梁書卷五十三 列傳第四十七 何逺

何逺

  • 何逺、字は義方、東海郯の人。父の何慧炬は斉の尚書郎。逺は江夏王国侍郎に起家し奉朝請に転じた。永元中、江夏王蕭宝玄が京口で崔慧景に擁立され宮城を包囲する事件が起こり、逺もこの事に関わったが失敗すると逃亡し長沙宣武王のもとに匿われた。逺は桂陽王蕭融の保護を求めたが発覚し、捕吏が来ると逺は垣を越えて逃れ、融と逺の家人は捕らえられ、融はついに殺害され、逺の家属は尚方に繋がれた。
  • 逺は逃れて江を渡り、旧知の高江産と共に高祖の義軍を迎えようと衆を集めたが東昏党にこれを知られ捕らえられそうになり衆はまた潰散した。逺は魏に降り、寿陽で刺史王肅に会い義挙に加わろうとしたが肅は用いず、逺は高祖への合流を求め、肅がこれを許して兵を遣わし護送し高祖のもとに到達した。高祖は逺を見て張弘策に「何逺は美丈夫であり家を破って旧徳に報いる、得難い人物だ」と語り、輔国将軍に板授して軍に従い東下させた。朱雀軍を破った後、建康令とした。
  • 高祖践阼後、歩兵校尉となり奉迎の功により広興男に封ぜられ食邑300戸を賜った。建武将軍・後軍鄱陽王蕭恢の録事参軍に遷る。逺と恢は素より親しく、府にあって力を尽くし恢も心を推して任せ恩寵は厚かった。まもなく武昌太守に遷る。逺は元来倜儻で軽俠を尚んだが、この時から一転して吏道に徹し、交遊を断ち贈り物を一切受けなかった。武昌の風習では夏に江水を汲むが逺はその温さを嫌い、銭で民の井戸の冷水を買い、銭を受けぬ者には水で報いたという。こうした事は偽善に見えても細やかな心配りであった。車服はいたって粗末で器物に銅漆を用いず、魚族の豊富な江左でも食事は乾魚数片に過ぎなかった。しかし性格は剛厳で吏民は細事で鞭罰を受けることが多く、訴えられて廷尉に召還され数十条の罪状で弾劾された。当時の士大夫は法に坐すると立って争わなかったが、逺は自ら贓が無いと考え三七日(21日)立ち続け欵(罪の自認)せず、結局私に禁仗を蔵していた罪で除名された。
  • 後に鎮南将軍・武康令として起用され、さらに廉節を励まし淫祀を除いて身を正し職を率い、民に称された。太守王彬が属県を巡視した際、他の県はみな盛大に供帳したが武康では逺は乾飯と水のみを供した。彬が去るとき逺は境まで送り斗酒と一羽の鵝を餞に贈った。彬は戯れに「卿の礼は陸納より過ぎるのではないか、古人に笑われないか」と言った。高祖はその能を聞いて宣城太守に擢用した。県から近畿の大郡に直接昇るのは近代に例がなかった。郡は寇抄を経て荒廃していたが逺は心を尽くして統治し再び名声を著した。1年後、樹功将軍・始興内史に遷る。泉陵侯蕭淵朗が桂州から掠奪しつつ始興界に入った際も草木一本犯さなかった。
  • 逺は在任中、道路・牆屋・民居・市里・城隍・厩庫を修繕することを好み、通過する所はすべて自分の家のようにした。田租や俸銭を一切取らず、年末には特に窮乏している民を選んで租調に充てるのを常とした。ただし訴訟の裁きは人並みで優れてはいなかったが、性格の果断さゆえに民は非を犯すことを恐れて畏敬した。どこに行っても生きているうちに祠を建てられ、治績を上表され、高祖はいつも優詔で応えた。天監16年、詔して「何逺は先に武康で廉平を著し、以後二郡を治めて清白を貫き、治道に恵みを留め民の愛を得た。古の良二千石にも劣らない、内職に昇進させ外での功績を顕彰すべし。給事黄門侍郎とすべし」とした。
  • 逺は還ると仁威長史となり、まもなく信武将軍・監吳郡に出た。呉では酒による失態があり東陽太守に遷る。逺は職にあって疾富(不正な富者)を仇讐のように嫌い、貧細な者は子弟のように見なしたため豪右に特に畏憚された。東陽では1年余りで再び処罰を受けた者に誹謗され坐して免ぜられ帰郷した。逺は耿介で私心なく、居民の間にあっても請謁を絶ち、訪問することもなく、貴賤を問わず書疏で対等に接した。会う際にも顔色で人に媚びることがなかったため俗士に憎まれることも多かったが、その清公は実に天下第一であった。数郡を歴任し欲望を叶える機会があっても心を変えず、妻子は貧者のように飢寒に耐えた。東陽を去って帰郷後は年を経ても栄辱を口にせず、士類はますますこれを重んじた。財を軽んじ義を好み人の急を救い、言に虚妄がなかったのは天性であるという。常に戯れに「私に一度でも妄語をさせられれば一縑を謝礼にやろう」と言ったが、衆人が試みてもついに記録できなかった。後に征西諮議参軍・中撫司馬に起用され、普通2年、卒す。享年52。高祖は厚く贈賜した。

史論

  • 陳の吏部尚書姚察は論じて言う。「前史に循吏の伝があるのはなぜか。時代がそうさせたのである。漢の武帝の治世は徭役が繁く姦が起きたため循平だけでは治まらず苛酷な誅戮で対処せざるを得ず、多くの怨みと濫刑を生んだ。梁の興隆は素朴を重んじ、民を孝悌で教え農桑を勧めたことで、桀黠な者は由余のように化し、軽薄な者は忠厚に変わり、淳風が広まり民は自ら禁を守るようになった。まさに堯舜の民が比屋にして封ぜられるほどであったと言える。酷吏の類は梁においては取るに足りない」。