梁書卷五十 列傳第四十四 顔協

顔協(子和)

  • 顔協は字を子和といい、琅邪臨沂の人。七代祖の顔含は晉の侍中国子祭酒西平靖侯。父の顔見遠は博学で志操があった。齊の和帝が荆州に鎮していた頃、見遠は録事参軍であり、和帝が江陵で即位すると治書侍御史、まもなく中丞を兼ねた。
  • 高祖(梁の武帝)が禅譲を受けると、見遠は数日食を断って憤死した。高祖はこれを聞き「私はただ天命と人心に応じただけで、天下の士大夫の事情など関わりがないはずなのに、顔見遠はこのような最期を遂げた」と語ったという。
  • 協は幼くして父を失い、母方の一族に養われた。若くして人物識見で評判となり、群書に博く通じ、草書・隷書に巧みであった。湘東王国常侍として出仕し府記室を兼ね、世祖(湘東王)が荆州に赴くと正記室に転じた。当時、呉郡の顧協も同じ王府に仕え、名も才学も似ていたため世に「二協」と称された。
  • 母方の伯父の陳郡謝暕が没した際、養われた恩義から伯叔の礼に准じて喪に服し、識者はこれを重んじた。父が節義に殉じた家門の事情を思い、栄達を求めず、しばしば徴召を辞退して藩府に仕えるにとどまった。
  • 大同5年(539年)42歳で没した。世祖は深く歎き惜しみ、『懐旧詩』を作って悼んだ。その一章に「弘都は多く雅量あり、まことに実を含む。鴻漸(進むこと)はいまだ昇らざるに、上才は下秩に淹る」――広い度量と実質を備えながら、その才は昇進する機会を得ず低い官位にとどめられたままであったと詠まれている。
  • 協が著した『晉仙伝』5篇、『日月災異図』2巻は火災で失われた。二子の之儀・之推はともに早くから名を知られ、之推は承聖年間(552~555年)に正員郎・中書舎人に至った。

史論

  • 陳の吏部尚書姚察は論じて言う。魏文帝(曹丕)は「古来の文人は名節を全うできる者が少ない」と述べたが、これはなぜか。文というものは人の性情を直接に表すもので、他に抜きん出やすいがゆえに、驕りが生じやすい。甚だしければ王侯を軽んじ、軽くとも朋輩を侮り、そこから妬みと誹謗が生まれる。屈原・賈誼の放逐、桓譚・馮衍の排斥のような例は一代に限らない――これは才を恃むことの禍いである。
  • この巻に記された梁の文人たちは、文明の世に生まれ、艶やかな詩文の才を発揮しながらも鬱屈することなく、往時のような災難にも遭わなかった。まことに幸いなことである。
  • なお劉峻が命について論じたのは、命というものはそもそも聖人があまり語らなかった事柄であり、それを断定的に論じ切ることは必ずしも経典の本意にかなうものではない。