ、宿命の由来を説く経文は仏経に似て善事を論じるという。
  • 扶南の東界(大漲海)の洲上には諸薄国があり、東に馬五洲、さらに東行千余里に自然大洲があり、樹皮を紡いで焦麻に似た布(火浣布に類する)を織るという。
  • 扶南はもと裸で文身し衣裳を制さない風俗で、女性の柳葉が王であった。南に混填という事鬼神の者がおり、神から弓を賜る夢を見て商人の船に乗り海に入り扶南に至った。柳葉が船を奪おうとすると混填は弓で船を射通し、柳葉は恐れて衆を挙げて降った。混填は柳葉に布を着せ服従させ、国を治め妻として子を成し7邑を分王した。その後、王混盤況が詐力で諸邑を離間し併合、子孫を分けて諸邑を治めさせ「小王」と呼んだ。盤況は90余歳で死に、中子の盤盤が立ち国事を大将范蔓に委ねた。盤盤の死後3年で国人は蔓を王に推した。蔓は勇健で策略に富み武威で周辺国を攻め服従させ、自ら「扶南大王」と号し、大船を作り漲海を極め屈都昆・九稚・典孫等10余国を攻め五、六千里の地を開いた。次に金鄰国を伐とうとした際、病を得て太子金生に代行させたが、蔓の姉の子の旃が2千人の将であったのに乗じ簒って自立し金生を偽って殺した。蔓の死後残っていた乳飲み子の長が民間で成長し20歳で国中の壮士と結んで旃を襲殺したが、旃の大将范尋がまた長を殺して自立した。以後、国内を修めて観閣を築き遊戯し、朝夕三度客を見た。民は焦蔗・亀鳥を礼物とした。
  • 国法に牢獄はなく、罪人は3日斎戒の後に真っ赤に焼いた斧を持たせ7歩歩かせ、あるいは金鐶や卵を沸湯に投じて探らせ、無実なら手が焼けず有理なら焼けないとした。城溝には鰐魚を養い、門外に猛獣を飼い、罪人は猛獣・鰐魚に与え、食わなければ3日置いて放免した。鰐は大きいもので2丈余、鼉に似て4足、口は6、7尺、両辺に刀剣のように鋭い歯があり、常に魚を食い麞鹿や人も食う。蒼梧以南の外国にはみな鰐がいるという。呉の中郎康泰・宣化従事朱応が尋国(扶南)に使いした際、国人はなお裸で婦人だけが貫頭衣を着ていたため「国中は佳いが人が裸なのは怪しい」と告げると、王は国内の男子にも横幅の布を着けさせるようになった(今の干縵)。大家は錦を截って作り貧者は布を用いる。晋の武帝太康中、扶南は初めて貢献し、穆帝升平元年、王竺旃檀が馴象を表献したが詔は「これは費えが多い、送るに及ばず」と留めた。
  • 後の王憍陳如は元来天竺の婆羅門で、神の告げにより扶南王となるべしとされ、盤盤に南下すると扶南人は喜んでこれを迎え制度を改め天竺の法を用いた。憍陳如の死後、王持梨陁跋摩は宋文帝の世に方物を献じ、斉の永明中、王闍邪跋摩が貢献し、天監2年、跋摩は珊瑚仏像と方物を献じ、詔して「扶南王憍陳如闍邪跋摩は海表に居り世々南服を纂ぎ誠を重訳して献じた、栄号を賜うべし。安南将軍・扶南王とすべし」とした。国人は醜黒縮髪、井戸がないため数十家で1つの池を共用する。天神を銅像で祀り、2面4手・4面8手の像に器物・小児・鳥獣・日月を持たせる。王は象に乗り嬪も同様、坐す際は片膝を立て左膝を地に着け、白い敷物に金盆・香炉を前に置く。喪では鬚髪を剃り、死者は水葬・火葬・土葬・鳥葬(野に棄てる)の4種を用いる。国人は貪吝で礼義に乏しく男女とも自由な交遊が多かった。10年・13年、跋摩は貢献を重ねたがその年死に、庶子の留陁跋摩が嫡弟を殺して自立した。16年、使者竺当抱老が貢献、18年に天竺旃檀の瑞像や婆羅樹葉、火斉珠・鬱金蘇合香などを献じた。普通元年・中大通2年・大同元年にも方物を献じ、5年には犀を献じ、国に仏の髪(長さ1丈2尺)があると言うので詔して沙門釈雲宝を遣わし迎えさせた。

仏舎利伝承(附記)

  • これに先立ち大同3年8月、高祖が阿育王寺塔を改造し旧塔下の舎利と仏の爪髪を出したところ、髪は青紺色で衆僧が伸ばすと元に戻り、蠡(法螺貝)の形に旋回した。『僧伽経』に「仏の髪は青く細く藕茎の糸のようだ」とあり、『仏三昧経』にも「昔、宮中で頭を洗い髪を量ったところ1丈2尺あり放つと右旋して蠡文になった」とあり、高祖の得た髪と符合した。阿育王は鉄輪王として閻浮提を統べ、仏滅度後一昼夜のうちに鬼神を役して8万4千塔を造らせたといい、これもその一つとされる。
  • 呉代、この地に精舎を営んだ尼がいたが孫綝が毀した。呉が平定された後、道人らがここに再建し、東晋の中宗(元帝)の渡江後に修飾され、簡文帝咸安中には沙門安法師が小塔を築いたが未完のまま没し弟子の僧顕が引き継いだ。孝武帝太元9年、金の相輪と承露が加えられた。その後、西河離石県の胡人劉薩何が病で仮死し10日後に蘇生し、「二吏に連れられ西北へ行き十八地獄で罪の軽重に応じ責め苦を受けたが、観世音に『縁がまだ尽きていない、生き返れば沙門となれ、洛下・斉城・丹陽・会稽に阿育王塔があるから礼拝せよ、そうすれば地獄に堕ちない』と告げられ目覚めた」と語り、出家して慧達と名乗り塔を巡礼した。丹陽では塔の所在が分からなかったが、越城に登って長干里に異気を見て掘らせると1丈で3つの石碑(各長6尺)が出土し、その中の1碑に鉄函があり、中に銀函、さらに金函があり、3つの舎利と爪髪各1枚が納められていた。舎利は簡文帝の造った塔の西に遷され1層塔が建てられ、16年には沙門僧尚伽が3層塔とした――これが高祖の開いた塔である。
  • 塔を掘った際、地下4尺で龍窟や古人の捨てた金銀・鐶釧・釵鑷などの宝物が見つかり、9尺ほどで石磉(礎石)に至り、その下の石函内に鉄壺、壺内に銀坩、坩内に金鏤罌があり粟粒大の舎利3枚が入っていた。函内にはさらに琉璃椀があり4つの舎利と爪4枚(沈香色)が見つかった。その月27日、高祖は再び寺に至り礼拝し無㝵大会を設け天下に大赦した。金鉢に水を盛り舎利を浮かべると最も小さい舎利は隠れて見えなかったが、高祖が数十拝すると鉢内で光を放って旋回し鉢の中央で静止した。高祖が「今日、不思議な事を見たか」と大僧正慧念に問うと「法身は常住し湛然として動じません」と答えた。高祖は「一つの舎利を台に迎えて供養したい」と述べた。9月5日にも寺で無㝵大会を設け皇太子・王侯・朝貴を遣わして奉迎させ、京師中が観覧に赴き百数十万人に達した。供物の金銀器はすべて寺に留められ、銭1千万を寺の基業として施した。大同4年9月15日にも高祖は寺に至り無㝵大会を設け、2基の刹(塔柱)を建て金罌・玉罌に舎利と爪髪を重ねて納め七宝塔に安置し、さらに石函に宝塔を分けて両刹の下に納めた。王侯妃主・百姓・富室の献じた金銀鐶釧などの宝も積み上がった。11年11月2日、寺僧が高祖を招いて『般若経』の講題を発すると、その夕、二塔がともに光明を放った。鎮東将軍邵陵王蕭綸に寺の大功徳碑文を撰させた。
  • これに先立つ大同2年、会稽鄮県の塔を改造し旧塔から出た舎利を光宅寺の釈敬脱ら4僧と舎人孫照が一時京師に迎え、高祖が礼拝した後、新塔に送り返した。この塔もまた劉薩何が発見したものである。
  • 晋の咸和中、丹陽尹髙悝が張侯橋で浦中に5色の光を見て怪しみ、光の場所を探らせると光趺(台座)のない金像が見つかり、車で長干巷まで運んだが牛が進まなくなり、御者の任せた先にある寺に牛が引いて行ったため悝は像を寺僧に留めた。以後夜ごとに光を放ち、空中に金石の響きがしたという。1年後、漁師の張係世が海口で銅の花趺が浮かぶのを見て県に送り、県は台に送り像に付けたところぴったり合った。簡文帝咸安元年、交州合浦の董宗之が採珠中に海底で仏の光艶(宝珠)を得て交州から台に送り像に付けるとまた合致した。咸和中の像発見から咸安初まで30余年を経てようやく光趺が揃った。
  • 髙悝が像を得た後、西域の胡僧5人が悝を訪ね「昔、天竺で阿育王の造った像を得て鄴下に至ったが胡乱に遭い河辺に像を埋めて今探し出せずにいる。5人とも一夜に像が『すでに江東で髙悝の得るところとなった』と言う夢を見た」と語り、悝はこの5僧を寺に案内した。僧たちは像を見て嘘欷涕泣し、像は光を放って殿宇を照らしたという。また瓦官寺の慧邃が像の形を模写しようとした際、寺主の僧尚が金色を損なうことを恐れ「像が光を放ち西を向けば許そう」と言うと、慧邃が懇願した夜に像は坐を転じ光を放って西を向き、翌朝模写が許された。像の台座に外国文字が刻まれ誰も読めなかったが、後に三蔵の那求跋摩が「これは阿育王が第四女のために造ったものだ」と識った。大同中、旧塔の舎利を開いた際、寺の周辺数百家の宅地を買い上げて寺域を広げ、諸堂殿や瑞像・周回の閣などを盛大に造営した。その図経変相は呉人張繇が手掛け、繇の丹青の技は当代随一であった。

盤盤国・丹丹国・干陀利国・狼牙脩国・婆利国(南海の小国群)

  • 盤盤国は宋の文帝元嘉・孝武帝孝建・大明中に貢献を重ね、大通元年には王が使者を遣わし表を奉り「揚州閻浮提震旦天子は万善荘厳、一切恭敬すること天の浄無雲にして眀耀満目のごとし。天子の身心清浄もまた同様であり、道俗は聖王の光化に済度されすべて永く舟航となす。臣はこれを聞き慶善に至った」との表を献じた。中大通元年5月、牙像や塔・沈檀香を貢献し、6年8月には菩提国の真舎利・画塔と菩提樹葉・詹糖香などを献じた。
  • 丹丹国は中大通2年、王が使者を遣わし「聖主の至徳が三宝を信重し仏法を興顕し衆僧が集い法事が日に盛んで威厳が整粛であるのを承った」旨の表を奉り、牙像・塔各2軀、火斉珠・吉貝雑香薬を献じた。大同元年にも金銀瑠璃雑宝香薬を献じた。
  • 干陀利国は南海の洲上にあり林邑・扶南と風俗が似て斑布・吉貝・檳榔(特に精良)を産する。宋の孝武帝の世、王釈婆羅那憐陁が長史竺留陁を遣わし金銀宝器を献じた。天監元年、王瞿曇脩跋陁羅が「中国に今聖主あり、10年後に仏法が大興する、汝が使を遣わし貢奉すれば土地は豊楽し商旅は百倍する、信じなければ国土は安んじない」との夢を見た。修跋陁羅は最初信じなかったが再度この僧が夢に現れ「信じないなら共に行って見せよう」と告げ、夢の中で中国に至り天子に拝謁した。目覚めると異とし、もともと絵を能くしたため夢に見た高祖の容貌を丹青に写し、使者と画工を遣わして玉盤等を献じた。使者が高祖の姿を模写して持ち帰ると本の絵と符合し、寳函に盛って日々礼敬した。跋陁の死後、子の毘邪跋摩が立ち、17年、長史毘負跋摩が「常勝天子陛下、諸仏世尊のごとく常楽安楽にして六通三達、世間の尊であられる……」との美辞を尽くした表を奉り金芙蓉・雑香薬を献じた。普通元年にも方物を献じた。
  • 狼牙脩国は南海中にあり東西30日行・南北20日行、広州から2万4千里。土産は扶南とおおむね同じで、棧香・婆律香を多く産する。男女は袒(肩脱ぎ)で被髪、吉貝で干縵とし、王・貴臣は雲霞布を肩に加え金縄の帯・金鐶を耳に飾る。女子は瓔珞で身を飾る。城は塼を重ね門楼閣が多く、王は象に乗り幡旗・鼓・白蓋を伴い兵衛は厳重。建国以来400余年、後嗣が衰弱した際、王族の賢者を国人が推戴しようとしたが囚われた際に鎖が自ら断ち切れ、王はこれを神とし害さず斥逐したところ天竺に奔り天竺王の長女を娶った。狼牙王の死後、大臣がこの人物を迎えて王とし、20余年後に死んで子の婆伽達多が立った。天監14年、使者阿撤多が「大吉天子足下、淫怒癡を離れ衆生を哀愍し慈心無量にして端厳の相好、身光は明朗にして水中の月のごとく十方を普照す……」との美辞の表を奉った。
  • 婆利国は広州東南の海中洲上にあり、広州から2ヶ月の船行、東西50日行・南北20日行、136の集落がある。気候は中国の盛夏のように暑く穀物は年に2度実り草木は常に栄える。海は文螺・紫貝を産し、蚶貝羅という石は採取時は柔らかいが刻んで乾かすと堅くなる。国人は吉貝を纏い、王は斑絲布で身を飾り瓔珞を纏う。冠は金製で高さ1尺余、七宝の飾りをつけ金装剣を帯び金の高座に片膝で座り銀の踏み台に足を乗せる。侍女は金花や宝の飾りを付け白い払子や孔雀の扇を持つ。王は象に乗り輿は香木で作られ羽蓋・珠簾を飾り、螺・鼓を鳴らして先導する。王は姓を憍陳如といい、古くから中国と通交しておらず先祖や年数は不明だが「白浄王(釈迦の父)夫人はこの国の女だった」と伝わる。天監16年、使者が「聖王は三宝を信重し塔寺を興立して荘厳している……」との表を奉り、普通3年、王頻伽が珠貝・智貢の白鸚鵡・青虫・兜鍪・瑠璃器・吉貝・螺杯・雑香薬などを献じた。

中天竺国

  • 中天竺国は大月支の東南数千里、方3万里、一名「身毒」。漢の張騫が大夏に使いした際に邛竹杖・蜀布を見つけ、国人が「身毒で買った」と言ったのが天竺の音訳の由来で、月支から西南に高附を経て西海に至り東は槃越に至る数十の列国はみな身毒の類である。漢代は月支に属したが土着の風俗は月支と同じで低地暑熱、民は弱く戦を畏れた。大江「新陶源」は崑崙に発し5つに分かれて「恒水」と総称され、水は甘美で真塩を産し水晶のように白い。犀・象・貂・鼲・瑇瑁・火斉・金銀・鉄・金縷織成の錦・皮罽・白畳・裘・毾㲪を産し、火斉は雲母のようで紫金の光を放ち薄いと蝉の翼、重なると紗縠のようだという。
  • 西は大秦・安息と交易し、海中の大秦の珍物(珊瑚・琥珀・金碧・珠璣・琅玕・鬱金・蘇合)が入る。蘇合は諸香汁を煮て合わせたもので単一の物ではなく、大秦人がまず汁を絞って香膏とし残滓を諸国商人に売るため転々と中国に伝わるうちに香りが薄くなるという。鬱金は罽賓国のみに産し、花色は正黄で細やかに芙蓉に似て、国人がまず仏寺に供え日を経て香りが枯れてから糞(払い落とす)し、商人が寺から徴雇して転売する。漢の桓帝延熹9年、大秦王安敦が日南徼外から使者を送り献上したが、漢代に通交したのはこの一度のみ。大秦の商人は扶南・日南・交趾までしばしば来るが南徼の諸国人で大秦に至る者は稀であった。孫権の黄武5年、大秦の商人秦論が交趾に至り、太守呉邈が権のもとへ送り方土謡俗を問われた。諸葛恪が丹陽を討った際に得た短躯の黝歙人を見て「大秦でも珍しい」と評したため、権は男女各10人を秦論に付け会稽の劉咸に送らせたが咸は途中で死去、論は単身帰国した。
  • 漢の和帝の世、天竺はしばしば貢献したが西域の反乱で絶え、桓帝の延熹2年・4年に日南徼外から再び献じた。魏晋の世は絶えて通じなかったが、呉の扶南王范旃が親信の蘇物を天竺に使いさせた際、扶南から拘利口を経て海湾を循り数国を経て1年余りで天竺の江口に着き、逆水行7千里に及んだ。天竺王は驚いて国内を観覧させ、陳・宋ら2人を月支馬4匹の答礼に付けて送り返し、往復4年を要した。この時、呉の中郎康泰が扶南に使いした際に陳・宋らに会い天竺の風俗を尋ねたところ、仏道の興った国で人民は敦厚、土地は肥沃、王は「茂論」と号し、都城は水路を巡らせ宮殿は彫刻で飾られ、街々の市里・楼観・鍾鼓音楽・服飾香華が水陸に通じ百賈が交会し珍玩が心のままに得られるという。左右の嘉維・舎衛・葉波など16の大国が天竺を2、3千里の距離に囲み、天地の中心と尊崇するという。
  • 天監初、王屈多が長史竺羅達に表を奉らせ「彼の国は江に拠り海に傍い山川周固、衆妙悉く備わり国土を荘厳すること化城のごとし……大王は聖体和平ならんことを願う。今この国の群臣民庶山川珍重、一切を大王に帰属せしめ五体投地して誠を帰す。使者竺達多は由来忠信であり大王が須むる珍奇異物はことごとく奉送する……」との表と琉璃唾壺・雑香・吉貝等を献じた。

師子国

  • 師子国は天竺の傍国。気候は温和で冬夏の異なく五穀は随時に植えられる。もと人民なくただ鬼神と龍が住むとされ、諸国の商人が来て交易するが鬼神は姿を見せず珍宝を出して欲する分の価を示し商人はそれに応じて取ったという。豊かな地と聞き諸国人が競って至り一部は住み着き大国となった。
  • 晋の義熙初、初めて玉像を献じ10年を経て到着した。像は高さ4尺2寸、玉色は潔潤で人工とは思えぬ出来であった。この像は晋・宋を経て瓦官寺にあり、同寺には隠士戴安道の手製の仏像5軀と顧長康(顧愷之)の維摩画図があり「三絶」と称された。斉の東昏侯の代に玉像は毀され、腕を截られ、体は寵妾潘貴妃の釵釧に作り変えられた。宋の元嘉6年・12年、王刹利摩訶が貢献し、大通元年、後王伽葉伽羅訶梨邪が「謹んで大梁の眀主に申す。山海は隔たれど音信は時に通じる。皇帝の道徳が高遠にして天地を覆載するのを承り……先王以来ただ修徳を本とし厳ならずして治め正法を奉じてきた。大梁と共に三宝を弘め難化を度したいと願う……」との表を奉った。

東夷――総説

  • 東夷の国では朝鮮が最大で箕子の教化を得たといい、器物になお礼楽の風が残る。魏代、朝鮮の東の馬韓・辰韓の類も中国に通じた。晋が江南に渡って以降、海路を通じた東方の使いには高句麗・百済があり、宋・斉の間もしばしば通交した。梁の興隆以降さらに増えている。扶桑国はかつて知られていなかったが、普通中に道人がそこから来たと称し、その言は本末が詳しかったため併せて記録する。

高句麗

  • 高句麗はその先祖が東明に出るという。東明はもと北夷の橐離王の子で、離王の外出中に侍児が身ごもり、王が殺そうとすると侍児は「前に天から大きな鶏卵のような気が降り注いだので身ごもった」と言い、王は幽閉したが男児を生んだ。王は豚小屋に投じたが豚が息を吹きかけて死なせなかったため神として育てさせた。成長して弓を能くすると王はその猛勇を忌んでまた殺そうとし、東明は南へ逃れ淹滞水に至り弓で水を撃つと魚鼈が浮かんで橋となり渡ることができた。夫餘に至って王となり、後にその支族が分かれて句麗種となった。
  • 国はもと漢の玄菟郡の地で遼東の東、遼東から千里、漢魏の代には南は朝鮮・穢貊、東は沃沮、北は夫餘と接した。漢武帝元封4年、朝鮮を滅ぼし玄菟郡を置き高句麗をその県とした。句麗の地は方2千里ほど、遼山・遼水を有し、王都は丸都山下にあり大山深谷が多く原澤は少ない。百姓は山谷に依って住み澗水を飲むが良田がないため節食し宮室を好んで営む。居所の左に大屋を立て鬼神を祭り、また零星や社稷を祀る。人は凶暴で寇抄を好む。官には相加・対盧・沛者・古鄒加・主簿・優台・使者・皂衣・先人があり尊卑の等級を持つ。言語や諸事は夫餘に多く似るが気質や衣服には差異がある。もと五族があり消奴部・絶奴部・慎奴部・雚奴部・桂婁部という。もと消奴部が王であったが弱まり桂婁部が代わった。漢代には衣幘朝服・鼓吹を賜り玄菟郡から受け取っていたが後に驕り郡に詣でなくなり、東界に小城を築いて受け取るようになった。これを「幘溝婁」(句麗語で城の意)という。対盧を置けば沛者を置かず、沛者を置けば対盧を置かない。俗は歌舞を好み邑落の男女は夜ごとに群れ集まり歌い戯れる。清潔を好み善く醸酒し、跪拝は片脚を伸ばし歩行は走るようである。10月に天を祭る大会を「東明」と呼び、公会の衣服は錦繡・金銀で飾る。大加・主簿は幘に似た冠、小加は「折風」という弁に似た冠を着ける。牢獄はなく罪人は諸加の評議で殺され妻子は没収される。俗は淫を好み男女とも私通が多く、既に嫁いだ者は死装束を用意しておく。葬儀は椁のみで棺を用いず厚葬を好み金銀財幣を尽くし石を積んで封じ松柏を植える。兄が死ねば弟が嫂を娶る(レビラト婚)。馬は小さいが登山に長け、国人は気力を尚び弓矢・刀矛を用い鎧甲を備え戦闘に習熟する。沃沮・東穢はみな高句麗に属する。
  • 王莽の初め、高句麗の兵を発して匈奴を伐とうとしたが行きたがらず強いて遣わすと塞外に逃亡し寇盗となった。州郡はこれを句麗侯騶(すう)の責としこれを誘って斬った。王莽は喜んで高句麗を「下句麗」と改名した。この時から侯に格下げされていた。光武8年、高句麗王が朝貢し初めて「王」を称した。殤帝・安帝の間、王の名を「宮」といい遼東・玄菟をしばしば犯し太守蔡風も禁じられなかった。宮の死後、子の伯固が立ち、順帝・桓帝の間にも遼東を犯した。霊帝建寧2年、玄菟太守耿臨が討ち数百級を斬り伯固は降った。以後遼東の公孫度に属し好誼を結んだ。伯固の死後、子の伊夷模が立ち、伯固の代からしばしば遼東を犯し降胡500余戸を受け入れていたが、建安中、公孫康が出兵しその国を破り邑落を焼き降胡も伊夷模に叛いた。伊夷模は新たな国を作り、後に玄菟を再攻したが玄菟・遼東の連合軍に大破された。伊夷模の死後、子の位宮が立ち勇力と騎射に優れた。魏の景初2年、太傅司馬懿が公孫淵を討った際、位宮は主簿・大加に千人を率いさせ援軍とした。正始3年、位宮は西安を犯し、嘉平5年、幽州刺史毌丘倹が玄菟から万人で討伐、位宮は歩騎2万で沸流で迎え戦うが敗走し、倹軍は峴を追って丸都山に登り都を屠り位宮は単身妻子と逃れた。6年、倹は再び討伐、位宮は諸加と沃沮に奔り、倹は将軍王頎に追わせ沃沮千余里から粛慎の南界に達し刻石紀功、丸都山にも至り不耐城に銘を刻んで還った。以後再び中夏と通じた。
  • 晋の永嘉の乱で鮮卑の慕容廆が昌黎の大棘城に拠り、元帝が平州刺史とすると、句麗王の乙弗利がしばしば遼東を犯したが廆は制せられなかった。弗利の死後、子の劉が立った。康帝建元元年、慕容廆の子の晃が兵を率いて伐ち、劉は大敗して単馬で奔走した。晃は勝ちに乗じて丸都まで追い宮室を焼き男子5万余口を掠って帰った。孝武帝太元10年、句麗は遼東・玄菟郡を攻め、後燕の慕容垂は弟の農に句麗を討たせ2郡を復した。垂の死後、子の宝は句麗王安を平州牧・遼東帯方二国王に封じ、安は初めて長史・司馬・参軍の官を置き、後に遼東郡もほぼ領有した。孫の高璉の代、晋の安帝義熙中に初めて表を奉じ通貢し、宋・斉を通じて爵位を授けられ、百余歳で死んだ。子の雲が斉の隆昌中、使持節散騎常侍・都督営平二州・征東大将軍・楽浪公とされ、高祖即位後は車騎大将軍に進んだ。天監7年、詔して「高麗王楽浪郡公雲は誠款著しく貢駅相尋ぐ、秩命を隆んじ朝典を弘めるべし。撫東大将軍・開府儀同三司・持節常侍都督・王を並びにもとのままとすべし」とし、11年・15年にも貢献を重ねた。17年、雲が死に子の安が立ち、普通元年、詔して安に爵を纂がせ持節督営平二州諸軍事・寧東将軍とした。7年、安が卒し子の延が立ち貢献、詔して延に爵を襲わせた。中大通4年・6年・大同元年・7年にも表を奉り方物を献じ、太清2年に延が卒すると詔してその子に爵位を襲わせた。

百済

  • 百済はその先祖が東夷の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の一つ。弁韓・辰韓は各12国、馬韓は54国からなり大国は万余家、小国は数千家、総計10余万戸に及ぶ。百済はその一国であったが後に大きくなり諸小国を併呑した。国はもと高句麗とともに遼東の東にあったが、晋代に高句麗が遼東を、百済も遼西・晋平二郡の地を領有し百済郡を自ら置いたという。晋の太元中の王須、義熙中の王餘映、宋の元嘉中の王餘毗はみな生口を献じた。餘毗の死後、子の慶が立ち、慶の死後、子の牟都が立ち、都の死後、子の牟大が立った。斉の永明中、大都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王とされた。天監元年、征東将軍に号を進められたが、まもなく高句麗に破られ衰弱すること数年、南韓の地に遷居した。普通2年、王餘隆が高句麗を破ったと表して通好を再開し百済は逆に強国となった。この年、高祖は詔して「行都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王餘隆は藩を守り海外にあって遠く貢職を修め誠款が朕に至った、喜ばしい。旧章に従い栄命を授くべし、使持節都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王とすべし」とした。5年、隆が死に詔してその子明を持節督百済諸軍事・綏東将軍・百済王とした。
  • 城を「固麻」、邑を「檐魯」と呼び、中国でいう郡県のようなもので国には22の檐魯があり子弟宗族に分けて統治させる。人は背が高く服装は清潔。国は倭に近く文身する者も多い。言語・服章は高句麗にほぼ同じだが拱手して拝礼せず足を伸ばして揖礼しない点が異なる。帽を「冠」、上衣を「複衫」、袴を「褌」と呼び、言葉には秦韓(辰韓)の遺俗を混じえるという。中大通6年・大同7年にも貢献し涅槃経等の経義や毛詩博士・工匠・画師を求め詔してこれを給した。太清3年、京師が侯景に侵されているとも知らず貢献に来たが城闕の荒廃を見て号泣し、侯景に怒って幽囚され、景の乱平定後にようやく帰国できた。

新羅

  • 新羅はもと辰韓の一種で、辰韓は「秦韓」とも呼ばれ、秦代の亡命者が労役を避けて馬韓に来住したことに由来し、馬韓が東界を割いて住まわせたため「秦韓」と名付けたという。言語・名物に中国と似た点があり、国を「邦」、弓を「弧」、賊を「寇」、行酒を「行觴」、互いを「徒」と呼ぶなど馬韓とは異なる。辰韓王は常に馬韓人が務め辰韓自身が王を立てられないのはその移住民由来を明らかにするためで、常に馬韓に制されていた。辰韓はもと6国が次第に分かれて12国となり、新羅はその一つ。国は百済の東南5千余里、東は大海、南北は句麗・百済に接する。魏の代は「新盧」、宋の代は「新羅」あるいは「斯羅」と呼ばれた。国が小さく自ら使いを通じることができなかったが、普通2年、王の名を募泰といい、初めて百済の使者に随行して方物を献じた。俗では城を「健牟羅」と呼び、邑の内側を「啄評」、外側を「邑勒」と呼ぶ(中国の郡県に相当)。国には6啄評・52邑勒があり土地は肥美で五穀に適し桑麻が多く縑布を織り、牛馬を用い男女の別がある。官名には子賁旱支・齊旱支・謁旱支・壹告支・竒貝旱支があり、冠を「遺子礼」、襦を「尉解」、袴を「柯半」、靴を「洗」と呼ぶ。拝礼や歩行は高句麗に似るが文字はなく木を刻んで信とする。言語は百済を介して初めて通じるという。

倭国

  • 倭は自ら太伯(呉の太伯)の後裔と称し、俗は文身する。帯方から1万2千余里、おおむね会稽の東にある。帯方から倭に至るには海路を循って韓国を経、東南に行くこと7千余里、まず1つの海(瀚海と呼ぶ、幅千余里)を渡って一支国に至り、また千余里を渡って末盧国に至り、東南陸行500里で伊都国、東南行100里で奴国、東行100里で不彌国、南水行20日で投馬国、さらに南水行10日陸行1ヶ月で邪馬台国(原文「祁馬臺國」)に至る。これが倭王の居所である。官には伊支馬・彌馬獲支・奴往鞮などがある。民は稲・紵麻を植え蚕桑を営み織績する。薑・桂・橘・椒・蘇があり、黒雉・真珠・青玉を産する。牛に似た獣(山鼠)がおり、これを呑む大蛇の皮は堅く斫れないが孔があり時に光を放ち射られると蛇は死ぬという。物産はおおむね儋耳・朱崖と同じで、気候は温暖、風俗は淫らでなく、男女とも露紒(髷を結わない)で富貴者は錦繍の帽を用い中国の胡公頭に似る。飲食に籩豆を用い、死者は棺のみで槨がなく土を盛って冢とする。人は酒を好み、正歳を知らないが長寿な者が多く80、90あるいは100歳に至る者もある。女が多く男が少なく、貴者は4、5妻、賤者も2、3妻を持つが、婦人に淫妬や盗窃はなく、争訟が少なく、法を犯せば軽ければ妻子を没収し重ければ宗族を滅すという。
  • 漢の霊帝光和中、倭国が乱れ互いに攻伐したが、年を経て共に一人の女子・卑弥呼を王に立てた。卑弥呼は夫がなく鬼道で衆を惑わせたため国人はこれを立てた。弟が国政を佐け、王自身は姿を見せる者が少なく婢千人に侍らせ、ただ一人の男子が出入りして命令を伝え、居所には常に兵が守衛した。魏の景初3年、公孫淵の誅殺後、卑弥呼は初めて使者を送り朝貢し、魏は「親魏倭王」として金印紫綬を仮した。正始中、卑弥呼が死に男王を立てたが国中が服さず互いに誅殺し合い、卑弥呼の宗女の台与(原文「臺與」)を再び王に立てた。その後また男王が立ち、いずれも中国の爵命を受けた。晋の安帝の時、倭王賛がおり、賛の死後は弟の彌、彌の死後は子の済、済の死後は子の興、興の死後は弟の武が立った。斉の建元中、武を持節督新羅任那伽羅秦韓慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍とし、高祖即位後は号を征東将軍に進めた。倭の南に侏儒国(身長3、4尺の人々)があり、さらに南に黒歯国・裸国があり倭から4千余里、船で1年ほどかかる。さらに西南万里に海人がいて身は黒く目は白く裸で醜く、行く者は射てその肉を食うという。

文身国・大漢国

  • 文身国は倭国の東北7千余里、体に獣のような文身があり額に3本の文があるが、直線は貴く小さい文は賤しいとされる。土俗は歓楽的で物は豊かで安価、旅人は食糧を携えなくてよい。家屋があるが城郭はなく、王の居所は金銀で飾られ、周囲に幅1丈の塹を巡らし水銀を満たし、雨が降ると水銀の上を水が流れる。市では宝物を用い、軽罪は鞭杖、死罪は猛獣に食わせるが、冤罪の場合は猛獣が避けて食わず、一夜経てば赦されるという。
  • 大漢国は文身国の東5千余里、兵戈がなく攻戦せず、風俗は文身国と同じだが言語が異なる。

扶桑国

  • 扶桑国は斉の永元元年、沙門慧深が荊州に来て語った所によれば、大漢国の東2万余里、中国の東方にあり、扶桑木が多いためこの名がある。扶桑の葉は桐に似て新芽は筍のようで、国人はこれを食用にし、実は梨に似て赤く、皮を績いで布・綿を作る。板屋を建て城郭はないが文字があり扶桑皮を紙とする。兵甲はなく戦わない。国法に南北の獄があり、軽罪は南獄、重罪は北獄に入れられ、赦があれば南獄のみ赦され北獄は赦されない。北獄の者は男女を配し、生まれた男児は8歳、女児は9歳で奴婢となり、罪人本人は死まで出られない。貴人が罪を犯すと国は大会を開き坑のほとりで罪人と対座し宴飲して分かれの盃を交わし、灰でその周囲を巡らせ、一重なら本人のみ、二重なら子孫まで、三重なら七世まで累が及ぶとした。国王を「乙祁」、第一の貴人を「大対盧」、第二を「小対盧」、第三を「納咄沙」と呼ぶ。国王の行幸には鼓角の先導があり、衣の色は年ごとに変わり甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒とする。角の非常に長い牛がおり物を載せて20斛積める。馬車・牛車・鹿車があり、国人は中国の牛のように鹿を養い乳を酪とする。桑や梨は何年経っても腐らず、蒲桃(葡萄)が多い。鉄はなく銅を産するが金銀は貴ばれず、市に租税もない。婚姻は婿が女の家の門外に小屋を作り朝夕掃除させ、女が1年経っても心を開かなければ追い返され、心を開けば婚姻が成立し、婚礼はおおむね中国と同じ。親の喪には7日、祖父母の喪には5日、兄弟伯叔姑姉妹の喪には3日、不食とし、霊を設けて朝夕拝奠するが縗絰(喪服)は着けない。新王は即位後3年間、国事を見ない。仏法はもとなかったが、宋の大明2年、罽賓国の比丘5人がこの国を訪れ仏法・経像・出家の教令を広めたことで風俗が改まったという。
  • 慧深はさらに、扶桑の東千余里に女国があり、容貌端正で色は潔白、身に毛があり髪は地に届くほど長く、2、3月に競って水に入ると孕み6、7月で子を産むといい、女性は胸に乳がなく項の後ろに毛が生え白い汁が出てこれで子を養う。生後100日で歩き3、4年で成人し、人を見ると驚いて避け丈夫を畏れ、鹹草(邪蒿に似て香味鹹い)を禽獣のように食う、と語った。天監6年、晋安の人が海を渡り風に流され1つの島に漂着した際、住人がおり女は中国人のようだが言語が通じず、男は人身に狗頭で吠えるような声を発し、小豆を食べ布のような衣を着け、土で牆を築き丸い家に竇(穴)の戸を持つ、という話も伝わる。

西北諸戎――総説

  • 西北諸戎については、漢の張騫が西域への道を開き甘英が西海に臨んで以来、あるいは侍子を遣わし、あるいは貢献を奉じたが、当時は窮兵極武してもわずかに勝ちを得た程度であり、前代(前漢盛時)に比べれば規模は劣る。魏の代は三国鼎立で干戈が絶えず、晋が呉を平定して以後は少し安寧を得たが戊己校尉を置くのみで諸国はなお帰服しなかった。中原の喪乱以後は胡人が相次いで起こり、西域は江東と隔絶し重訳も通じなくなった。呂光が亀茲を渉ったのも蛮夷が蛮夷を伐つようなもので中国の意志ではなかった。以後、諸国は分裂し勝敗強弱の詳細は伝わりにくくなった。明珠・翠羽は後宮に入っても、蒲梢・龍文(名馬)は外署にほとんど入らなくなった。梁が天命を受けてから正朔を奉じ入朝する国には仇池・宕昌・高昌・鄧至・河南・亀茲・于闐・滑などがあり、今その風俗を綴って「西北戎伝」とする。

河南国(吐谷渾)

  • 河南王はその先祖が鮮卑慕容氏に出る。初め慕容奕洛干に2子があり、庶長を吐谷渾、嫡を廆といった。洛干の死後、廆が位を嗣ぐと吐谷渾はこれを避けて西に徙り、廆が追って留めようとしたが牛馬がみな西に走り戻らなかったため上隴を渡り枹罕を経て涼州の西南、赤水に至って住み着いた。その地は張掖の南・隴西の西、河の南にあり「河南」と号した由来である。境域は東は塁川、西は于闐に隣り、北は高昌、東北は秦嶺に通じ方千余里で古の流沙の地であった。草木に乏しく水も少なく四時に恒に氷雪があり6、7月にのみ雹が甚だしく降り、晴れれば風が砂礫を飛ばし光景を蔽う。麦はあるが穀は無く、青海という湖の畔で牝馬を放つとその側で駒が生まれるといい、土人は「龍種」と呼び良馬を多く産する。住居は雑然と百子帳(穹廬)を用い、小袖の袍・小口の袴・大きな頭巾・長い裙を着け、女子は髪を分けて辮とする。
  • 後の吐谷渾の孫葉延は書記に通じ、「曽祖奕洛干は始めて昌黎公に封じられた、私は公孫の子である」と考え、礼に従い祖父の字を国氏とし「吐谷渾」を国号ともした。末孫の阿犲の代に初めて中国の官爵を受け、弟の子慕延は宋の元嘉末に自ら「河南王」と号した。慕延の死後、従弟の拾寅が立ち書契を用いて城池を築き宮殿を建てた。小王もみな国中に宅を構え、仏法もあった。拾寅の死後、子の度易侯が立ち、易侯の死後、子の休留代が立った。斉の永明中、休留代を使持節都督西秦河沙三州鎮西将軍・護羌校尉・西秦河二州刺史とし、梁の興隆後、征西将軍に進号した。代の死後、子の休運籌が爵位を襲った。天監13年、金装瑪瑙鐘2口を献じ益州に9層仏寺を立てる許可を求め詔して許した。15年、赤舞龍駒等の方物を献じ、使者は毎年2、3度あるいは2年に1度来朝した。この地は益州に隣り常に商賈が通じるため民はその利を慕い多くが従い、書記の作成のため言葉巧みな者も増えたという。普通元年にも方物を奉献し、籌の死後、子の呵羅真が立ち、大通3年、詔して寧西将軍・護羌校尉・西秦河二州刺史とした。真の死後、子の佛輔が爵位を襲い、その世子はさらに使者を遣わし皇太子に白龍駒を献じた。

高昌国

  • 高昌国は闞氏が主であったが、後に河西王沮渠茂虔の弟の無諱がこれを破った。王の闞爽は柔然(芮芮)に奔り、無諱がこの地を占拠して王と称したが一代で滅んだ。国人は麴氏を王に立て名を嘉といい、元魏は車騎将軍・司空公・都督秦州諸軍事・秦州刺史・金城郡開国公を授けた。在位24年で卒し諡は昭武王。子の子堅は使持節驃騎大将軍・散騎常侍・都督瓜州諸軍事・瓜州刺史・河西郡開国公・儀同三司・高昌王として嗣位した。
  • 国はもと車師の故地で、南は河南に接し、東は敦煌、西は亀茲に次ぎ、北は敕勒に隣る。交河・田地・高寧・臨川・横截・柳婆・洿林・新興・由寧・始昌・篤進・白刀等の鎮があり、四鎮将軍以下の雑号将軍・長史・司馬・門下校郎・中兵校郎・通事舎人・通事令史・諮議校尉・主簿の官がある。国人の言語は中国とほぼ同じで、五経・歴代史・諸子集がある。容貌は高句麗に似て辮髪を垂らし、背丈のある小袖の袍・縵襠袴を着け、女子は髪を辮じて垂らさず錦纈の纓珞・環釧を着ける。婚姻には六礼がある。地は高燥で土を積んで城を築き木を組んで屋根を覆う。寒暑は益州に似て九穀を植え、麨(麦こがし)や羊牛の肉を多く食う。良馬・葡萄酒・石塩を産し草木・草実は璽蠒(繭)に似て絹糸のように細い「白畳子」を織物に用い柔らかく白い布を作り交易する。「朝烏」という鳥が朝ごとに王殿前に集まり人を恐れず日が出ると散じるという。大同中、子堅が鳴塩・枕・葡萄・良馬・氍毹などを献じた。

滑国とその周辺小国

  • 滑国は車師の別種。漢の永建元年、八滑が班勇に従い北虜を撃って功があり、勇は八滑を後部親漢侯に上表した。魏晋以来中国と通じなかったが、天監15年、王厭帯夷栗陁が初めて使者を遣わし方物を献じた。普通元年にも黄師子・白貂裘・波斯錦などを献じ、7年にも貢献した。元魏が桑乾に都した頃、滑はまだ小国で柔然(芮芮)に属していたが後に強大化し周辺の波斯・盤盤・罽賓・焉耆・亀茲・疎勒・姑墨・于闐・句盤等の国を征し千余里の地を開いた。土地は温暖で山川樹木があり五穀を産する。国人は麨と羊肉を糧とし、獣に師子・二脚駱駝・角のある野驢がいる。人はみな善く射て小袖の長袍を着け金玉の帯を用いる。女は裘(皮衣)を被り頭に木製の角(長さ6尺、金銀で飾る)をつけ、少女の場合は兄弟で妻を共有する。城郭はなく氈屋に住み東向きに戸を開き、王は金牀に座り太歳の方角に随って向きを変え、妻とともに座って客を迎える。文字はなく木を契りとし、旁国と通じる際は旁国の胡文字を用い羊皮を紙とする。職官はなく天神・火神を祀り、毎日戸を出て神を祀ってから食し、跪拝は一度きり。葬儀は木の槨を用い、父母が死ぬと子は片耳を切り、埋葬が終われば吉に転じる。言語は河南の人を介して初めて通じる。
  • 周古柯国は滑の旁の小国。普通元年、滑の使者に随って方物を献じた。呵跋檀国も滑の旁の小国で、滑旁の国々はみな衣服容貌が滑と同じである。普通元年、滑使に随行して方物を献じた。胡蜜丹国も滑の旁の小国で、同じく普通元年に滑使に随行して方物を献じた。白題国の王は姓を支、名を史稽毅といい、その先祖は匈奴の別種の胡人という。漢の灌嬰が匈奴と戦った際に「白題」という騎兵1人を斬ったという故事に由来する名で、今は滑国の東、滑から6日行の距離にあり西は波斯の地に極まる。粟・麦・瓜果を産し食物はおおむね滑と同じ。普通3年、方物を献じた。

亀茲国

  • 亀茲は西域の旧国。後漢の光武帝の時、王「宏」が莎車王賢に殺され一族も滅ぼされたが、賢は自子の則羅を亀茲王としたところ国人がまた則羅を殺し、匈奴が亀茲貴人の身毒を王に立てたことでこの国は匈奴に属した。しかし漢代は常に大国とされ、都を延城といった。魏の文帝の即位初、使者を送り貢献し、晋の太康中には子を人質に送った。太元7年、秦主苻堅が将の呂光に西域を伐たせ亀茲に至ると、王帛純は宝を載せて出奔し、光がその城に入った。城は三重で長安城に匹敵する規模、室屋は壮麗で琅玕・金玉で飾られていた。光は帛純の弟の震を王に立てて帰還し、以後中国と絶えて通じなかったが、普通2年、王尼瑞摩珠那勝が使者を遣わし表を奉じ貢献した。

于闐国・渇盤陀国・末国

  • 于闐国は西域の属国。後漢の建武末、王の俞が莎車王賢に破られ驪帰王に遷され、その弟の君得を于闐王とする暴虐が続いたため民は苦しんだ。永平中、種人の都末が君得を殺し、大人の休莫覇がまた都末を殺して自立したが、覇の死後、兄の子の広徳が立ち後に莎車王賢を撃破し殺して強国となり西北の諸小国はみな服従した。地は水潦・沙石が多く気候は温暖で稲麦・葡萄が育ち、玉が出る水を「玉河」といい、国人は銅器の鋳造に優れる。都を西山城といい屋室・市井・菓蓏・菜蔬は中国と同様、殊に仏法を敬う。王の居室は朱で彩色され、王冠は金幘で今の胡公帽に似て、妻と並んで座って客を迎える。婦人は辮髪に裘袴を着け、拝礼では片膝を地につける。文字は木を筆札とし、印に玉を用いる。国人は書を受け取ると頭上に頂いて開くという。魏の文帝の時、王の山習が名馬を献じ、天監9年に方物を献じ、13年には波羅婆歩障を献じ、18年には瑠璃罌を献じ、大同7年には外国刻玉仏を献じた。
  • 渇盤陁国は于闐の西の小国。西は滑国に隣り、南は罽賓国、北は沙勒国に接する。治所は山谷中にあり城の周囲10余里、国には12城があり風俗は于闐に似る。吉貝布の長袍・小口袴を着け、地は小麦を産し、牛馬・駱駝・羊が多く良い氈・金玉を産する。王の姓は葛沙氏。中大同元年、方物を献じた。
  • 末国は漢代の且末国。勝兵万余戸、北は丁零、東は白題、西は波斯に接する。土人は髪を切り氈帽を被り小袖の衣を頸を開けて前で縫う衫とする。牛羊騾驢が多い。王の安末深盤が普通5年、貢献した。

波斯国

  • 波斯国はその先祖に波斯匿王という者がおり、子孫が父の字を国号とした。城の周囲32里、高さ4丈で楼観を備え、城内には屋宇が数百千間、城外には仏寺が二、三百カ所ある。西へ城から15里に土山があり過度に高くはないが連なって遠くまで続き、鷲鳥が羊を食い土人はこれに苦しむ。国内には優鉢曇花という鮮やかな花がある。龍駒馬を産し、鹹池に生じる珊瑚樹は長さ1、2尺、琥珀・真珠・玫瑰も産するが国内では珍とされない。市の売買には金銀を用いる。婚姻の法では聘礼が終わると婿が数十人を伴い婦を迎え、婿は金線錦の袍・師子錦の袴を着け天冠を戴き、婦も同様の装いで、婦の兄弟が来て手を取り引き渡すことで夫婦の礼が完了する。国は東を滑国、西と南を婆羅門国、北を汎慄国と接する。中大通2年、使者を遣わし仏牙を献じた。

宕昌国・鄧至国・武興国

  • 宕昌国は河南の東南、益州の西北、隴西の西にあり羌の種。宋の孝武帝の世、王梁瓘怱が初めて方物を献じ、天監4年、王梁弥博が甘草・当帰を献じ、詔して使持節都督河涼二州諸軍事・安西将軍・東羌校尉・河涼二州刺史・隴西公・宕昌王とし金章を佩びさせた。弥博の死後、子の弥泰が立ち、大同10年、再び父の爵位を授けられた。衣服風俗は河南とほぼ同じ。
  • 鄧至国は西涼州の界に居り羌の別種。世々「持節平北将軍・西涼州刺史」を号し、宋の文帝の時、王象屈耽が使者を遣わし馬を献じ、天監元年、詔して鄧至王象舒彭を督西涼州諸軍事・安北将軍とした。5年、舒彭が黄耆400斤・馬4匹を献じた。俗では帽を「突何」と呼び衣服は宕昌と同じ。
  • 武興国はもと仇池の楊難当が自ら秦王を称した地。宋の文帝が裴方明を遣わして討つと難当は魏に奔り、その兄の子の文徳がまた衆を集め茄盧に拠ったため宋はこれに爵位を授けた。魏が再びこれを攻めると文徳は漢中に奔り、従弟の僧嗣が自立して茄盧を守ったが卒し、文徳の弟の文度が立ち弟の文洪を白水太守として武興に屯させた。宋代にこの地に武都王が置かれ武興国の始まりとなった。難当の族弟の広香がまた文度を攻め殺して自立し陰平王を称し、茄盧鎮主のまま卒し、子の炅が立ち、炅の死後、子の崇祖が立ち、崇祖の死後、子の孟孫が立った。斉の永明中、魏の南梁州刺史仇池公楊霊珍が泥切山に拠って斉に帰順したため、斉は霊珍を北梁州刺史・仇池公とした。文洪の死後、族人の集始が北秦州刺史・武都王となった。天監初、集始を使持節都督秦雍二州諸軍事・輔国将軍・平羌校尉・北秦州刺史・武都王とし、霊珍を冠軍将軍、孟孫を仮節督沙州刺史・陰平王とした。集始の死後、子の紹先が爵位を襲い、2年後、霊珍を持節督隴右諸軍事・左将軍・北梁州刺史・仇池王とした。10年、孟孫が死に安沙将軍・北雍州刺史を贈られ子の定が爵位を襲った。紹先の死後、子の智慧が立ち、大同元年、漢中を克復した智慧は4千戸を率いて帰国することを請い許され「東益州」とされた。
  • その国は東は秦嶺、西は宕昌に接し宕昌から800里、南は漢中から400里、北は岐州から300里、東は長安から900里。もと10万戸あったが世々分割で減少した。大姓には符氏・姜氏があり言語は中国と同じ。烏皁の突騎帽・長身小袖袍・小口袴・皮靴を着け、九穀を植え婚姻に六礼を備え書疏に通じ、紬絹や精布・漆蝋・椒などを産し、山からは銅鉄も出る。

芮芮国

  • 芮芮国はおおむね匈奴の別種。魏晋の世、匈奴は数百千の部に分かれ各々名号を持ったが芮芮はその一部である。元魏が南遷して以来その故地を占め、城郭を持たず水草に随って畜牧し穹廬を居とする。辮髪に錦の小袖袍・小口袴・深い雍靴を着ける。地は苦寒で7月にも流澌(流氷)が河を渡る。宋の昇明中、王洪軌を遣わして通交し共に魏を伐つことを約した。斉の建元元年、洪軌が至った際、王は自ら30万騎を率い燕然山東南3千余里に出撃し、魏人は関を閉じて敢えて戦わなかったが、以後は次第に侵弱し、永明中、丁零に破られて小国となり南に移った。天監中、初めて丁零を破ってもとの土地を取り戻し「木末城」という城を築いた。14年、烏貂裘を献じ、普通元年にも方物を献じ、以後数年に1度貢献する。大同7年、馬1匹・金1斤を献じた。その国は術をもって天を祭り風雪を招くことができ、前方は日が照っても後方は泥潦が横流するといい、戦に敗れても追撃を許さなかった。中夏でこの術を用いると曇って雨は降らないため、その理由を問うと「暖のため」と答えたという。

史論

  • 史臣曰く、海南・東夷・西北戎の諸国は地の果て辺境に窮まり、それぞれ疆域を持つ。山川の奇異や海の怪異、種類の異なる者たちは前古に聞かれず旧記にも載らなかった。九州の外、八荒の表にある方物や土地は極めることができない。高祖は徳をもってこれを懐柔したため、朝貢が毎年届いた。実に美事というべきである。